大和徒然草子

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美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3)

奈良県生駒市北部は、近鉄けいはんな線の延伸もあって交通アクセスが向上し、都会の利便性と自然豊かな田舎の生活が両立できる「トカイナカ」として、注目を浴びているエリアです。

前回まで中世の有力国人・鷹山氏の本拠で現在は茶筅の一大産地である高山地区の旧跡を巡りました。

今回は高山地区の南に位置する上町地区の古刹・長弓寺(ちょうきゅうじ)を訪れました。

全国的に高い知名度を誇る寺社が多い奈良県にあっては、一般に広くその名が知られているとは言えない長弓寺ですが、国宝の本堂は鎌倉期仏堂建築の代表例ともされる名建築で、落ち着いた境内の佇まいとともに知る人ぞ知る名刹です。

その歴史と現在の境内の様子をご紹介します。

長弓寺とは

長弓寺の場所はこちら。

富雄川沿いの大和郡山と河内交野を結ぶ古くからの街道沿いにあります。

以前は最寄りの近鉄富雄駅からバスに揺られて十数分かかりましたが、近鉄学研北生駒駅の開業で、交通アクセスの利便性は大きく向上しました。

山号真弓山で、現在は真言律宗に属する寺院で、寺伝の『長弓寺縁起』によれば730(天平2)年に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝わります。

長弓寺周辺は古代に鳥見(とみ)と呼ばれた地域の北端で、地元の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇随行して狩猟に出た際、誤って息子の放った矢に当たり絶命したため、哀れに思った天皇が菩提を弔うため行基に命じて建立。山号、寺名は小野真弓長弓の名に由来するとされます。

また、1244(寛元2)年に伽藍復興のために作成された勧進文(東大寺所蔵『春華秋月抄』に記載)では、奈良時代後期に藤原良継が狩猟の際に現境内周辺の山林で道に迷い、一寺の建立を発願して難を逃れたので檀弓(まゆみ)を削って十一面観音像を造り、後に建立したのが当寺であるとしています。

いずれにせよ奈良時代に遡る古代からの創建伝承を持ち、創建前後の動向については史料に乏しく詳細は不明な点も多い寺院ではありますが、本尊の十一面観音像が作風から平安時代の作と評価されている点からも、千年前後の歴史をもつ古刹であるのはほぼ間違いないだろう思います。

先述の勧進文では源平合戦のさ中である養和年中(安徳天皇元号)に火災が発生し、本尊は持ち出されて難を逃れたものの、伽藍は焼失したとあり、この時に古代からの堂塔伽藍は失われたと見られます。

本格的に復興するのは鎌倉時代後期で、西大寺叡尊によって本堂をはじめとした諸堂の整備が進められました。

叡尊西大寺や百毫寺、額安寺など現在も奈良県内に残る多くの古代寺院を中興させた人物で、奈良の古社寺を訪れると頻繁にその名が現れる人物です。

法然親鸞道元空海といった同時代の鎌倉新仏教の開祖と比べると、教科書での扱いも小さくて一見地味な人物ですが、大和国箕田里(現大和郡山市白土町)に生まれた叡尊は、真言宗改革のため戒律復興運動を主導して一大ムーブメントを起こし、元寇の際にはその加持祈祷でモンゴル軍撃退に貢献したと信じられ、貴賤を問わず大きな崇敬を受けた僧侶でした。

個人的には、地元(大和郡山市内)出身の有名人としてはもう少し有名になってもいいのになと思う人物です(苦笑)

叡尊について詳しくは下記記事をぜひご覧ください。

しかし、長弓寺の寺勢はその後振るわなかったようで、中世維持した僅かな寺領も1577(天正5)年に織田信長によって没収されました。

信長による大和の寺領没収というと1580(天正8)年に筒井順慶明智光秀滝川一益らによって行われた差出検池で、興福寺や額安寺などが一部または全ての寺領を没収されたことが知られますが、これに先立って長弓寺の寺領が没収された原因は何だったのか、調べてみましたが詳細はわかりませんでした。

同年10月10日に松永久秀信貴山城で滅亡しており、松永方についた国人らの領地が没収されていますが、もしかすると松永方に協力的な姿勢を見せたのかもしれませんね。

 

最盛期には塔頭寺院が20もある大規模寺院でしたが、寺領の喪失もあってか1746(延享3)年の記録では塔頭は9つに半減しています。

明治になると神仏分離令で境内に鎮座していた牛頭天王社が村社・伊弉諾神として分離・独立した他、塔頭宝光院法華院円生院薬師院の4つだけが残りました。

下図は、1891(明治24)年頃の長弓寺の絵図です。

真弓山長弓寺境内真図(『生駒郡寺院(元添下)』(奈良県立図書情報館蔵)より引用)

ほぼ、現在の境内と同じ建物が並んでおり、明治の初め頃には長弓寺境内はほぼ現在の姿となりました。

 

ところで、上図に描かれた建物で、現在の境内からは消えてしまった建物があります。

絵図の右端、現在の薬師院東隣に描かれた塔台閣です。

『大和志料』に掲載された下の境内見取り図にも、薬師院の東隣(右)に「塔」と記載されていますが、かつて長弓寺には、鎌倉末期から南北朝期に建立されたと見られる三重塔がありました。

長弓寺境内坊舎祠堂之図(『大和志料 上巻』(国立国会図書館蔵)より引用)

すでに1746年の段階で二層から上の層は失われて一階部分のみの状態となっており、大日如来が祀られていたと記録されていますが、1936(昭和11)年まで上図の「塔」の位置に建っていたのです。

塔台閣が長弓寺から姿を消すきっかけとなったのが、1934(昭和9)年9月に日本を襲った室戸台風でした。

室戸台風によって長弓寺では倒木で本堂の屋根が大破するなど大きな被害を受け、その修理費用を捻出するため、塔台閣は三井銀行出身の銀行家・前山久吉へ売却されたのです。

売却後、鎌倉へ移築された塔台閣は「長弓堂」と名付けられ、戦後前山が死去すると1954(昭和29)年に西武鉄道堤康次郎が買い取り、前年11月にオープンした品川プリンスホテル(現ランドプリンスホテル高輪)の日本庭園に移築されました。

旧長弓寺三重塔であるプリンスホテル観音堂は、現在も同庭園の中心的な建築の一つとして健在で、東京都内では非常に珍しい中世の建築です。

移築後70年以上経過していることや、現存する中世仏教建築として貴重なことから、2021(令和3)年9月に東京都港区の有形文化財に指定されました。

旧長弓寺三重塔は本堂と同じく鎌倉時代の建築と見られており、そのまま長弓寺に残っていれば、重要文化財に指定されていた可能性もあるでしょうね。

ちなみにグランドプリンスホテル高輪の日本庭園の鐘楼も、1656(明暦2)年に建立された奈良市漢国町念仏寺の鐘楼で、1959(昭和34)年に移築されて、こちらも観音堂と同時に港区の指定文化財となりました。

奈良市には五条町にも念仏寺がありますが、明治12年、同20年頃の寺院明細帳を確認すると五条町念仏寺には鐘楼がなく、漢国町念仏寺には鐘楼が存在して現存していないため、漢国町の念仏寺から移築されたと判断しました。

 

ランドプリンスホテル高輪に移築された旧長弓寺三重塔(現・観音堂)の現在の姿については、下記のリンクをご覧ください。

www.minato-rekishi.com

ちなみに旧長弓寺三重塔が移築されたグランドプリンスホテル高輪の日本庭園は、宿泊者以外の方にも無料開放されています。

筆者は、東京で暮らしていた新婚時代に妻とホテルのレストランでいちごビュッフェを楽しんだ後、こちらの庭園を散策しました…が、全く観音堂の記憶がありません(苦笑)

次回上京の折には、改めて訪問したいかなと考えております。

 

境内

それでは現在の境内の様子を見ていきましょう。

アジサイの寺としても知られ、アジサイシーズンには多くの参拝客でにぎわいますが、そのほかの季節は混雑もなく、ゆっくりと境内散策を楽しむことができます。

あと、境内は散策自由で拝観料は必要ありません。

本堂までの参道沿い

長弓寺の惣門です。

無料の駐車場は、参道南側(写真右)の側道から境内に入るとあります。

 

惣門をくぐると、参道の北側に見えてくるお堂が、宝光院地蔵堂です。

堂内に安置されている地蔵立像は鎌倉時代末期の1315(正和4)年に康俊康成父子によって作製され、現在奈良県有形文化財に指定されています。

康俊は興福寺に属した仏師で、代表作には般若寺(奈良市)本尊の木造文殊菩薩騎獅像などが挙げられます。

現存作品中4点が国の重要文化財、1点が重要美術品に指定されており、当寺の地蔵立像は、康俊の作品としては現存最古のものです。

普段は扉が閉じられていますが、小さな窓からお地蔵様のお姿を拝見することは可能です。

ちなみに宝光院は現存する塔頭のうち、唯一無住の塔頭になっています。

 

参道をさらに東へ進むと蓮池越しに塔頭の庫裏が見えてきました。

煙出しを備えた立派な庫裏です。

蓮池手前の小道を北へ上がっていくと、塔頭法華院があります。

法華院ではお庭を自由に散策できるほか、精進料理をいただくこともできます。

今回はそのまま本堂へ向かいます。

 

蓮池の東端で参道は北に向かいます。

こちらは長弓寺塔頭円生院

境内には自由に散策可能で、事前に予約すると、こちらでも精進料理をいただけます。

※詳しくは円生院のホームページをご確認ください。

 

参道の石段の先に、本堂の大屋根が見えてきました。

 

本堂へ向かう参道の途中、東側に塔頭薬師院のお堂があります。

薬師院でも事前予約で精進料理をいただけます。

詳しくは薬師院のホームページをご覧ください。

 

こちらは参道を挟んで薬師院の西向かいにある円生院護摩堂。

円生院の本尊である不動明王が祀られています。

 

伊弉諾神

参道を本堂方面へ進み、本堂手前に見えてくるのが伊弉諾(いざなぎ)神社です。

長弓寺建立の際に鎮守社として牛頭天王を大宮、八王子を若宮として祀ったとされ、近世までは牛頭天王社でした。

応仁の乱のさ中、1474(文明6)年6月2日に東軍・筒井方の秋篠氏が西軍の鳥見庄荘官・和田氏を攻撃し、この時社殿が焼けたと『大乗院寺社雑事記』にあり、現在の社殿はその後復興されたものと考えられます。

江戸時代まで長久寺の僧侶が神官を務めていましたが、明治の神仏分離令で独立し、村社・伊弉諾神社となりました。

以降、伊邪那岐命素盞嗚命大己貴命を祭神として祀りますが、通常天王社は牛頭天王と習合した素戔嗚を主祭神とする例が殆どなのにも関わらず、本社が全くこれまで祀られた気配もない伊邪那岐主祭神とする神社となったのか、経緯は不明です。

延喜式神名帳』の「添上郡 伊射奈岐神社」に比定されているため、由緒に箔付けをしたかったのかもしれませんね。

また、当社を同じ式内社の「登弥神社」に比定する説もあります。

当社から東に約1kmほど離れたかつての長弓寺境内にある真弓塚は、「饒速日命の墓」との伝承もあり、長弓寺境内は饒速日を奉じて神武東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)の拠点だったとする説から唱えられているようで、『大和志料』で紹介されています。

長弓寺のある富雄川流域は長髄彦こと登美比古の本拠地だった場所で、いたるところに古墳がある奈良県内にあって、大型古墳が極端に少ないエリアです。

同地域では珍しい大型古墳・富雄丸山古墳からは、2023(令和5)年に2m37cmの国内最大の蛇行剣と過去に類例を見ない鼉龍文盾形銅鏡が発見されるなど、大和政権とは一味違う王権の存在をにおわせるような発見もあり、この地域の古社には古代史ロマンが常に漂います。

こちらは宮座の座小屋と舞台。

舞台の方は屋根は近年修理されたのか、真新しい感じになっていました。

急崖の上に建つ拝殿の先に、本殿が見えます。

春日造の立派な本殿です。

本殿の左側に境内社素戔嗚神社と熊野神社厳島神社がありました。

本殿の北東隅に富士浅間大菩薩が祀られています。

 

浅間大菩薩といえば、富士山の神格・コノハナサクヤヒメで、関東では頻繁にお見掛けしましたが、あまり奈良ではお見掛けしない神様です。

最初に「富士」だけ見えたので、一瞬富士塚かとも思いました。

 

本堂周辺

本堂前の鐘楼に吊るされた「まゆみの鐘」は、自由に撞くことができます。

心を込めて撞いた前後にご志納金をお賽銭箱にお納めしましょう。

ちなみにこちらの梵鐘は、毎年8月6日に広島の平和祈念式典で鳴らされる平和の鐘の作者である鋳金工芸家人間国宝・故香取正彦氏の作とのこと。

 

本堂の西隣にある大師堂

大師堂なので、弘法大師がお祀りされていますが、こちらの堂は大和十三仏霊場巡りでお参りする場所ともなっており、中央に勢至菩薩が祀られていました

ちなみに十三仏は、初七日から三十三回忌の追善供養を司る仏様のことで、勢至菩薩は一周忌本尊となります。

 

大師堂の北側には、板碑や五輪塔などが並びます。

左側の写真で、左から二つ目の宝塔が浮き彫りになっている板碑には、1558(永禄元)年の銘がありました。

翌年から松永久秀による大和侵攻が始まるので、筒井順昭の大和統一によって11年続いた大和の平穏な時代の最後の年に設置された板碑になります。

 

大師堂の南側には、観音菩薩の石像が、東西南北を向いてピラミッド状に並べられていました。

石仏にはそれぞれ33までナンバリングされており、頂上に設置された一番目は如意輪観音と見られるので、西国三十三所の写し霊場となっているようです。

1762(宝暦12)年の銘があり、気軽に旅行ができない時代に、観音巡礼のご利益を近隣の人々が得られるよう設置されたのでしょう。

 

本堂

それでは、いよいよ本堂です。

檜皮葺の屋根の反りがどこから見ても絵になる長久寺本堂は、屋根裏の棟木の墨書から1279(弘安2)年に2月に完成したことが分かり、鎌倉中期に建造されたことが確定できる点からも重要視されてる建築です。

弘安2年は、元寇弘安の役(1281(弘安4)年)が勃発する2年前にあたり、同年6月には幕府が元の使者を博多で斬り捨てるなど日元の緊張関係が、急速に高まっていた時期に当たります。

和様を基調としながら、桟唐戸の扉や柱から突き出た頭貫の木鼻の装飾など、鎌倉時代に中国から導入された大仏様の意匠を取り入れた新和様建築の典型例とされます。

私は鎌倉建築には構造の美に一番の魅力を感じるのですが、こちらの本堂は全国でも屈指の美しさをもつ仏堂だと思います。

どこから見ても本当に絵になり、是非多くの方に観ていただきたい仏堂です。

なお、お正月などの特別な時期を除いて、本堂内部の拝観は予約が必要です(要拝観料)。

ちなみにお正月は無料で拝観可能なのがうれしいところですね。

 

けいはんな線学研北生駒駅開業で、自家用車が無くても訪れることが可能になりましたので、散策がてらに気軽に訪れてみてはいかがでしょうか。

 

基本情報

■住所:奈良県生駒市上町4443

■拝観時間:境内散策自由、本堂のみ9:00~16:00(要事前予約)

■電話・ホームページ:

薬師院:0743-78-2468

円生院:0743-78-3071

法華院:0743-78-2437

 

■アクセス

近鉄けいはんな線学研北生駒駅から徒歩18分

奈良交通 真弓橋バス停下車5分

■駐車場:100台

閑散期は県道7号線から惣門傍の駐車場が便利ですが、通路が非常に狭く駐車場も10台程度しか駐車できないので、アジサイの季節などはならやま大通りから大型駐車場をご利用されるのがおすすめです。

■拝観料:境内散策無料、本堂:300円

参考文献

『生駒と平群 (近畿日本ブックス ; 8)』近畿日本鉄道株式会社近畿文化会 編

『大和志料 上巻 改訂』奈良県教育会 編

『史迹と美術 40(9)(409)長弓寺の旧三重塔』津田誠

『明治十二年七月調 大和国添下郡寺院明細帳』

『奈良市寺院明細帳』