大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」

皆さんこんにちは。

 

古来伝わる怪異譚の定番に「幽霊」のお話がありますね。

奈良県内にも幽霊が登場する昔話がいくつもあり、歴史的事件にまつわるものから、一風変わった独特なものまでありますので、今回紹介していきます。

 

幽霊松と鴻ノ池

奈良市法蓮町

奈良市のスポーツのメッカといえば鴻ノ池運動公園(現:ロート奈良鴻ノ池パーク)ですね。

その名が示す通り、鴻ノ池という池端に公園があるのですが、かつての鴻ノ池ではしばしば溺死する人が出たといいます。

その理由というのが、鴻ノ池の南東に聖武天皇陵の陪塚である淡海公と呼ばれる古墳の山上にある、幽霊松という松の大木にまつわる怪異譚。

昔猟師が幽霊松にとまった鳩を撃ったところ、実はその鳩はとある幽霊の化身で、羽を撃たれて元に戻れなくなり、近付く者を祟るようになったといいます。

鴻の池と淡海公麓の藤原不比等の碑

以後、幽霊松の枝が風できしむ音を聞いた人の目には、鴻ノ池の水面が青畳に見え、誤って足を踏み入れて溺れてしまうと伝わります。

また、鴻ノ池からほど近い多聞山城主だった松永久秀の妻が、織田信長に久秀が攻め滅ぼされた後、鴻ノ池に身を投げ、大蛇と化して毎年何人か人を池に引きずり込むようになったとも伝わります。

ちなみに久秀が滅亡した1577(天正5)年、すでに多聞山城は破却され久秀らは信貴山城に立て籠もっていたので、久秀の妻が鴻ノ池に身を投げたというのは、事実ではないでしょう。

戦後、プールが整備されるまで川や池で日常的に水遊びすることも多く、水難事故も多かったので、このような怪異譚が生まれたのだろうと思います。

 

こんにゃく橋の幽霊

天理市稲葉町

天理市の稲葉と嘉幡の間に「こんにゃく橋」という石橋があるといいます。

昔、稲葉に孫兵衛という麴売りがいて、夜この橋に通りかかると、口にこんにゃくを咥えた女の幽霊が現れました。

孫兵衛は驚いて、念仏を唱えると99遍目に幽霊は消え失せたと言います。

こんにゃく一つのことで夫婦喧嘩を起こして亡くなった女が稲葉にいて、その女の妄念がこの橋の周囲を彷徨っているのだとか。

 

この石橋の場所ですが、妖怪文化研究家の木下昌美さんのコラム等から、どうやら下記の場所のようです。

お地蔵さんがあって、いかにもいわくありげな橋ですね。

周囲は田圃に囲まれ、夜一人で通る気はなかなか起こらない場所です。

 

しかし、こんにゃくで死ぬほどの夫婦喧嘩とは、いったいどんな喧嘩だったのか、幽霊よりそちらの方が気になったのは筆者だけでしょうか(笑)

遠忠の血の足形

天理市柳本町

四季折々の花や紅葉が美しい、天理市長岳寺

こちらの本堂の天井には、生々しい足形や手形の血痕・いわゆる血天井があることをご存知でしょうか。

血天井の写真はこちら

戦国時代に十市氏が松永久秀の侵攻を受けた時、長岳寺本堂まで血まみれの十市方の武将が逃げ込み、その時縁側の床板に付いた血痕とのことで、後に床板を屋根板に張り替えたものと伝わります。

また、十市遠忠松永久秀が組討して付いた血痕との伝承もあるようで、幽霊が天井からさかさまになって歩くといった恐ろしい話もあります。

十市遠忠は龍王山城を本拠として、戦国大名としての十市氏の最盛期を築いた人物ですが、松永久秀の大和侵攻が始まる以前、1545(天文14)年に亡くなっており、上記の伝承は歴史事実ではありえません。

久秀に敗れて没落したのは遠忠の子の遠勝で、遠勝は久秀に降伏後、跡継ぎを定められないまま失意のうちに病死しました。

その後、名族十市氏は家中が松永派と筒井派に分かれ、苛烈な内部抗争の末に歴史の表舞台から姿を消します。

 

血天井の幽霊も、ジャンジャン火の伝承と同じく、十市氏の悲惨な末路を哀れんだ後世の人々が、その無念を想って生み出されたものだと思います。

 

姫谷池

五條市姫谷池

壇ノ浦合戦の後、当地に逃れた妙齢の平家の姫君がいました。

姫君は潜伏しながら源氏への復讐の機会をうかがっていましたが、後から落ちてきた平家の勇猛な侍大将の力を借りようとしているうちに二人は結ばれ、姫君は侍大将の子を妊娠します。

しかし、源氏の追手によって侍大将は敢え無く最期を迎え、姫君は悲嘆にくれて姫谷池に身を投げました。

以後、姫谷池にはこの姫君の亡霊が現れ、道行く人を池に引きずり込んだと伝わります。

江戸時代まで、池に転落して亡くなる人は多かったので、河童伝説や鴻ノ池の伝説などと同様に、頻発する水難事故を怪異と捉えてこのような伝承が生まれたのかと思います。

静が井戸

吉野町菜摘

吉野は、平安末期の武将、源義経が兄・頼朝との戦いに敗れて敗走し、愛妾の静御前と生き別れた場所としても有名です。

鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』では、静御前義経と別れた後に吉野で捕らえられて鎌倉へ送られたと記載されていますが、吉野町には義経と別れた静御前が世を儚んで井戸に身を投げ自殺したという伝承があります。

静御前が身を投げたと伝わるのは吉野町西生寺静が井戸

静御前が身を投げた後、その亡霊が火の玉となって井戸から現れるようになったといいます。

その後、当地を訪れた本願寺八代法主蓮如に、村人が静御前の霊を成仏させてほしいと依頼すると、蓮如は大谷氏に遺された静御前の振袖に、以下のように書いて七日間の法要を行いました。

静には その形なく 白骨の

にくをはなれて なむあみだぶつ

すると、満願の夜に蓮如の夢枕に静御前が現れ、「長らくの迷いの門出ができました」と言って成仏し、以後それまで「西光寺」という寺名を現在の「西生寺」に改めたといいます。

 

吉野は大和国で最も早く本願寺教団が教線を伸ばした地域で、蓮如の時代に大きく勢力が広がりました。

西生寺も浄土真宗寺院で、寺の由緒としてこうした蓮如の霊験譚が生まれたのかと考えられますね。

 

大鹿の怨霊

東吉野村大又

幕末頃、大又部落に忠蔵という猟師がいました。

ある日、薊岳の方へ猟へ行き、古池のほとりで休憩しているときに、1頭の巨大な鹿が現れます。

大鹿は忠蔵に気付きながら逃げるそぶりも見せず、じっと忠蔵を睨んでいました。

そこで忠蔵は大鹿めがけて鉄砲を撃ち、弾は大鹿の眉間に命中。

絶命した大鹿はそのまま古池に転落しました。

すると古池に大波が起こって水面が真っ赤に染まったので、1頭の鹿の血潮で池全体が真っ赤になるなど考えられないと、忠蔵は恐ろしくなって村へ逃げ帰りました。

帰宅後まもなく忠蔵は高熱で臥してしまい、1か月ほど寝込んでいましたが、ある日、大鹿の幽霊が忠蔵の前に現れて忠蔵を睨みつけ、あまりの恐怖に忠蔵は絶叫してついに狂死してしまったのです。

その死後、2年ほどして大鹿の転落した古池は埋まってしまい、それとともに薊岳頂上から西へ1.3kmほどの場所に大鏡池が出現し、現在に至ると伝わります。

大鏡池の場所はこちらです。

大鹿は古池のヌシで、忠蔵はその祟りで亡くなったと伝えられます。

幽霊になって睨み殺すって、まるで「リング」の貞子のような鹿ですね。

かなり恐ろしい伝承ですが、「鹿」の怨霊というのが、吉野の話しながら奈良らしいと、少し頬がゆるむお話でした。

 

参考文献

『大和の伝説 増補版』 高田十郎 等編