当ブログでは天理市内を中心に、上街道沿いの町並みや旧跡をこれまでいくつか紹介してきました。
今回ご紹介する長岳寺は、上街道沿いというよりは「山の辺の道」沿いと言った方が適当かもしれませんね。
奈良県天理市は石上神宮や黒塚古墳、崇神天皇陵といった古代から続く神社や旧跡が数多く残る歴史ある地域ですが、県内の他の旧跡密集地帯とは違って、大規模寺院の空白地域になっています。
というのも、現在の天理市域は明治に起きた廃仏毀釈の動きが奈良県内でも激しかった地域の一つで、江戸時代まで残っていた古刹の多くが神宮寺だったこともあり、内山永久寺をはじめとした歴史ある寺院の殆どが廃寺となってしまったからです。
多くの古刹が姿を消していく中、長岳寺はその荒波を乗り越え、今では四季折々の花と紅葉の名所として、山の辺の道を散策する方々を中心に多くの参拝者が訪れる名刹となりました。
貴重な文化財や興味深い伝説に彩られた長岳寺の歴史と、現在の境内の様子をご紹介していきます。
平安時代から続く古刹・長岳寺
長岳寺の場所はこちら。
龍王山西麓、最寄駅のJR万葉まほろば線・柳本駅からは徒歩20分ほどの場所にあります。
寺伝によると824(天長元)年に淳和天皇の勅願により弘法大師・空海の開山され、平安時代の末までに多くの坊舎・塔頭寺院を有し、1225(嘉禄元)年には後に真言律宗を興す若き日の叡尊が修行するなど、大和でも有数の真言道場として知られました。
鎌倉時代末期の正中年間(1324~26年)には興福寺大乗院門跡の聖信が長岳寺住職を兼ねるなど中世から江戸時代までは興福寺大乗院の末寺でした。
長岳寺のあった楊本庄も中世は大乗院の荘園で、長岳寺塔頭の普賢院は大市庄(現桜井市箸中近辺)の下司職を務めています。
さて、長い歴史を誇る寺院が、火災や兵乱に遭うことは避けて通れず、長岳寺も例外ではありませんでした。
応仁の乱では1471(文明3)年に西軍の楊本庄領主・楊本氏が東軍の十市遠清から侵攻を受けた際、楊本氏と関係の深かった長岳寺も十市勢の攻撃を受けます。
1503(文亀3)年には原因が兵火か落雷、失火によるものか不明ながら、大規模な火災に見舞われ、境内一帯が灰燼に帰しました(「釜口仏閣以下払地炎上」(『大乗院日記目録』文亀三年二月十七日条))。
また、1506(永正3)年の赤沢朝経による2度目の大和侵攻でも占領された他、1565(永禄8)年には松永久秀と筒井順慶の抗争で筒井方に寝返った龍王山城衆(十市氏家臣団か?)を攻撃するため出陣した松永氏筆頭家臣・竹内秀勝が本陣とするなど、相次ぐ兵乱で多くの堂舎が失われました。
寺領も武家の蚕食を受け、1580(天正8)年に織田信長の命で実施された差出検地では寺領300石を維持したものの、1585(天正13)年に豊臣秀長が大和郡山に入り大和国が豊臣政権により直轄化され、大和国内の多くの寺社が領地の削減・没収の憂き目に遭い、長岳寺もついに全ての寺領を没収されます。
しかし秀吉の死後、関ヶ原の戦いの後に事実上の天下人となった徳川家康は、1602(慶長7)年に秀吉によって寺領を没収された大和諸寺院に、新たな所領を与えます。
家康による寺社領の回復には、秀吉によって不知行寺院となった寺社に新たな領地を与えることで、領地回復を期待する寺社の期待に応え、秀吉に替わる支配者、天下人として大和に有形無形の影響力をもつ寺社勢力の支持を取り付ける意図があったのでしょう。
この時に西大寺、元興寺、薬師寺といったかつての大寺も不知行状態を脱し、長岳寺も楊本に100石の寺領を得ることに成功しました。
江戸時代を迎えて太平の世になると境内の復興も進み、本堂を始めとした諸堂が再建されます。
諸堂の復活とともに塔頭寺院も再び増え、最盛期の安永年間(1772~81年)には寺坊が普賢院以下40か院を数え、続く天明年間(1781~89年)には普賢院、地蔵院など7か院が残りました。
1791(寛政3)年発行の『大和名所図会』に掲載された長岳寺は、ちょうど最盛期を迎えた頃の姿で、現在も残る本堂、大師堂の他、今は失われている愛染堂や不動堂、そして多くの塔頭寺院が描かれています。
また、門前から延びる参道と上街道の交差点に建つ五智堂(傘堂)まで描かれ、上街道沿いを往来する人々や柳本城下町の町屋が街道沿いに軒を連ねる様子まで見えますね。
戦国末期の寺領喪失を乗り越え、江戸時代に再建を果たした長岳寺でしたが、明治の廃仏毀釈により、再び存亡の危機に直面することになりました。
現在の天理市内で、江戸時代に寺領を有した寺院は長岳寺の他、内山永久寺(現杣之内町)、竜福寺(現滝本町)、在原寺(現櫟本町)、本光明寺(現森本町)の五か寺がありましたが、内山永久寺、竜福寺、在原寺は明治に入って間もなく廃寺となり、本光明寺は廃寺は免れたものの、堂舎が1889(明治22)年頃に大和郡山市矢田山(矢田寺か?)に売却されてしまい、1900(明治33)年に当時廃寺となっていた田原本の勝楽寺跡へ移転することになります。
長岳寺は、中世以来本寺だった興福寺大乗院が、1868(慶応4)年に廃仏毀釈のあおりを受けて門跡が還俗、廃寺となったため、明治の初年に高野山の末寺となりました。
1873(明治6)年には寺禄が全て没収され、存続の危機に立たされます。
しかし、本寺が高野山になったことがプラスに働いたのか、1891(明治24)年頃には檀徒75人に加え、大師信仰の信者850人の支えを受けるようになり、塔頭寺院は全て消失したものの、天理市内の大寺では唯一現地で存続することができたのです。
門前の町並み
それでは長岳寺へ向かいます。
布留川水系の水源地となる山で、戦国時代には山上に十市氏の居城である龍王山城が築かれていました。
※龍王山城の紹介記事はこちらです。
長岳寺境内は龍王山西麓に広がります。
門前の上長岡(かみなんか)集落では、今も近世の面影を残す町屋や蔵が多く見られます。
集落内の金毘羅宮。
大神宮の常夜灯の他、多くの石仏が集められています。
金毘羅宮を抜けるといよいよ長岳寺の境内。。。なんですが、まだまだ大門が見えません。
長岳寺の敷地面積は、龍王山中腹の奥の院から麓にかけて約4万平方メートル!
想像以上に広大な境内です。
下馬碑の近くにも多くの石仏が集められていました。
長岳寺境内
大門から旧地蔵院
ようやく大門が見えてきました。
1640(寛永17)年再建の長岳寺総門で、「肘切門」の異名を持ちます。
長岳寺の僧が、刀匠・尻懸則長(しっかけのりなが)に注文して持ち込まれた刀の切れ味を疑ったため、則長がこちらの大門の肘木を切り落としてその切れ味を示したという故事に由来しています。
以来、大門は「肘切門」、肘木を切り落とした刀は「肘切丸」と名付けられましたが、残念ながら肘切丸は長岳寺から持ち出されて現在消息不明とのこと。
尻懸則長は、鎌倉時代の刀鍛冶・大和伝五派のうち尻懸派を興した人物で、現在の天理市岸田町の上街道沿い、小字市場付近に住していました。
鎌倉時代の初代則長から、戦国時代まで、何名か則長を名乗っている人物がいるので、こちらの逸話がいつの時代かは不明ですが、江戸時代再建の大門の肘木は、切断された様子もなくしっかりと屋根を支えてくれていました。
大門をくぐると漆喰の白壁に挟まれた長い参拝道が100mほど続きます。
かつての塔頭はほぼすべて空き地になっていますが、往時の規模を実感できるアプローチの長さです。
こちらは楼門の手前にある庫裏で、旧地蔵院。
元々普賢院の建物と考えられていましたが、解体修理で発見された棟札から地蔵院の建物だったことが分かりました。
かつて48もあった長岳寺塔頭の建築で、唯一現存している建物です。
ちなみに普賢院は1281(弘安4)年10月、若き日に長岳寺霊山院で真言密教を学んだ叡尊が経典を開講したのが始まりと伝わる塔頭で、長岳寺の中心的な子院でした。
普賢院が地蔵院の建物に移り、別に新たに地蔵院が建立されたとも伝わりますが、詳細は不明とのこと。
現在の建物は江戸初期1630(寛永7)年築で、唐破風の格式高い玄関と室町時代の様式を色濃く残した書院造で、国の重要文化財に指定されています。
鶴や孔雀など彩鮮やかな障壁画がすばらしい室内です。
小規模ながら、中央の樹齢400年を超える老松(姫五葉松)が見事な亀鶴庭園が縁側の先に広がります。
池泉鑑賞式庭園で、池のなかに組まれた石組が亀、姫五葉松を鶴に見立てたお庭とのこと。
縁側から庫裏と渡り廊下で接続されている旧地蔵院本堂の延命殿です。
棟札から1631(寛永8)年に地蔵院本堂として建設されたことが分かっており、こちらも国の重要文化財に指定されています。
延命殿に安置されている普賢延命菩薩像。
大和十三仏霊場、四番札所の本尊とのこと。
長岳寺の仏像と言えば、本尊の阿弥陀如来像のイメージが強いですが、こちらの普賢延命菩薩像も力感にあふれ着色も鮮やかな仏様です。
作者や作成年代を調べてみましたが詳しいことはわからず、文化財指定も受けていませんが、お顔や象など細部の造作が美しいご本尊でした。
楼門
こちらの楼門は、かつて上層に梵鐘が吊られていた鐘楼門です。
上層は平安時代末期、下層は安土桃山時代の建築で、現存する日本最古の鐘楼門になります。
創建間もない頃の姿を今に伝える貴重な建築で国の重要文化財に指定されています。
華美な装飾がない、安土桃山時代以前の建築に特徴的なシンプルデザインが美しい門でした。
本堂
こちらは1783(天明3)年に再建された本堂です。
16世紀中頃の永禄年間に焼失したされるので、十市氏と松永氏の抗争で兵火にまきこまれたのかもしれませんね。
本堂には本尊である阿弥陀三尊像(阿弥陀如来像、観世音菩薩像、勢至菩薩像)と多聞天像、増長天像の国の重要文化財5体の他、愛染明王像、大威徳明王像が安置されています。
本尊の阿弥陀三尊像は、平安末期の1151(仁平元)年の作。
当時流行の定朝様とは一線を画し、凛とした顔つきと深く刻まれた衣紋線や肉付きを強調した表現は、後の慶派の作風を先駆ける作品と評価され、玉眼が使用された現存最古の仏像で、国の重要文化財に指定されています。
多聞天像、増長天像は、もともと大神神社の神宮寺・大御輪寺(現大直禰子神社・桜井市)で祀られていた仏像で、10世紀から11世紀中頃の平安中期の作と考えられており、こちらも国の重要文化財。
※二つの像が安置されていた大御輪寺については下記記事で詳しくご紹介しています。
大御輪寺は明治の神仏分離令で廃寺となったため、同寺の仏像は本尊の十一面観音像(現・聖林寺蔵)をはじめとして各地に移され、多聞天像と増長天像は長岳寺に移されました。
また本堂では、10月末から11月にかけ、寺宝の六道絵、いわゆる大地獄絵が開帳・公開されます。
9幅の構成の長岳寺六道絵は京狩野の祖・狩野山楽によって安土桃山時代に描かれた大作で、奈良県の指定文化財となっています。
公開中は週末に住職による絵解きも行われます。
※六道絵と絵解きの様子は下記動画をご覧ください。
住職の絵解きは、事前に申し込みをすれば、平日も行っていただくことが可能とのことで、私が訪れた時もたまたま団体さんで参拝されている方々向けに絵解きをされていて、一緒に六道絵のお話を聞くことができました(ラッキー!)。
長岳寺本堂の血天井伝説
さて、長岳寺本堂・廻縁の天井板には、指で掻いたような赤黒く変色したシミが、所々に見えます。
こちらの天井には、いわゆる血天井の伝承があります。
伝承では、これらのシミは戦国時代に長岳寺境内で発生した十市氏と松永氏の戦闘で負傷した武士たちの血痕で、血まみれとなった縁側の床板を天井に張り替えたものとされます。
天井の片隅に足形がはっきりと残っていて、本堂に駆け込んできた武士のもの、あるいは、戦国武将の十市遠忠が、松永久秀と切り結んだときに付いたものとも伝わります。
この足形から、武士の亡霊が現れて天井を逆さまに歩くといった、恐ろしい怪談も残っています。
しかし、現在の本堂は永禄年間に焼失してから200年ほどたった江戸中期に再建されたもので、戦国時代の床板を再建時に転用しているとは考えづらいかと思われます。
また十市氏と松永氏が抗争した永禄年間の当主は遠忠の子・遠勝で、遠忠は松永久秀の侵攻に先立つこと14年前の1545(天文14)年に死亡しており、長岳寺に着陣した松永方の将も先述のとおり久秀の重臣・竹内秀勝であることから、遠忠と久秀が直接対峙することは不可能なので、遠忠と久秀が切り結んだというのは、後世に作られた伝承かと思います。
素手や素足で木材に触れて汗が付着すると、汗に含まれる脂分が酸化して変色し、手形や足形が浮かび上がるケースがあるので、長岳寺の血天井も、再建時に活躍した大工さんたちの手形や足形が、後年天井に浮かび上がってきたものなのかもしれません。
龍王山付近では、遠忠の怨念ともされるじゃんじゃん火の伝承もあることから、戦国末期に悲劇的な没落を遂げた十市氏の記憶が現地で語り継がれ、長岳寺の天井に残った不気味な手形や足形から、血天井にまつわる伝承も形作られていったのではないでしょうか。
※じゃんじゃん火の伝説については下記記事で詳しくご紹介しています。
大師堂
こちらは大師堂で弘法大師の木造坐像と不動明王像が祀られています。
江戸時代、庶民の間にも弘法大師信仰が広まり、空海は「お大師さん」として親しまれました。
明治の廃仏毀釈では民衆の支持や信仰を篤く受けていたか否かが、寺院存廃を分けた大きな要因になったので、民衆人気の高い弘法大師ゆかりの霊場であったことは、長岳寺の存続に大きな要因になったんじゃないでしょうか。
十三重塔
放生池の東側にある十三重塔は、鎌倉時代の石塔で、叡尊の供養塔と伝わります。
※自分で撮影した写真がピンボケだったのでWikipediaから写真を引用させていただきました。
最上層が外されて土台のそばに置かれており、十二層の石塔になっています。
微妙に湾曲しており、大きな地震があったら崩れてしまいそうです(汗)
弥勒石棺仏~弘法大師像
境内東側斜面に上へと昇る階段があります。
通路に沿うように小さな祠がありますが、八十八か所の写し霊場(ミニ遍路)になっています。
斜面中腹に、2mほどの大きな石仏・弥勒石棺仏があります。
石棺の蓋に彫られた石仏です。
こちらの石仏以外にも、長岳寺境内には鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏が、多数設置されていました。
斜面麓の弘法大師像。
『大和名所図会』を見ると、江戸時代までは不動堂があった場所になります。
おそらく明治にかけて堂舎は消失し、現在大師堂に安置されている不動明王像が祀られていたのでしょう。
鐘楼~放生池
放生池の南側に「一願成就の鐘」が吊るされた鐘楼があります。
家族の健康を願って、一打させていただきました(合掌)
さて現在放生池の南側エリアには、鐘楼以外の建物はありませんが、江戸時代まで長岳寺の主要な堂宇の一つだった愛染堂がありました。
愛染堂は鎌倉時代末期の嘉暦年間(1326~28年)に建立されましたが、その後焼亡したらしく(1503年の火災か?)、1550(天文19)年、1576(天正4)年に再建の勧進が行われ1694(元禄7)年にようやく再建されました。
以後、明治まで残ったものの1885(明治18)年に火災で焼失し、その後仮堂が一時設けられましたが現在はその仮堂も姿を消して、本尊の愛染明王像は現在本堂に安置されています。
かつて愛染堂のあった区画には立派な石垣が残り、往時の威容の面影をわずかに残します。
放生池越しに見える本堂、楼門。
阿弥陀如来がご本尊である長岳寺境内は、池を中心とした浄土式庭園で池越しに見る本堂は、長岳寺の代表的な風景です。
紅葉の季節はさらに美しいですね。
紅葉の他、ツツジなど四季折々の花が全ての季節で迎えてくれます。
五智堂
さて、長岳寺境内から西へ1kmの境外地にも長岳寺の建造物があります。
参道からまっすぐ西へ向かい、上街道との交差点にある五智堂です。
こちらが五智堂。
中央の心柱と四方の細い柱で屋根を支える構造で、「堂」と呼ばれますが板壁がなく、全面吹き抜きという特徴的な外観の建築です。
心柱で構造を支えているという点では、原理的には仏塔と同種の建物と言えるかもしれないですね。
形状が傘に似ていることから「傘堂」、どの方向から見ても正面にみえるため「真面堂」とも呼ばれています。
密教の五つの智慧を如来に当てはめたものを五智如来と呼びますが、中央の心柱を大日如来(法界体性智)に見立て、方角ごとに北・不空成就如来(成所作智)、南・宝生如来(平等性智)、西・無量寿如来(妙観察智)、東・阿閦如来(大円鏡智)の梵字を刻んだ額を掛けて、お堂全体で五智如来を表していることから五智堂と名付けられています。
正確な建築年は不明ですが鎌倉時代末期の建築で、なんと国の重要文化財!
奈良県下ではお馴染みの、「道端にしれっと重文建築」の一つです(笑)
長岳寺では楼門と並ぶ古建築で、このような建築が人の入れ替わりや往来の激しい街道沿いに残っているのは、奇跡としか言いようがありません。
上街道から長岳寺へ向かう参道との辻にあったため、参詣者の目印になっており『大和名所図会』でも「傘堂」の名でしっかりと紹介されています。
一本の心柱で屋根の殆どの荷重を支える珍しい建築で、私は他に同様の建物を見たことがありません。※類似の建築としては葛城市の當麻寺のそばにある「傘堂」があるそうです。
中々お目にかかれない珍しい建物ですので、長岳寺にお越しの際はこちらも是非ご覧いただきたいです。
基本データ
■拝観時間:9:00~17:00(年中無休)
■拝観料:
・大人:400円
・大学生、高校生:350円
・中学生:300円
・小学生:250円
・小学生未満:無料
■電話番号:0743-66-1051
■駐車場あり
■交通アクセス
・電車:
・バス:
奈良交通 上長岡(かみなんか)バス停から徒歩5分
周辺情報
■柳本陣屋、黒塚古墳
織田氏1万石の本拠であった柳本陣屋と、陣屋の堀としても利用された3世紀後半の古墳・黒塚古墳の紹介記事です。
参考文献
『慶長七・八年付大和諸寺宛徳川家康判物・朱印状の発給年次』林晃弘(日本史研究 (602))
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