太平洋戦争末期、日本全国の都市は米軍の激しい空襲に晒され、陸海軍基地や工場だけでなく多くの民家が焼かれ、銃後の人々が戦災で命を失いました。
そんな中、戦後「京都と奈良は空襲を受けなかった」という言説が、まことしやかに語られるようになりました。
曰く、京都と奈良は世界的に貴重な文化財があったため、米軍が爆撃を避けたのだと。
しかし、この言説は全くの神話にすぎません。
米軍はイタリアで、西欧文明の至宝が集まるローマを容赦なく爆撃しており、なじみの薄い日本の文化財消失に拘泥するなど到底考えられないことです。
米軍が京都、奈良に大規模空襲を掛けなかった原因は、単に重要な軍事施設がほとんどなかったことと、京都に関しては原爆投下の有力候補であったため、広島同様、市街地を焼き払うような爆撃が避けられたという説に説得力があるように思います。
実際に奈良県では1945(昭和20)年6月から8月の敗戦まで、爆撃を含め15回もの空襲を受けました。
奈良県下の空襲被害
奈良県下では下表のとおり1945(昭和20)年6月1日からポツダム宣言受諾直前の8月14日まで、被害を伴う空襲が15回も発生しています。
■奈良県下の空襲年表※全て1945(昭和20)年
月日 | 場所 | 攻撃 | 死者 | 負傷者 | 家屋被害 |
6.1 | 奈良市一条通り沿い | 爆撃 | ー | ー | 全焼4戸、半焼3戸 |
6.10 | 奈良市法華寺 | 不明 | ー | ー | 民家2戸全焼 |
6.15 | 田原本町満田 | 爆撃 | 4 | ー | 民家33戸全半焼 |
7.初 | 桜井市長谷 | 銃撃 | 1 | ー | ー |
7.14 | 王寺町 | 銃撃 | 2 | ー | ー |
7.19 | 明日香村阪合 | 銃撃 | 1 | ー | ー |
7.24 | 榛原駅東250m | 銃撃 | 11 | 27 | ー |
7.28 | 柳本飛行場(現天理市) | 不明 | ー | ー | 民家3戸焼失 |
7.28 | 大輪田駅付近(現河合町) | 銃撃 | 1 | ー | ー |
7.30 | 片桐村(現大和郡山市) | 銃撃 | 2 | ー | ー |
8.8 | 北宇智村(現五條市) | 銃撃 | 5 | 49 | ー |
8.8 | 下田(現香芝市) | 銃撃 | 2 | ー | 火災3戸 |
8.14 | 天理市庵治 | 不明 | ー | ー | 民家1戸半焼 |
不明 | 大和高田市 | 銃撃 | 2 | ー | ー |
不明 | 橿原市畝傍御陵前駅付近 | 銃撃 | 1 | ー | ー |
※『奈良県の百年 (県民100年史_29)』より作成
空襲開始から2か月半という短い期間で、奈良県内では死者数32人、負傷者76人を出しました。
この数は、日時、場所などが明らかなものだけで、戦後、日本政府の経済安定本部がまとめた『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』によれば、奈良県の空襲による死者は68人、負傷者は122人となっており、2日から1日に一人は空襲による犠牲者が出ていたことになりますから、恐ろしく感じます。
奈良が受けた最初の空襲は6月1日の午後に奈良市一条通付近(現在育英高校近辺)に対して行われた、B29による爆撃でした。
同日午前中には2回目の大阪大空襲が行われていますが、この攻撃は奈良市を攻撃目標としてマリアナ基地を飛び立ったB29により実行されたもので、米軍が古都・奈良への攻撃に対して何の斟酌も加えていなかったことを示しています。
この時、民家7戸が全半焼したものの、死者や負傷者は出ませんでした。
しかし、6月15日正午過ぎに現在の田原本町満田集落を襲った空襲でついに犠牲者が出ます。
焼夷弾による爆撃で集落の東半分が焼け、全焼13戸、半焼20戸、死者4名(うち1名は児童、1名は乳幼児)という大きな被害が出ました。
なぜ、奈良盆地の一農村である満田が爆撃されたのは定かではありませんが、当日の午前中、阪神間を中心に大規模爆撃が実施されており、その余波を受けての空襲とも考えられます。
この満田空襲が奈良県下では初めて死者を伴う大規模被害をもたらした空襲となりました。
その後、7月に入ると艦載機の機銃掃射による空襲が、奈良県内で頻発することになります。
実は筆者の母方の祖母が、7月30日の片桐村(現大和郡山市南西部)の空襲に遭遇しており、筆者が小学生の頃、その体験談を直接聞かせてくれました。
昭和2年生まれの祖母は当時17~8歳でしたが、米軍機は外を歩く人は老若男女を問わずに機銃掃射し、祖母は友人と二人で必死に物陰めがけて逃げ込んだといいます。
その時の機銃掃射の音は今でも忘れられないと祖母は言いました。
この空襲で片桐国民学校の児童2名が命を失っています。
亡くなった児童が祖母と同じ集落の子どもだったこともあって、その変わり果てた姿を目の当たりにした祖母は、「自分も同じ目に遭っていたかもしれないと考えたらとにかく怖かった」と、当時の率直な気持ちを聞かせてくれました。
低空飛行の艦載機による銃撃で、引き金を引いたパイロットは、照準器の先に逃げる子どもの姿が見えたはずです。
敵を「自分たちとは違う悪魔」だと、同じ人間とは思わなくなった時の人間の残酷性には、心の底から戦慄を覚えます。
榛原空襲
さて、奈良県内で最大の犠牲者を出したのが、7月24日の榛原空襲です。
午前9時頃、大阪方面行3両編成の電車が近鉄榛原駅に入線する直前、駅から東へ約250mのところで停車中に、急降下してきた米軍艦載機の機銃掃射を受けたのです。
朝の通勤・通学時間帯と空襲が重なったこともあり、満員の旅客車輛を襲った銃撃で、乗客11人が死亡、27人が重軽傷という惨事が引き起こされました。
現場ガード下のコンクリートには、その時の銃痕が今も生々しく残されています。
奈良県内の戦争遺跡の中でも数少ない空襲被害の傷跡をはっきりと残す場所になります。
1975(昭和50)年に、この榛原空襲による犠牲者の供養塔が、空襲現場からすぐ東側の交差点付近に建立されました。
日々の通勤・通学が一転して理不尽な地獄と化す、近代戦の悲惨さを今に伝える戦跡です。
北宇智(五條)空襲
榛原空襲とともに大きな被害が出たのが、8月8日に北宇智村(現五條市)周辺で発生した空襲でした。
午前10時頃、4機の米軍艦載機が空襲警報とともに吉野方面から飛来し、2機はそのまま北へ飛び去ったものの、そのうち2機が反転。
1機は北宇智国民学校、もう1機は国鉄北宇智駅へ向かいました。
北宇智国民学校では9時頃空襲警報を受けて児童を校舎に待機させ、米軍機の爆音が止んだ後、児童を帰宅させようとしていましたが、まさにその時反転したきた米軍機が校舎へ攻撃を加えたのです。
米軍機が学校玄関めがけて放った数発のロケット弾(爆弾との証言もあり)は、二つの校舎を貫通して校舎全体に被害が及びました。
この攻撃で教師2人と5年生の児童1名が死亡し。教師2名が左足を切断する重傷を負います。
園児たちが楽しく過ごすこの地が、凄惨な空襲の現場になったとは現在の姿からは想像がつきません。
なお、北宇智国民学校の後進である北宇智小学校は、2023年3月いっぱいで閉校となりました。
学校のHPを拝見すると折に触れ、昭和20年8月8日に北宇智国民学校で起きた空襲は子どもたちに伝えられていたようです。
学校は学校となりましたが、引き続き五條市内でこの戦争の記憶が引き継がれていくことを願います。
(あと、全くの余談ですが、北宇智小学校はプロ野球選手・岡本和真選手の母校だったりします。)
さて反転した米軍機のうち、もう1機が向かった国鉄北宇智駅には、五条駅方面から到着した上り列車が、引上げ線からスイッチバックでホームに入線しようとしていました。
列車がホームに入線した10時30分、上空から襲い掛かった米軍機は機関車から客車にかけて機銃掃射をかけ、機関助手が即死した他、機関士、乗客ら47名が重軽傷を負いました。
その内、17名の重傷者のほとんどが、後にその傷がもとで死亡したと『五条市史 下巻』にはあります。
こちらが現在の北宇智駅駅舎で、駅自体が、当時の駅から少し北側に移動しました。
北宇智駅は2007(平成19)年まで、ホームから五條方面の線路に入るにはスイッチバックが必要な、関西では非常に珍しい構造となっていました。
スイッチバック解消後に駅は現在の場所に移動し、空襲を受けた当時のホームは現在では使用されなくなっています。
北宇智国民学校、北宇智駅を襲った米軍機は、吉野川に架橋された大川橋にも攻撃を加え、婦人1人がここでも犠牲となりました。
大川橋北詰にあった理髪店に爆弾が投下されたという証言もあるので、橋を落とすために爆撃を加えたのかもしれません。
さいごに
奈良県下の空襲の特徴は、民間人を執拗に攻撃した点にあるでしょう。
15回の空襲のうち、明確な軍事施設への攻撃は7月28日の柳本飛行場への攻撃だけで、工場への攻撃という点では、大和高田の高田製鋼所があるだけです。
鉄道への攻撃という点では、詳しくご紹介した榛原、北宇智の空襲以外に、7月14日の新王寺駅、7月28日の大輪田駅への攻撃が知られますが、全て旅客車輛を襲ったもので、明確に民間人に打撃を与え、殺害することが目標だったと考えられます。
昭和20年6月以降、沖縄戦には勝利したものの、沖縄における自軍の損耗に戦慄したアメリカは、一刻も早く日本を降伏させようと、日本人の戦意を挫く目的で民間人を標的とした無差別攻撃を激化させました。
まさに奈良県における空襲は、そういった米軍の意図を如実に物語る内容で、最終的に広島、長崎の原爆投下に至る流れの中で行われたことと考えられます。
しかし、実際には原爆を含めた民間人への無差別攻撃は、日本人の敵愾心をあおる効果しかなかったと筆者は感じています。
戦後書かれた、広島、長崎での被爆体験や、東京、大阪での空襲体験記を読んでも、アメリカへの敵意と憎悪、報復の誓いの声が殆どで、さっさと降参すべきと思ったというような声はほとんど見かけないからです。
戦後に書かれたものですから、被災当時の心境をほとんどの体験者は本音で綴っていると考えてよいでしょう。
そういった意味で、民間人を標的とする原爆を含めた無差別攻撃に、戦争を早期終結させる戦略的効果は全くなかったといえるでしょう。
日本政府が8月15日のタイミングで降伏を決断したのは、講和の仲介役を期待していたソ連が8月9日に参戦したことが、最大の原因だったと筆者は考えています。
アメリカが無差別殺戮の戦略的効果が高くないことを身をもって知ったのは、1973年にベトナムで惨憺たる撤退を味わったときかもしれません。
民間人への攻撃が、受けた側の敵愾心を高めるのは近年のウクライナでの戦争を見ても明らかですね。
戦争の早期終結を目指したロシアの目論見は、理不尽な攻撃で家族や隣人を殺されたウクライナの人々の敵愾心によって打ち砕かれました。
古代史や古社寺に比べると、奈良県下の空襲は語られることの少ない歴史ですが、将来世代へ引き継いでいくべき、大事な奈良の歴史的記憶です。
奈良と戦争に関する当ブログの記事
■旧海軍の航空基地・柳本飛行場に関する記事
■戦後まもなく奈良にあった米軍基地と慰安施設についての記事
■ローマ空襲に関する記事
■昭和天皇が立憲君主制の枠を超えて行った二つの決断についての記事