大和徒然草子

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唐院城~巨大古墳と環濠集落(唐院環濠)

皆さんこんにちは。

 

奈良県内でも環濠集落が集中して残っている川西町ですが、中心地の結崎から寺川を挟んで西側に、中世城郭をルーツとする環濠集落・唐院があります。

 

唐院城と環濠について

唐院の場所はこちら。

近鉄結崎駅から西へ1.8km、但馬駅から北へ1.4kmほどの場所にあります。

こちらは、現在の集落周辺航空写真にかつての環濠や街道を記入したもの。

(環濠は字名や現在の地形や水路からの推定を含みます。)

唐院環濠概略図(国土地理院HPより作成)

北から奈良、郡山と高田、五條をつないだ下街道が、集落中央で現在の天理方面へ通じる丹波市街道へ接続する道と分岐しており、その辻の南側、南北に連なる小字「城内」「甚五郎畑」が、唐院城の城跡とされています。

城郭は交通の要衝付近に築かれることが多いですが、唐院城もその例にもれない立地ですね。

 

唐院は、古くは「道陰」とも書かれ、川西町内では最も古く開発・成立した集落です。

中世における唐院の在地領主としては、『大和郷士記』には中村氏、『大乗院寺社雑事記』には唐院氏の名が見えますが、両者が併存していたのか、途中で入れ替わったのかは定かではありません。

現在唐院城跡とみられる集落南部の小字「城内」、「甚五郎畑」以外に、島の山古墳の西側に隣接する小字が「馬場」とあり、地形的に見て比賣久波神社や箕輪寺跡周辺にも城館があったのかもしれないですね。

 

中村氏については、その名以外に詳細な事績が大和国の史料には残っていませんが、遠く静岡県浜松市の旧家・中村家が、唐院の中村氏の末裔と見られています。

浜松の中村氏は、その家伝文書によると、もとは「大和国広瀬郡唐院」の「唐院ノ城主」で、南北朝時代南朝方の武将として御醍醐天皇後村上天皇方の下で軍功をあげていましたが、1407(応永14)年までに北朝方に転じて、足利義満から太刀と教書を賜るなど足利氏との関係性を深めました。

そして、1413(文明13)年には駿河守護の今川氏から遠江に領地を与えられ、1415(文明15)年に大和から本家は移住したとみられ、中村氏は遠江の国人として活躍。

16世紀には浜名湖の軍船を支配する有力国人となります。

徳川家康遠江に進出するとその配下に入り、家康次男で越前松平家の祖となる結城秀康は中村氏の館で生まれたことから、江戸時代の歴代福井藩主は参勤交代の際は、中村氏の館で饗応を受けることが通例化されました。

この中村家の館は現存しており、中村家住宅として国の重要文化財に指定されています。

 

室町時代の初めに唐院を離れた中村氏に対し、唐院氏は戦国時代まで当地に留まり、一乗院方衆徒として活動しました。

広瀬郡の有力国人・箸尾氏に与していたため、箸尾唐院とも呼ばれましたが、1559(永禄2)年に始まる松永久秀の大和侵攻では松永方に与し、1571(元亀2)年8月4日、松永久秀筒井順慶辰市城の戦いで大敗したとき、多くの松永方武将が討ち死にしましたが、『多聞院日記』同日条であげられた戦死者の中に「ハシオ唐院弟ノ延泉」とあります。

また、1577(天正5)年10月10日に織田信長に反旗を翻した久秀が信貴山城で攻め滅ぼされると、同年10月24日の条に「箸尾唐院父子生涯了」と死亡記事が見られ、唐院氏の本宗家は松永氏と運命を共にして滅亡しました。

唐院城は唐院氏の滅亡後まもなく廃城となったようで、以後は耕地化されていきました。

城郭を囲んだ堀は環濠となって集落を囲み、江戸時代は「当院村」とも呼ばれた唐院は郡山藩領となって明治を迎えることになります。

 

唐院城

それでは、まず唐院城の現在の様子を紹介します。

かつての城域で、主郭と考えられている北側の「城内」と副郭と見られる南側の「甚五郎畑」は、現在ほとんどが畑地となっており、城域南側を流れる堀跡の用水路脇に城跡の案内板が設置されています。

「甚五郎畑」の周囲は比較的幅広の水路で堀跡が残されています。

集落南西に飛鳥川が流れていることもあり、請堤の役割も担っていたのかと思われます。

大手と見られる城跡東部は現在住宅地になっていますが、細いクランクが連続する町並みになっています。

住宅地の細い路地から主郭があったと推定される小字「城内」に入ってきました。

中央部は畑地と数件の住宅になっており、周囲を道路が囲んでいます。

主郭跡の南側に、白蛇の置物が印象的な小さな祠がありました。

八王寺さん」という祠で、城主が可愛がっていた白蛇を、唐院氏滅亡後にこの祠へ封じ込めたと伝わります。

城内に勧請された八王子権現のお社がそのまま残されたのかもしれないですね。

現在往時の城郭の姿をほとんど留めない唐院城にあって、貴重なお城の名残といえる祠です。

また、八王子権現は明治の神仏分離政策で廃された神で、八王子信仰の旧態を残す祠としても貴重なお社といえます。

 

 

現在の「城内」は全くの平面で、土塁跡や堀跡は残されていません。

中央部の畑地や住宅を囲む道路がかつての堀跡と伝わりますが、南に隣接する「甚五郎畑」の方が一段高くなっており、もしかすると「甚五郎畑」の方が主郭だったのかもしれないですね。

集落内

唐院城跡を離れ、唐院の集落内に入っていきます。

島の山古墳

一般的に唐院集落で最大の見所といえるのが、集落北東部にある巨大前方後円墳島の山古墳でしょう。

4世紀末~5世紀初め頃の築造とされ、古墳時代前期から中期への過渡期に位置づけられる代表的な前方後円墳で、国の重要文化財に指定されています。

現在ため池として活用されている巨大な周濠部は、明治20年頃までは水田だったとのこと。

中世以前は、合戦時に詰め城として利用されていた可能性も指摘されている場所になります。

唐院は有力国人である箸尾氏と筒井氏が対峙する最前線で、実際に1420(永享2)年に勃発した大和永享の乱では当地で、箸尾氏と筒井氏の激しい合戦が行われました。

 

東口地蔵

島の山古墳の南側を東西に延びる丹波市街道沿いに、東口地蔵があります。

現在地蔵堂のある位置は、唐院の集落東口からやや東側にずれているので、もしかすると道路の拡幅などで後年移動したのかもしれません。

比売久波神社

島の山古墳の南西隅、唐院集落の東口から北へ比売久波神社の参道が伸びています。

参道前から南に延びる水路はかつての環濠の跡になります。

島の山古墳の周濠沿いに参道を北へ進むと、比売久波神社の鳥居が見えてきました。

比売久波神社は延喜式神名帳にもその名が見える古社で、祭神は久波御魂(クバミタマ)神と天八千千(アマハチチ)姫。
ご神体は桑の葉ということから、寺川を挟んで鎮座する結崎の糸井神社とともに、当地が古来より養蚕・製糸に深い関りを持つ場所だったことを、強く示唆する神社です。

 

境内には巨大なクスノキの大木があり、新緑が大変美しかったです。

こちらは拝殿と本殿です。

本殿は最近修繕されたようで、丹塗りも鮮やかに蘇っていました。

一間社春日造の本殿は、春日若宮社の移築本殿と伝えられますが、形式・寸法から春日大社本殿の移築と考えて間違いないとされています。

本殿の正確な建立年代は不明ですが、春日大社所蔵の『応仁元年九月当社造営古物支配記』によると1467(応仁元)年の造替で、第二本殿を唐院へ売却したという記録があり、現在の当社本殿がこの時の本殿かどうかは不明ながら、様式から江戸初期以前のものとされ、現存の移築本殿でも古い部類に入り、奈良県の指定文化財となっています。

もし、室町期の移築本殿であることが証明されれば、間違いなく重要文化財級の本殿になります。

奈良県内では、春日大社談山神社多武峰妙楽寺)の本殿が造替される度に旧本殿が関係の深い集落の社に移築されてきたため、ほうぼうの小さな集落の鎮守に、しれっと国宝・重要文化財級の本殿が建っていることがよくありますが、こちらの神社もそういったお社の一つになります。

 

箕輪寺跡

比売久波神社境内の西側に、かつて神宮寺だった箕輪寺の跡があります。

現在は本堂の礎石が残るのみですが、箕輪寺は真言宗豊山派の寺院で、円通大師(寂照?)の開基とされます。

1430(永享2)年に箸尾・筒井両氏の合戦に巻き込まれて焼亡した後、1436(永享8)年に賢春法師が、三輪・平等寺の定範から本尊の十一面観音立像を譲り受けて再建したと伝わります。

近年無住となって、本堂は残念ながら倒壊してしまいました。

こちらが在りし日の旧本堂。

現在本尊をはじめとした仏像は、別の場所に保管されているとのこと。

本尊の十一面観音立像は、平安時代名工・定朝作と伝わりますが、実際は鎌倉時代の作と見られ、川西町指定文化財となっています。

また、箕輪寺本堂は1874(明治7)年に唐院小学校の校舎となった場所で、1881(明治14)年に新築移転されるまで唐院と保田、三宅町の小柳の子ども達が通いました。

ちなみに唐院小学校は、2009(平成21)年に結崎小学校と統合して川西小学校が誕生し、惜しまれつつ廃校となりました。

 

箕輪寺ゆかりの伝承としては、「箕輪焼」があります。

瀬戸焼創始者とされる伝説的な陶工・加藤景正は唐院(大和国道陰村)出身とされ、当地で箕輪寺の名にちなんで箕輪焼という陶器を焼いたという伝承があります。

景正は平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて活動した陶工と伝わり、道元に従って宋に渡り、作陶技術を学んで帰国後よい土を求めて諸国を遍歴。現在の愛知県瀬戸市で良い土を見つけ瀬戸焼を創始したと伝わりますが、その実在については諸説あり、謎に包まれた伝説的人物です。

 

丹波市街道・下街道

再び集落中心の街道沿いに戻ります。

こちらが丹波市街道と下街道の辻付近。

丁字路の手前(東)方向が丹波市街道で、奥(西)、右(北)側が下街道になります。

 

下街道を北に向かうと吐田から額田部、筒井を経て郡山の柳町大門に至り、最終的には奈良まで通じます。

集落内の丹波市街道、下街道は現在かなり細めの道なのですが、自動車が頻繁に通り抜けて行きます。

旧街道って現在の主要幹線に平行していることが多く、交通量も減っていることから往々にして抜け道になりがちなんですよね。

 

下街道を北に向かうと集落北口に地蔵堂と大神宮の常夜灯がありました。

地蔵堂の覆いが新調されていて真新しかったです。

東口地蔵ともどもお掃除や管理が行き届いていて、今も集落の方々から大切にされていることがよく分かりますね。

 

集落北側の環濠は、南側に比べるとほとんど消滅していました。

これは集落南部を流れる飛鳥川の氾濫に備えて南側の環濠が維持されたのに対し、北側は北東部に島の山古墳と梅戸環濠集落があって、寺川の氾濫に備える必要性が低いことから、幅広の濠が近世以降不要となって廃れたのだと思います。

 

集落西側、下街道から少し北に入ったところに酒屋さんの倉庫があり、懐かしいサントリーオレンジ立体看板がありました。

サントリーオレンジは1974(昭和49)年発売。

筆者の生まれた年で、設置されてから、おそらく40年前後は経っていると思われますが、きれいに残っている立体看板。

実にエモい看板でした。

 

唐院をゆっくりと歩いてみましたが、環濠はほぼ姿を消しているものの、城跡、巨大古墳に古社と、見どころも多い集落でした。

川西町、三宅町の近隣の環濠集落とともに、ゆっくりと散策したい場所ですね。

 

周辺情報

■結崎三環濠のうち、中世領主の居館環濠をルーツとする井戸、辻の環濠集落と、残された濠を紹介。

■結崎の精神的紐帯であった糸井神社と、惣村であった市場、中村環濠を紹介。

鎌倉時代の律僧・忍性の出生地であり、太子道沿いの集落である屏風環濠を紹介。

 

参考文献

『近畿民俗学会会報 (38)(43)』 近畿民俗学会 編

『信濃 [第3次] 31(3)(351)』 信濃史学会 編

『角川日本地名大辞典 29 (奈良県)』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編纂

『雄踏町誌 資料編 2』 浜名郡雄踏町教育委員会 編

『多聞院日記 第2巻』

『奈良県指定文化財 第10集』 奈良県教育委員会