奈良県生駒市北部は、1980年代後半から学研都市として学術研究施設の建設や宅地開発が盛んな地域で、近年は近鉄けいはんな線の延伸で交通アクセスの利便性が大幅に上昇したことから、都会の高い利便性と自然豊かな田舎の暮らしを両立できる「トカイナカ」として注目されているエリアです。
1957(昭和32)年に生駒町(現生駒市)へ編入されるまでは北倭村だった地域で、江戸時代までは現在生駒市中心街のある生駒町地域が平群郡だったのに対して、富雄川沿いの生駒市北部は奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡に属し、同じ生駒市でも全く異なる歴史定背景や地域性を持っています。
この生駒市北部に、北和の有力国人・鷹山氏が築いた中世城郭・高山城があります。
鷹山氏は生駒市北部を中心に勢力を伸ばした国人領主で、河内、山城との国境地帯に領地を有した関係から、他の大和国人とは一線を画す活動を見せ、近年畿内の戦国史研究が盛んになる中、畿内中央の政治史に深く関わったことから注目度が高くなっている大和国人です。
今回は鷹山氏の活動と、同氏が築いた高山城の現在の様子をご紹介します。
高山城と鷹山氏
高山城について
高山城の場所はこちら。
奈良県、大阪府府県境のほど近く、キャンプ場として地元では有名なくろんど池のすぐ南側にあります。
下図は北和周辺の主な戦国期の城郭と当時の街道(紫線)で、高山城は大和国の城郭の中では最北端にあり、傍示峠を越えて河内交野に通じる平安時代以来の街道(傍示越)沿いに築城されました。
地図で見ると主要な城郭の多くが、街道沿いの要地に配されていることがよく分かりますね。
高山城の正確な築城年は不明ですが、文献上の初出は1498(明応7)年の『尋尊大僧正記』八月六日条で「古市ハ高山城ニ在之。」とあります。
この記事の前年、1497(明応6)年は応仁の乱終結の1477(文明9)年以来続いた大和における古市氏、越智氏の優位が崩れた年で、筒井順賢に百毫寺の戦い(1497年11月)で大敗を喫した古市澄胤は、本拠の古市を失陥して当時逃亡の身でした。
『尋尊大僧正記』の記事の時は、縁戚で同盟者の鷹山氏を頼って高山城を拠点とし、筒井方の宝来衆、秋篠衆と激しく争って、竹林寺(現生駒市)をはじめとして各所が焼かれたと記載されています。
※この時代の大和の歴史については下記記事で詳しくご紹介しています。
1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻では、鷹山庄は久秀によって焼き討ちに遭っていますが、高山城が合戦の舞台となったかは不明で、確かな文献で高山城が登場するのは、管見では『尋尊大僧正記』の1498年の記述だけのようです。
廃城時期も不明ですが、遅くとも1580(天正8)年に織田信長の命で行われた大和国内の城割(郡山城以外の全城郭を破却)の時には廃城になった思われます。
国境の国人・鷹山氏
高山城を築城した鷹山氏は、多田源氏・源頼光の後裔を称し、家伝や『法楽寺縁起』によると鎌倉時代に大和国鷹山庄(現生駒市高山町)に移住してきたとされます。
史料上その名が最初に見えるのは『大乗院日記日録』文安元年(1444)六月十三日条に「高山奥」の名が見え、これは一乗院方の官符衆徒・鷹山奥頼弘を指していると見られます。
記事の内容は嘉吉の変後に復権を果たした河内守護・畠山持国が鷹山氏を攻めたが、筒井氏と結んだ鷹山氏の反撃を受けて敗退したというもので、幕府重臣の軍勢を打ち破れるほどの武力を有した鷹山奥頼弘に、後の鷹山氏隆盛の片鱗を見えますね。
鷹山庄の荘官(下司職)として活動していた鷹山氏が、大和国人の中で存在感を高めたのは応仁の乱で、越智氏、古市氏とともに西軍の畠山義就に従い、大和国内で東軍の筒井党と激しく争いました。
応仁の乱は東軍勝利に終わったものの、畠山義就は河内国と大和国でライバルの畠山政長を圧倒し、義就に与した鷹山氏は越智氏、古市氏とともに大和国内で大きく勢力を伸ばします。
その後、15世紀末に筒井氏が勢力を挽回して越智氏、古市氏は没落しましたが、鷹山氏は勢力を維持し、奈良盆地の大和国衆とは一線を画して幕府管領の細川氏(京兆家)や畠山氏の被官として独自の活動を行いました。
東山内の柳生氏や宇陀郡の秋山氏が、ともに春日社国民でありながら柳生氏は伊賀守護・仁木氏、秋山氏が伊勢国司・北畠氏と隣接する他国の有力勢力と深い関係を築き、時に被官となって活動したのと同様の動きで、国境の大和国人に特徴的な行動を鷹山氏も取ったのです。
鷹山氏の最盛期は天文(1532~55年)年間に活躍した鷹山弘頼が当主の時代です。
畠山尾州家(政長流)の被官となっていた弘頼は、1536(天文5)年に木沢長政の指揮下で摂津中嶋城(現大阪市淀川区十三)に籠城する一向一揆軍の攻撃に参加したのが文献上の初見で、このとき大きな武功を立てて管領・細川晴元から感状を受けています。
1541(天文10)年に木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、弘頼は晴元の依頼を受けて長政に与同する動きを見せた山城上三郡国衆を抑え、翌年の太平寺の戦いでは畠山尾州家の重臣・遊佐長教率いる畠山軍に加わって、三好勢を主力とする細川軍とともに木沢長政と戦い、勝利に貢献するなど、戦国畿内の中枢で活躍しました。
太平寺の戦い前後から弘頼は遊佐長教の被官となったようで、以後同じ大和出身の安見宗房とともに長教の下で活躍し、河内、摂津を転戦。1546(天文15)年には宗房と共に山城上三郡の半国守護代に任じられました。
さらに弘頼は長教から和泉国深井庄や摂津闕郡(現大阪市浪速区付近)内の関所を宛がわれるなど、畠山家中でも有力者となります。
しかし、1551(天文20)年に遊佐長教が暗殺されると畠山家中で内紛が勃発し、安見宗房との政争に敗れた弘頼は1553(天文22)年に高屋城(現大阪府羽曳野市古市)で自害に追い込まれました。
1559(永禄2)年から始まる松永久秀の大和侵攻後、鷹山氏は1568(永禄11)年に鷹山藤寿が反松永派の篠原長房から河内国交野に領地を与えられる一方で、1571(元亀2)年には鷹山藤逸が松永久秀に与するなど家中が分裂したと見られ、対外的には往時の勢威は鳴りを潜めます。
そして筒井順慶が1576(天正4)年に大和守護となり、翌年に松永久秀が滅亡すると筒井氏への従属が強まったと見られます。
1580(天正8)年に鷹山宗家の嫡流断絶に伴い、鷹山氏の血縁で筒井氏とも血縁のある鷹山頼一が窪庄氏から養子に迎えられると、完全に鷹山氏は筒井氏被官となり、1585(天正13)年に筒井氏の伊賀転封に頼一も従って伊賀へ移住し、ついに中世以来の領地だった高山の地を離れました。
その後、頼一は筒井氏改易後は旧縁を頼って島原に加増転封された松倉氏に仕えました。
一方、頼一の子、鷹山頼茂は筒井氏改易後は高山の地にいたようで、1614(慶長19)年から始まる大坂の陣では、母方の祖父でかつて北田原城主だった坂上尊忠とともに大坂城へ入城します。
翌1615(慶長20)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、頼一は逃亡して高山に隠棲しますが、その後許されて美作国津山の森忠広や丹後国宮津の京極高広に仕えました。
しかし1650(慶安3)年には京極家も去って奈良に移り住み、剃髪して自省と号して1686(貞享3)年に85歳で亡くなるまで奈良で余生を過ごしました。
東大寺再興に生涯をかけた公慶上人
さて、鷹山氏出身の人物として最も著名な人物が、頼茂の第七子として丹後国宮津で生まれた公慶です。
3歳で父に連れられ宮津から奈良に移った公慶は、1660(万治3)年に出家して東大寺大喜院に入寺します。
当時13歳の少年だった公慶が、入寺後まもなく大雨の中で目の当たりにしたのが、1567(永禄10)年に松永久秀と三好三人衆、筒井順慶の戦いで大仏殿が全焼し、野ざらしで雨に打たれる大仏の無残な姿でした。
この光景に衝撃を受けた公慶は、永禄の兵火で頭部が溶け落ちた後、簡易的な補修しかされていなかった大仏の修理と焼失した大仏殿再建を心に決め、その生涯を捧げることになります。
出家から24年後の1684(貞享元)年に公慶は幕府の許可を得て全国勧進を開始。8年後の1692(元禄5)年に、まず大仏の修理を完成させ開眼供養にこぎつけます。
この公慶の功績を将軍・徳川綱吉も高く評価し、幕府の後援を得た東大寺再建事業はついに大仏殿再建に移りました。
しかし、17世紀初頭の京都方広寺大仏殿再建や全国的な築城ラッシュで巨大な柱や梁に使える巨大な木材が枯渇し、大仏殿再建用の建材確保は困難を極めます。
公慶は不屈の精神で全国で建材探しに奔走し、長さ13間という巨大な虹梁に用いる大木をようやく確保し、1705(宝永2)年についに上棟までこぎつけました。
しかし、同年公慶は長年の無理が祟ったのか江戸で客死し、遺骸は奈良に戻されて鎌倉時代に大仏殿を復興した重源が開いた五劫院に葬られました。享年58。
そして、公慶の死から4年後の1709(宝永6)年に再建成った東大寺大仏殿は落慶の日を迎えます。
現在我々が目にする東大寺大仏殿はこの時再建されたもの。
もし13歳の少年・公慶が東大寺の再建を誓わなければ、今も奈良の大仏は鎌倉の大仏同様に青空の下にあったかもしれませんね。
高山茶筅
さて、鷹山氏が本拠とした生駒市高山町は、全国シェア90%を超える茶筅の産地としても大変有名です。
高山には茶道具の茶筅は、侘茶の祖・村田珠光に依頼された連歌師の宗砌(そうぜい)が考案したという伝承があります。
伝承によれば宗砌は鷹山頼栄の次男であり、その茶筅作りの技術が鷹山氏に伝えられ、鷹山氏が高山の地を去った後も、当地に残って帰農した一族・郎党に受け継がれたとされます。
歴史上の宗砌は15世紀中頃に亡くなっており、15世紀後半に起きた応仁の乱の頃の当主・鷹山頼英の次男であるとは考え難いこともあり、伝承は史実ではないとする見方が現在支配的ですが、鷹山氏に連なる武家の子孫であることを矜持とした高山の茶筌師達の思いが伝わる伝承ですね。
現在の高山城
さて、それではいよいよ現在の高山城の様子をご紹介しましょう。
高山城は標高217mの丘陵上に築かれた山城ですが、比高は40mほどなので、登山道を利用すれば比較的軽装でも気軽に城跡にたどり着けます。
南北の尾根筋200mにわたって
元々の大手筋は城山南麓にあるようですが、大手の出入口は私有地になっているようなので、城跡の東側を通って北側へ回り込み、2006(平成18)年に整備された登山道を目指します。
城跡に駐車場はありませんので、近鉄富雄駅から生駒北スポーツセンター、庄田行の奈良交通バスに乗車し、西庄田バス停下車のルートがおすすめです。
ちなみに筆者は城跡の南側にある高山竹林園内の鷹山氏墓所を訪ねた際に、事務所の方にお許しを戴いて園内の駐車場にそのまま駐車させていただきました。
西庄田バス停~登山道入り口
西庄田バス停で下車したら東へ進み、最初の交差点を北上します。
高山溜池から流れてくる美の原川分流沿いに進みます。
左手に見える竹藪が高山城で、川沿いのガードレールには「高山城跡 直進」の看板が城跡方向に向かう橋の手前に掛けられています。
竹藪の切れ目で丘陵へ登る坂道が、登山道への目印。
こちらにも「高山城跡 直進」の看板がありますが、正解はこちらの橋を渡って西に向かいます。
丘陵を登ると登山道の入り口が見えてきます。
登山道~城跡入り口
下図は高山城縄張りの概略図です。
丘陵の山上にへの字型の主郭があり、南側の九頭竜王が祀られている小曲輪とは土橋でつながっています。
主郭の一段低い山腹には比較的広い平場があり帯曲輪となっています。
さらに南側にも曲輪があるとのことですが、道が険しく今回は足を踏み入れるのを諦めました。
竹藪の中の登山道を進みます。
2006(平成18)年に開通した登山道は城跡遺構を破壊しないよう考慮されて建造されたとのこと。
登山道に入って10分足らずで、主郭と東側の曲輪を遮断する堀切と思しき地形が見えてきます。
明確な堀切はほとんど見当たらない城で、防御施設は切岸と土塁が中心です。
「高山城再興と遊歩道開通記念碑」が見えてきました。
登山道はここから南小曲輪まで続き、急坂となっています。
主郭下の帯曲輪
登山道の途中、山腹に見えてくる平場が主郭下の帯曲輪です。
登山道は基本的に城跡遺構を避ける形で作られているので、道なりにそのまま進むと帯曲輪や主郭へは到達できません(汗)
登山道からいったん東側に外れて、帯曲輪へ進入します。
帯曲輪はきっちり削平された平場となっていて、主郭に匹敵する広さを持っています。
北側切岸の上段が主郭になります。
帯曲輪を東に進むと給水設備があり、主郭へ回り込むことができます。
主郭
給水設備の方から北西に回り込み、主郭へ入ります。
主郭東南側の曲輪は、自然地形のまま緩やかに山頂方向に上がっていく傾斜になっていました。
城郭の中心部に自然地形の傾斜がそのまま残っているというのは、なかなか珍しいかと思います。
かの城郭考古学者・千田嘉博さんも『奈良県高山城の構造』の中で「城郭としての主要部に自然地形の傾斜を残すのは奇異である。」と評されていました。
高山城は他の戦国末期の山城に見られるような竪堀、横堀の組み合わせによる複雑な縄張り等が見られない点も含めて、領主居館を含めた常設の拠点城郭というよりは、戦時の詰城を臨時的に増設し、一時的な拠点として利用していた城砦という印象を受けます。
鷹山氏の同盟者である古市澄胤が、高山城を反撃の臨時拠点とした『尋尊大僧正記』の記事とも合致する構造になっているかと思われます。
主郭中央の平場に出ると北側に土塁が見えます。
主郭南西端に大きな窪地がありました。
井戸跡かもしれませんね。
主郭南西側の曲輪は東側とは対照的にきれいに削平されていました。
真っ直ぐに南小曲輪まで細長い削平地が続きます。
南小曲輪へ続く土橋と堀切。
登山道付近から見られる光景としては、もっとも城跡らしい構造がこちらの土橋周辺かもしれません。
南小曲輪
土橋を渡って登山道に合流し、少し登ると現在登山道の終着点となる南小曲輪に到着します。
九頭竜王が祀られ、石鳥居と十三重石塔、祠が石段の上に設置されていました。
城跡一帯は、鷹山氏の後裔を称し高山で代々茶筌師の伝統を継いできた谷村氏の土地でしたが、同氏のご厚意で生駒市に寄贈されて城跡整備が進んだとのこと。
高山城跡の案内板も、こちらの曲輪にあります。
十三重石塔は1917(大正6)年に谷村氏が祖先の遺徳を偲んで建立されたようです。
上層の2層が長年の風雨でずれて倒壊の恐れがあったためか、塔の左脇に下ろされて設置されていました。
九頭神の祠は、大正末期に当地に祀られたとのこと。
もともと高山城のある庄田地区の小字・九頭神(富雄川上流地区)に祀られていた祠が、川の氾濫で高山八幡宮(一説には富雄の葛上神社)の前まで流されて八幡宮に祀られていましたが、大正末期に元々の鎮座地に近い高山城内に九頭神地区の住人たちが改めてお祀りしたのだそうです。
※下記ブログに詳しい記事がありました。
曲輪の西側縁。
かなり急峻な切岸になっています。
南側の樹木が伐採され、城跡では唯一見晴らしの良い場所です。
城下の庄田地区を見下ろすことができます。
天気の良い日には気持ち良い場所です。
※主郭と南小曲輪を紹介する動画がありましたので是非ご覧ください。
現地を訪れた印象としては、戦時に使われた中世山城段階のまま城郭としての進化は止まり、筒井氏の椿尾上城や十市氏の龍王山城のような領主居館と政庁と山城が一体化した戦国期拠点城郭には発展しなかった城郭と感じました。
『日本城郭体系』には、南へ1Kmほど離れた法楽寺付近に鷹山氏居館はあったと記載があり、正確な位置は不明ながら、高山城の麓から法楽寺にかけての山麓や突出した台地の縁に居館が置かれていたのでしょう。
円楽寺跡
高山城に登城した際に、ぜひ一緒に訪れていただきたいのが、高山竹林園内の円楽寺跡にある鷹山氏墓所です。
円楽寺は鷹山氏菩提寺で、鷹山氏が当地を去った後も存続しましたが、明治の廃仏で廃寺となり、堂宇は取り壊されました。
現在は旧寺地の片隅に鷹山氏歴代の墓地が残されています。
寺は廃寺となりましたが、鷹山氏の一族郎党を祖先とする茶筌師達によって江戸時代に組織された高山八幡宮の宮座・無足人座の方々が、現在も墓地を守っていらっしゃいます。
コの字型に鷹山氏歴代の五輪塔が並びます。
鷹山氏の最盛期を築いた弘頼の五輪塔は、意外にも他の五輪塔と比べて小さなものでした。
奈良県の戦国史の中では、筒井氏や越智氏と比べて存在感が薄い印象の鷹山氏ですが、応仁の乱以降の山城、摂津、北河内を巡る畿内中央の戦国史では、大きな存在感を見せます。
大和国内にとどまらず、南山城から河内、摂津にまで影響力をもった鷹山氏は、大和国人の中でもひときわ大きなスケールで活躍した一族だったと言えるでしょう。
参考文献
『大和古文書聚英 興福院文書 篠原長房知行宛行状』 永島福太郎 編
『大乗院寺社雑事記 第11巻 尋尊大僧正記. 10-188(自長禄2年12月至永正元年4月)』
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