大和徒然草子

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行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2)

奈良県生駒市近鉄生駒駅より南側、近鉄生駒線の沿線はかつて生駒谷十七郷と呼ばれた中世以来の郷村が集中するエリアで、新興住宅街が目立つ生駒市内にあって、古くからの街道と集落や旧跡が残っています。

前回記事では生駒谷十七郷の氏神として、生駒市壱分町に鎮座する往馬大社をご紹介しました。

往馬大社から600mほど南にある竹林寺は、奈良時代の僧・行基鎌倉時代の律僧・忍性が葬られた地として知られます。

大衆の中に分け入り、困窮する人々を救済する社会事業を先駆的に進めた行基と忍性、二人の高僧が葬られた竹林寺の歴史は南都仏教の盛衰と共にありました。

その歴史と現在の様子をご紹介します。

 

竹林寺とは

竹林寺律宗寺院で、第二阪奈道路の壱分ICの南西、生駒山東麓の丘陵地にあります。

竹林寺周辺図(国土地理院HPより作成)

暗越奈良街道や清滝街道からも近く、古代から交通アクセスも良好な場所に立地していました。

寺号の由来は中国の文殊菩薩信仰の聖地・五台山大聖竹林寺で、正確な創建年は不詳ですが、奈良時代の高僧・行基が704(慶雲元)年もしくは707(慶雲4)年に生駒山麓に移って営んだ生馬仙房(草野仙房)が前身と考えられています。

行基菩薩坐像(重要文化財) 唐招提寺蔵(竹林寺が明治に廃寺となったあと移された)
(『南都七大寺大鏡 第32集 唐招提寺大鏡 第5册 唐招提寺大鏡. 第1-8冊』 東京美術学校 編より)

行基は668(天智天皇7)年に河内国大鳥郡(現大阪府堺市)に生まれ、682(天武天皇11)年に出家・得度し、飛鳥寺薬師寺法相宗の教学を学びました。

705(慶雲2)年に病身の母を呼び寄せ、共に大和国添下郡佐紀郷(現平城宮跡付近)に佐紀堂を構えて暮らしていましたが、平城京の造営にともなって退去を命じられ、移り住んだ先が生馬仙房とされます。

行基は710(和銅3)年に母が亡くなった後、民衆の中に入って近畿地方を中心に貧民救済や治水土木事業を推進し、当時一般民衆には解放されていなかった仏の教えを人々に説きました。

行基のもとには僧俗問わず多くの人が集まり、教団の肥大化を警戒した朝廷の弾圧を受けることになりますが、その活動が反政府、反権力的な性格を帯びていないことが分かってくると、朝廷は行基の優れた社会事業の推進能力をむしろ積極的に利用しようと方針を転換。難航していた東大寺の大仏造営を軌道に乗せ、引き続き多くの社会事業を進めました。

行基は大仏造営中の749(天平21)年、喜光寺で81歳の生涯を終え、その遺骸は生駒山で荼毘に付されて生馬院(竹林寺)に葬られます。

喜光寺

行基はその死後、朝廷からは「菩薩」の諡号が送られた他、生前多くの困窮した民衆を救済したことから文殊菩薩の化身と崇められ、行基自身が信仰の対象となりました。

行基の没後まもなく竹林寺は荒廃し、鎌倉時代までには唐招提寺の末寺となってかつての寺勢は失われていましたが、1235(文暦2)年に行基の舎利瓶が境内の廟所から発見されたことが、復興の切っ掛けとなります。

銅製行基舎利瓶残片(奈良国立博物館所蔵)

この時発見された舎利瓶と銅製墓誌は再度埋められましたが、後に墓誌の残片が江戸末期に発掘され、現在は重要美術品「銅製行基舎利瓶残片」として奈良国立博物館に所蔵されています。

舎利瓶の発見を本寺・唐招提寺へ報告した寂滅行基廟の整備を進め、文殊信仰、行基信仰の聖地として竹林寺の復興を進めました。

寂滅の努力もあり、竹林寺には鎌倉時代の南都仏教再興の中心人物たちが次々と集まって、寺勢が興隆することになります。

 

行基廟が整備されて間もない1235(嘉禎元)年、早くも同寺を訪れたのが若き日の忍性でした。

後に生涯の師となる叡尊とともに戒律復興運動の中心人物になる忍性ですが、この時はまだ官僧となったばかりの十代の若者でした。

母の影響で熱心な文殊信者であった忍性が、文殊の化身とされた行基の遺徳を慕い修行の地と選んだ点からも、復興間もない竹林寺が同時代に行基ゆかりの寺として注目されていたことがうかがえます。

※忍性について詳しく知りたい方は下記記事をご覧ください。

その後6年間にわたり忍性は竹林寺へ月詣を続けました。

後に幕府首脳である北条一門の帰依を受け鎌倉極楽寺の住職となった忍性は、行基と同様広く困窮する民衆の救済に尽力し、1303(乾元2)年に死去すると遺言でその舎利の一部は竹林寺に葬られることになります。

また竹林寺には、1236年(嘉禎2)年に東大寺で自誓受戒する直前の叡尊が訪れて律を学び、1241(仁治2)年には法相教学の大家・良遍興福寺での栄達を倦んで同寺に隠棲しました。

良遍は、叡尊とともに戒律復興を進め、後に唐招提寺中興の祖となる覚盛の影響を受けて自身も戒律復興に取り組み、竹林寺を清浄戒律の道場とします。

竹林寺の最盛期は、良遍の弟子で東大寺戒壇院院主となっていた円照が寂滅の跡を継いで住職となったときで、四方を鬼取山、般若窟、矢田山、信貴山に囲まれる生駒の地を中国の五台山に見立て、文殊信仰の拠点としての地位が確立されました。

 

奈良時代行基ゆかりの寺として興り、鎌倉時代に南都仏教の復興とともに興隆した竹林寺ですが、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の戦乱と室町時代に南都仏教が衰退すると、再び寺勢が衰えます。

戦国時代には1561(永禄4)年に松永久秀の生駒谷焼討で堂宇が焼亡したと見られ、一時無住となるなど大打撃を受けました。

江戸時代初期の1649(慶安2)年に唐招提寺第六十一世・智教上人が文殊堂再建に着手し復興されましたが、明治にはついに無住となり、1874(明治7)年いったん廃寺となります。

その後、100年以上寺地は放置されましたが、行基1250年忌を目前にした1997(平成9)年に唐招提寺によって再び堂舎が再建・整備されました。

 

竹林寺境内

それでは、現在の竹林寺の様子をご紹介します。

竹林寺は最寄駅の近鉄生駒線・一分駅から南西へ1Km弱の場所にあり、徒歩15分ほどで到着します。

文殊山と呼ばれる丘陵地の上にあります。

こちらがお寺の南側にのびる参道。

石畳の参道前に、3台ほど駐車可能な専用駐車場があります。

 

参道を登ると、石段の手前で東側に竹林寺古墳が見えてきました。

築造年代は古墳時代前期の4世紀中頃と推定され、被葬者は当時生駒谷を支配した豪族とされています。

前方部が破壊されているので円墳に見えましたが、生駒谷では唯一の前方後円墳とのこと。

生駒谷一帯を見下ろせる位置にあり、当地の支配者の墓が築かれるには適地と言えるでしょう。

 

さらに石段を登ります。

石段を上がると本堂と庫裡が見えてきました。

再建から25年以上経ちますが、白壁がまだまだ美しい堂舎です。

基本的には無住とのことですが、地元ボランティアの皆さんの協力もあってか、手入れが行き届いて清浄が保たれている境内でした。

行基の月命日である毎月2日には唐招提寺の僧侶により法要が開かれるとのこと。

ちなみに石段を登って右に進むと行基墓、左に進むと忍性墓へと通じています。

 

まずは行基に向かいます。

一見何もないように見えますが、一辺10mほどの方形墳丘墓です。

火葬後に行基の舎利が埋葬されたと伝わる場所で、1921(大正10)年に国指定史跡となりました。

行基の廟所があったことで、竹林寺文殊信仰の中心地となったことを考えると、竹林寺の始まりの場所と言えるでしょう。

 

こちらは忍性墓です。

元は行基墓と同じく約10m四方の方形墳丘墓で、墳丘の上に瓦葺の木像建造物が建てられていました。

忍性は1303(乾元2)年7月に世を去り、その遺骨は鎌倉極楽寺と故郷にほど近い額安寺(現大和郡山市)、そして敬愛する行基の廟所である竹林寺に分骨、埋葬されました。

※額安寺の忍性墓については下記の記事をご参照ください。

1986(昭和61)年の発掘調査で墓穴から埋葬された銅製骨蔵器が発見され、既に発見されていた極楽寺、額安寺の忍性骨蔵器と全く同型で銘文もほぼ一致していることから、伝承のとおり忍性の遺骨は所縁ある3つの寺に分骨されたことが分かりました。

忍性の銅製骨蔵器は3点とも国の重要文化財に指定されています。

ちなみに現在竹林寺の忍性墓に設置されている五輪塔は、発掘調査終了後の1988(昭和62)年に建てられたものです。

発掘調査前の忍性墓には円盤形の石が積まれて墓塔が組まれていました。

かつての墓塔の石材は、現在の五輪塔の奥に積まれています。

五輪塔残欠(忍性墓塔)というこちらも立派な文化財なのですが、訪問時は案内板もなく無造作に積まれて放置された石材のように見えました^^;

忍性墓の周囲には他にも古いお墓が数基あり、良遍や智教といった竹林寺にゆかりの深い僧たちの墓もあるとのことですが、案内板もなくどちらのお墓かは判然としませんでした(残念!)。

 

本堂の方に向かいます。

まだまだ新しい本堂には本尊の文殊菩薩騎獅像行基菩薩坐像が祀られています。

廃寺後、本尊と行基菩薩坐像は本寺である唐招提寺に移されていましたが、本堂再建に伴って文殊菩薩騎獅像と複製の行基菩薩坐像が安置されました。

文殊菩薩騎獅像は獅子像が1561(永禄4)年の造立で、文殊菩薩像などは欠損していたらしく近代に作られたものです。

獅子像の造立年から、松永久秀による焼討(1561年5月25日)の前後に作られたものということになり、焼失をかろうじて免れたものなのかもしれないですね。

ちなみに元々竹林寺に安置されていた行基菩薩坐像は国の重要文化財に指定され、引き続き唐招提寺に安置されています。

なお、普段は本堂の中を拝観することはできませんが、毎月2日は行基の月命日の法要では開扉され、直接お参りすることができるそうです。

 

本堂の裏には役小角堂もあります。

小角の諡号である「神変大菩薩」の石碑があり、銘に「天保四年」とあるので江戸末期の1834年に建立されたもののようです。

役行者と前鬼、後鬼像が小さなお堂に安置されていました。

生駒で役行者と言えば竹林寺からもほど近い鬼取山で、前鬼、後鬼を改心させ、従者にしたという伝説が非常に有名で、生駒山地は古来より修験道が盛んな地域でもあります。

ちなみに役行者も江戸時代、神変大菩薩諡号を授与されており、竹林寺行基、忍性、役行者と菩薩号をもつ三人の修行者と、身近に触れ合える霊場ということになります。

奈良時代に南都仏教の興隆と共に創建され、平安時代に一時廃れた後は、鎌倉時代の戒律復興と文殊信仰の隆盛により全盛期を迎え、室町時代には南都仏教の衰退とともに衰えて、明治にはついに廃寺となった竹林寺は、大きな時代の流れとともにその様相を変えてきた寺院です。

個人主義能力主義の浸透により個々人が大きなストレスを抱える現代社会において、竹林寺のように心静かに自分と向き合い、仏様に手を合わせてる場所が復活を遂げたのも、時代の流れに沿った出来事なのかもしれません。

 

竹林寺生駒山周辺の散策で、ぜひ足を運んでいただきたいスポットです。

参考文献

『史朋 (5) 中世の文殊信仰と竹林寺』 佐々木晶子

『奈良朝寺院の研究』 福山敏男 著

『大日本仏教全書 119』 仏書刊行会 編