奈良県生駒市北部は、都会の利便性と自然豊かな田舎暮らしを両立できる「トカイナカ」として近年注目のエリアですが、中世以来、大和、山城、河内三ヶ国の国境が交わる特殊性もあって奈良県下の他の平野部とは一線を画す、独特な歴史を育んできた地域です。
前回は中世に生駒市北部を根拠として、奈良県内だけでなく畿内の戦国史で大きな存在感を示した国人・鷹山氏と、同氏が築いた高山城を紹介しました。
高山城に続いて今回ご紹介する高山八幡宮は、室町時代に建てられた本殿の他、近世から続く宮座行事に使用される建物が残り、様々な見所が詰まったお社です。
2つの宮座が併存する非常に珍しい神社で、宮座の一つ・無足人座の由来は高山茶筌発祥の伝承や謎と深く関わりを持ちますので、高山八幡宮の歴史や境内の様子と併せて紹介します。
注)高山では茶筅を「茶筌」と表記するため、高山の茶筅や茶筅師については「高山茶筌」「茶筌師」と当記事では表記します。
高山八幡宮とは
高山八幡宮の場所はこちら。
生駒市高山町のほぼ中央に位置します。
創建年は不詳ですが、『続日本紀』に749(天平勝宝元)年12月18日の記事に「奈良東大寺に勧請する宇佐八幡神を平群郡で迎えしめた」とあります。
実際の高山は平群郡ではなく添下郡なのですが、神社の方ではこちらを創建年とされています。
また、江戸時代まで高山八幡宮の神宮寺であった法楽寺に伝わる『八幡宮神縁起』『法楽寺縁起』によると、746(天平18)年に聖武天皇の勅願で行基によって法楽寺が開創された後に、平城宮の南にあった梨原宮(現在東大寺東隣りにある手向山八幡宮の元の鎮座地)から寺院鎮守社が勧請されたとあります。
ともに当社創建の由来を示す直接の史料ではありませんが、東大寺との関係を強く示唆する由来になっていますね。
現在法楽寺に安置されている僧形八幡神像と神功皇后像は、江戸時代まで高山八幡宮に本尊として祀られていた神像で、ともに平安時代作とされることから、少なくとも千年以上の歴史を持つ古社にルーツを持つことは間違いないでしょう。
※生駒市デジタルミュージアムに僧形八幡神像と神功皇后像の写真がありましたのでリンクしておきます。
1283(弘安3)年には当社で西大寺の叡尊が高山八幡宮で菩薩戒を授けており、鎌倉時代には法楽寺と一体化した神仏習合の霊地になっていたようです。
中世には高山(当時は鷹山庄)の荘官で多田源氏の後裔を称した鷹山氏から、氏神として崇敬を受けました。
度々兵火にも巻き込まれており、1474(文明6)年には応仁の乱にともなう戦いで法楽寺共々焼き討ちに遭い、1567(永禄10)年には東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆・筒井順慶に勝利した松永久秀によって、再び焼かれました。
永禄の兵火からの復旧は消失直後から始まり、1572(元亀3)年に鷹山氏一族の鷹山藤逸によって現本殿が再建されるなど、現在の境内は戦国末期から江戸時代にかけて形成されます。
江戸時代は傍示地区を除く高山村各郷の氏神として地域祭祀の中心となって存続し、神仏混交の祭事が盛んにおこなわれました。
明治になると旧村社に指定され、神仏分離令で境内にあった神宮寺の中之坊は廃寺になり、村の祭祀儀礼から修正会(八日薬師)のような仏式行事は廃されましたが、宮座を中心とする伝統的な祭りが現在も続いており、高山八幡宮の宮座行事は生駒市指定の無形民俗文化財となっています。
境内
それでは境内に入っていきます。
富雄川沿いの旧街道に面した鳥居をくぐりると東向きの参道が70mほど続きます。
旧村社ではかなり広い部類の境内だと思います。
境内入り口北側の現在駐車場となっているスペースには、かつて神宮寺であった中之坊がありました。
江戸時代まで中之坊が社僧となって祭祀を司りましたが、明治の初めに廃寺となって境内の仏堂は全て取り壊されました。
かなり広い駐車スペースで、神社のHPによれば50台ほど駐車可能と言いますから、旧中之坊の庫裏、仏堂の規模の大きさがうかがえます。
社務所の前で参道は北に折れて手水舎を挟んで、左右二つの石段が丘陵の上に延びています。
右側の石段は、そのまま高山八幡宮の社殿へと続きます。
左側石段の先に建物はなく、基壇の跡と思しき構造物が石灯籠に囲まれて残っていました。
明治の廃仏で取り壊された仏堂の跡かと思われます。
本殿前の広場空間には、宮座の行事が行われる舞台や座小屋が建ち並んでします。
1799(寛政11)年建立の舞台では、大正の初め頃まで雨乞いや雨悦びの農耕儀礼で能楽が奉納されていました。
また、戦前までは翁講があり、講が保有する翁田の収入を財源として秋祭りのときに翁能が奉納されていましたが、戦後の農地改革で翁田が消滅すると財源を失い、まもなく翁能の奉納もなくなってしまいました。
立派な舞台だけに、余り活用されなくなってしまったのは、ちょっぴり残念ですね。
さて、高山八幡宮の大きな特徴となっているのが、神社の祭祀を主催する宮座(高山では「座」と呼ばれています)の集団が2つ併存し、別個に祭祀を行っているということです。
ひとつは江戸時代までの農民階層の人々によって構成された平座で、もうひとつは鷹山氏の旧臣をルーツとする茶筌師たちにより構成された無足人座です。
現在、平座は毎年10月に、無足人座は毎年3月に祭礼を行いますが、それぞれ交わることなく別個に祭祀を行います。
一つの神社の中に職能の違いによる複数の宮座が併存し、独立して祭祀を行っている例は極めて珍しいケースで、その特異性は各宮座の有する座小屋の配置にも表れています。
舞台を挟んで東西に並ぶ座小屋は、平座の座小屋です。
平座は江戸時代まで10座ありましたが、現在は池田座、大北座、大東座、久保座(西新座)、東座(東新座)、前田座の6座が残ります。
一方、無足人座の座小屋は拝殿西隣にあり、平座の座小屋より一段高い場所に設けられています。
無足人座を構成した茶筌師達は、旧鷹山氏家臣をルーツとしたことから領地を持たない士分(無足人)とされ、江戸時代までは座小屋を持たずに祭礼時は寺座とともに拝殿西側に座付していました。
もともと高山八幡宮には平座だけが存在していたようで、江戸時代初頭1667(寛文7)年の神社保管の文書では無足人座の名は見えません。
無足人座の名は1770(明和7)年に『神主英寿成弘之記』に初めて見え、その後も高山八幡宮所蔵の1802(享和2)年の文書に「茶筌仲間座」、それ以降の文書にも「茶筌師座」と見えることから、無足人座は17世紀後半から18世紀にかけて、平座より後発で発足したと考えてよいでしょう。
後発ながら、身分的特権によって座小屋を作らず拝殿へ座付する無足人座に対しては、身分制が揺らぎ始めた幕末には平座からの反発も生まれたようで、拝殿の西隣に無足人座の座小屋が設けられました。
平座の座小屋より一段高い、拝殿と同じ高さの場所で格上とされる西側に無足人座の座小屋が設けられたのは、座を構成した茶筌師達が寺座や村役人と同じく郷村で上位の身分階層に属していたことを表す名残と言えるでしょう。
※無足人座については、高山茶筌の歴史とも密接に関係してきますので、後ほど詳しく紹介します。
こちらが拝殿です。
1566(永禄9)年の棟札が残りますが、様式から江戸前期に再建されたものと見られています。
こちらが本殿。
1572(元亀3)年建立の檜皮葺三間社流造の美しい本殿は国の重要文化財に指定されています。
ご祭神は誉田別命(応神天皇)、足仲津彦命(仲哀天皇)、息長足比売命(神功皇后)の三柱。
2017(平成29)年から2021(令和3)年にかけて解体修理が行われ、建造当初の美しい朱塗りの本殿が蘇りました。
本殿東側には右から岩船社、住吉社、若宮社、高良社、西側には右から神倭盤余彦社、玉依姫宮、天照太神宮が境内社として並びます。
全て棟札が残っており、天照太神宮が1830(文政13)年の建立で、その他は全て1659(万治2)年と江戸初期の建築になります。
柱の間の彫刻も解体修理で彩色が塗りなおされ、往時の美しい姿がよみがえっています。
年月を経て古色蒼然とした社殿の佇まいも味わい深いですが、修理され建造当初の美しさが伝えられていくことも大事で、信仰が生き続けている事を実感させてもらえます。
無足人座の成立と高山茶筌
さて、高山の茶筌師達の宮座として知られる無足人座ですが、正確な発足年は不詳ながら、先述した高山八幡宮所蔵の文書からおおよそ17世紀後半から18世紀にかけて成立したと見られています。
構成員は鷹山氏の旧臣と伝わる人々で、15世紀に鷹山氏出身の連歌師・鷹山宗砌が侘茶の祖・村田珠光の依頼を受けて発案した茶筅作りの技術を受け継ぎ、16世紀末に鷹山氏が高山を去った後も当地に残って無足人(=領地を持たない武士)となり、江戸時代以降茶筌師として活躍したとされます。
高山茶筌が500年の歴史を持つというのは、この伝承に基づくものです。
現在、連歌師・宗砌によって茶筅が発案されたという伝承は、歴史学的には事実ではないというのが通説となっていますが、それでは実際のところ高山でいつ頃から茶筅が作られ始めたのか、高山以外の場所で残された史料を中心に辿り、無足人座の発足時期と併せて解き明かしていきたいと思います。
1554(弘治3)年に成立した茶道具の手引書『茶具備討集(ちゃぐびとうしゅう)』には茶筅の産地として最上品に「奈良茶箋」が挙げられており、続いて幡枝(はたえだ・現京都市左京区岩倉)、尾張、加賀が挙げられ、既に戦国時代には奈良が茶筅の名産地として認識されていたことが分かります。
1645(正保2)年2月に刊行された俳諧論書『毛吹草』の「名物」には「高山茶筅」とあり、遅くとも今から約400年前の江戸初期には高山茶筌は全国的にも知られる名産品となっていました。
ところで、同時期に高山とともに大和で茶筅の産地として知られたのが宝来(現奈良市宝来町)です。
宝来茶筅は京都の幡枝茶筅と共に「利休好み」とされ、17世紀末には高山茶筌を上回る人気を博したのですが、この宝来茶筅が高山茶筌のルーツであるという興味深い記事が奈良奉行所の記録である『庁中漫録』に残されています。
1683(天和3)年、奈良奉行所与力の玉井定時は、幕府若年寄・稲葉正休が河川検分で大和に入国するのに先立ち、富雄川沿いの村々を事前調査の為に訪れましたが、高山村を訪れた際に茶筅が名産となった理由を当時の高山村民から聞き取り調査していました。。
玉井が聞き取った内容によると、高山村の甚之丞という者が宝来から茶筅作りの製法を学んで村に帰って茶筅作りを始め、太閤・豊臣秀吉に献上したところ気に入られて茶筅師として取り立てられ、以来高山村で茶筅作りが盛んになったというのです。
秀吉の時代と言えば、筒井氏に従って鷹山氏が大和を離れた時期と一致し、甚之丞なる人物が元々鷹山氏家臣だったのかは不明ですが、禄を失った旧鷹山氏家臣たちが、内職として茶筅の製法を学んで持ち帰ったというのは十分にあり得ることと思われます。
18世紀になると一転して高山茶筌の人気が高まり、享保末(1719~21)年頃には宝来、幡枝での茶筅作りは見られなくなって、高山茶筌が市場を独占するようになりました。
無足人座が発足した時期は先述のとおり17世紀から18世紀頃と考えられ、高山茶筌が茶筅市場を独占した時期とも符合します。
高山村の無足人は、1615(慶長20)年の大坂夏の陣終結後、藤堂高虎が徳川家康から恩賞として得た高山・芝の小物成地55石より、元和の初めから幕末まで米を与えられ援助を受けていたと伝わっています。
津の藤堂家は伊賀国などで帰農した地侍たちを無足人として士分の扱いとし、領地支配で活用した事が知られますが、高山の無足人をどうして支援したのか、理由は定かではありません。
小物成地からの収入は微々たるもので、無足人たちは茶筅作りに励み、18世紀にはライバル生産地であった宝来、幡枝との競争に勝って市場を独占。さらに18世紀に宇治の茶商たちが大名たちへの営業対策として、人気の高かった高山茶筌を贈答品として大量に贈ったことが、茶筌師である無足人たちの経済状況を大きく好転させたと考えられます。
無足人たちは旧支配層として名字を名乗り、帯刀、大髷を結い、地元農民とは通婚することもなく村内では孤立した存在で、当時高山は奈良奉行所が管轄する旗本領でしたが、村役人の命令にも服さなかったとされます。
その背景には旧支配層であるという矜持以外にも、藤堂家の小物成地や茶筅製造、販売の収入による経済的自立があり、18世紀以降は将軍家や大名、宮中への御用品を作る茶筌師という社会的地位の向上があったのでしょう。
高山八幡宮は戦国時代に兵火で焼かれ、近世になって再建されますが、その祭祀の中心を担ったのは高山の郷民を中心とする平座であることは、17世紀中頃の社伝に平座10座しか現れないことからも明らかでしょう。
16世紀末に鷹山氏の転出で高山に残った旧臣たちは、理由は定かではありませんが帰農して新たな領主となった幕府旗本に従う道は取らず、無足人となりました。
そのため在地の旧支配層ながらその社会的地位は決して高くはなく、経済的にも当初困窮したと考えられ、安土桃山から江戸初期に復興した高山八幡宮の祭祀に、当初は座を組んで参加することができなかったのかもしれません。
しかし、18世紀になると高山茶筌で経済力も社会的地位も向上し、後発ながら無足人座を結成して、高山八幡宮の祭祀に復帰したのではないでしょうか。
あと、無足人たちが鷹山氏の旧臣をルーツとする伝承については、それを決定的に裏付ける史料はないようですが、私は信憑性が高いと考えています。
というのも、後発の宮座である無足人座が座小屋を持たず、祭礼の時に平座の座小屋より一段高い拝殿に座付することに対しては、近世になって高山八幡宮の中心的な宮座であった平座の郷民たちから相当の反発が想像されますが、江戸時代には大きな混乱や対立があったとは伝わっていないからです。
いかに無足人たちが士分と認められようと、元々無足人たちが平座と同格の郷民から成り上がった人々であったり、外来の人々であったなら、そうはいかなかったのではないでしょうか。
無足人と郷民双方に、元々無足人たちが高山の支配層であったという共通記憶があったからこそ、元々高山八幡宮祭祀の中心的地位にあった旧支配層の子孫である無足人が拝殿に座付することに対して、無足人座の人々も平座の人々も当然のこととして受け止め、大きな混乱や対立が生じなかったのだと考えられます。
とはいえ、一部の無足人が村内で刃傷事件を起こしたことから無足人が村内で大小を帯刀することを禁じられたり、平座の祭礼で酒を飲んで暴言、喧嘩に及ぶ無足人がいたことや、茶筅作りを疎かにして博打や遊興に耽って堕落した一部の無足人の姿が伝わるなど、一定の不満は平座側にはあったようで、そういった不満が幕末維新期の無足人座の座小屋創設に繋がっていったのでしょう。
それでも無足人座の座小屋が平座より一段高い拝殿と同じ高さに設けられたのは、平座側も旧支配層の子孫であるという無足人座の立場を尊重した結果と考えられます。
現在、平座と無足人座は平和的に共存し、その祭礼はともに生駒市から無形民俗文化財の指定を受け、現存する貴重な宮座行事として高山地区の人々によって守られています。
人々のライフスタイルの変化や地域コミュニティの変容によって、各地の伝統行事が姿を消していく中、末永く行事が続いていくとよいですね。
さて、茶筅は消耗品でありながら、現在までほとんど全ての行程が職人の手仕事による手工芸品です。
一品一品、精緻な造りの竹細工で高い技術と手間が非常にかかりますが、一流の職人の一品でもお手ごろな値段で入手できるものが多く、日本のメインカルチャー・茶道で使う伝統工芸品でありながら普段使いできる日用品である点は、茶筅という茶道具の大きな魅力でもあります。
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私も実はインスタントコーヒーを混ぜるのに茶筅を愛用しています。
空気が良く入るのでブラックでも信じられないくらい口当たりがまろやかになります。
※もちろん普段使い用のお安いものを使用していますが(苦笑)。
ここまで高山八幡宮と無足人座、高山茶筌の歴史についてご紹介してきました。
中世から近世にかけての高山は謎も多く、高山茶筌の発祥については様々な伝承に彩られていますが、伝承の事実性はさておいても、今回様々な史料に触れて、高山茶筌が戦国時代から続く大和の茶筅500年の伝統を綿々と受け継いできたことは、間違いない事実だと確信できました。
この伝統が受け継がれていくためにも、様々な形で高山茶筌を愛用していきたいと思います。
基本情報
■電話/FAX:0743-78-1014
■駐車場:あり(50台)
■アクセス:
近鉄奈良線「富雄駅」、もしくはけいはんな線「学研北生駒駅」から「傍示」「庄田」行きバス乗車
参考文献
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