大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1)

皆さんこんにちは。

 

奈良県内には初見ではまず読めない、いわゆる難読地名がたくさんあります。

西名阪自動車道の天理IC付近の地名、櫟本(いちのもと)もそのひとつです。

ついつい自動車で通り過ぎてしまいがちな場所なんですが、自動車から降りて散歩を楽しめるスポットも実はたくさんある場所なんです。

 

櫟本とは

櫟本の場所はこちらで、JR櫟本駅から国道169号線付近を中心として、西は大和郡山市と境を接し、東は東山中の山麓までの広範にわたります。

櫟本は古代の官道の上ツ道北の横大路が交差する要衝で、古代から和珥氏、柿本氏といった古代氏族が割拠した場所でした。

応神天皇の歌に「櫟井の和爾坂の土を」と見えるように、古代は櫟井(いちい)と呼ばれたようで、地名の由来は付近に自生していたイチイ(櫟)の木とされ、天狗の住んだイチイの巨木があったなど、イチイにまつわる多くの由来伝承が伝わります。

平安時代には荘園化が進み、櫟庄、櫟本庄の名が史料に現れ、中世には櫟本庄の名で定着したようです。

大和一円に興福寺領が広がる中、櫟本庄は東大寺が開発した荘園で、中世に西部地域が興福寺(一乗院)領となったものの、中世から江戸時代が終わるまで一貫して東大寺領であり、櫟本東側の丘陵地を「東大寺山」と呼ばれることからも、その影響の強さをうかがうことができます。

中世末期には、上ツ道をルーツとする上街道沿いの街村としてのまとまりを見せるようになり、江戸時代には市場、高品、膳夫(かし)、南小路、四之坪、瓦釜の6つの垣内に分かれ、横大路以南の上街道沿いに広がる市場はその名が示す通り市場町で、残りは農村であったといいます。

特に、大和国添上郡の上街道沿いに領地を持った伊勢藤堂家が、名張から大和の東山中を超えて上街道へ通じるルートのうち、櫟本に通じる高瀬街道を主要路としたことから、櫟本は物資の集散地として栄えました。

 

こちらは1791(寛政3)年に出版された『大和名所図会』に描かれた櫟本周辺の図です。

大和名所図会 巻の二(国立国会図書館蔵)

奥に「てんおう」と書かれているのが、上治道天王社と呼ばれた和爾下神社で、その下に「人丸」とあるのが歌塚です。

高瀬川沿いに「一堂」とあるのが、室町時代に現在の櫟本小学校の場所に移転してきた柿本寺(しほんじ)で、絵の右半分には現在在原神社となっている在原寺の伽藍が描かれています。

高瀬川沿いの道が横大路で、交差する上街道とともに行き交う多くの人が描かれ、当時の賑わい振りを伝えてくれます。

上街道沿い

それでは、現在の櫟本の町を歩いてみましょう。

JR櫟本駅

1898(明治31)年5月に奈良鉄道が京終~桜井間を開業させたときに設置された駅で、駅舎は構内に掲示された建物財産標によると「明治31年4月」とあるので、開業当時から使用されている駅舎になります。

現存する日本最古の現役鉄道駅舎が、愛知県にあるJR武豊線亀崎駅(1886(明治29)年竣工)とされますから、実は日本最古級の現役駅舎。

同じ万葉まほろば線京終駅帯解駅等も同年竣工の現役駅舎で、ここまで残るとこちらも立派な文化財と言えるでしょう。

 

駅前通りを東に向かうと、上街道との交差点に出ました。

こちらは横大路の北側になり、上街道沿いは小字・高品となり、農村集落でした。

楢神社

高品から上街道を少し北に進むと、楢神社があります。

祭神は明治以降、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)で1956(昭和31)年6月まで五十狭芹彦命神社とされていました。

五十狭芹彦命と聞いても誰かいな?という方が多いと思いますが、吉備津彦命と呼ぶとご存知の方も多いのではないでしょうか。

吉備津彦は7代孝霊天皇の子で、吉備を平定して童話『桃太郎』のモデルとなった人物として知られ、五十狭芹彦は吉備を平定するまで名乗っていた名になります。

 

古伝によると、もとは鬼子母神を祀った神社ですが、明治維新後の神道国教化にともない祭神が変更されたものと考えられ、現在は五十狭芹彦命と鬼子母神両神が祭神となっています。

この神社の境内に一度生まれた子を捨てそれを神官が拾って親に返した後、「奈良蔵」や「楢吉」と「奈良・楢」の字をつけて命名し、捨て子として育てるという、という古い風習もあったようで、安産や子どもの無病息災にご利益のある神社として信仰されてきたことがうかがえますね。

 

また、当社は元々現在地から1kmほど東の東大寺山に鎮座していましたが、集落からあまりに離れていたため現在地に遷座したとのこと。

もとの鎮座地は現在、天照大神を祭神とする神明神社が鎮座し、そちらを上の宮、当社を下の宮と言います。

 

境内北側に拝殿と本殿があります。

本殿は1862(文久2)年の造替で春日大社から移築されたもの。

はい、ここにもありました。春日大社の移築本殿(笑)

本当に奈良県内には春日大社の移築社殿が多くて、近世以降も、春日大社の威光が大和一帯に及んでいたことがよくわかりますね。

 

境内の一角、境内社である八幡神社のそばに、井戸があります。

こちらの井戸の井筒は実増井(三桝井)の井筒と呼ばれ、1848(嘉永元)年3月に八代目市川團十郎が奉納したもの。

前面に市川家の定紋であったが三枡紋が、他の面には「ならの葉の 広き恵の 神ぞとは この実益井を くみてこそ知れ」の歌が刻まれています。

井戸の水は、子どもを授かる霊験があるとのこと。

 

北の横大路

楢神社から上街道を高瀬川まで南下すると、北の横大路との辻に差し掛かります。

高瀬川に架橋された上街道の橋が、少し西にずれて通っていますが、『大和名所図会』にも同じように書かれていたので、江戸時代の道筋がそのまま残っていることが分かります。

 

高瀬川沿いに東へ向かうと、そのまま和爾下神社(上治道宮)の参道になります。

西に向かうと、大和郡山市横田町の和爾下神社(下治道宮)の前を通り、そのまま竜田越え奈良街道を経て大阪へ通じるルートになっています。

二つの街道が交わる辻ですので、古くからの道標も角に遺されていました。

南東:右 なら、左 たつた みち

南西:右 ほうりうじ 左 はせみち

享保十二(1727)年の銘があるので、江戸時代中期に建立された道標のようです。

 

大阪府奈良警察署櫟本分署跡

高瀬川を渡ると、町方の小字・市場に入ります。

しばらく歩くと見えてくるのが、大阪府奈良警察署櫟本分署跡という旧跡。

ここは、天理教の教祖・中山みきが1886(明治19)年、数え89歳の時に「最後のご苦労」と呼ばれる生涯最後の拘留を受けた場所になります。

天理市の市名の由来ともなっている天理教の教祖・中山みきは、1798(寛政10)年に津藩領だった三昧田村(現奈良県天理市三昧田)の庄屋の娘として生まれた人物で、「神憑り」となって天理教を興しますが、維新後に宗教統制を進める新政府の命令に対して、自らの信仰に反するものには従わなかったため、度々逮捕・拘留されました。

 

こちらは中山みきが、座らせられたとする窓際の板の間。

当時の模型などの展示もあります。

 

馬出の町並み

市場周辺は、古い商家もいくつか残っています。

こちらは、福住、名張方面へと通じる高瀬街道との辻です。

高瀬街道沿いにも数件古い町屋が残ります。

高瀬街道沿いの町は小字・馬出でその名が表すとおり、高瀬街道を往来する馬がここで荷物の積み下ろしを行いました。

こちらの民家は馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構が残っています。

かつてはこういった「馬つなぎ」を備えた町屋が建ち並んでいたんでしょうね。

 

在原神社

西名阪自動車道の高架をくぐって上街道を南下し、最初の丁字路が在原神社への参道になります。

参道を進むと「在原寺」の石標が見えてきました。

元は業平神社とその神宮寺である在原寺が併存していましたが、明治の神仏分離令で在原寺は廃寺となり、社名も在原神社と改められました。

境内の入り口には江戸時代までは楼門が建っていましたが、破却されて現在は跡形もありません。

「在原寺」の石標はもともと上街道沿いの参道入り口に立っていました。

ちなみに裏には「業平神社」と刻まれています。

 

こちらは境内北側の本堂跡。

もともと在原寺の堂宇のあったエリアは、西名阪道の建設でほとんど道路になってしまっています。

ちなみに、本堂(観音堂)は大和郡山市の若槻環濠内にある西融寺へ移築されました。

こちらは現在の西融寺本堂ですが、形状が『大和名所図会』に描かれた堂と似ているので、おそらく在原寺の移築本堂と思われます。

在原寺は、阿保親王とその子で平安初期の代表的歌人在原業平の邸宅跡とされ、『寛文寺社記』には、880(元慶4)年に業平が病没したため邸宅を寺に改めたとあります。

1876(明治9)年に廃寺となり、業平神社が残されて在原神社と改称されました。

 

こちらは境内に残る筒井筒

伊勢物語』二十三段をもとにした能の謡曲・「筒井筒」の舞台となる「大和国石上の在原寺の旧跡」が、この場所と伝承されます。

こちらは松尾芭蕉の句碑。

「うぐひすを 魂に眠るか 嬌柳(うぐいすの たまにねむるか たおやなぎ)

 はせお(芭蕉)」

とあります。

1683(天和3)年、芭蕉40歳の句とのことですが、なぜこの句が選ばれたのかはわかりませんでした。

ちなみに大阪を代表する俳人・青木月斗の書を刻んだ句碑になります。

 

こちらは本殿。

1920(大正9)年に修復された本殿は、もとは紀州徳川家により寄進されたものとのことで、阿保親王在原業平が祭神として祀られています。

和爾下神社(上治道宮)

西名阪自動車道の天理ICから国道169号線を北へ200mほど進むと、道路の東側に赤く大きな和爾下神社の鳥居が姿を現します。

延喜神名帳の「和尓下神社二座」のうちの一座に比定されている神社で、もう一座が当社から北の横大路を西へ2.5km離れた大和郡山市横田町の和爾下神社に比定され、当社を上治道宮、横田の社は下治道宮とも呼ばれます。

大和郡山市横田町の和爾下神社(下治道宮)については下記の記事で紹介しています。

境内の元の神宮寺・柿本寺跡からは奈良時代の古瓦も出土していることから、創建は古代まで遡れる古社であると考えられますね。

元は付近一帯を支配した和珥氏の流れを組む柿本氏の祖神・天足彦国押人命が祀られていたと推定されますが、中世以降は牛頭天王が祀られて上治道天王社、西隣の神宮寺・柿本寺との関係から上柿本宮と呼ばれていました。

明治になると神道国教化により牛頭天王が廃され、祭神は素戔嗚命記紀神話の神三柱に置き換えられました。

 

鳥居をくぐると東に向かって真っすぐ参道が続きます。

鳥居から100mほど東へ進むと、境内へ向かって北へ折れます。

境内前には広い駐車場。自動車利用の参拝者には嬉しい施設ですね。

本殿は丘陵の山上にあり、一度大きく左へクランクして石畳の参道が続きます。

途中、境内社がたくさんあって壮観。

天理市史』によると境内には合計12の境内社が鎮座しているとのこと。

クランクして段丘状になっている境内は陣地にしやすかったのか、南北朝時代の1337(建武4)年には付近で北朝方と南朝方の合戦が起こり、北朝側は和爾下神社と柿本寺の境内を陣地として戦ったと史料(『大友文書』)に見えます。

小高い丘陵で野戦陣地にするにはもってこいの場所だったんでしょう。

 

石段を登りきると、立派な拝殿が見えてきます。

本殿は安土桃山時代の様式を伝える建築として、国の重要文化財に指定されいています。

三間社切妻造の重厚なご本殿。

拝殿脇の隙間から、ちらりと文字通り「垣間」見ることができます。

 

歌塚(和爾下街区公園)

和爾下神社境内の東隣にある和爾下街区公園に、歌塚があります。

和爾下神社の神宮寺・柿本寺の境内の一部で、後世山部赤人とともに歌聖と称えられた柿本人麻呂の遺骨を納めた場所と伝わります。

柿本寺は室町時代に現在の櫟本小学校の場所へ移転しましたが、その後も人丸社という小さな祠が祀られていたようです。

現在の歌塚と刻まれた石碑は、1732(享保17)年に医師で歌人の森本宗範や柿本寺の僧侶により建立されました。

 

公園内には石仏の他、ユニークなカエルの石像がたくさん置かれていました。

「生き蛙 無事蛙 使った金もまた蛙」

ほっこりする、いい歌ですね。

こちらは柿本人麻呂の像。

なかなかカオスでシュールな空間です。

 

かつて人の往来が絶えなかった街道沿いの櫟本は、今では一日中自動車の往来が絶えない奈良県でも有数の交通量がある町になっています。

しかし、自動車だと通り過ぎるだけで、町を見ることはありませんね。

近世以前からの街道の交差点は、現在も主要幹線道路の交差点になっていることが多いですが、自動車から降りて歩いてみると、かつての街道の市場町の風情が残っている場所がたくさんあります。

 

櫟本もまさにそういう町でした。

 

周辺情報

■中西ピーナツ

国道169号線に面した和爾下神社鳥居からすぐ北側にある大人気の豆菓子屋さん。

味もコスパも抜群で天理方面へ用事があるときは、筆者も必ず立ち寄るお店です。

種類が豊富で、おつまみにも、小さな子どものおやつにもピッタリのお菓子が必ず見つかります。

■井戸城跡

櫟本から上街道を南下すると石上町、別所町には中世城郭である井戸城と推定される城跡があります。

井戸城は、15~16世紀にかけ同時代の一次史料にその名が頻出しながら、場所が特定されていない城郭で、その推定地を紹介します。

丹波市の町並み

現在の天理中心部のもととなった宿場町・丹波市の紹介・散策記事です。

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編さん委員会 編

『大和の伝説 増補版』 高田十郎 等編

『大和名所図会』 秋里籬島 著 [他]