大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(2)

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皆さんこんにちは。

 

真珠湾攻撃隊の総指揮官を務めた淵田美津雄の半生をご紹介する、今回2回目となります。

前回はその出生から海軍士官となり、飛行将校として歩みだした淵田をご紹介しました。 

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1922年のワシントン海軍軍縮条約以来の軍縮の時代は、1934年に日本が軍縮条約の破棄を通告し、2年後に無条約時代を迎えるに至って終焉を迎えます。

世界は再び軍拡の時代を迎え、日本海軍は大和、武蔵の建造を核とする通称③計画を発動させました。

日中戦争の泥沼化と日独伊三国同盟締結によって急速に日米関係が悪化する中、海軍大学校を卒業した淵田は、転任した空母赤城が所属する第一航空戦隊指令、小沢治三郎に、それまで各艦隊に1~2隻分散配置することが常識化していた空母を、一個艦隊に4隻以上集結させる航空艦隊の編成を建言。

航空主兵の実現を具体的に示したこの建言は、小沢を通じて海軍上層部に上申され、後に真珠湾攻撃で実現されることになります。

異例の飛行総隊長

1941(昭和16)年8月、前年の11月に空母赤城の飛行隊長から、第三航空隊参謀として岩国で飛行隊の訓練にあたっていた淵田に、再び「赤城飛行隊長」への転任辞令が下ります。

この異動は淵田本人にとっては意外なものでした。

淵田は中佐への昇進が決まっており、現場指揮官である飛行隊長というのは階級的にそぐわなかったのです。

年齢的にもすでに39歳で、直接パイロットとして前線で戦うのは少々厳しい年齢となってきており、今更現場は難しいと考えていました。

艦上にあって航空隊全体の指揮を執る「飛行長」の間違いではないかと思いながら、転任先の赤城に乗り込んだ淵田でしたが、やはり「飛行隊長」とのこと。

これは大変だと思った淵田でしたが、来年度、第一、第二各航空戦隊空母の集団使用を演練することになり、各空母飛行隊の統一指揮のため、中佐クラスの大飛行隊長が必要とされていると聞かされます。

この話を聞いた淵田は、自身が建言した航空艦隊がいよいよ編成されるのだと確信します。

そうであれば、二度目の赤城飛行隊長はうんざりどころか、淵田にとっては「光栄の至り」。勇躍してその任に就きました。

 

さて、当時の空母といえば、前回でもご紹介した通り、各艦隊に1~2隻ずつ配置され、各艦に飛行長があって、それぞれに独立性が強い編成でした。

本来各飛行隊の隊長も横並びであり、これを統一指揮するというのは困難なミッションでしたが、第一航空艦隊に所属する、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の各航空隊を九州南部の各航空基地に、それまでの母艦別ではなく、機種(戦闘機、爆撃機雷撃機)別に配置しての集団訓練を、淵田は見事に統一指導して見せます。

肩書としては、他の飛行隊長と同格の淵田でしたが、統一指揮官のため、「飛行総隊長」と通称されました。

 

第一航空艦隊の訓練が続く9月、訓練を終えて飛行隊指揮所で一息入れていた淵田を訪ねる男がいました。

第一航空艦隊参謀となっていた源田実少佐です。

淵田にとって源田は海軍兵学校の同期であり、海軍大学校時代、ともに航空主兵を唱えた盟友です。

内密の話があるということで、淵田は源田を自分の私室に案内し、そこで源田から聞かされた話は、驚くべきことでした。

「実はな、こんど貴様は真珠湾空襲の空中攻撃隊の総指揮官に擬せられているんだ」

淵田は寝耳に水のことで、「真珠湾空襲ってなんだ」と思わず聞き返しました。

当時日米交渉の雲行きが怪しくなっており、万一日米開戦となった時には、開戦劈頭、真珠湾に空襲をかけてアメリカ太平洋艦隊を撃滅しようという山本五十六聯合艦隊司令長官の着想があると源田は話し、そしてこう告げます。

「それができるのは第一航空艦隊の空母群の空中攻撃隊だけで、それを引っ張ってゆくのが貴様なんだ」

この言葉に淵田は奮い立ち、そしてこのとき、自分を赤城の飛行隊長に呼び戻したのが源田であると直感しました。

実際に、淵田を空中指揮官に抜擢するよう仕向けたのは源田です。

真珠湾空襲にあたっては、前例のない空母集中運用による各空母飛行隊の統合指揮という難問があり、源田にすれば気心の知れた淵田を総指揮官に据えることで、スムーズに作戦の意図を現場に伝えられると考えたのでしょう。

源田は、真珠湾空襲の具体的な作戦計画とそれに向けた訓練の打ち合わせに淵田を参加させるため、訓練中の淵田を迎えに来たのでした。

 

源田とともに旗艦赤城の参謀長室に同行した淵田に、真珠湾空襲の作戦計画が明かされます。

それは、航空機からの雷撃(魚雷による攻撃)を主とする攻撃で、真珠湾に停泊しているアメリカ太平洋艦隊の空母と戦艦を撃滅するというものでしたが、淵田は真珠湾の海図を見ながら、大きな疑念を抱きました。

真珠湾は浅い海で、水深は12メートルほど。

当時の日本海軍の雷撃方法はというと、目標からの距離1000メートルの場所から高度100メートルで魚雷を発射するというもので、この雷撃方法だと、発射された魚雷はいったん水深60メートルまで沈みます。このいったん沈む深さを沈度といいますが、従来の発射方法では、魚雷は全て真珠湾の海底に突き刺さってしまうことになるわけです。

「これでは浅すぎる。」

淵田は真珠湾の浅さから、雷撃攻撃は困難ではないかと声を上げました。

淵田の言葉に源田は答えます。

「魚雷の利かないところで魚雷を利かせたら、戦果は100%だ。どうだねフチ。何とか工夫はないものかね」

常識的に魚雷攻撃が不可能と思われる真珠湾では、アメリカも対策していないであろう。そこに魚雷攻撃を仕掛ければ、大きな戦果を挙げられるという訳です。

この常識外れながらも鋭い着想に、淵田はむしろ水深12メートルの真珠湾で、敵艦に魚雷を命中させてやろうと決心しました。

真珠湾では雷撃と水平爆撃の2段階で臨む。

そのための訓練が、その日に向けて行われていくことになりました。

 

大海令第一号

真珠湾空襲に向け、淵田はその作戦計画に沿った爆撃機雷撃機の訓練を統率することになりました。

しかし、訓練開始時点で、淵田以外に真珠湾空襲のための訓練であることを知らされていた飛行隊員は、赤城の雷撃隊長であった村田重治大尉(当時)だけで、真珠湾空襲の件は、隊長クラスを除いて直前まで飛行隊員たちに知らされることなく、訓練がすすめられることになります。

特に訓練で困難な目標を課せられたのは雷撃隊でした。

雷撃隊は、魚雷の沈度を10メートルに抑えるという難問をクリアする必要があり、これを実現するため、海面すれすれを飛行して、極限まで浅い角度で魚雷を発射するという訓練を延々と続けることになります。

11月になっても目標を達成できずにいましたが、淵田は不可能な課題ではないと考えていました。

というのも1940(昭和15)年にイタリアのタラント軍港停泊中のイタリア戦艦3隻が、イギリス海軍の空母艦載機の雷撃によって撃沈されたのですが、そのタラント港の水深は14メートルほど。イギリス海軍攻撃機は海面すれすれでの魚雷発射で雷撃を成功させていたのです。

イギリス海軍などに負けてたまるかという思いも、淵田の中では強かったようです。

猛訓練の賜物で、ムラはあるものの沈度10メートルの目標はほぼ達成されるようになりました。

 

さて、訓練が進む中、淵田に頭痛の種が一つ加わります。

第一航空艦隊に、新たに就航した瑞鶴、翔鶴の2隻の空母が急遽加わることになったことでした。

空母2隻の加入で量的には充実したものの、それまで集団訓練を積んできた赤城、加賀、蒼龍、飛龍の第一、第二航空戦隊と、瑞鶴、翔鶴のパイロットの練度の差は歴然としており、歩調をあわせることは困難なものがありました。

また、作戦時期が切迫した状態で、訓練を重ねることも難しくなっています。

そこで、真珠湾港湾での敵艦隊撃滅は、練度が高い従来の4空母の飛行隊が担当し、新規の2空母は、ハワイの米軍航空基地の爆撃を担当することとして、完全な住み分けを行いました。

また、新規の航空隊は夜間飛行の練度に不安があったため、当初夜間発艦、夜間飛行で黎明に実行する予定であった空襲を黎明発進、早朝飛行で行うことに変更することになります。

これは、奇襲であることを肝要とする作戦において、大きなマイナス要因で淵田は不安に包まれることになります。

 

そして迎えた11月5日、対米交渉がいよいよ最終盤を迎え、来栖三郎特命全権大使が開戦回避の切り札として渡米する中、大海令(大本営海軍部命令)第一号が発令。

真珠湾空襲へ向けて、具体的な艦隊行動がここから始まります。

九州南部で訓練に明け暮れていた6隻の空母の各航空隊は母艦に戻り、極秘裏に択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾へ向けて移動することとなりました。

それまで第一航空艦隊の各隊が訓練を重ねていた各飛行場には、九州の別の練習航空隊が入って、翌日から訓練始めます。

それまで日夜猛訓練をしていた飛行隊が姿を消せば、当然何らかの作戦行動に移ったのだろうと容易に察知されます。それを防ぐためのカモフラージュで、外見上は昨日までと変わらない風を装いました。

外見ばかりでなく、各飛行場間の通信量も前日以前と変わらないようにされ、徹底的に真珠湾攻撃を担う第一航空艦隊の行動は秘匿されました。

 

11月21日から22日かけ、択捉島単冠湾に空母6隻を中核とする31隻の大艦隊が集結しました。

次々と入港してくる巨艦に、島民たちは度肝を抜かれたことでしょう。

この日から択捉島は島外との交通、通信の一切を遮断され、12月8日の真珠湾空襲のその日まで、島民たちは島の中に缶詰め状態とされます。

11月22日になり、ようやく艦隊の全員に攻撃目標がハワイ真珠湾であることが、艦隊司令である南雲忠一中将から告げられました。

そして11月26日、空母赤城を旗艦とする第一航空艦隊は、ハワイ諸島の北方800浬の待機地点を目指し、密かに出航しました。

 

真珠湾空襲は、奇襲であることが成功の大要件でした。

事前に察知されれば、攻撃目標であるアメリカ太平洋艦隊の主力が逃亡するばかりでなく、反撃を受ければ空母主体の第一航空艦隊を失う危機もあったわけです。

30隻を超える大艦隊が、ハワイまでの3000浬を、発見されずに押し渡るというのは相当の僥倖に恵まれねば成しえないことでした。

そのため、何とか途中商船などに鉢合わぬよう、直近10年ほどの商船の航路記録を調べ、一隻も実績がなかった北緯40度線の航路を選択していましたが、アメリカの哨戒網に引っかからない保証などなく、相当に賭博性の高い作戦だったことが伺えます。

 また、冬場の北緯40度線は、大きく時化ることでも知られました。

当時の日本海軍の艦艇は、迎撃を主眼に設計されているため、速度は速いのですが、航続距離がありません。

そのため洋上給油を行うため給油艦随行させたわけですが、時化が続けば給油もおぼつかない状況でした。

しかし、作戦の秘匿を最優先したため、困難ななかでも洋上給油は「人事を尽くせ」で押し通したわけです。

後世の我々は、真珠湾攻撃の成功を知っているので、奇襲作戦に用意周到なイメージを抱きがちですが、実際には多くの不安定要素を抱えた作戦だったのです。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。

次回はこちら。

 

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