1477(文明9)年に応仁の乱は東軍勝利で終結したものの、その原因となった畠山義就と畠山政長による畠山氏の家督争いは終わることなく続きました。
河内と大和を実力で切り取った義就は南山城にも進出。
山城守護にあった政長との間で、南山城は激しい係争地となりました。
こうした中、他国衆に荒らされた南山城の久世、綴喜、相楽三郡の国人たちは1485(文明17)年に国一揆を結成し、守護である両畠山氏を実力で追い出し、国人の合議制による惣国を建設します(山城国一揆)。
畠山氏の内訌は引き続き残ったものの、大規模な戦いは沈静化し、ようやく応仁の乱以来の畿内の戦乱は沈静化しました。
大和では西軍の越智氏、古市氏が東軍の筒井氏、十市氏を駆逐し、筒井氏当主の筒井順尊は、大和への帰国が叶わないまま1489(長享3)年7月京都で客死します。
1489~91年にかけては将軍・足利義尚、大御所・足利義政、そして足利義視と足利将軍家の主要な人物が相次いで亡くなり、義視の子・足利義材が1490(延徳2)年に10代将軍に就任したものの、足利家の事実上の家長であった日野富子、畿内の最高実力者である細川政元、幕府政所執事として幕政を取り仕切る伊勢貞宗らは新将軍との確執を抱え、急速に幕府内の政局は不安定化していきました。
明応の政変
1491(延徳3)年8月、将軍・義材は前将軍・義尚に引き続き、第2次の六角氏征伐のため近江へ出兵します。
幕府奉公衆の多くの領地が六角氏家臣に横領されており、義材はこれを取り戻して奉公衆への恩賞とすることで、幕府内での求心力を高めようと考えたのでしょう。
細川政元の反対を押し切り、諸大名にも大号令を出して義材自ら出陣した六角氏討伐は、幕府方の大勝利に終わりました。
近江を平定して意気上がる将軍・義材の目は、前年に猛将・畠山義就が世を去り、嫡男・義豊(当時は基家)が跡を継いでいた河内に向かいます。
生前の義就に1467(文正2)年の御霊合戦以来、煮え湯を飲まされ続けてきた畠山政長は、ライバル義就の死を河内奪回の絶好のチャンスと見て、将軍・義材へ義豊追討を求めたのです。
義材としても、自分に従順な畠山政長によって畠山氏が再び統一されれば、分裂で力を落としていた畠山氏の力が復活し、何かと非協力的な細川政元に替わって、自分を支援してくれる勢力になってくれるという期待もあったでしょう。
細川政元は、当然河内出兵に反対しました。
父・勝元の代から畠山氏の家督争いに介入してきた細川氏の真の狙いは畠山氏の弱体化にあり、政長によって畠山氏が再統一されることを望んでいなかったのでしょう。
義豊が父・義就とは違い、幕府に対しても表立って敵対的な行動をとっていなかったこともあり、戦の大義がないと河内出兵に反対したのです。
また、幕府奉公衆の領袖的立場にあった伊勢貞宗も、政元と同様に河内出兵に反対します。
奉公衆の領地が多数横領されていた近江とは違い、河内に奉公衆の利害はなく、河内出兵はあくまで自身の権力基盤を強めたい義材の都合であって、義政以来の奉公衆は、疎遠な義材に対して終始冷淡な姿勢を取りました。
しかし、そういった反対を振り切り、ついに1493(明応2)年2月15日、義材は河内へ出陣します。
出兵の理由は、義豊配下の越智氏、古市氏が、寺社本所領を侵略しているからというものでした。
この義材出陣に呼応して、福住に逼塞していた成身院順盛率いる筒井党が挙兵し、越智、古市方の小城を次々に陥落させます。
また、京都に亡命していた十市遠清も矢田(現大和郡山市矢田町)から長安寺(現大和郡山市長安寺町)へと進出し、手勢は十市郷まで攻勢をかけ矢木市(現橿原市八木)を焼き払うなど攻勢を掛けました。
しかし、大和における筒井党の反攻はここまでで、2月30日には十市遠清は越智方の反撃にあい敗北。
十市遠清は宇陀へと落ち延び、大和への帰国を果たせぬまま1495(明応4)年に亡命先で死去し、十市氏家督は遠清の孫・遠治が継ぎました。
一方、出兵に反対しつつも、義材の出陣前には祝宴で饗応して京都に残った細川政元は、3月に入ると恐るべき陰謀を具体化させていきます。
それは将軍・足利義材を追放し、堀越公方・足利政知次男の清晃を新たな将軍に担ぎ出そうというものでした。
政元は、幕府奉公衆の領袖である伊勢貞宗の支持を得るとともに、日野富子の同意を得たうえで、応仁の乱以前から細川氏が支援していた畠山政長を切り捨て、敵対していた義就の子・義豊と手を結んだのです。
この方針転換に伴い、政元は義豊方の大和の有力者であった越智家栄、古市澄胤にも密使を送って陣営に加えることに成功。
ついに4月22日、政元は京都で挙兵して清晃の新将軍擁立と政長の河内守護職解任を公表しました。
この突然のクーデターに京都や将軍・義材の親征に同行していた奉公衆や大名たちは混乱しましたが、日野富子が政元支持を表明したうえに伊勢貞宗が義材に従う奉公衆や大名に「新将軍」に従うよう密書を送ると、奉公衆や大名たちのほとんどが政元に従う姿勢を見せ、4月27日までに河内の陣を次々と引き払います。
4月28日に清晃は還俗し、11代将軍・足利義澄(当時の名乗りは義遐)となりました。
この明応の政変により足利義材と畠山政長、尚順父子は正覚寺(現大阪市平野区加美正覚寺)に孤立。
政長は嫡男・尚順を領国の紀伊に逃すと自害して果て、義材は囚われの身となります。
家臣の反乱によって新将軍が擁立されるという事態は、応仁の乱で山名宗全が将軍・足利義政に対抗して義視を擁立した事例があるものの、明応の政変はそのクーデターが成功した最初の事例として画期であり、足利将軍家の権威失墜と室町時代の秩序崩壊が一段進んだ事件となりました。
なお、同年の夏から秋に関東では伊勢新九郎(北条早雲)による伊豆侵攻「伊豆討入り」が始まります。
戦国時代の嚆矢とされる「北条早雲の伊豆討入り」ですが、近年では新将軍・義澄が母と弟を殺した足利茶々丸の討伐を伊勢新九郎に命じたもので、明応の政変と連動した動きとする説が提示されています。
明応2年は東西で本格的に戦国時代の幕が開ける年となったのです。
さて、明応の政変で勝者側に付いた越智氏と古市氏は、越智家栄が伊賀守、修理大夫に相次いで任じられるなど、この頃に両氏は全盛期を迎えます。
しかし、共通の敵が弱体化して互いに勢力が増すと小さな紛争が生じたのか、この頃から両氏の関係には徐々に不和が芽生えてきたようで、越智氏、古市氏の栄華は早くも綻びを見せ始めました。
山城国一揆の崩壊
明応の政変で中央の政局が大きく変わる中、その変化の渦に大きく巻き込まれたのが南山城です。
南山城の久世、綴喜、相楽の三郡では1485(文明17)年以来、守護の畠山氏を実力で追放した国人衆による自治が、7年余り続いていました。
幕府はこの状況を黙認していたものの、完全に認めていた訳ではなく、畠山氏追放後は政所執事である伊勢氏を守護に任じていました。
しかし自前の強い兵力を持たない伊勢氏の支配が南山城に及ぶことはなかったのです。
明応の政変で前将軍・義材の排除に成功した伊勢氏は、義材派へ対抗する目的で強引に山城の一円知行化を目指すようになりましたが、現地の激しい抵抗にあってうまくいきませんでした。
そこで伊勢氏当主の伊勢貞陸は、かねてより南山城の利権に関心を持っていた奈良の古市澄胤に目を付け、1493(明応2)年9月7日澄胤を綴喜郡、相楽郡の守護代に任じます。
山城侵攻の大義名分を得た澄胤が9月11日に山城へ侵攻を開始すると、山城国一揆側は抗戦派と恭順派に分裂しました。
元々国人衆も一揆成立まで両畠山氏にそれぞれついて対立していた経緯もあり、内部に境界争いなどの紛争も抱え、必ずしも一枚岩ではなかったのです。
そのため、伊勢氏からの切り崩しによって、伊勢氏に恭順しようとする一派は惣国一揆から離脱していまいます。
抗戦派は稲八妻城(現京都府精華町)に籠りますが、古市澄胤の攻撃を受けて落城。ここに山城国一揆は崩壊しました。
なお、この時の様子を記述した『大乗院寺社雑事記』明応二年九月十一日条には「今日越智勢ハ一人モ不出之。古市与不和云々。」とあり、古市澄胤による南山城侵攻は古市勢による単独侵攻となったのは、越智と古市の不和によるものと記載しています。
畠山義豊方として協力しながら筒井党との抗争に勝利を収めてきた越智氏と古市氏の連携は、両氏の全盛期を迎えた明応の政変以降影を潜めることになります。
また、伊勢貞陸による寺社本所領への侵略は、興福寺の荘園を侵略することであり、本来興福寺官符衆徒である古市澄胤が伊勢氏の侵略に加担することは、自身の役割を放棄したも同然であり、奈良における澄胤への信頼を失墜させるものとなりました。
こうして南山城に進出を果たした古市澄胤ですが、その支配は地元国人の根強い抵抗もあってなかなか浸透しません。
そんな中1494(明応3)年10月、山城守護が伊勢貞陸から細川家分家で阿波守護家の当主・細川義春に替わると、古市氏の南山城支配は大いに揺るぎ始めました。
翌1495(明応4)年11月には河内の畠山義豊家臣の遊佐弥六が「山城守護」を称して南山城へ進駐。大乗院尋尊は、この出兵は古市氏を援護するためかと推測しています。
この畠山氏による南山城出兵は細川政元を大いに刺激し、翌1496(明応5)年8月政元は麾下の猛将・赤沢朝経を南山城へ派遣して、畠山、古市の両氏へ圧力をかけました。
結局、10月には畠山氏、古市氏はともに南山城から撤兵。
翌1497(明応6)年には赤沢朝経が、古市澄胤に替わって南山城の守護代となり、澄胤の南山城進出の野望はここに頓挫したのです。
筒井党の逆襲と他国衆侵入の衝撃
管領家・畠山氏は、義就と政長の代で完全に二つの家に分裂し、義就の流れが上総介を官途名としたことから総州家、政長の流れが尾張守を官途名としたことから尾州家とそれぞれ称するようになります。
応仁の乱を争った義就と政長が世を去り、その子の代になっても、河内を本拠とする総州家の義豊と紀伊を本拠とする尾州家の尚順は、一進一退の小競り合いを繰り返していました。
しかし、1497(明応6)年7月、総州家の重臣・遊佐氏と誉田氏が内紛を起こすと、同年9月、総州家の混乱に乗じて尚順は河内へ進撃し、大和では逃亡生活を送っていた筒井党の成身院順盛や筒井順賢が大和へ帰還して挙兵します。
10月に入ると筒井党と越智、古市勢らは各地で合戦に及びますが、かねてよりの不和もあってか古市、越智勢は敗退。
今市の越智氏代官・堤氏は敗走し、小泉氏、竜田氏といった越智党の主要国人たちも館を焼いて没落しました。
この勝利で1477(文明9)年に畠山義就によって大和を追われた筒井氏が、22年ぶりに本領を回復して帰国を果たします。
一方河内では、10月8日、尾州家・尚順が高屋城(現大阪府羽曳野市古市)を陥落させ、総州家・義豊は山城へ逃亡。
同日、大和では成身院順盛が越智郷に攻め入り、越智家栄、家令父子は壺阪寺へ逃れ、越智郷は大火に包まれました。
11月には十市遠治(遠清の孫)が壷阪寺に攻め込みましたが、越智父子も奮戦してこれを撃退。味方に大損害を受けた十市遠治は、成身院順盛と畠山尚順に援軍を求めます。
援軍要請に応じた畠山尚順が河内から大和へ進出し、万歳城(現大和高田市市場)に進駐すると、壷阪寺に籠る越智父子はもはや防ぎきれないと考えたのか、吉野へ逃亡。
明応の政変で全盛期を迎えてからわずか4年で、南和最大の国民であった越智氏は本領を失い没落してしまったのです。
さて、この時、大和へ進駐した畠山尚順の行動が、興福寺を震撼させます。
畠山尚順は奪い取った万歳氏の所領を、自分の馬廻衆に恩賞として与えてしまったのです。
これまで大和国内では南北朝時代以来、激しい領土の争奪戦が繰り広げられてきましたが、あくまで大和の衆徒・国民間での領地の移動に限られていました。
しかし、今回の事態は大和の荘園が初めて他国衆に切り取られた事例となり、興福寺に大変な衝撃を与えます。
この件は翌年1498(明応7)年2月に行われた興福寺の学侶・六方の集会でも議題に上がり、『大乗院寺社雑事記』の中で尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ(神国ニ被入武家之給人事、爲寺社珍事趣也)」と、怒りを込めて書き残しました。
南和で越智家栄、家令父子が吉野に没落する一方、北和の古市澄胤は10月の敗戦から立ち直り、1497(明応6)年11月14日再び百毫寺付近に300余りの兵を率いて布陣し筒井勢を迎撃します。
対する筒井勢は、超昇寺、秋篠、宝来などの国人を従え1000の兵で古市勢を強襲しました。
戦いは筒井氏の大勝に終わり、古市勢は多くの武将が討ち取られ、大将の澄胤は伊賀へ逃亡。
古市氏もまた全盛を迎えてからわずか4年で、領地を失い没落します。
こうして1477(文明9)年以来続いた、越智氏、古市氏の優勢と筒井党の没落という構図は完全に逆転し、大和は筒井党が優勢となりました。
しかし、畠山尚順の侵攻を嚆矢として、以後、大和は他国衆による侵略という新たな脅威にさらされることになります。
この脅威は、戦国時代後期の松永久秀による侵攻まで、大和を襲い続けることになりました。
いよいよ大和の本格的な戦国動乱が、幕開けすることになったのです。
参考文献
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