大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5)

大和政権発祥の地とも考えられている奈良盆地南東部(現在の桜井市天理市エリア)は、古代からの歴史を持つ神社や旧跡が、数多くあります。

奈良県天理市に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)も、同地域の石上神宮(現天理市)や大神神社(現桜井市)と同じく、創建以来長い歴史を持つ一社。

社殿は近代以降建て替えられたものが多いのですが、古代から近代まで長い歴史の中で積み重ねられた様々な由緒や所縁を持つスポットであふれる当社は、山の辺の道や上街道の散策でぜひお立ち寄りいただきたい神社です。

参拝された際により深くスポットを味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介していきます。

 

伊勢神宮に次ぐ社領を有した大和神社

大和神社の場所はこちら。

大神神社石上神宮、長岳寺といった古代から続く同地域の寺社が山の辺の道に面しているのに対し、大和神社は古代官道・上ツ道に由来する上街道沿いに鎮座しています。

もともとの鎮座地は、「大市長岡岬)」で、現在の桜井市穴師から箸中付近もしくは長岳寺境内付近の丘陵地とされ、古代は山の辺の道沿いに鎮座していたと見られます。

中世以降、上街道の往来が盛んになって、氏子の郷村が街道沿いに発達していったこともあり、現在地に遷座したのでしょう。

 

主祭神日本大国魂大神倭大国魂大神:やまとのおおくにたまのかみ)は、『日本書紀』にのみ登場する神で、元々宮中で皇祖神・天照大神とともに祀られていた神でした。

しかし崇神天皇6(紀元前92)年、国内で疫病が大流行して多くの死者がでたため、国が乱れるのは神威の大きな二柱を宮中で祀っていると考えた崇神天皇は、天照大神と日本大国魂大神を宮中の外に祀るように命じます。

そして創建されたのが伊勢神宮大和神社でした。

記紀神話の記述通りであるなら創建から2000年以上の古社ということになりますが、692(持統天皇6)年に持統天皇藤原京造営にあたって伊勢神宮住吉大社とともに当社に奉幣したと『日本書紀』にあるため、遅くとも飛鳥時代には朝廷から篤く崇敬を受ける神社として存在していたことが分かります。

奈良時代の767(神護景雲元)年には、大和、尾張常陸、安芸、出雲、武蔵の6か国327戸もの社領を有し、これは伊勢神宮に次ぐ多さでした。

平安遷都後も朝廷からは引き続き重んじられ、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、11世紀の白河天皇のときに確立した二十二社にも選ばれ、朝廷からの奉幣を1449(宝徳元)年まで受けました。

 

しかし平安末期から徐々に衰え、1118(永久6)年2月には火災で本殿とご神体が焼亡。さらに中世から近世にかけて武家による社領の蚕食が進み、1583(天正11)年には再び火災に見舞われ、社領に関する文書が全て焼亡したことから中世以前の社領をすべて喪失してしいます。

2度に渡る火災で神社の由緒に関わる文書も多く焼失した為、現在地への遷座の経緯といった中世以前の詳細な神社の記録も失われてしまったのは大変残念ですね。

 

15世紀には朝廷からの奉幣も絶えた大和神社は、国家祭祀の神社から大和郷9か村(新泉・成願寺・兵庫・長柄・岸田・佐保庄・三昧田・萱生・中山)の信仰に支えられる地域に根付いたお社として存続しました。

18世紀末に刊行された『大和名所図会』には、江戸時代中期の境内の様子が描かれています。

大和神社(『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会 巻四』)

本殿三社や境内社の他、神宮寺であった北之坊の庫裏や、上街道を行き交う人々の様子も描かれています。

明治に入ると神仏分離令に従って神宮寺であった北之坊は廃寺となり、建物は社務所に改装されました。

そして、1871(明治4)年に近代社格制度では最上位となる官幣大社に列せられると、再び国家祭祀の神社としての性格が強まり、近世以来神主を世襲した市磯氏は職を解かれ、仏教風の建築であった社殿も取り壊されて国費で新築されました。

神社の由緒から、明治国家から重視された結果と言えるでしょう。

戦後は国家の統制を離れ、再び地域に根差した神社に戻り、現在に至ります。

15世紀以前から続く大和神社ちゃんちゃん祭りは、旧大和郷9町の氏子が参加して催され、当社が地元の人々に支えられている姿を示す大規模な祭礼です。

ちゃんちゃん祭りは、風流行列で神社から御旅所へとお渡りする古くからの形式を現在まで伝える祭礼として貴重であり、2018(平成30)年に奈良県指定無形民俗文化財に指定されました。

境内

上街道の西側に面して境内が広がります。

一の鳥居

こちらが一の鳥居で、駐車場は鳥居から境内に入ってすぐ、参道の南側にあります。

鳥居に向かって左(南)側に立つ社標の台石は、もともと鳥居の正面に設置されていたものです。

大和名所図会』にも描かれているこちらの台石の大きさは、大和神社から上街道を700mほど南下した場所にある小字・市場の御旅所にある神輿渡御の際に使われる台石とほぼ同サイズ。

1407(応永14)年に寄進されたもので、もともとは祭礼の際に神輿台として使われていたものです。

明治に入って一度市場の御旅所に移されましたが、1893(明治26)年に社標が建立された際に、その台石として転用されたとのこと。

 

一の鳥居を入り駐車場を過ぎると、日清戦争に従軍した旧朝和村(旧大和郷で現在の朝和小学校校区とほぼ一致)の出征者54名の姓名を刻んだ記念碑が建っています。

日清戦争終結の翌1896(明治29)年に村民たちによって建立されました。

二の鳥居

一の鳥居から200mほど西に進むと二の鳥居です。

二の鳥居から本殿までさらに100mほどあります。

鎮守の森をまっすぐに延びる参道はマイナスイオンいっぱいで、歩くと大変心地いいです。

本殿

こちらは拝殿。

1874(明治7)年に仏式の建築を取り壊して新たに造営された建物です。
官費で建造されたこともあり、非常に立派な拝殿。

また大和神社では2011(平成23)年から2017(平成29)年にかけて、本殿をはじめとした境内各社殿の大修理が行われたため、どちらの建物も外観が整っています。

 

拝殿には大和大明神の額がかけられていました。

奥に見えるのが本殿三社を囲む玉垣と中門。

本社三殿は玉垣に覆われて屋根しか見えません。

中殿に日本大国魂大神、左殿(向かって右)に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿(向かって左)に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。

日本大国魂大神は、先述のとおりかつては天照大神とともに宮中で祀られていたと伝わる神で、大和国の地主神、あるいは大国主神と同一神とする説もあります。

八千戈大神は大国主神の別名で、御年大神はいわゆるお正月に各家庭にやってくる年神様。

現在のご祭神は三柱とも国津神地祇)です。

 

境内社

本殿の他にも多くの境内社があります。

御子神

二の鳥居をくぐってすぐの場所にあるのが、増御子(ますみこ)神社

祭神は猿田彦神天鈿女命の夫婦二柱と初代神主である市磯長尾市(いちしながおいち)。

猿田彦神は道の神、旅人の神として知られますが、ちゃんちゃん祭りでは御渡りの先導役となります。

境内で最も出入口に近い場所でお祀りされているのも、そのためでしょうか。

 

高龗神社(たかおおかみじんじゃ)

本殿の南隣に鎮座しているのが高龗神社です。

龗(おかみ)とは龍の古語なので、要するに龍神様になります。

大和郷は北隣の布留郷と同様、地理的に水源に乏しく古代からしばしば水不足に苦しめられたエリアでした。

そのため祈雨の神として大和神社境内社の中でも特に篤い信仰を受けてきたお社です。

 

こちらは雨師の磐座

雨師とは雨の神になります。

背後の大黒様は2023(令和5)年に奉納されたとのことで真新しいです。

 

本殿は1950(昭和25)年の台風(おそらくジェーン台風)で半壊したとのことですが、2005(平成16)年に建て替えられたとのことで、真っ白な漆喰に朱が映える美しい社殿でした。

 

丹生川上神社との関係

高龗神社について、大和神社のHPでは「丹生川上神社の本社」とあり、『天理市史』の記述にも「吉野郡丹生川上神社は、当社の神霊を勧請して分祀したもの」(『天理市史 上巻 改訂』P693)とありました。

初耳だったので現在三社ある丹生川上神社の方の史料をあたって裏取りしようとしたのですが、吉野側では大和神社についての記事が全く見当たりません。

もっとも丹生川上神社は、応仁の乱で朝廷からの奉幣が途絶えた15世紀以来、正確な鎮座地が忘れられてしまい、現在丹生川上神社となっている三社も上社(現川上村)は「高龗神社」、中社(東吉野村)は「蟻通神社」、下社(現下市町)は「丹生大明神」と江戸時代までは全く異なる社名で、吉野側の記録に何も残ってないのも当然かもしれません。

とはいえ、違和感がぬぐえずよくよく調べてみると、吉野の丹生川上神社が高龗神社から分霊された別宮であるとする根拠史料は、1167(仁安2)年に大和神社の祝部大倭直盛繁という人物が著したとされる『大倭神社注進状』であることが分かりました。

『大倭神社注進状』は平安時代末期の文書として後世の史家に評価され、『群書類従』にも収められている史料ですが、実は18世紀中頃に活動した在地神道家・今出河一友の創作物、いわゆる偽書であると指摘されている文書だったのです。

延喜式』巻三、神祇三の丹生川上神社の項には「凡奉幣丹生川上神者。大和社神主随使向社奉之。」とあり、10世紀頃に丹生川上神社大和神社の間に深い関係があったのは事実のようです。

『大倭神社注進状』でもこの『延喜式』の記述を引用しているのですが、続けて「是丹生川上神社為当社之別宮也」と加筆しており、オリジナルの『延喜式』にはないこの記述が、丹生川上神社が高龗神社の別宮である根拠となっていると考えられます。

全てが荒唐無稽な作り話ではなく、歴史的事実や信憑性の高い史料を織り交ぜて記述するのは偽書作成の常套手段で、『大倭神社注進状』における丹生川上神社に関する記述もその典型と言えます。

また、由緒の創作に盛り込む神社として、近世には鎮座地不明となり反証が困難な丹生川上神社をチョイスした点も、容易に偽書と看破されまいとする今出河一友の巧妙さが強く感じられますね。

ちなみに江戸時代、由緒書や古文書偽造の罪は、死刑になる重罪でした。

そのため簡単にはバレない工夫の他、万一バレても「ただの落書き」と言い訳できるよう、わざと同時代の書札礼を無視した書式にするなど、専門家が見れば偽書と分かる書き方にしてあることが多いとのこと。

 

江戸時代、寺社が復興を図る上で「由緒書」が必要不可欠であり、各地で多くの偽書が作成されました。

天正の火災で中世以前の文書をほとんど喪失していた大和神社も、神社の復興のために口伝や噂レベルの伝承ではなく、「由緒正しい正伝」を求めたのでしょう。

『大倭神社注進状』もそういった希求に応えて生まれた偽書の一つでしたが、その内容が「そうあってほしい史実」として後世の人々に受容され、作成から約300年を経て現在では信仰や神事の根幹をなす大事な伝承のひとつになっています。

偽書」と聞くと「歴史を捏造して真実を曲げるもの」であるとか、「史料的に価値のないもの」といったネガティブなイメージが付きまとい、「無価値」で有害なものと考えられがちです。

たしかに「偽書」の内容を実際の史実として研究することは無意味で時間の無駄だと思います。

しかし、「偽書」の内容がどのような経緯で作成され、どのように人々に受容されていったのかを知ることは、地域の歴史を理解するうえで大きな意義があり、「偽書」も重要な史料といえます。

また、各地で多くの地域社会がその伝承とともに消えていく中で、伝承が史実として地域に受容され、そこから積み重ねられてきた歴史と伝統にこそ誇るべき価値があり、伝承が「偽書」に基づくものであることは、信仰への誇りを損なうものでは全くありません。

ただ、自治体史である『天理市史』にあたかも確定的な史実であるように記述されているのは、歴史学的に信憑性の薄い伝承に自治体がお墨付きを与えることになりかねないので、やや問題があるかなと思います。

次回改訂されることがあれば、「そういう伝承がある」くらいの紹介にとどめるのが良いかもしれませんね。

 

近年、高龗神社では古伝に基づいて復興された神事もあるとのことで、長年地域で大切に守られてきた祈りの場が活気づくのは、これからも地域の伝統が引き継がれていく点でうれしく感じています。

 

さて、今出河一友という人物を私は今回初めて知ったのですが、『大倭神社注進状』の他、石上神宮大神神社といった古社の由緒も作述しているとのこと。

最近↓のような研究書も刊行されていて興味が尽きないのですが、なかなか手が出ないお値段です(泣)

※偽文書について興味のある方は江戸時代の偽書「椿井文書」についてご紹介した下記記事も是非ご一読ください。

 

朝日神社・事代神社・厳島神社

高龗神社の南側に右から朝日神社事代神社厳島神社が並んで鎮座しています。

朝日神社の祭神は朝日豊明姫神で、もとは大和神社から上街道を1kmほど北へ進んだ街道沿いにありました。

日本三代実録』の869(貞観11)年の記事にその名が現れる古社ですが、後年廃れて小祠だけが残り、朝日山円通寺の寺僧が管理していたとのこと。

その後、1875(明治8)年に円通寺も廃寺になってしまい、当地に移されました。

事代神社の祭神は事代主神で『元要記』によれば弘法大師により三輪の市から勧請されたと伝わります。

厳島神社の祭神は市杵島姫命で、こちらも『元要記』によると天川から勧請されたとされます。

ちなみに『元要記』は1188(文治4)年に後鳥羽院により勅選されたとされる寺社の沿革が記載された史料です。

 

2015(平成27)年建立の万葉歌碑「好去好来」。

好去好来」は733(天平5)年に遣唐使として渡唐する多治比広成に、山上憶良が贈った歌で、日本大国魂大神をはじめとした神々の加護により無事に帰国できることを祈念する内容になっています。

ちなみに「好去」とは「さようなら」、「好来」とは「無事に帰る」を意味します。

歌の内容については、うるとら凡人さんの万葉集鑑賞ブログ『大和の国のこころ、万葉のこころ』で、詳しく紹介されていますので是非ご覧ください。

社務所(旧北之坊跡地)

境内北側の社務所は、神宮寺だった北之坊の跡で、江戸時代まで社僧が神社に奉仕していました。

明治の神仏分離で北之坊の建物は社務所に改造されました。

大和神社の神宮寺は北之坊の他、南之坊(観源坊)もありましたが、時期は不明ながら境内北側の兵庫へ移り、現在は神護寺という融通念仏宗の寺院になっています。

南之坊は宮池の南側にあったとされますが、『大和名所図会』にもその姿は見えず、江戸の中頃までには現在地に移転したと考えられます。

 

祖霊社と戦艦大和記念塔

参道の北側に鎮座しているのが祖霊社です。

1874(明治7)年、大国主神大和郷氏子の祖霊を祀るため、新たに創建された神社になります。

現在の祖霊社社殿は、本殿の改築時に日本大国魂大神を祀っていた中殿を移築したものとのこと。

神社のHPによると、当時官幣大社で祖霊社の設置が許可されたのは珍しい例であるとのことで、国家祭祀の神社であるとともに大和郷の郷社としての性格が強い神社であったことの現れとも言えそうです。

さて、祖霊社は本来大和神社氏子の祖霊を祀る境内社でしたが、1953(昭和28)年に坊ノ岬沖海戦で撃沈された戦艦大和戦没者が合祀され、1972(昭和47)年には坊ノ岬沖海戦で戦死した第二艦隊の戦没者も合祀されました。

 

大和郷とは一見無関係の戦没者が祖霊社に合祀されたのは、1942(昭和17)年に戦艦大和の艦内神社として大和神社の分霊が奉祀されたためです。

艦内に大和神社が祀られていたため、その乗組員を氏子と見做して祖霊社に合祀されたということだと思います。

祖霊社の傍らには「戦艦大和ゆかりの神社」と刻まれた石碑が建立されていました。

戦艦大和日本海軍最大の戦艦で、太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日に、大和級戦艦の一番艦として就航します(二番艦は武蔵、三番艦は信濃(後に空母に改装))。

当時、法令の定めは特にないものの、海軍の軍艦には艦名に因んだ神社を勧請して艦内神社を祀ることが通例化していました。

勧請する神社については、戦艦長門長門国一之宮の住吉神社であったように、国名が付された戦艦はその国の一之宮を勧請する例が多かったようですが、大和には大和国一之宮の大神神社ではなく、大和神社が勧請されます。

翌1942(昭和17)年の分霊後、全乗組員が参加する軍艦祭には三度に渡り大和神社宮司が出向いて奉仕しました。

ちなみに戦時中、大和の存在は極秘にされたため、一般の民間人が大和の存在を知るのは戦後のことです。

なので、大和を訪れた当社神職は戦中に大和の存在を知った数少ない民間人で、口外無用と厳しく口止めされていたことでしょう。

また、大和には艦内神社の他、艦長室に日本画の巨匠・堂本印象大和神社三社殿を描いた「戦艦大和守護神」という日本画が掲げられていました。

戦艦大和守護神」は大和の最後の出撃前に、火災の原因となる危険があるため持ち出され、奇跡的に残り、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館に所蔵されています。

 

大和は太平洋戦争で各地を転戦しましたが、1945(昭和20)年4月、沖縄への突入攻撃を企図した天一号作戦の実行部隊・第二艦隊旗艦として出撃、4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖でアメリカ機動艦隊に捕捉され、航空攻撃により撃沈しました。

 

戦艦大和展示室

展示室内部

蔵の隣には、2011(平成23)年に建立された戦艦大和展示室があります。

中には奉納された大和の模型や、写真資料が展示されています。

 

龍王山の雨乞いの展示

大和関連の資料や模型の展示に混じって、なぜか「龍王山の雨乞い」についての解説が掲示されていました。

奈良盆地は古来から水源が乏しく、1987(昭和62)年に吉野川分水が完成するまで農業用水の不足が度々起こったため、田植え前に雨乞いを祈願して山に登るダケノボリという風習が、広く行われていました。

大和郷近辺でもダケノボリは行われ、龍王山山上の湧水池に龍王社を設けて、近年まで雨乞い行事が行われていたそうです。

龍王山山上の龍王社(写真は田龍王社)

雨乞いの祈祷はとんどを焚いたり火振りを行うことが多かったようで、龍王山近辺で広く伝承されている「じゃんじゃん火」という怪火の正体を、こちらの掲示板では、龍王山での雨乞いの火振りや、松明の行列を誤認したものではと推察されていました。

じゃんじゃん火は、「じゃんじゃん」という音を立てて現れると伝わるので、祭囃子の音と雨乞いの儀式の火を麓から事情の知らない人が見かけて錯誤したというのは説得力がありますね。

龍王山は戦国末期に没落した十市氏の居城で、悲劇的な滅亡した十市宗家の無念さに対する思いと山上の正体不明の火が結びつき、じゃんじゃん火は十市遠忠の怨念と信じられるようになったのかもしれません。

 

伊藤整一と戦艦大和の最期

展示の一角に戦艦大和沈没時の艦隊司令と大和艦長、そして大和型戦艦撃沈時の二人の艦長の写真が展示されていました。

右から、天一号作戦時の第二艦隊司令伊藤整、大和艦長・有賀幸作、武蔵艦長・猪口敏平信濃艦長・阿部俊雄になります。

伊藤整一中将は、一般に知名度が高いとは言えない人物ですが、この機会にぜひ知っていただきたい人物なので、最後に簡単ですがご紹介させていただきます。

こちらが伊藤の写真で、軍人というより学校の校長先生のような優しい風貌の人物です。※実際に戦中は長く海軍大学校の校長を兼任していました。

伊藤整一(Wikipediaより引用)

伊藤は、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官山本五十六と同じくアメリカに駐在武官として長期滞在経験をもつ、海軍きっての知米派将校で、山本からの信頼も厚い人物でした。

太平洋戦争開戦時には軍令部次長の職にあり、対米英開戦には反対の立場でしたが、開戦を止めることはできませんでした。

事前に前駐米武官だった横山一郎から、「必ず負ける」「うまくいっても日本は日清戦争以前の状況に戻る(実際にそうなりました)」との状況分析の報告を受けていただけに、開戦は伊藤にとっても無念だったことでしょう。

 

開戦後も軍令部次長を3年以上務め、内地で作戦指導の任に就いていましたが、1944(昭和19)年12月に第二艦隊司令長官となり、翌1945(昭和20)年4月、伊藤は大和による海上特攻作戦である天一号作戦の実行を命じられます。

この作戦は、沖縄に上陸した米軍に対して航空機による特攻作戦(菊水作戦)を実行するにあたり、大和が囮となって米軍迎撃機を引き付けることで特攻機に対する迎撃を緩和させることを主たる目的とし、沖縄本島まで到達した場合には大和を座礁させ、浮き砲台として陸上戦を支援、乗組員は陸戦隊として上陸戦闘を行うというものでした。

作戦成功の公算が極めて低い上に、参加者の生還が望めない作戦であったため、伊藤は当初納得しませんでしたが、伊藤と同じく本作戦に不同意ながら立場上伊藤を説得せざるを得なくなっていた参謀長・鹿龍之介の説得を受け命令を受領します。

伊藤は第二艦隊に着任したばかりで齢19の少尉候補生ら67名と若干の傷病兵を退艦させると、大和以下、軽巡洋艦・矢矧、駆逐艦雪風他7隻の第二艦隊計10隻は、4月6日沖縄に向けて出撃しました。

翌7日、沖縄攻略の任にあったアメリカ第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将は、沖縄に向かう大和を察知すると速やかに迎撃命令を出し、高速空母機動艦隊を率いるマーク・ミッチャー中将から坊ノ岬沖で大和発見の報を受けて攻撃の是非を問われると、アメリカ海軍史上最も短い作戦命令"You take them”.(「君がやれ」)を伝えます。

この時日米両艦隊の司令長官として対峙した伊藤とスプルーアンスですが、実は伊藤が駐米武官だったときに知り合い、深い親交を結んだ仲でした。

友人・知己が敵味方に分かれて殺し合う戦争の残酷さを物語る状況と言えるでしょう。

米軍艦載機の波状攻撃を受けた第二艦隊は壊滅的打撃を受け、大和も沈没を避けられない状況となると、伊藤は作戦中止を連合艦隊司令部へ具申し、被害の少なかった雪風、初霜、冬月の3隻の駆逐艦に生存者救助を命じて、自身は司令官室に入って沈没する大和と運命を共にしました。享年54。

坊ノ岬沖海戦で、大和だけでも約2700名が戦死し、第二艦隊全体では約4000名もの将兵が命を落としました。

しかし、大和沈没間際に伊藤から作戦中止の具申を受けた連合艦隊が、正式に作戦中止を命じたため、健在だった3隻の駆逐艦は沖縄へ向かうことなく転進し、生存者約1700名を乗せて佐世保に帰港することができたのです。

もし伊藤が最後に作戦中止を具申していなければ、残存の駆逐艦は作戦を続行し、第二艦隊は全滅して、さらに多くの犠牲者を出していたことでしょう。

伊藤は出航前に前途ある若者たちを退艦させ、作戦続行不可能と見るや作戦の中止を即座に判断しましたが、一人でも多くの将兵を絶望的な特攻作戦から生還させようと努めた伊藤の姿勢からは、無謀な作戦に対する反発と、預かった将兵の命を無為に失わせまいとする現場指揮官としての強い矜持を感じます。

 

さて、伊藤は天一号作戦で出撃する前に、妻・ちとせに一通の遺書を残していました。

海軍軍人らしい率直で簡潔な言葉から、伊藤の妻への思いやりや深い愛情があふれ出る一文を最後に紹介して終わらせていただきます。

 

親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿

 

※伊藤の生涯とその家族については、下記のノンフィクションが詳しいので、是非ご一読ください。

 

次回の後編では、ちゃんちゃん祭りでお渡り神事が行われる、境外のスポットをご紹介します。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『朝和村郷土誌』朝和村教育会

『延喜式 : 校訂 上巻』皇典講究所, 全国神職会 校訂

『神社の歴史的研究 第二 大倭神社注進状井率川神社記等の偽作』西田長男 著

『國學院雜誌 91(1)(994)』 國學院大學