飛鳥時代に奈良盆地を南北に結ぶ官道として整備された道のうち、最も東に通され現在の奈良市と桜井市を結んだ上ツ道は、中世以降も上街道として大和の主要な南北幹線道として機能し、沿線には多くの宿場や市そして城郭が築かれたため、名所や旧跡が集まるエリアです。
当ブログでは上街道沿いの旧跡をこれまで8回ご紹介してきましたが、前回まで櫟本以南の天理市内エリアを中心に散策してきました。
※前回の記事はこちらです。
今回からは天理市から少し北に移動し、奈良市南郊のJR帯解駅周辺をしばらくご紹介していこうと考えています。
帯解周辺の散策スポットと言えば、安産祈願で有名な帯解寺が真っ先に挙げられるかと思いますが、中世大和を中心に紹介している当ブログとしては、帯解近辺で是非ともご紹介したいスポットが、中世城郭の今市城です。
今市城は、知名度は決して高いとは言えませんが、中世大和の南都・奈良をめぐる争いで常に勝敗のカギを握った要地であり、大和の戦国史を語るとき事あるごとにその名が現れる重要な城郭でした。
また、奈良市内の市街地にある中世平城では珍しく遺構も残っている城郭なのです。
今市城の概略
今市城の場所はこちら。
JR帯解駅から西へ200mほどの場所になります。
「今市」の地名由来は、858(天安2)年、同地に帯解寺が建立され、参詣者を始め多くの人が集住して市を立てたことが始まりとも伝わります(『帯解町郷土史』)が、判然としません。
今市から東北にある「古市(現奈良市古市町)」と対になっているとの説(『日本地名事典 第2巻』)も見ましたが、古市かつての福島市で、鎌倉時代に現在の奈良市南市町に市場が移転された際に「古市」となったと考えられるので、これは違うと考えました。
また、今市から北西にあった「辰市(たつのいち)」は奈良時代に平城京の東市があった場所で、平安時代は市が立って賑わっていたことが『枕草子』の記述でわかっており、中世以降に上街道沿いの帯解寺門前として栄えた当地が、辰市に対して「今市」と呼ばれるようになったのかもしれません。
中世には興福寺一乗院の荘園・郡殿庄が置かれた地で、一乗院衆徒の今市氏が居館を置きました。
さて、今市城は中世に北和、とりわけ南都・奈良ににらみを利かせる要地として、大和の覇権を狙う勢力が拠点を置きました。
今市城が要地となった理由は、なんと言ってもその立地にあります。
今市城は奈良盆地を南北に貫く上街道と、中街道、下街道と接続して東山中の五ヶ谷から福住を経由し、笠間峠を越えて伊賀名張に至る五ヶ谷街道との結節点にあり、北和の主要城郭と奈良へ常ににらみを利かせる位置にありました。
この立地に最初に目を付けたのが、応仁の乱後に畠山義就軍の主力として筒井氏、箸尾氏、十市氏らを大和から駆逐した越智家栄です。
越智氏は現在の高取町を本拠とした大和南部の国人で、追放した筒井氏一党から奪った北和地域を支配するための拠点として、今市を選びました。
1478(文明10)年、越智家栄は今市氏の居館を大規模改修して城郭化すると、家臣の堤栄重を代官として置き、伊賀衆100人を傭兵として入城させました(『大乗院寺社雑事記』文明十年八月三日条)。
以後、今市城は堤氏が代官・城主を務め、越智氏の北和における支配拠点となり、1481(文明13)年7月には反撃を試みた筒井勢に対し、堤栄重は古市氏と連携して今市城から打って出て、筒井勢を撃退しています。
しかし1504(永正元)年9月、15世紀末から越智氏に対して反転攻勢をかける筒井順賢により今市城は落城。
以後は筒井氏の支配下に入り、東山中と奈良盆地内の各所を結ぶ戦略上の要地となりました。
1520(永正17)年6月には、両細川の乱(細川高国と細川澄元・晴元父子の細川京兆家家督争い)に連動した筒井順興と古市公胤の奈良を巡る大規模戦闘で、筒井氏部将の中坊美作が今市城に入り、奈良に籠る古市方を攻撃する拠点として利用されています。(『祐雄記抄、続南行雑録』)
その後1529(享禄2)年4月の柳本賢治による大和侵攻では、今市城は筒井順興を撃破した賢治に奪われその陣所となりますが、翌年に柳本賢治は戦死した為、筒井氏支配に復帰したと見られています。
そして戦国末期の筒井順慶と松永久秀の抗争では今市城は両勢力がぶつかる最前線の城となり、1565(永禄9)年3月には筒井氏の反攻に頭を悩ませた松永久通(久秀の嫡男)が、今市城の破却に出発したという記事が『多聞院日記』に残されています。
当時、本拠筒井城を奪われ東山中の椿尾上城を反撃拠点としていた順慶に、今市城が南都攻略の陣城・橋頭保として利用されることを久秀が恐れたことを示す記述ですね。
その後、軍事的記述の中で今市の名は、1572(元亀3)年11月に多聞山城から打って出た松永方の兵により今市が焼き討ちを受け、反撃した筒井方の兵により撃退されたとの記事(『多聞院日記』元亀三年十一月二十二日条)を最後に姿を消しました。
廃城時期は不明ですが、遅くとも1580(天正8)年に織田信長の命により大和一国にある郡山城以外のすべての城が破却された時までには、城郭としての機能は失われたものと考えられます。
下図は現在の今市城周辺の航空写真に、城域を書き込んだものです。
今市台地の西端に築かれ、五ヶ谷街道が東西を貫く小字・城ノ内一帯が城跡で、おおよそ東西250m、南北80mという長方形の城域は、現在遺構を確認できる奈良県内の中世平城としては筒井城と並んで最大規模の城郭です。
現地案内板によると、北側の青い破線で囲んだエリアも台地の縁にあたり、外郭があった可能性があると推定されています。
遺構として残存しているのは、南側の堀を拡張して近世に築かれた蒲池と集落西側に残る小さな池で、往時は四方を水堀が囲み、城内も『奈良市史』によれば4本、『日本城郭大系』によれば3本の堀で分断され、いくつかの曲輪が連立する城郭でした。
ちなみに現在蒲池から北側に向かって2本切り込まれている箇所が、城内を分断した堀のうち西側2本の堀の痕跡になります。
現在の今市城跡周辺
それでは現在の今市城の様子をご紹介します。
こちらは今市城の南堀を拡張して築造された蒲池。
南側から、かつての城側の姿です。
城跡は現在ほとんどが住宅街と化しています。
蒲池は今市台地の南西端にあたり、地形的には谷間となっているので、堤を築いて南堀を拡張し、農業用のため池として活用されたのでしょう。
集落の環濠や水堀が溜池化される例は、水に乏しかった奈良県内では珍しくなく、田原本町の保津環濠などは、近世灌漑用水として濠が温存されました。
蒲池の北西部に突き出ている区画が曲輪の跡。
2本の枝堀が池の切れ込みとして一部残っていて、現在もっとも城跡らしい佇まいの場所です。
西側にある神社の境内から曲輪西側の堀跡を間近から見ることができます。
曲輪の周囲を囲んでいた土塁と竹藪が西側の一部に残っていました。
大和の中世平城の往時の姿をよくとどめている場所かと思います。
かつての枝堀跡がもっとも良好に残っている場所で、今市城の旧城域では城跡感が最も感じられる場所になっていました。
集落中央を通る五ヶ谷街道側から見ると下記のような感じです。※撮った写真が残念ながらピンボケしてしまったのでGoogleマップをひとまず貼り付けておきます。
現在五ヶ谷街道より北側の堀は埋め立てられていますが、道路の起伏を観察するとガードレールの付近とリサイクルショップのある敷地の奥側が低くなっており、かつて堀があった痕跡が今も地形に残ります。
城域の西端で五ヶ谷街道の北側には、堀跡の池が残されていました。
今市城北側の小字・外堀は、20世紀末ごろまでは原形をとどめた長い水堀が残っていましたが、現在は埋め立てられて遊歩道となっています。
遊歩道の片隅に、当地が今市城の外堀跡であったことを記す案内板が設置されていました。
ちなみに当地が今市城の城跡であることを示す案内板、石碑の類は、この案内板だけです。
案内板に堀の北側も外郭の可能性ありとの記述が見えましたが、『日本城郭大系』にも同様の記載があったので、こちらから取られたのかなと思われます。
『日本城郭大系』で今市城について執筆されているのは、城郭研究の大家・村田修三さんで、村田さんは後年『奈良市史』でも今市城について記述されていますが、こちらでは城郭北側の外郭については触れておられません。
おそらく自治体史という性質上、確実な研究成果に基づかない推測として、村田さんは外されたのかと思われます。
東西200mほどの遊歩道が続きます。
しかし、もともと城郭の水堀であったことは微かに道筋から感じ取れるかな?という現在の印象で、近年まで残っていた貴重な中世以来の水堀が完全に失われてしまったというのは寂しい限りです。
費用的も労力的にも維持は大変なのですが、例えば南郷環濠のように堀の一部を残して親水公園的な整備の在り方もあったのではないかなとも思ってしまいました。
全ての城跡を文化財として保存することは不可能なんですが、地元の魅力を発信するツールとしての遺跡や遺構の活用という点で、やはり奈良市の文化財行政は古代史偏重で中世遺構について関心が低すぎると、今市城でも強く感じてしまいました。
奇跡的に残存した遺構の価値を、しっかりと評価することもなく消失させてしまうのは、文化的にも地域振興的にも勿体ないことなので、少しでも中世遺構に対する関心が高まってくれればと思います。
次回は帯解寺など上街道、五ヶ谷街道沿いのスポットを巡ります。
参考文献