大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3)

奈良県天理市というと、市内中央部に天理教の施設が集中する宗教都市のイメージが今ではすっかり定着していますね。

天理市は現在全国で唯一、特定の宗教法人の名称を冠する市ですが、1954(昭和29)年に奈良県で4番目に市制を施行した時、市名の由来について選定理由書には全国的に有名な天理教の中心地であるとともに「関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく」とあります。

ところで現在の天理市中心部は、町村合併で市制施行されるまでは、丹波市という名前でした。

丹波市上街道沿いの古い歴史を持つ町で、実は現在も江戸時代以前の古い町並みが残されている地域です。

上街道沿いに続く丹波市の町とはどんな場所か、天理市中心街を散歩してきましたのでご紹介します。

 

山辺郡の中心地・丹波市

丹波市の町は、おおよそ下図の赤い網掛けの範囲にあたります。

丹波市概略図(国土地理院HPより作成)

現在の天理市中心部からは少し南側、古代から奈良と桜井を結んだ上街道(上ツ道)沿いに町場が広がるエリアです。

平安時代から現れる丹波庄の市場町で、「丹波市」の名は室町時代から史料に見え始めます([『大乗院寺社雑事記』寛正三年八月五日条)。

元々丹波庄の集落は、現在の上街道沿いから少し西、丹波市町西交差点付近の字・奥之垣内にありましたが、上街道の人通りが増えるにつれ次第に街道沿いに集落の者が移住し、中世には月に6回開かれる、いわゆる六斎市の場になったと見られます。

近世に入ると、上街道沿いに沿って本町、中之町、南ノ町、中島町、北ノ町、新町と町場として発展していきました。

丹波市は江戸時代の初め幕府領でしたが、1619(元和5)年に徳川頼宣が和歌山に入って紀州徳川家を立藩すると、伊勢の藤堂家領の一部が紀州藩へ振り替えられることになり、その代替地として丹波市を含む山辺郡が藤堂家領となりました。

この時、山辺郡の他、大和では添上郡十市郡山城国相楽郡など合わせて約5万石が藤堂家領となりますが、丹波市は伊勢、伊賀、大和、山城と四か国に及ぶ広大な領地を結ぶ流通ネットワークの中で、主要な宿駅の一つとして整備されます。

そして江戸時代を通じて、大和国内では古市(現奈良市)、櫟本(現天理市)、桜井(現桜井市)とともに藤堂家の流通センターとして機能することになりました。

丹波市は経済的に富裕だったらしく、藤堂家へ巨額の貸し付けを行う富豪が幾人も現れた他、1799(寛政11)年の大神宮月参詣の文書に記された世話人15人、寄付者145名の名の内、屋号を有する者が約100名おり、全員が商家だったとは限らないものの、多くの商人が集住し、軒を連ねていたことが想像できます。

 

明治維新後、丹波市はいったん津県に編入された後、1871(明治4)年11月に大和国内の10県が統合され、奈良県に入りました。

1889(明治22)年に市制・町村制が施行されると、丹波市村を中心として山辺村が誕生し、ついで1893(明治26)年には丹波市町が誕生。

丹波市には町役場の他、1897(明治30)年には山辺郡役所が置かれ、地域の政治・経済の中心地として近代を歩むことになります。

 

丹波市の町並み

それでは現在の丹波市の町を、旧上街道沿いを中心に北ノ町から南へ歩いて行きます。

北ノ町~中島町

現在国道25号線より北側は、ほとんどが川原城町です。

本来丹波市と川原城は別集落ですが、小字の分布から丹波市北端の北ノ町エリアは、街道沿いに現在の川原城町まで伸びていたようです。

国道25号線丹波市町交差点。

こちらから南が昔からの丹波市エリアになります。

交差点に奈良の街道筋ではお馴染みの大神宮の常夜灯がありました。

上街道は三輪、桜井で伊勢本街道と接続するので、江戸時代は伊勢神宮への参詣客で大変な賑わいを見せました。

 

こちら中島町は布留川北流と布留川に挟まれた地域になります。

布留川を渡ります。

この場所には1907(明治40)年ごろまで、古墳の石棺の蓋だった巨石を転用した石橋が架けられ、青石橋と呼ばれていました。

架け替えられた巨石は、この場所から南へ200mほどの場所にある市座神社の境内に移され、現在も残されています。

 

ところで、天理市中西部は水源に乏しく、布留川はこの地域に流れ込む唯一の河川で、非常に貴重な水源です。

全国的に大事な水源となる山は「竜王山」とか「龍王山」と呼ばれますが、こちらの布留川の水源となる山も「龍王山」と呼ばれ崇敬を受けました。

本町

布留川を渡って南側が本町

丹波市の最も古くからの街区と考えられ、今でも江戸から明治期の建物と思しき町屋が点在しています。

中島町から上街道は緩やかに東へ向かってカーブし、本町の中ほどで鋭角に南へ折れます。

虫籠窓と美しい白漆喰がおしゃれな呉服屋さんです。

本町地区は今でも2軒の呉服屋さんが暖簾を守ってらっしゃいます。

立地的に今この場所で商売は厳しいのではとも思いましたが、後で色々調べると天理教の祭儀服なども扱ってらっしゃるようなので、なるほどと思いました。

たいてい、小さな町の昔からある呉服屋さんで残っているパターンは、地元の学校の制服扱ってるとか、太くて永続性のある客を掴んでるお店が多いですよね。

 

仲之町

本町の南側は仲之町で、こちらは旅宿や飲食店が建ち並ぶとともに、市場があったエリアです。

急に道路が広くなりますが、実は道路中央の路面がコンクリートのところは暗渠化された水路で、水路を挟んで東(写真左)側の道路が市場の跡になります。

 

ところで、戦前まで賑わった市場時代の陽屋根(アーケード)の一部が、かつては下のGoogleストリートビューのように保存されていましたが、2022年1月に惜しまれつつ撤去されました。

公道上にいきなり屋根が出てくるので、なかなかインパクトのある風景ですね。

元は魚市場の魚を直射日光から守るための陽屋根だったそうで、1950(昭和25)年のジェーン台風でほとんどの屋根は飛んでしまったものの、この屋根は残ったそうで、その後も住民の手で守られてきたそうです。

ただ、やはり市道上に建造物があるのは道路交通法上問題があり、老朽化も進んで危険とのことで市と保存していた住民で協議した結果、撤去することになったとのこと。

 

さて、江戸時代まで丹波市には郡山と同様、非公認の遊郭がありました。

資料によると仲之町の市場の通りを挟んで幕末には7軒の遊女屋があったようです。

丹波市の遊女屋の歴史は古く、1570(元亀元)年の『布留社丹波領惣田数帳』には丹波市在住の商人の屋号がいくつか見られますが、その中に「くつわや」があります。

轡屋は一般的に遊女屋を指しますので、室町末期から近世初頭にかけて宿場としての発展とともに遊女屋も現れてきたと見られます。

ちなみに江戸時代、公許遊郭は奈良の木辻のみで、その他の場所で遊女屋を営めば取り締まりの対象となりました。

そのため幕末、丹波市でも9軒の煮売屋(食事を出す旅宿・飲食業者)が隠売女営業で取り締まりにあったと記録されています。

人の往来が絶えない宿場町で非公認の遊所が発生するのは、東海道五十三次の宿場町に必ず飯盛女と呼ばれる遊女が存在したことからもわかるように、近世においてはごくありふれたことでしたが、丹波市の遊女屋には極めて特異な特徴がありました。

それは、主要な遊客が明治の廃仏毀釈で廃寺となった内山永久寺の僧侶だったことです。

※内山永久寺については下記の記事で詳しく紹介しています。

内山永久寺は石上神宮神宮寺で、大和では東大寺興福寺法隆寺に次ぎ、4番目の寺格を持ち、壮麗な伽藍から「西の日光」と呼ばれました。

江戸時代には50~60の塔頭をもつ巨大寺院でしたので、数百人の僧侶が暮らしていたはずです。

当寺、公に妻帯できない僧侶は、一般的に隠れて妻を囲ったり遊所に通ったりすることも多かったようですが、内山永久寺の僧たちが足しげく通うことで丹波市の遊女屋は成り立っていたのです。

ちなみに、江戸時代の僧侶は女性と同衾するのはご法度で、「女犯」の罪は幕府直轄地では徳川吉宗の時代までは死罪となる大罪でした(吉宗の時代に流罪遠島に変更・・もっとも当時の島流しは半分死刑のようなものですが…)。

しかし、明治初年に内山永久寺は廃仏毀釈の風潮の中で廃寺となり、僧侶たちは全員還俗。

主たる遊客だった僧侶が消えたため、次々と丹波市の遊女屋は廃業、転業を余儀なくされました。

1873(明治6)年、前年に芸娼妓解放令が出されて遊女屋の取り締まりが厳しくなる中、奈良県初の新聞「日新記聞」は丹波市の遊女屋・屋根屋が、抱えていた遊女を解放したと記事で伝えています。

当寺、奈良県警は木辻・元林院(ともに奈良市)以外(後に大和郡山の洞泉寺、東岡町が加わる)での貸座敷営業を認めておらず、取り締まりが厳しかった面もあるでしょうが、後に風呂屋へ転業した屋根屋の子孫は、内山永久寺が無くなって僧侶がいなくなり、経営がなりたたなくなったと1936(昭和11)年刊行の『御存命の頃』の中で証言しています。

こうして、明治の初め頃に丹波市の遊女屋は、内山永久寺とともにひっそりと姿を消しました。

 

それにしても、内山永久寺の僧侶たちが寺領からのアガリで修行もせずに連日遊郭で遊興に耽る姿を、地元の人々がはたしてどんな目で見ていたのかと想像すると、伝統ある大寺院でありながら、廃寺から10年もたたないうちに、地元民の手によって徹底的に破壊されて消滅した大きな原因が、僧侶の遊郭通いを含めた日頃の行いにあったのではないかと思わざるを得ませんね。

 

市座神社

中之町の東側に鎮座しているのが丹波市氏神が祀られた市座神社です。

江戸時代までは妙見大菩薩末社夷神社が祀られ、社名は生土神社とされていました(嘉永年間の控帳による)。

境内には真言宗寺院の善住寺が神宮寺として併設され、当時としてオーソドックスな神仏習合が色濃い神社だったと言えるでしょう。

中世には丹波庄の元々の集落であった奥之垣内に祀られていましたが、上街道沿いに集落が移転するにあたって、現在の社地へ遷座したと考えられます。

神宮寺の善住寺は、布留郷32ヶ寺からなる中筋諸山の一つで、輪番で石上神宮(布留社)の社僧を務める由緒ある古刹でしたが、明治の初年に神仏分離令で廃寺となり、本尊の観音立像は当地から少し北、上街道沿いの布留川北流河畔にある久保院へ移されました。

堂宇は1876(明治9)年に丹波市小学校の仮校舎として使用されるなどしましたが、1877(明治10)年には取り壊され、替わって新たな社殿が設けられます。

そして同年、社名も生土神社から市座神社とし事代主命主祭神として祀る神社となりました。

 

市座神社の入り口の北側にある境内社恵美須神社

江戸時代の社伝には丹波国から蛭子神を勧請したとあり、郷の氏神として妙見神を祀る一方で、市場・宿場町である丹波市の市神として、蛭子神が祀られてきました。

 

こちらは市座神社の拝殿。

国宝である石上神宮摂社・出雲建雄神社拝殿を模した割拝殿(中央部分が土間の拝殿)となっています。

 

境内の南側に並ぶ石灯籠には、妙見社と刻まれていました。

こちらが境内社妙見社

現在の祭神は事代主命になっていますが、もちろん江戸時代までの祭神は、仏教の神である妙見菩薩でした。

1654(承応3)年、1683(天和3)年、1703(元禄16)年に正月の奉射神事である結鎮(けち)が行われた記録が残り、善住寺の観音講とともに江戸時代は丁重に献供が行われていたことが分かります。

妙見菩薩は明治の神仏分離令で「消された神」ですが、祭神が事代主命と改められても、社名に「妙見」の名を残すことで「妙見さん」として親しまれ続けているんでしょうね。

 

こちらが先述の1907(明治40)年頃まで布留川に青石橋として架橋されていた青い巨石。

古代の古墳で石棺の蓋として使われた巨石が、中世から数百年もの間、上街道を往来して布留川を渡る人々の橋として利用されたというのは、歴史的なロマンを感じる遺物ですね。

 

巨石の前には、丹波市町道路元標もありました。

元は中之町の水路沿いに建っていたそうで、水路が暗渠化されたときに道路の中央部に突き出る形になったため、この場所に移転したとのこと。

 

市座神社を出て南へ向かい、丹波市郵便局から浄国寺付近までが南ノ町です。

道路におそらくかつての市場のゲートと思しき構造物が残されていました。

天理駅前~天理本通

折角なので、現在の天理市のメインストリート、天理本通も少しご紹介しましょう。

天理本通はJR・近鉄が乗り入れる天理駅から天理教本部までをつなぐ全長800m余りのアーケード街です。

 

こちらが天理駅で、天理市の玄関口となっています。

1898(明治31)年に奈良鉄道(現JR奈良線と桜井線の奈良~桜井間を敷設した会社)の丹波市として開業したのが始まりで、後に関西鉄道を経て国有化され1909(明治42)年に桜井線の駅となります。

1915(大正4)年には天理軽便鉄道(現近鉄天理線を敷設した会社)のターミナル駅が開業し、駅名は天理駅とされました。

天理市が誕生する40年も前に、当時自治体名ではなかった「天理」を駅名としたのには驚かされますが、元々天理軽便鉄道天理教信者の旅客輸送を念頭に設立された会社だったので、他の地方の人にもわかりやすいよう「天理」とターミナルに冠したのでしょう。

 

1954(昭和29)年に町村合併で天理市が誕生しましたが、国鉄の駅名は丹波市駅のまま変更されず、9年後の1963(昭和38)年に天理市となりました。

そして1965(昭和40)年に駅の高架化による移転をきっかけに近鉄と駅舎を統合し、国鉄天理駅と改称して現在に至ります。

 

天理駅前の広場は2017年に多目的広場「CoFuFunコフフン)」として大幅リニューアルされました。

古墳をモチーフにした野外ステージの他、子どもが楽しく遊べる遊具やカフェもあり、頻繁にイベントも催されています。

イベントを楽しむもよし、ゆっくりお茶するもよしで、個人的には奈良県内の駅前広場で、一番充実度が高い印象があります。

※詳しくは公式のHPをご覧ください。

 

駅から東へ進むと天理本通のアーケードが見えてきます。

商店街の看板はコフフンの開場に合わせて、デザインが一新されました。

こちらはアーケードの中。

人通りは結構あります。

天理教本部へ向かう人もありますが、やはり高校、大学など学生が大変多いので、夕方になると人でいっぱいになります。

 

国道169号線との交差点。

こちらの看板は昔ながらの看板ですね。

 

こちらは1877(明治10)年創業の稲田酒造さん。

杉玉がいい色になってますね。

お酒の他、奈良漬も有名なお店です。

天理教本部

天理駅から天理本通を東へ10分ほど進みアーケードを抜けると、天理教本部の巨大な木造建築が姿を現します。

1875(明治8)年、教祖・中山みきが定めた聖地「ぢば」(天理教では全人類の魂の発祥地とする場所で通常「おぢば」という)に据えられた「かんろだい」のある神殿を中心に、四方を囲むように礼拝殿が建てられています。

ちなみに天理教では「おぢば」を全人類の霊的な故郷とするため、人々がこの地を訪れることを「おぢばがえり」と呼びます。

天理市中心市街に入ると、町のそこかしこに「ようこそお帰り」とか「お帰りなさい」という看板や掲示を見かけるのは、この「おぢばがえり」という宗教的思想に基づくものです。

 

天理教本部が広がる天理市三島町一帯は「親里」とも呼ばれますが、元々は中山みきの嫁ぎ先である中山家が所在した庄屋敷村という小さな村でした。

この地に現在のような巨大な宗教施設が出現したのは大正以降。

一度に作られたわけではなく、3度にわたって増改築されて現在の姿になりました。

まず1910(明治43)~1913(大正2)年にかけての「大正普請」で教祖殿と北側の礼拝殿、そして神殿が建造されます。

ちなみに、現在の天理教本部は南側の正面性が強い造りになっていますが、この時神殿は北面していました。

この「大正普請」で建てられた建築で向拝に千鳥破風が用いられ、以後天理教の建築に特徴的な千鳥破風多用の嚆矢となります。

次いで1930年代にも「昭和普請」と呼ばれる増築では、平城宮跡の発見で知られる関野貞、東大安田講堂の設計等で知られる内田祥三ら当時の建築界の碩学たちを顧問に迎え、大正期に長谷寺本堂の再建を担当した奈良県技師の岸熊吉らの設計により、教祖殿改築と南礼拝殿増設の建設がすすめられました。

1934(昭和9)年に工事が完了し、この時から南側の正面性が強い現在の姿になります。

その後、1984(昭和59)年には東西の礼拝殿が完成しますが、こちらは戦後定められた消防法の規定により、木造での建設は許可されず鉄骨鉄筋コンクリート耐火構造の建築となっています。

こうして70年余りにわたる増築で、現在の巨大な木造空間が完成しました。

 

四方から神殿を礼拝するという空間は、日本の宗教空間としては独特な様式ですね。

本部の神殿は年中無休、24時間受付不要で信者でなくても拝観可能(無料)。

なかなか信者でないと中に入るのは敷居が高いかと思いますが(笑)

ちなみに筆者は両親も含めて天理教の信者ではないのですが、小学生の時「こどもおぢばがえり」に参加したことがあり、その時中に入りました。

でも、回廊を通った時に「大きな廊下やなあ」と感じたこと以外、記憶がぼんやりしていてあまり覚えていません(苦笑)

仏教とも神道とも違う独特の宗教空間で、訪れるたびにその巨大さに毎度圧倒されます。

参考文献

『天理市史』 天理市史編纂委員会 編

『津市史 第1巻』 梅原三千 著 [他]

『奈良百年』 毎日新聞社

『御存命の頃』 高野友治 著

遊郭・遊所研究データベース

『新宗教の空間、その理念と実践』 五十嵐太郎 [著]

 

上街道の散策スポット

■古代官道が交差する市場町・櫟本の散策記事です。

■戦国期に史料上頻出しながら所在地が特定されていない幻の城郭・井戸城の紹介記事です。

 

次回はこちら。