大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8)

奈良県は中世以来の環濠集落が多く残っていることで有名ですが、その多くは平野部の低地に集落の四方を濠と土塁で囲んで形成されています。

しかし奈良県天理市にある萱生環濠集落竹之内環濠集落は、山麓の高台に形成された県内でも珍しい環濠集落。

前回は、集落周辺の古墳を巧みに活用した萱生環濠集落をご紹介しました。

今回は萱生環濠から北に1kmほどの場所にある竹之内環濠を巡ります。

竹之内環濠の場所はこちら。

竹之内環濠は、標高100m、麓の国道169号線付近からの比高も30mという高地に立地する、奈良県内で最も高い場所にある環濠集落です。

竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成)

濠の一部や環濠集落に特徴的な路地や土塁跡など、中世環濠集落の姿を残す町並みが残っており、戦国期には城郭としても機能した集落は、大和戦国史のターニングポイントとなる合戦の舞台ともなりました。

環濠散策をより楽しめる集落の歴史やスポットをご紹介します。

 

山の辺の道(萱生~竹之内)

さて、山の辺の道の萱生から竹之内の区間は、奈良盆地を見下ろす台地の縁を通るため、非常に眺めがよいエリアです。

そこで、竹之内環濠をご紹介する前に、萱生から竹之内に至る山の辺の道の様子を、ご紹介させていただきます。

 

萱生環濠から北へ向かってすぐの場所にあるのが、こちらの船渡地蔵(ふなとじぞう)。

言い伝えによると、昔竹之内と萱生両村で池を掘っているときに出土した地蔵で、寺院に移そうとすると運んだ村人たちの足腰がひどく痛みだしたので、地蔵様の祟りと畏れて移動させるのを諦め、見晴らしのよい当地に懇ろに祀ったところ、村人たちの足腰痛は治まったとのこと。

以後、足腰痛にご利益のあるお地蔵様として信仰されているそうです。

祟る力と癒す力は表裏一体で、ご利益を授ける力を持つ神仏は粗略に扱うと恐ろしい祟り神となり、懇ろに扱うと苦しむ人々を救ってくれるという古来からの日本人の神仏観が伝わるお話ですね。

 

舩渡地蔵のすぐ北隣には、山の辺の道散策を楽しむ方々のために公衆トイレが設置されていました。

町歩きや古道散策を楽しむものとしては、とてもありがたい設備です。

 

西に目を向けると、波多子塚古墳の先に奈良盆地が広がります。

遠く生駒山まで一望出来て、抜群の解放感。

まもなく竹之内環濠という場所に、一面の菜の花畑がありました。

北西から南西にかけて生駒山信貴山二上山葛城山金剛山と菜の花畑越しに大パノラマが広がります。

なかなかの絶景スポットですね。

 

菜の花畑から5分足らずで、竹之内町の共同集荷場前に到着。

通りを挟んで向かい(写真左側)には竹之内町の集会所もあり、現在は集落の表玄関的な場所になっています。

竹之内環濠

竹之内環濠集落の概略

さて、竹之内という地名は、天理市のホームページによると、文字通り「竹」に囲まれた内側の集落という意味で、集落が濠と竹の繁った土塁に囲まれていたことから名づけられました。

濠の内側に盛土して土塁を築き、土塁を竹薮にして敵の侵入や弓矢、投石による飛び道具からの攻撃を防ぐのは、中世の環濠や城郭では一般的な構造です。

豊臣秀吉が築いた京都の洛中を囲む御土居は竹が植えられていましたし、奈良県内でも郡山城の外堀土塁は竹薮で覆われ、郡山の土塁は八幡神社周辺に往時の姿をとどめて現存しています。

ちなみに、堀端の土塁の竹薮は水辺が近いことからタヌキやキツネの格好の住処で、近世以降に町の周辺部でタヌキやキツネに「化かされた」という怪異譚が多く伝わるのは、土塁の竹藪に多くのタヌキやキツネが生息していたからでしょう。

 

下図は現在の竹之内環濠の航空写真に、集落内の小字名や施設、路地、環濠を書き込んだものです。

竹之内環濠略図(国土地理院HPより作成)

赤の実線が路地で、青の実線で囲んだ範囲が集落西の公園前に掲示された集落地図で示されていた環濠エリアです。

集落南側の青の破線で囲んだエリアは、今回私が集落内を実際に散策して土地の高低や路地の道筋から曲輪等の存在を感じられた場所になります。

上掲の地図からも一目瞭然ですが、集落内の通路は丁字路やクランク等の遠見遮断と行き止まりが多用され、集落を一直線に貫通する通路が全くない中世環濠集落の典型的特徴を色濃く残した集落です。

 

竹之内の史料上の初見は、南北朝時代の1347(貞和3)年で興福寺造営料の反米負担の算用状の中に「乙木竹内庄」の名があり、萱生環濠と同様に鎌倉時代に成立した荘園と見られます。

以後、「乙木竹内」の名で史料上散見されるようになり、中世は興福寺大乗院領でした。

領主の乙木竹内(竹内)氏は興福寺大乗院に属して備前庄(現天理市備前町)の下司職にあったことが分かっています(興福寺大乗院文書『享徳二年大乗院御霊段銭引付』)。

係争地としてしばしば史料上にもその名が見え、応仁の乱では1471(文明3)年閏8月に東軍として参戦した十市遠清の攻撃を受け、乙木竹内氏は逃亡、或いは十市氏に降参しました(『大乗院寺社雑事記』)。

その後、乙木竹内氏は筒井氏の与党として活動したようで、1497(明応6)年に、応仁の乱後に没落した筒井氏が、河内の畠山尚順に呼応して越智、古市に反転攻勢を仕掛けた際に、筒井氏に与した国人の中に乙木竹内の名が見えます(『尋尊大僧正記』明応六年十月一日条)。

 

1546(天文15)年8月には、奈良盆地北部をほぼ平定した筒井順昭に対し、十市遠勝は父・遠忠以来の筒井氏との同盟を破棄して、竹之内へと攻め込みました(『多聞院日記』天文十五年八月二十一日条)。

このとき、『多聞院日記』には「竹内城」と記載され、集落が城郭化されていたことをにおわせます。

十市遠勝は竹内城を攻略できず敗退し、その後、順昭の圧迫によって本拠・龍王山城を放棄して吉野へと逃亡してしまいます。

この竹内城の戦いを皮切りに、順昭は遠勝を追うように南和へ侵攻し、9月には南北朝時代以来の宿敵である越智氏の本拠・越智郷に攻め入りました。

そして10月に貝吹山城を陥落させると、筒井順昭は史上初めて大和の武力統一を成し遂げるのです。

竹内城の戦いは、戦国末期の悲劇的な十市氏の没落と、筒井順昭の大和統一戦における最終局面の端緒であり、竹之内は大和戦国史のターニングポイントとなった場所と言えるでしょう。

 

江戸時代に入ると竹之内は大部分が天領となりますが、一部は柳生宗矩の領地となり明治維新まで相給の村として続きました。

 

現存の環濠周辺

それではいよいよ現在の環濠集落の様子をご紹介していきます。

まずは現存する環濠周辺を散策します。

国土地理院HPより作成

集荷場前には地域の集会所や山の辺の道散策の方々が利用できるトイレ、公園、ごみ収集場が整備されています。

こちらは元々濠跡で、濠の姿は1960~69年の航空写真では確認され、74~78年には消失していることから、70年代前半までに埋め立てられたものと思われます。

 

公衆トイレの前には竹之内環濠の案内板が設置されていました。


濠跡の公園から北側に現存する環濠。

冬場でも水量が多く大変美しい水堀です。

 

濠端から西を見ると、生駒山まで視界が開けて、眺望良好。

今まで訪れた環濠集落の中でもピカイチの素晴らしい眺めでした。

 

残存している環濠は2つあり、濠の間には土橋がかかっています。

土橋から西側の小字は「西口」という名で、近世以前からの出入り口であったと考えられます。

土橋から北側の濠は周りに草木が茂っているので、より往時の姿に近い姿になっています。

集落を囲んだ濠のうち、西側だけが近世以降も溜池として残され、今も現役の灌漑用水として活用されています。

環濠は低湿地にあった場合は農業用水以外に、洪水対策用に残されている場合もありますが竹之内のような高所の集落は洪水のリスクはありませんので、100%灌漑用水


環濠集落北側(北垣内)

集落名の由来ともなっている土塁の竹薮が残っているのが集落北側の北垣内エリアで、下図の緑で塗りつぶした場所が竹藪になります。

国土地理院HPより作成

濠に挟まれた土橋から続く集落内の路地を東に向かって進みます。

路地は途中で北に折れますが、西側に土塁跡と竹藪が続きます。

生い茂った竹薮の中は素早く突破することが難しく、弓矢も通しません。

さらに竹は耐火性にも優れていて成長も早く、重火器のなかった中世において鉄壁の城壁を築くにはもってこいの植物でした。

 

少し離れた場所から見た土塁の竹藪。

この高さなら重火器がないと、外から内側を直接攻撃することは不可能ですね。

反面、内側からも敵の様子は見えづらく、櫓台など立てないと外へ反撃することは難しそうです。

戦国末期に現れる枡形や馬出のように強力に反撃するような攻防一体の備えではなく、あくまで外からの直接攻撃を防ぎ、敵の侵入ルートを限定してコントロールするための構造物なのです。

 

東側にも北垣内の東西を中央で分けるように竹薮があります。

竹藪の東側は堀状になっていました。

後世の改変か城郭遺構かはちょっとわかりません。

 

中垣内

さて、共同集荷場の方まで戻り、集荷場の前の路地を東に向かって進みます。

公園前の掲示板案内図によると、南側の濠があったという道で、小字・中垣内を抜けて奥垣内へと通じています。

国土地理院HPより作成

竹之内の会所寺・宝伝寺の本堂裏側が見えてきました。

交差点を南(写真右)へ曲がると宝伝寺を中心とした小字・登り垣内を経て集落の南口に至ります。

この交差点から東側は土地の高さが急に上がり、上り坂になっていますが、堀を埋めて盛り土し、スロープにしたのかもしれません。

 

宝伝寺境内の東端で通路は北側へ直角に折れ、20mほど進むと再び東へ折れます。

通路の西(写真左)側は東側より1.5mほど低くなっており、集落は東に行くほど文字通り「段々」と高くなっていきます。

 

中垣内を東に進む通路は、逆コの字型にクランクしており、典型的な遠見遮断(武者隠し)となっています。

奥垣内~集落東側

中垣内から東に進み、再び南に通路が折れるあたりの東側からが奥垣内です。

国土地理院HPより作成

写真の右(北)側は現在駐車スペースになっていますが、もともと建物があったと思われます。

南垣内からの路地との合流点。

南垣内側から奥垣内に入ってくる通路も大きくクランクしており、集落の案内板では南垣内は環濠の外とされていましたが、戦国末期には南側に環濠も拡張され、枡形を構成していたのではと感じる地形になっていました。

奥垣内の北側と北垣内の東側は、環濠内では最も標高の高い場所になっており、現在は大部分が畑地となっていることから、奈良県内の他の環濠集落の例に倣うと、領主居館や城郭の主郭があった可能性が高いと思われます。

そうであれば、上掲の写真付近が城郭の大手に相当するエリアになります。

 

環濠の東端部に藪がありました。

現在は農地となって地形が大きく改変されていることもあってか、尾根を遮断するような堀切の痕跡は全く見つけることができませんでした。

 

東側から現在は集落内を見下ろすことができます。

堀切や土塁の痕跡はなく、このままだと東側から攻撃すれば集落内が丸見えで、容易に弓矢で攻撃を加えられそうですね。

おそらく往時は北側も高い竹藪に囲まれ、飛び道具による攻撃を無力化していたのでしょう。

 

登り垣内

さて、再び共同集荷場の前まで戻ってきました。

共同集荷場から南側は集落の案内板には環濠のエリア外となっていましたが、東(写真左)側の集落と西側の畑の間に高い段差があることが分かります。

後世に地形が改変されてしまい、正確なところは分かりにくいですが、宝伝寺を含む登り垣内と南垣内の一部も、竹藪で覆われた環濠の内側だったのではないかと思われました。

国土地理院HPより作成

集落の南西口に建つ大神宮の常夜灯には江戸末期・文化九年(1812年)の銘があります。

萱生環濠にもありましたが、奈良県内で伊勢に通ずる街道沿いの江戸時代以前からある集落では、必ず見かけます。

 

宝伝寺南側の通路を東に進むと、大きな桜の木の下に日露戦争戦没者を追悼する日露戦没碑が立っていました。

現在の集落のほぼ中央にある場所で、集落の通路が集まるポイントに建立されています。

石碑の西(上掲写真左)側の通路は、クランクしながら奥垣内に通じる比較的大きな道で、先述のとおり竹内城の大手だったのではないかと思われます。

集落全体から感じるのは、案内板の中世環濠の範囲とされる北垣内、中垣内、奥垣内の通路は、行き止まりなどは設けられていますが、全般的に複雑な折れなどはあまり見られません。

しかし集落南側の登り垣内、南垣内、辰巳垣内については、丁字路やクランクが組み合わせられた複雑な通路となっていることから、中世は奥垣内、北垣内付近にあった領主居館を中心に環濠が発生し、戦国時代から近世にかけ戦乱の激化に伴い、通路の「折れ」や枡形構造を取り入れながら集落が南側へ拡張されていったと考えられられそうです。

宝伝寺

集落中央に位置する寺院が融通念仏宗宝伝寺です。

本堂には本尊の阿弥陀如来坐像と地蔵菩薩立像が安置され、写真左側の薬師堂には1711(宝永8)年の墨書のある薬師如来像が祀られています。

開基の年代は不明ですが、寛政年間に河内国富田林にある浄谷寺の僧・章山が当地に移り住み、1798(寛政10)年に再建・中興したと寺伝に記載され、明治維新まで毎年6月24日の地蔵会には近隣から多くの参詣者が集まったそうです。

 

本堂正面の無縁塔婆は一時石垣として使われていた墓石や石仏、板碑を憐れんだ郷民が、当寺に移動させて築きなおし、祀ったものとのこと。

また、無縁塔婆から西(向かって右)側には牛頭天王の小さな祠が祀られていますが、もともと北垣内の藪の中に祀られていたものを1805(文化2)年に当時へ遷宮したと伝わります。

 

さらに無縁塔婆の東側には「大演習」とうっすら見える石碑がひっそりと立っていました。

おそらく1932(昭和7)年に行われた陸軍特別大演習の記念碑と思われます。

特別大演習とは年に一回、大元帥である天皇が参加する大規模演習で、戦前は各県持ち回りでほぼ年中行事のように行われており、この時も昭和天皇丹波市(現在の天理市中心部)に行幸したことから、記念碑として作成されたものでしょう。

今ならさしずめ国民スポーツ大会の記念碑などと同じ感覚のものかもしれませんね。

 

境内の会所裏にも、当時を中興した章山の供養塔を中心に無数の墓石や名号碑が並びます。

上掲写真右端の六字名号碑は1559(永禄2)年2月の銘がありました。

ちなみに、この年は8月に松永久秀が大和侵攻を開始した年にあたります。

 

最後に、宝伝寺の注目ポイントの一つが土塀の鬼瓦

柳生氏・柳生笠(二階笠)の家紋が刻まれており、竹之内の一部が柳生宗矩を藩祖とする柳生氏の領地だったことを示すものです。

柳生笠紋には二枚の笠の位置が縦置き、横置きの二種類がありますが、こちらは縦置き型。

元は江戸時代の初め、千姫事件で自害した津和野城主・坂崎直盛宇喜多直家の甥、秀家の従兄弟)の紋で、親交のあった柳生宗矩の説得で直盛が反乱を思いとどまり自害した際に、宗矩の説得に感謝した直盛から送られたとも、直盛の供養のため宗矩が家紋としたとも伝わります。

大和柳生藩の記録『玉栄拾遺』にも「二階笠 元坂崎家家紋、元和二年拝領」とあり、坂崎氏由来の家紋であることは間違いなさそうです。

 

竹之内環濠は、現存する環濠と環濠越しに見える奈良盆地の眺望のすばらしさは勿論のこと、遠見遮断の丁字路やクランクが多用された狭く路地や土塁と竹藪など、奈良県の中世環濠の特徴をほぼすべて備えた環濠集落でした。

 

山の辺の道散策の折には、是非立ち寄ってみてください。

 

参考文献

多聞院日記 第1巻』英俊

『大乗院寺社雑事記 第5巻』

『大和国若槻庄史料 第1巻』辺澄夫、 喜多芳之 編

『天理市史 上巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『史料柳生新陰流 上巻 玉栄拾遺(一)』今村嘉雄 編