大和徒然草子

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往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1)

奈良県生駒市は1914(大正3)年の大阪電気軌道(現近鉄)・生駒駅が開業してから、最初は宝山寺参道沿いに県下最大の花街が発達、大阪近郊の歓楽地となりましたが戦争で花街が下火になると、戦後は大阪のベッドタウンとして発展を遂げた町です。

※現在の生駒市中心街の発展史について詳しくは下記の記事をご参照ください。

古社寺を始めとした文化財や、奈良まちや今井町といった古くからの町並みが多く残る奈良県内にあって、生駒市は近代に発達した住宅街というイメージが強く、旧跡、史跡のイメージが湧かない方も多いんじゃないでしょうか。

しかし、生駒もやはり奈良県の町。

市中央部・生駒山麓の壱分町に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)こと往馬大社(通称・生駒神社)は、生駒山神奈備御神体)とした古式の信仰を守る日本有数の古社なんです。

往馬大社は創建年は不詳ながら、延喜式神名帳(927(延長5)年編纂)にもその名が見える古社で、生駒谷十七郷氏神として地域の精神的紐帯の中心を担い、大切に守られてきました。

また、古来より天皇家とも所縁の深い神社で、現在もその関係は続いています。

 

実は筆者は往馬大社の近くにある高校に通っていたのですが、在学中はお参りする機会もなく、どうして現在の市中心部からは少し南に離れたこの場所に「往馬(いこま)」の名を冠する神社があるのか、ずっと気になっていました。

高校卒業から30年足らず経って参拝する機会に恵まれ、神社や周辺地域のことを調べましたので、現在の様子も含めてご紹介します。

往馬大社と周辺地域の歴史について知ると、「新興住宅街」とは違う原風景の生駒が頭の中に思い浮かんできます。

 

往馬大社とは

こちらは、1791(寛政3)年刊行の大和名所図会で紹介された往馬大社の図。

大和名所圖會 巻之3 往馬神社』 奈良県立図書情報館蔵

ほぼ現在の境内と同じ姿で描かれています。
創建年は不詳ですが『総国風土記』の記事の458(雄略天皇3)年が史料に見える最古の記載とされています。

もっとも『総国風土記』は17世紀の初めに『風土記』を擬して編纂された偽書と一般的に評価されているので、その記述を鵜呑みにするわけにはいきませんが、正倉院文書の『大倭國正税帳』(730(天平2)年)に当社の名が見え、自然の山や滝、岩などを神奈備として祀る古神道の信仰形態を持つ点からも、間違いなく凡そ1300年以上の歴史を持つ古社であることは間違いないでしょう。

主祭神生駒山を神格化した伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)、伊古麻都比賣神(いこまつひめのかみ)の男女神二柱が元々祀られていましたが、鎌倉時代八幡信仰の隆盛で八幡神である神功皇后仲哀天皇応神天皇神功皇后の父母の五柱も併せて祀られ生駒八幡宮と呼ばれるようになりました。

江戸時代になると元々の主祭神である男女神二柱は忘れられ、替わって牛頭天王と八王子が祀られるようになりましたが、1875(明治8)年旧名に復す形をとって現在の社名となり、牛頭天王と八王子が祭神から外されるとともに、生駒山の男女神二柱が主祭神として復活します。

 

伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神は古来から火神として信仰されており、風神の龍田大社三郷町)、水神の廣瀬大社(河合町)とともに朝廷からの崇敬も厚く、歴代天皇が即位に際して行う大嘗祭斎田点定の儀(亀甲を焼いてヒビの入り具合から大嘗祭で用いる新穀の産地を決める儀式)で浄火を起こす火燧木(ひきりき)は、往馬大社から献上される習わしで、今上天皇の即位に際しても境内の神木・上溝桜(うわみぞざくら)が献上されています。
※斎田点定の儀の動画。

ちなみに境内の神木・上溝桜は、祓戸社のそばにあります。

また、毎年10月の第2日曜(元は10月10日)の例祭は「火祭り」と呼ばれ、神前の火から採火した松明を若衆が抱えて石段を全速力で駆け降りる「火取り」行事が特色の祭事です。

平安時代には神仏習合が進み、11もの神宮寺があったと伝わりますが、明治の神仏分離令で神宮寺は廃寺となりました。

ただ、江戸時代の『大和名所図会』を見ても境内に仏塔等は見えず、近世までに神宮寺の力は弱まっていたのかもしれません。

 

往馬大社境内

それでは、往馬大社の境内へ向かいます。

往馬大社の場所はこちら。近鉄生駒線一分駅が最寄り駅になります。

一分駅を下車。

この駅で下車するのは実に30年ぶりですが、駅もその周辺も様子は高校時代とあまり変化がなく実に懐かしい(笑)
ちなみに当駅の北側踏切を渡る小道は旧清滝街道。在学中は全く意識してませんでしたが、生駒線は菜畑駅付近から清滝街道と竜田川に沿って並走します。

 

竜田川国道169号線のバイパスを渡り、往馬大社前の道に突き当たると地蔵堂がありました。

1624(寛永元)年に当地に移され往来の人々を見守ってきたお地蔵様ですが、左側の十三仏板碑は1553(天文22)年の銘があり、中央のお地蔵様も室町中期の石仏とされます。

生駒市から平群町にかけ、竜田川沿いの古道には中世以来の十三仏板碑やお地蔵様が多数残されており、こちらもその一つです。

 

往馬大社の境内が見えてきました。

道を挟んで大きな駐車場があります。

祭礼の日や初詣シーズン以外は、自家用車でお参りしても駐車場で困ることはなさそうですね。

正面の石鳥居。

鳥居両脇の石灯籠には「生馬大明神」の神号が刻まれ、神仏習合の信仰の名残が残っていました。

 

鳥居をくぐると、祭事が執り行われるスペースが広がります。

広場の四方を高座、北座、南座管弦楽座といった宮座の建築が取り囲む、中世以来の姿を今に伝える貴重な空間です。

 

本殿のスペースは広場から一段上がった鎮守の森の中にあります。

なお、往馬大社の鎮守の森(社叢)は、宅地化が進んだ生駒山麓にあっては貴重な極相林で、学術的価値の高さから1998(平成10)年に県指定の天然記念物に指定されました。

 

広場から南側斜面にある禊場。

参拝した日は水が流れていませんでした。

 

石段を上ると、立派な楼門が姿を現します。

参拝した年(2023(令和5)年)の干支・ウサギが描かれた額が掛けられていました。

パッと見は楼門というより一層の唐門に見えますね。

 

1877(明治10)年再建の拝殿と社殿。

2018(平成30)年から令和の代替わりを記念して社殿や駐車場など境内の改修事業が進められているとのこと。

 

春日造の本殿が7棟並びます。

修理も終わり、美しい佇まいです。

 

拝殿前の杉の古木は、戦前に落雷に遭い、その後も火災にも遭いましたが「災いに負けない強い生命力を持った御神木」として信仰の対象となっています。

落雷の衝撃による亀裂と火災の跡が生々しいですね。

 

往馬大社には本殿の他にも、多くの境内社があります。

本殿北側の英霊殿と北末社

英霊殿と北末社

末社には春日社、神明社、大山祇社など5社が祀られています。

 

境内の北隅には仏堂がありました。

2001(平成13)年に再建された観音堂です。

仏堂が境内に「仏堂」として残っている神社も珍しいですが、再建された神社も珍しいんじゃないでしょうか。

 

堂内には主祭神の一柱である神功皇后本地仏十一面観音立像が祀られています。

案内板には「伝雲慶作 鎌倉末期~室町初期」とありました。

「雲慶」は東大寺南大門の金剛力士像が代表作である運慶の別名ですが、作成年代が運慶の活動時期から大きくずれているので、違う仏師の作なのか、運慶作と伝えられてきたものなのかは判然としませんでした。

後背や台座など金細工が非常に美しいですが、傷みが激しかったため2011(平成23)年に新たに造り替えられたとのこと。

地元の方々から現在進行形で篤く信仰を受けていることが感じられ、美しいお姿の仏様でした。

 

拝殿南側の祓戸社。

ちなみに火燧木として献上された神木・上溝桜は、こちらのお社のすぐそばにあります。

 

こちらは南末社

住吉社など4社が祀られています。

末社の両脇にある生駒戎神社と稲荷社。

生駒戎神社・稲荷社

生駒山の二柱の他、八幡神春日神、皇祖神、住吉神、戎神、稲荷神など、主要な神様が勢揃いしており、延喜式内大社の名に相応しいお社でした。

 

生駒谷十七郷とは

さて、往馬大社は中世以降、平群郡生駒庄(生馬庄)に成立した生駒谷十七郷氏神として、同地に鎮座してきました。

下図は江戸時代の主要な街道と寺社、生駒谷十七郷の位置関係を現在の地図に記入したものです。

往馬大社は生駒庄のほぼ中央にあり、生駒山山頂の真東に鎮座していることからも生駒山神奈備としていることが明確に感じ取れるロケーションです。

往馬大社と生駒谷十七郷(国土地理院HPより作成)

上図を見ると古くからの郷村は、現在の生駒市中心部よりずいぶん南の方に集中していることが分かります。

宝山時への参道も、現在は生駒駅前から表参道が伸びていますが、大軌生駒駅が開業するまで、山麓からの表参道入口は現在の菜畑駅付近にあり、椚峠を越えてくる奈良、大和郡山方面からの参詣者で賑わいました。

今も石畳の旧参道が残り、市内でも石畳を敷いた江戸時代以前の古道は暗峠宝山寺参道だけで、参詣者の多さを物語っています。

 

生駒谷を東西に走る暗越奈良街道は、古代には平城京と難波津を結ぶ交通の大動脈であり、中世から近世にかけては主要な伊勢参宮街道の一つで、萩原、小瀬で奈良街道と直行する清滝街道は守口宿から東進して田原で磐船街道と合流して南下、斑鳩の龍田大橋で龍田越奈良街道と合流していました。

生駒庄の郷村は四方に延びる古くからの街道沿いに発達していったのです。

古代からの主要街道である暗越奈良街道沿いには特に郷村が集中しており、南北の街道が交差する交通の要衝だった生駒庄は、中世には馬借たちが盛んに活動した地域でした。

室町時代の馬借(石山寺縁起より)

1428(正長元)年に勃発した正長の土一揆では、生駒庄と街道沿いに隣接する鳥見(現奈良市富雄地区)の馬借が蜂起し、西大寺付近を荒らしましたが、興福寺の命を受けた官符衆徒・筒井覚順の手で鎮圧されています。

近年では土一揆は民衆蜂起であるだけでなく、与同した土豪・国人たちの深い関与も注目されており、生駒庄でも室町時代には原城(現生駒市青山台付近と推定される)を拠点に国人の萩原氏が馬借を支配していたとされ、武士の盛んな活動が推察されます。

ちなみに萩原には暗越奈良街道沿いに萩原遺跡があり、弥生時代から室町時代までの住居跡等の遺構が発掘され、生駒地域でも最も古くから人々が活動した地域でした。

 

生駒庄は平安末期の院政期に成立した荘園で、南北朝期までは興福寺一乗院領と仁和寺領が存在していたことが、『大乗院寺社雑事記』などの一次史料から分かっています。(当時の史料では「生馬庄」と記載される例が多い。)

近世までに西畑、藤尾、萩原、小平尾、乙田、小瀬、壱分、有里、大門、鬼取、小倉寺、菜畑、山崎、辻、谷田、俵口、小明と17の郷村が成立し、生駒谷十七郷はその総称で、江戸時代まで生駒といえば生駒谷十七郷の地域でした。

暗越奈良街道と清滝街道の交差点付近は、現在は長閑な農村の風情が色濃く残る地域ですが、近世以前は生駒地域の中心だったのです。

 

ちなみに、生駒谷十七郷が平群に属するのに対し、現在の生駒市北部である高山田原鹿畑は江戸時代まで奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡で、1957(昭和32)年に旧生駒町に編入されるまで全くの別地域でした。

生駒市北部は2006(平成18)年の近鉄けいはんな線延伸で近鉄生駒駅へ直接アクセスできるようになりましたが、それまでは鹿畑、上、高山は奈良市西部の学園前駅富雄駅が鉄道の最寄り駅で、生駒市内でありながら旧平群郡だった生駒市中部より、むしろ同じ旧添下郡に属していた奈良市西部と生活圏が現在も一体化している地域です。

 

現在の生駒市は北部と中南部でかつて所属していた郡が違っていたこともあり、近世以前の歴史もそれぞれ独自の展開を見せました。

北部は中世から戦国時代にかけて、興福寺一乗院衆徒で鷹山庄(現生駒市高山町)を拠点とした官符衆徒・鷹山氏が、有力国人として強勢を誇ったのに対し、中南部の生駒庄には突出した勢力を持つ国人は現れませんでした。

生駒庄を本貫と称した武家で最も有名なのは、江戸時代に讃岐高松や出羽矢島で大名、旗本となった生駒氏です。

生駒氏は、その家伝によると藤原北家藤原良房の末裔で、代々生駒庄の荘官を務めていましたが、応仁の乱の頃に生駒庄を追われて尾張国へ移住したとされます。

尾張に移った生駒氏は小折城(現愛知県江南市)を拠点に馬借業で財を成し、周囲の有力国人と縁戚を通じて関係を深め勢力を拡大しました。

美濃の国人・土田氏には娘を入れ、その子親重を分家養子に迎えて美濃に進出、親重の子が後に豊臣家三中老となる生駒親正で初代高松藩主となります。

また親重の女兄弟に織田信長の生母である土田御前がいました。

若き日の信長は大商人であった生駒氏のもとに、母方の祖母の実家でもある気安さもあってか頻繁に出入りするようになり、生駒氏の娘を妻に迎えます。

信長の事実上の正妻となった生駒氏の娘は、信長との間に嫡男の信忠信雄そして松平信康の妻となる五徳を儲けました。

生駒氏は織田氏と深く結いたことをきっかけに、後の豊臣、徳川の世でも大名、旗本として栄えたのです。

もっとも、生駒氏の大和での事績は一次史料では確認できず、『寛政重修諸家譜』等に記載された生駒氏の家伝の信憑性は必ずしも高いとは言えません。

しかし先述の通り、中世の生駒庄は馬借業が盛んで、生駒氏が尾張移住後に財を成したのも馬借業というのは興味深い符合ですね。

 

生駒氏以外で生駒庄での活躍が伝わる国人としては、田原口城(現俵口町の長福寺)を拠点とした俵口氏や先述の萩原氏などがあげられますが、具体的な活動は一次史料になく詳細は不明です。

戦国期の生駒衆は、現在の平群町を拠点とした島氏島左近を後に輩出する)の傘下に入り、筒井党の一員として活動していたと見られます。

1507(永正4)年の赤沢長経、1559(永禄2)年の松永久秀と相次いだ他国衆の大和侵攻に際しては、生駒衆は筒井党として戦い、長経、久秀によって生駒谷の郷村が焼かれたと『多聞院日記』に記載されています。

豊臣政権以降は竜田藩を経て郡山藩領となり、1679(延宝7)年大和郡山に藤井松平家松平信之が入ると、その弟・信重が5000石で生駒庄を分知されて旗本・藤井松平家として独立し、本家が郡山を離れた後も生駒に留まりました。

以後は郡山藩領と旗本・藤井松平家領が混在し、幕末には山崎村、壱分村、小倉寺村、鬼取村、大門村、藤尾村、西畑村、乙田村が郡山藩領、小瀬村、小平尾村、萩原村、有里村、谷田村、辻村、俵口村、小明村は藤井松平家領、そして菜畑村は郡山藩領分と藤井松平家知行が混在した状態で明治を迎えます。

 

江戸時代、生駒谷の領主は藩領と旗本領に分かれたものの、上下(南北)二郷に分かれて争う往馬大社の祭礼「火祭り」によって、地域としての一体性は明治まで保たれました。

大軌生駒駅が開業した後は、地域の中心地は生駒駅周辺へと移りましたが、生駒谷十七郷と往馬大社は生駒の歴史的背景を下支えする大きな土台のひとつとなっているのです。

 

参考文献

『寧楽遺文 上 大倭國正税帳』 竹内理三 編

『寛政重修諸家譜 第21』 堀田正敦 等編

『姓氏家系大辞典 第1巻』 太田亮 著

『ふるさと生駒の地名と私』 藤本寅雄 著

『奈良県の歴史 (県史シリーズ ; 29)』 永島福太郎 著

国立歴史民俗博物館 旧高旧領取調帳データベース