大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

ちゃんちゃん祭りの御旅所を巡る・大和神社(後編)~上街道散歩(6)

奈良県天理市新泉町に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)は、創建が記紀神話の時代まで遡る長い歴史を持つ古社です。

古代から国家祭祀を執り行う官社として朝廷から重んじられ、明治から戦前にかけては官幣大社に列するなど、国家との強い結びつきを持つ神社でした。

その一方、中世以降は大和郷氏神として、現在でも地域の紐帯にとって中心的な存在です。

前回は大和神社境内の様子を中心に、その歴史や由緒、ゆかりについてご紹介しました。

今回は境内を離れ、毎年4月1日に執り行われる例祭、通称・ちゃんちゃん祭りで御渡りが行われる御旅所と、多彩な境外社を中心にご紹介します。

下図は今回ご紹介するスポットの周辺図で、上街道と山の辺の道という奈良県を代表する古道沿いのエリアになります。

大和神社周辺図(国土地理院HPより作成)

本題と直接関係ありませんが、航空写真で見ると改めて山の辺の道沿いって古墳だらけなのが分かりますね。

前方後円墳だけで何基映ってるかわかりますか(笑)

 

ちゃんちゃん祭りとは

ちゃんちゃん祭りは旧大和郷9町の氏子による祭礼で、岸田町の御旅所を経由して中山町大塚山の御旅所・大和稚宮神社までを風流行列で神幸する行事です。

15世紀には2基の神輿が岸田を経由して中山の御旅所まで神幸する、ほぼ現在と同じ形式で執り行われていた歴史ある祭礼で、古式を伝える貴重な風習として、2018(平成30)年、奈良県指定無形民俗文化財に指定されました。

※ちゃんちゃん祭りの詳細についいては下掲の動画も参照ください。

ちゃんちゃん祭りの通称の由来は、列の先頭で鉦を「ちゃんちゃん」と打ち鳴らして行進するから、あるいは長岳寺の寺僧が奉迎の際に打ち鳴らす鉦の音から等諸説あります。

※2019年撮影のお祭りの様子。御旅所での祭礼の様子が簡潔にまとめられています。

上街道沿いの境外社

それでは、最初の御旅所、境外社がある岸田町の小字・市場へ向かって、大和神社から上街道を南下しましょう。

市場の御旅所までは、大和神社一の鳥居から南へ700mほど、徒歩10分ほどの距離になります。

大市観音地蔵菩薩

岸田町市場集落の北口に「長岡岬 大市観音地蔵菩薩」の石碑があります。

大きな古木の根元に10体ほどのお地蔵様が集められてお祀りされていました。

石碑の「大市観音」とは、江戸時代まで当地にあった蓮池観音堂のことと思われます。

1875(明治8)年に廃寺となったため、本尊の木造十一面観音菩薩立像は、市場集落内に鎮座する渟名城入姫神東隣の公民館に移されました。


市場集落

市場の集落は明治から昭和初期頃の町屋が残る、旧街道沿いの風情漂う街村です。

中世は岸田の枝村で尻懸(しっかけ)と呼ばれ、上街道沿いに商工業者が集まり、鎌倉時代の刀匠・尻懸則長(日本最古の刀剣の伝法・大和伝五派のうち尻懸派の事実上の創始者)も工房を構えるなど、上長岡(かみなんか)から続く長岳寺の門前として発達しました。

1536(天文5)年頃に十市遠忠が本拠を十市(現橿原市)から龍王山城に移すと、街道沿いの城下町として賑わい、最盛期を迎えます。

しかし遠忠死後、松永久秀の大和侵攻や宇陀の秋山氏との抗争で、十市宗家最後の当主となる十市遠勝龍王山城を失い十市城へ退去すると、当地で市は開かれなくなりました。

近世に商業地は南に隣接する柳本の町へと移りましたが、小字名の「市場」に往時の賑わいの名残をとどめます。

御旅所・岩懸神社

市場集落の北口からほど近く、上街道の東側に御旅所・岩懸神社があります。

社地中央の台石はちゃんちゃん祭りで、神幸の小憩に使用されます。

大和神社を出発した神輿は当地に到着すると台石で小憩し、兵庫町の氏子によって龍の口舞が行われます。

もともと、上街道を挟んで西側に鎮座する大和神社の境外社・渟名城入姫神境内の一部だったようですが、室町時代以降の戦乱で社地が分断縮小したと見られます。

 

渟名城入姫神社(ぬなきいりひめじんじゃ)

御旅所から南へ100mほど進むと西に入る小さな路地があり、こちらが渟名城入姫神への入り口になります。

控えめに案内板が住宅の塀に掛けてありますが、北側から来ると見落としてしまいそうです。(実際に私は最初の訪問時に見落としました・苦笑)

 

こちらが境内。

石鳥居に本殿と2010(平成22)年に竣工した拝殿が建つシンプルな境内です。

 

ご祭神の渟名城入姫は第10代崇神天皇の皇女で、天照大神とともに宮中で祀られていた日本大国魂大神崇神天皇の命令で穴磯邑(あなしむら・現桜井市穴師周辺と推定される)に移した際に斎女となった人物です。

日本書紀』には、渟名城入姫は斎女となったものの、日本大国魂神の荒ぶる神威で髪は抜け落ち体も瘦せ細りって祭祀を継続できなくなったため、次代の垂仁天皇の時に市磯長尾市倭国造の祖)が改めて祭主となるよう命じられ、ようやく日本大国魂神も世情も鎮まったとあります。

大和神社に最初にお仕えした人物として祀られているのだと思いますが、境外の少し離れたところにお祀りされているのは、斎女のときのご苦労を気遣ってのことでしょうか。

神社の東隣にある市場公民館の建物には「大市観音寺」の表札が掛けてありました。

蓮池観音堂の本尊だった木造十一面観音菩薩立像はこちらに移されているとのこと。


公民館の敷地には多くの六字名号碑や石仏が集められています。

小さなお堂は庚申堂で、青面金剛の石仏と「庚申」と刻まれた石碑が安置されていました。

道路の拡張、改良工事などで近在の路傍に祀られていた石仏が集められてきたのだと思いますが、奈良県内の古くからの街道沿いにはこういった形で集められている石仏が、非常に多いですね。

 

山の辺の道沿いの境外社

上街道沿いにある市場の御旅所の次は、山の辺の道沿いにある中山町の御旅所へ向かいます。

 

上街道からおおよそ1kmほど東に進み、山の辺の道に入って北上すると、木々の茂った小高い丘が見えてきます。

実はこの丘、中山大塚古墳という前方後円墳で、御旅所は古墳の前方部にあります。

ちなみに中山大塚古墳の築造は古墳時代前期の3世紀後半と推定され、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳に匹敵する古い古墳です。

被葬者は不明ですが、『天理市史』によると大和神社の祭神・日本大国魂大神の斎女で、市場の神社に祀られていた渟名城入姫の墓と伝承されているとのこと。

 

丘の麓から御旅所へ続く石段。

かなり古い石段です。

中山観音堂

御旅所の南西隣に中山観音堂があります。

本尊は、奈良時代の高僧・行基長谷寺の観音の試し彫り像とされ「試みの観音」と通称される十一面観音菩薩立像。

平安時代以降に確立した寄木造の観音像なので「行基作」というのは伝承上のことですが、元々この観音像が祀られていたのは、現在の大和神社御旅所の境内にあった行基開創の中山寺をルーツとする「中山坐観音寺殿」でした。

 

中山寺(中山中楽寺)は745(天平17)年に行基が霊木から彫り出したとする十一面観音菩薩を本尊として創建されたとされる古代寺院です。

続日本紀』の天平勝宝二年条(750年)の記事にもその名が見えること、寺跡から八葉福弁蓮華文の施された奈良時代の瓦が出土していることから、創建時期は伝承の通り奈良時代でほぼ間違いないとされ、最盛期には大塚山を中心として付近の丘陵地一帯に堂宇塔頭が建ち並ぶ大寺院でした。

中世は興福寺大乗院の末寺でしたが、『天理市史』等によれば1576(天正4)年に十市城落城に際しての兵乱で全山焼亡し、いったん滅亡したとされます。

当時、分裂状態だった十市氏の旧領を巡って、十市遠勝の娘を妻に迎えていた龍王山城主・松永久通(久秀嫡男)と、十市氏庶流の十市城主・十市遠長との間で1575(天正3)年から武力紛争が起こっており、1576(天正4)年に十市城が松永久通の攻撃で陥落。

十市遠長は河内へ逃亡していることから、この時の戦いに巻き込まれたのでしょう。

中山寺境内にあった中山大塚古墳は、発掘調査から戦国時代は城郭化されていたことが分かっており、近傍の柳本城でも戦闘が起こっていることから、戦場となった蓋然性は高いと考えられます。

近世は前述のとおり中山坐観音寺殿として観音堂と庫裡だけが建つ真言宗の小規模な寺院として復興・存続し、『式内社の研究 第1巻』によると、江戸時代は現在は大和稚宮神社に隣接する歯定神社の神宮寺だったようです。

境内はちゃんちゃん祭りの際に供奉社の休憩所に充てられていましたが、明治の神仏分離令により中山坐観音寺殿は廃寺となり、境内には中山大塚古墳の墳丘上に鎮座していた大和稚宮神社が移されました。

境内の仏堂は取り壊され、本尊の十一面観音菩薩立像は長谷寺の小池坊に移されましたが、後年現在の場所に観音堂が建てられて返還・安置され現在に至ります。

 

ところで、大和神社の4月1日の例祭(ちゃんちゃん祭り)は、『尋尊大僧正記』1491(延徳3)年の四月朔日条に「大和明神祭礼也中山寺ニ神向」とあるように、中世以来、中山寺に神幸する祭礼と認識されていました。

仮に中山寺の本尊・十一面観音のもとに御渡りする形式だったとすると、観音様は日本大国魂大神に所縁ある神の本地仏と見なされていた可能性もあるんじゃないでしょうか。

一説にはちゃんちゃん祭りは日本大国魂大神の母、伊恕媛命のもとへ渡御する行事ともされる(『天理市史』)ことから、十一面観音は伊恕媛命の本地仏だったのかもしれません。

境内の中山大塚古墳が、最初に日本大国魂大神の祭祀を執り行った渟名城入姫の墓と伝えられていることも示唆的で、十一面観音菩薩は渟名城入姫の本地仏かも、など、色々と妄想が尽きません。

廃仏で一度は長谷寺に移された十一面観音菩薩立像が、もとの境内の隣接地にお堂を用意されて再び迎えられたことには、観音様に対する地元の人々の篤い信仰を感じますし、祭礼で重要な役割を担っていたことを強く示しているのではと感じます。

 

中山観音堂の敷地には、中山町の集会所の他、多くの石仏も集められています。

フェンスに掛けられた棟鬼飾りは、破却された中山坐観音寺殿のものでしょうか。

 

御旅所

こちらが御旅所です。

250名もの氏子が集まって御旅所祭が執り行われることもあり、大きな広場空間があります。

神前の広場では神事の他、氏子の方々による舞の奉納や会食、粽撒きもあって、厳かながらも楽しいイベントが盛りだくさんで行われます。

神と氏子の交歓という御渡り行事の本来的な意義がきっちりと伝わっている伝統行事になっていますね。

中世は中山寺の本寺である興福寺大乗院の後援もあってか、大倭祭猿楽が興行され『大乗院寺社雑事記』によると1459(長禄3)年の大倭祭猿楽には大和猿楽のほか宇治猿楽も招いて賑々しく挙行されたことが記述されています。

当時の人気猿楽一座の共演で、祭りは文字通りの「フェス」状態だったことでしょう。

 

御旅所には二つの社があります。

向かって右が大和稚宮神社(おおやまとわかみやじんじゃ)、左が境内社歯定神社(はじょうじんじゃ)です。

大和稚宮神社(御旅所坐神社)

こちらは大和稚児神社の社殿。

祭神は大和神社と同じで日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神で、檜皮葺・三間社流造で朱塗りも鮮やかな社殿です。

祭神については先述のとおり伊恕媛命だったとする伝承も残されています。

江戸時代まで現在の鎮座地の背後にある中山大塚古墳の墳丘上に鎮座しており、現在の場所には中山坐観音寺殿の観音堂が建っていました。

歯定神社

こちらは境内社歯定神社

祭神は大己貴神少彦名神の二柱です。

少彦名神は医療神ともされるため「歯の神様」としても信仰されている神社です。

元来中山の氏神だったようで、もともとは現在地から南東の歯定堂で祀られていました。

中山寺が1576(天正4)年に焼亡した後に当地に移転したものと思われますが、遷座した時期は不明です。

中山坐観音寺殿が当社の神宮寺であったとするならば、近世初頭には遷座していたのかもしれません。

 

大和神社とは関係の深い神社で、1118(永久6)年に大和神社御神体と本殿が火災で焼失した際には、一時的に高槻山へとご神体が移されたと記録されており、1583(天正11)年に大和神社が再度火災に見舞われたときも、歯定堂へ一時ご神体が奉安されたとされます。

ちなみに、歯定堂は小字名で残っており、おおよその位置は下記の場所。

ちょうど中山集落の北側にある丘陵地になるので、集落の鎮守とするには丁度良い場所ですね。

高槻山一帯は当時長岳寺領で、一時退避中の御神体には長岳寺の寺僧が奉仕し、現在もちゃんちゃん祭りの神幸で市場の御旅所へ長岳寺から奉迎の者が派遣されるのは、この時の名残かもしれないと『天理市史』では推察しています。

大和神社の元々の鎮座地が長岳寺境内で長岳寺が大和神社の神宮寺であったとの伝承もありますが、中世の二度の火災で高槻山へ大和神社が退避したことで、長岳寺との深い関係が築かれ、様々な伝承も生まれたのかもしれません。

歯定神社は大和神社と高槻山・長岳寺との関係や、現在の御旅所のロケーションを考える上でも重要な神社になるのです。

 

こちらが歯定神社の本殿です。

2014(平成26)年に社殿が修理されたこともあり、きれいな社殿です。

 

前庭に並べられた石は、元の鎮座地である歯定堂でご神体として祀られていた自然石と伝わります。

地元でも歯痛の快復にご利益があるとされる神社で、形が犬歯や臼歯のように見えるこちらの磐座は、隠れたパワースポットと言えそうです。

 

大和神社中山寺も歴史ある大規模寺社でしたが、火災や戦災などで多くの文書が失われ、近世初頭以前の確かなことがほとんどわからなくなっています。

しかし、確かなことが不明な分、遺され伝えられてきた祭礼や多くの土地の伝承、旧跡から様々な想像をかきたてられます。

 

実際に現地を散策して旧跡に触れながら、どうして今こうなっているのか、自分なりに考え、推理するのを存分に楽しめるエリアでした。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編纂委員会 編

『朝和村郷土誌』朝和村教育会

『奈良県山辺郡誌 中巻』山辺郡教育会 編

『式内社の研究 第1巻』志賀剛 著

次回はこちら。