大和徒然草子

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古墳を巧みに活用した中世環濠集落・萱生環濠を歩く~上街道散歩(7)

ならまち(現奈良市)から天理市を経由して桜井市の初瀬街道の分岐に至る上街道沿いの地域は、古代から続く寺社や古墳、中世以来の宿場町や城跡など、歴史ロマンあふれるスポットが盛りだくさんのエリアです。

前回まで奈良県天理市にある上街道沿いの古社・大和神社と、その祭礼で御渡り神事が行われる境外社についてご紹介しました。

さて、大和神社のほど近くに、萱生環濠集落竹之内環濠集落という二つの環濠集落があります。

両環濠集落の位置は、ともに笠置山地の西麓を上街道に沿うように桜井市から奈良市までをつなぐ上古の道・山の辺の道沿いで、下図のような位置関係。

萱生環濠・竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成)

奈良県内には多くの環濠集落が残りますが、両環濠集落の大きな特徴はなんといってもその立地で、平野部に形成されるのが一般的な環濠集落の中で、この二つの環濠集落は奈良盆地を見下ろす高台にある非常に珍しい環濠集落なのです。

今回は、環濠集落が多く残る奈良県内でも珍しい高台の環濠集落から、萱生環濠集落をご紹介します。

 

萱生環濠集落とは

萱生環濠集落の場所はこちら。

大和神社から東へ1kmほど離れた龍王山麓に位置します。

ちなみに「萱生(かよう)」という地名の由来は天理市のHPによると「萱(かや)」が生える地という意味とのこと。

小川の流れる谷筋が集落の南北にあり、古墳の周濠が残ることから萱が生い茂る地だったのかもしれません。

 

下掲は現在の萱生集落の航空写真に、中世の環濠集落エリア(青線・推定)と集落内の路地(赤線)を記入したものです。

萱生環濠集落略図(国土地理院HPより作成)

現在、環濠は集落西側の西山塚古墳の周濠を利用した水堀だけが残り、かつての環濠集落エリアは詳細が不明となっていますが、集落内の菅原神社境内は元々空路宮山古墳(くろくやまこふん)という前方後円墳の墳丘で、こちらの古墳にも近隣の前方後円墳同様かつては周濠がめぐらされていたと考ると、集落の西、北、東の三方を古墳の周濠を転用した堀で囲い、集落の南を流れる小川を天然の濠とした環濠集落だったと推測しています。

また、上述推定エリアの小字は、谷垣内、谷垣ノ内、谷垣ノ内ノ内、天神前という4つの小字に区分されるエリアで、古民家の密集度などからも環濠集落として最初に形成された場所で、近世までに北や東へ集落が拡張されていったと見られます。

 

地名としての萱生の名は、中世の大乗院領・萱生庄として史料上に現れ、平安時代末期の11世紀の古記録・『興福寺延久雑役免帳』にはその名が見えず、南北朝期の1347(貞和3)年に記録された春日神社文書『大乗院領田数段米注進状』に初めて名が見えることから、鎌倉時代に成立した荘園だったと考えられています。

在地の荘官としては萱生氏の名が見えますが、応仁の乱勃発後の1471(文明3)年に東軍方として筒井氏に与した十市郡十市遠清が、西軍・越智氏方の領主が多かった山辺郡への侵攻を開始し、楊本範満父子を敗死させて山辺郡一帯を占領したとき、萱生も十市氏に占領されて萱生氏は故地を追われて滅亡しました。

近世に入り十市氏が大和を去ると、豊臣政権下では織田有楽斎の領地となり、有楽斎死後は江戸時代を通じて奈良奉行所支配の天領となって明治を迎えます。

 

集落周辺

それでは、萱生集落に向かいます。

国道169号線から萱生集落へ向かう小道を東へと進みます。

天気の良い日で龍王山(写真右側の山)もきれいに見えてますね。

道の周りにあるのは柿畑

萱生は「たねなし柿」の代表的品種・刀根早生柿の発祥地であり、近辺はその一大産地として、一般に広く知られています。

 

山の辺の道との交差点に、散策者用の案内板が立てられていました。

環濠の北西隅付近に当たる場所で、小字が「出口」となっていることから環濠の北側出入り口だったのでしょう。

 

振り返ると、奈良盆地二上山生駒山が眼前に広がります。

国道付近からの比高が20m以上あり、見晴らしは良いです。

写真左側にちらりと見えるのは西山塚古墳の周濠。

西山塚古墳は古墳時代後期6世紀前半の築造と見られる古墳で、築造年代から仁賢天皇の皇女で継体天皇の皇后となった手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓ではないかと見られています。

宮内庁萱生町の南隣、中山町にある西殿山古墳手白香皇女の陵墓と治定していますが、西殿山古墳は古墳時代前期の3世紀後半築造と見られることから年代が合わず、実際の被葬者は別人物であろうとされています。

手白香皇女の陵墓は『延喜式』では「衾田墓」とあり山辺郡に葬られたとされるため、周辺地域で唯一6世紀の大型古墳であり、発掘された埴輪が現在学術的に継体天皇陵と推定されている今城塚古墳の埴輪と同じ場所で焼成されたものであることから、西山塚古墳が手白香皇女の陵墓との説が浮上してきました。

本格的な発掘調査は行われていないようで、現在の日本の皇室に直接連なる継体皇統への皇統交代劇でキーマンとなる人物の陵墓の可能性もあるので、今後の発掘調査に期待したいですね。

 

環濠

案内板から南に向かうと、萱生の環濠が見えてきます。

山の辺の道は環濠の中に作られた土橋で集落内とつながれています。

特に案内板に説明はありませんでしたが、西山塚古墳を出曲輪として活用すれば、道路を通って集落へ進入する敵の背後から攻撃可能で、強固な防御の備えになります。

本格的な発掘がないので、古墳が城砦に転用されたのか定かではありませんが、近隣の黒塚古墳や中山大塚古墳が戦国時代に城郭化されていたことを考えると、西山塚古墳も砦として活用されていた可能性は十分にあるかと思います。

※現在は果樹園になっていて削平されており、後世の地形改変で原状がよくわからなくなってる可能性も高いかとは思いますが(苦笑)

 

風のない日は、水面に蔵や家屋の白漆喰が奇麗に反射します。

土橋の傍に立っていた石碑は、表面の摩耗が激しく何と書かれているのか読めませんでした。

山の辺の道を再び北に戻り、大きな屋根の萱生町集荷場の前までやってきました。

おそらく収穫した柿などの農産物の共同集荷場なのでしょう。

集荷場の真ん中を通る道筋が、かつての環濠の北端部に当たると思われます。

 

南側の蔵や民家、北側の田畑より道の位置が低いことから、現在道路になっているところに、かつて濠があったのではないかと推察します。

 

菅原神社

濠跡と思しき道路を東へ進むと、南側の丘の上に神社が見えてきます。

天満宮の社標が見えますが、こちらは萱生集落のほぼ中央、堂の山に鎮座する菅原神社です。

現在の祭神は菅原道真ですが、明治までは天神社と呼ばれ、歳徳神(年神様)が祀られていました。

歳徳神も「天神様」と呼ばれるため、明治の初め頃に全国の神社が国家統制を受ける中で祭神や社名が「整理」された時、「天神様」の呼称から元々信仰されてきた歳徳神菅原道真と混同されてしまい、祭神や呼び名が現在のものにすり替わってしまったようです。

先述のとおり、境内は前方後円墳である空路宮山古墳の墳丘上にあり、本殿南側の円丘が後円部で、前方部はすっかり削平されてほぼ原形をとどめていません。

日露戦争の時、宮の山が明け方鳴動すると騒ぎが起こり、見物人が押し寄せて露店まで出たという逸話が『天理市史』で紹介されていました。

 

こちらは春日造の本殿です。

 

境内の拝殿南側に並ぶ「大神宮」のおかげ灯籠のうち、1771(明和8)年の銘がある灯籠は県内最古の灯篭の一つとのこと。

ちなみにもう一基の最古の灯篭は、伊勢街道沿い接待場(センタイバ)から近鉄八木駅の南側へ近年移設された灯籠で、こちらも明和八年の銘があります。

江戸時代、おかげ参りが大流行した年が1650(慶安3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(文政13)年の4回あり、奈良県最古のおかげ灯籠は3度目の流行の年に奉納されたものです。

 

境内の北側に集会所があります。

破風の鬼に「学」と刻まれているので、もともと学校の校舎として利用されていた建物かもしれません。

江戸時代まで観音堂がありましたが、明治初年の神仏分離令で廃寺となって取り壊され、本尊だった1551(天文20)年の銘が刻まれた十一面観音石仏は、萱生の南隣にある中山町の念仏寺に預けられました。

ちなみに現在拝殿の前に設置されている手水鉢は観音堂の遺物で、「正徳二年辰二月 彼岸観音講中」の刻印があります。

 

集会所の東側には、聖観音菩薩や役行者像などの大小の石仏が並びます。

役行者像の隣には「古墳霊供養塔」と刻まれた石碑もありました。

 

境内の西側から集落中央に向かって伸びる参道。

神社の正面は西に向いており、もともと、こちらの道が表参道だったのでしょう。

集落から一直線に境内に至る階段を設けず、スロープがクランクして境内へと続きます。

一見すると城郭の外枡形のような構造で、もしかすると菅原神社境内は中世まで領主居館や、戦時には郷民が立て籠もる場所だったのかもしれません。

平地の環濠集落内でも遠見遮断の路地の「折れ」はよく見ますが、山麓斜面にある萱生の菅原神社西側にある急峻なスロープに設けられた折れは中世山城の升形を彷彿とさせる、強固な防備の造りになっています。

 

菅原神社の参道から西の環濠土橋まで狭い路地が一直線に続きます。

堀端の土蔵と民家の白漆喰が、夕日に映えて美しいです。

堀端の山の辺の道を南に進みます。

山の辺の道沿いに南へ進むと再び集落内に入りますが、道沿いの小屋が果物の無人販売所になっていました。

季節柄(訪問時は真冬)、販売所ではミカンが販売されていました。

今はすっかり刀根早生柿の産地としてお馴染みの萱生ですが、元々は日当たりのよい斜面を利用したミカンの栽培も盛んで、『天理市史』に収録された「盆踊り」の歌詞にも「萱生はよいとこ 蜜柑どこ」と歌われるなど、かつては柿よりも主力の産品でした。

一方、現在一番の名産となっている刀根早生柿は1959(昭和34)年の伊勢湾台風の後に開発された品種です。

一般的な「たねなし柿」より収穫時期が半月ほど早く、そのままでも9月中旬、ハウス栽培するとさらに早く8月中頃までに収穫できたことから、お中元や暑中見舞いのギフトとしてヒットし、今では萱生だけでなく奈良県の特産品として広く県内の柿農家で栽培されています。

 

山の辺の道をさらに南下し、萱生集落の南側出入口まで出てきました。

集落の出入り口には、大神宮の常夜灯とともに猿田彦大神の石碑が立ちます。

常夜灯には幕末1848(嘉永元)年の銘が見えました。

猿田彦大神といえば交通安全の神様。

伊勢参りに向かう萱生郷民の旅の無事を祈念して、伊勢に向かう集落南出口に建立されたのでしょう。

集落の南を龍王山麓から流れる小川は、南側の濠として活用されていたと考えられます。

二つの古墳を組み合わせて活用した強固な守りで、これまでに見たどの集落より城郭の雰囲気を備えた環濠集落だったかもしれません。

山麓斜面という立地に加え、周囲に古墳が密集しているという極めて珍しい地域的特徴が、平野部の環濠集落に比べて立体的で起伏に富んだ萱生環濠独特の風景を生み出しています。

奈良県内の環濠集落をいくつも回ってきましたが、古墳の地形をここまで活用した環濠集落は見たことがありませんでした。

 

しかし、よくよく考えると黒塚古墳や中山大塚古墳などのように近隣は中世城郭に転用された例も多く見られる地域で、萱生環濠のすぐ南にある行燈山古墳は、下掲の写真のように前方部から後円部までびっしりと墓石が並ぶ現役の墓地として活用されています(前方後円墳が墓石で埋め尽くされている光景はなかなか壮観です)。

灯籠山古墳

萱生環濠周辺は、身の回りの地形を巧みに活用してきた人々の歴史が、町の風景の特徴として刻まれていることを改めて感じる場所でした。

 

次回は、竹之内環濠集落をご紹介します。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編纂委員会 編

奈良盆地地理歴史データベース・小字データベース 奈良女子大学

『天理市史 下巻 改訂』天理市史編纂委員会 編