大和徒然草子

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大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8)

応仁の乱以前から長らく続いた細川氏畠山尾州筒井氏という同盟関係は、1493(明応2)年に勃発した明応の政変細川政元尾州家の畠山政長を切り捨て、総州義豊と連携したために完全に崩壊しました。

東軍勝利で終わった応仁の乱の結果とは裏腹に、河内、大和で旧東軍勢を駆逐した総州家と大和の越智家栄古市澄胤は、明応の政変によって幕府との連携を深め、全盛期を迎えます。

しかし、その後河内では総州家内部の家臣同士の争いが起こり、大和では越智氏と古市氏の関係が次第に険悪化。

こうした総州家の綻びを見逃さず、1497(明応6)年に明応の政変で没落後に紀伊で反撃の機会をうかがっていた政長遺児の畠山尚順尾州家)がついに挙兵し、河内へと進撃を開始します。

尚順の挙兵に呼応して、大和でも筒井氏が挙兵すると、叔父・成身院順盛の補佐を受けた若き当主・筒井順賢は、不和で連携の取れない越智家栄、古市澄胤らを打ち破りました。

応仁の乱終結した1477(文明9)年以来、大和を追われていた筒井氏は、20年ぶりに本拠・筒井城に戻り、旧領を回復します。

また、筒井氏とともに大和を追われていた十市も、新当主・十市遠治十市城に帰還し、大和では越智党の優勢から一転し、筒井党が優勢となりました。

尚順の進撃は河内だけでなく大和まで及び、越智党の万歳氏を破った尚順は、闕所(刑罰等により所有者がいなくなった土地)となった万歳氏の旧領を家臣に与えました。

この大和の領地が他国衆に切り取られるという前代未聞の事態は、大和は興福寺の支配地であるという形式上の在り方を揺るがすもので、大和守護を自任する興福寺を震撼させます。

それまで国内の国人衆たちによる領土争いから、他国衆による大和の侵攻と段階が進み、大和の戦国時代が本格的に始まった瞬間でした。

大和国一揆の胎動

畠山尚順と筒井順賢、十市遠治の進撃は翌1498(明応7)年も続き、大和における越智党の残存勢力掃討を進めます。

3月には郡山氏(現大和郡山市)を下し、4月に入ると越智党に寝返っていた井戸氏(現天理市)、片岡氏(現北葛城郡一帯)を相次いで攻略。

本拠の片岡谷(現香芝市今泉)を攻撃された片岡利持は自害。この時、片岡氏本宗家は滅亡しました。

その他、竜田氏は城を追われ、小泉氏も攻撃を受けて自害したとあり、奈良盆地西部の平群、葛下両郡が、筒井氏を中心とした尚順方の勢力下に入ります。

 

翌1499(明応8)年正月、ついに畠山尚順河内十七箇所(現守口市門真市付近)で義豊との決戦に勝利。

義豊は敗死し嫡男・義英細川政元を頼って京都へ逃れました。

勢いに乗る尚順は、同年9月に越前に逃れていた前将軍・足利義尹(よしただ・前年義材から改名)と呼応して挙兵すると、京都に攻め込む姿勢を示します。

この動きに連動して尚順方の大和国人衆も南山城へ進出。

この戦いは11代将軍・足利義澄を擁する細川政元と、10代将軍・義尹を擁する畠山尚順の対決という、応仁の乱を彷彿とさせる様相を呈しました。

 

南北から挟撃される恐れのあった細川政元の窮地を救ったのが、政元配下の猛将・赤沢朝経です。

赤沢朝経は、弓術の流派・小笠原流で知られる小笠原氏の諸流・赤沢氏の当主で、元は信濃の武士でした。

弓の名手であった朝経は、家督を嫡男政経に譲って上洛した後、若き日の細川政元小笠原流の弓法を伝授したことがきっかけで、8代将軍・足利義政の弓術師範となり、後に武者所(警護役)を兼任します。

1491(延徳3)年に鷹狩の腕を気に入られたのがきっかけで細川政元の被官となり、細川家では持ち前の武勇で数々の武功を挙げ、外様衆ながら重用されるようになります。

 

1499(明応8)年7月、細川政元比叡山延暦寺が越前の前将軍・足利義尹と呼応する動きを察知すると、赤沢朝経らに比叡山の焼き討ちを命じました。

7月11日、朝経は波々伯部(ほうかべ)宗量とともに比叡山に攻め上ると、根本中堂をはじめとした山上の主要伽藍をほぼ全て焼き尽くし、政元の命令を忠実に実行します。

武士による比叡山攻撃は1434(永享4)年に6代将軍・足利義教に次ぐものでしたが、この時は門前町を放火したのみだったのに対し、山上の主要伽藍を焼き払ったのは前代未聞の事件でした。

有名な織田信長比叡山焼き打ちから遡ること72年前で、神罰も仏罰も恐れない細川政元、赤沢朝経主従の近世武士的な側面が垣間見えます。

 

9月に畠山尚順が挙兵し大和国衆が南山城に進出してくると、政元は赤沢朝経を派遣。

朝経は南山城に展開していた大和国衆を撃破すると、瞬く間に南山城を平定し、大和へ侵攻する姿勢を見せます。

この朝経の快進撃を目の当たりにして、大和国衆では古市澄胤がその傘下に入ります。

大和国内で筒井氏に押されている戦況を、朝経の力で挽回できると考えたのでしょう。

一方、筒井、十市、越智ら、他の国人たちは赤沢朝経の大和侵攻へ大きな脅威を感じ、積年の対立を乗り越え、和睦の動きを見せました。

『大乗院寺社雑事記』十月二六日条には、赤沢朝経に従った古市氏を除き、筒井、成身院、越智、十市、楢原ら30名余りの有力国人たちが「義澄(細川政元)と義尹(畠山尚順)の抗争に中立を保つこと」「大和から他国衆を排除すること」を申し合わせて和議を進めた旨が記されています。

畠山尚順によって闕所となった万歳氏、片岡氏の領地が他国衆の手に渡ったことは、興福寺の学侶・六方だけでなく、筒井、越智ら衆徒・国民たちにも大きな衝撃を与えたのでしょう。

他国勢力による侵略という現実的脅威の前に、南北朝の争乱以来絶えることなく抗争を続けていた筒井氏と越智氏が初めて手を結ぶ姿勢を見せたのです。

結局、和睦は多武峰の反対があって最終的に破談となりますが、山城国一揆で見られたのと同じ動きが、大和でも胎動していたのです。

 

赤沢朝経の大和侵攻

1499(明応8)年11月、京都を目指して越前から進軍していた前将軍・足利義尹は、近江坂本で六角高頼に敗れて河内へ敗走し、河内でも細川政元に打ち破られ、大内義興を頼って周防へ落ち延びます。

畿内での将軍・足利義澄細川政元の優位が確定すると、数千の軍を率いて南山城へ駐屯していた赤沢朝経の大和侵攻は一層現実味を増したため、奈良に緊張が走りました。

筒井党は山城との国境を固めるとともに、興福寺の六方は赤沢朝経調伏の呪詛を行う中、同年12月18日、ついに赤沢朝経は歌姫街道(現京都府道・奈良県道751号木津平城線)を南下して大和へ侵入。

超昇寺城(現奈良市山稜町)で超昇寺氏、宝来氏らを主力とする筒井党と合戦になりました。

明応8年・赤沢朝経による奈良侵攻略図

合戦は朝経の圧勝に終り、筒井党は多数の死傷者を出して敗走。赤沢軍は近隣の法華寺、海龍王寺、西大寺を打ち壊し、喜光寺に火を掛けます。

喜光寺(重文の本堂は天文年間の再建)

この襲撃で鎌倉時代再興の本堂を始めとした喜光寺の堂塔伽藍は、ほぼ全て焼失しました。

さらに赤沢朝経は古市澄胤の手引きで奈良に乱入すると、興福寺の院下・僧房から春日大社まで、略奪と乱暴狼藉の限りを尽くし、自身を呪詛した興福寺に報復しました。

鎮護国家の象徴たる比叡山と奈良の寺社をともに破壊しつくした武士は、後にも先にも赤沢朝経をおいて他にいません

他国衆に奈良の寺社がここまで徹底した破壊を受けたことに衝撃を受けた尋尊は、「先代未聞沙汰也」と悲嘆をこめて『大乗院寺社雑事記』に書き残しています。

この赤沢朝経の侵攻で緒戦に敗れた筒井方は、筒井順賢、成身院順盛の他、十市遠治や番条氏、楢原氏も逃亡を余儀なくされ、奈良以外の大和国内各所が焼亡しました。

翌1500(明応9)年2月になると赤沢朝経は興福寺領に段銭を課し、6月には闕所となった筒井党の領地である田井庄、大市庄(以上、現天理市)、若槻庄、番条庄、伊豆七条庄(以上、現大和郡山市)を配下に知行地として与えるなど大和北部への支配強化を進めます。

なお、同年2月に応仁の乱から大和における畠山総州家方の中心的武将であった越智家栄が世を去り、嫡男・家令(いえのり)が南和の雄・越智氏惣領となりました。

 

さて、大和への強権的支配を強める赤沢朝経に対し、1501(文亀元)年に興福寺は撤兵を求めて神木動座、いわゆる強訴を朝廷に対して行いました。

しかし、朝経は朝廷の命令を無視して翌1502(文亀2)年には平然と大和へ出兵。

もはや中世以前の神威も朝廷の権威も、全くその威力を発揮することができなくなっていたのです。

大和国一揆の結成

管領細川政元は半将軍と呼ばれるほどの勢威を誇り、政元が当主を務める細川京兆家による畿内一帯の支配は盤石と思われました。

しかしその支配は政元の後継問題よって俄に揺らぎ始めます。

政元は若年の頃から修験道に没頭して生涯女性を近づけなかったため、実子がいませんでした。

そこで1502(文亀2)年に摂関家九条家から家督相続を条件に養子に迎えていた澄之を正式に嫡子と決め、丹波国守護に任じます。

ところが翌1503(文亀3)年に細川一門の阿波守護家讃州家)から澄元を養子に迎えると、突如澄之を廃嫡。澄元を後継者にしてしまいます。

政元は権謀術数に秀でた有能な政治家でしたが、一方で天狗のように空を飛びたいと怪しげな修行に熱中したり、突然放浪の旅に出たりするなど奇行も目立ち、この唐突で気まぐれな後継者変更劇で家中は大きく動揺しました。

領国が広がり譜代、外様と肥大化した細川家臣団は、澄之派と澄元派に分かれてお決まりの派閥抗争を始めるのです。

この細川家の内訌で1504(永正元)年閏3月には、薬師寺元一、赤沢朝経らが政元を廃して澄元を擁立する謀叛が発生。謀叛は直ちに鎮圧されましたが、謀叛に加担した赤沢朝経は一時失脚し、大和、河内での細川家の軍事的プレゼンスは大きく低下しました。

 

この隙を利用しようとしたのが尾州家の畠山尚順で、細川政元の傀儡として河内で対峙している総州家・畠山義英を抱き込んで、弱体化した細川政元と対抗しようと考えたのです。

畠山義英も細川政元からの独立を模索していたことから両者の利害が一致し、1504(永正元)年12月に両者は会見し。河内を半国ずつ分けることで和睦を締結し、実に50年近く続いた両畠山氏の内訌が、いったん収束することになったのです。

この動きに、両畠山氏について相争っていた大和の衆徒・国民たちの間にも和睦ムードが高まり、翌1505(永正2)年2月に筒井順賢、越智家令、箸尾為国、十市遠治、布施行国ら主要な大和国人たちは奈良に参集。春日社頭に起請文を捧げ、和睦の誓いを固めました。

ここに、1499(明応8)年に一度は潰えた大和国一揆の体制が開始されたのです。

1414(応永21)年の幕府による私合戦の停止令以来、90年ぶりに大和の主要な衆徒・国民間に和睦が成立した瞬間でした。

さらに同年2月末には越智家令の娘が筒井順賢に輿入れし、縁組によって盟約のさらなる強化が図られました。

なお、赤沢朝経に与して他国衆を大和へ引き込み、興福寺と他の大和国人を裏切った古市氏は、この盟約からは外されています。

 

一揆が目指したものは、山城国一揆と同じく局外中立他国衆の排除にあり、長年相互の利害で血みどろの抗争を繰り広げた大和の国人たちでしたが、他国からの現実的侵略に対しては興福寺春日大社を精神的紐帯として結束した点は、世俗的権力をほとんど失ってもなお、大和守護としての興福寺がもつ象徴的な影響力が、大和の武士たちに及んでいたことを示唆しています。

色々お互い気に入らないことはあっても、外に敵が現れたら同じ興福寺に仕える身であるという仲間意識を、大和の武士たちは持っていたと言えるでしょう。

 

大和で国人一揆が結成された同年、赤沢朝経はその武勇を買われて細川政元の許しを得て復権し、再び河内の畠山氏討伐を命じられます。

同年11月、政元は興福寺に対して河内へ進軍する際、大和を通過する旨を通告しました。

これに対して大和国一揆は連判の上、反対を表明します。

細川政元大和国衆の協力を得られないまま河内攻めを強行し、赤沢朝経は河内へ進撃。翌1506(永正3)年正月には畠山義英の居城・河内誉田城、畠山尚順の居城・高屋城を相次いで陥落させ、瞬く間に河内を席巻しました。

畠山義英、尚順はそろって大和へ逃亡しましたが、これが大和の緊張を一気に高めました。

同年8月、畠山氏攻めに協力しなかったことと、畠山の両大将を匿ったことを罪に問い、再び赤沢朝経が大和へ侵攻します。

 

この時、成身院順盛は赤沢朝経の剛勇を恐れ、細川政元に実家の筒井家当主である筒井順賢の助命嘆願を交渉しましたが、8月1日に順賢は赦免を拒否して国人一揆に参加しました。

この時の順賢の悲壮な決意が『多聞院日記』永正三年八月朔日条に「雖然一国令逐電者、一身之安堵其甲斐トテ(大和から逃げ出して生き延びても仕方がない)」と記されています。

こうして大和国一揆は一致団結して、赤沢朝経の来襲に徹底抗戦の姿勢を示しました。

 

赤沢朝経・二度目の乱入とその最期

徹底抗戦の構えを見せる大和国人たちに対して、今回も赤沢朝経はその剛勇を示し、1日で秋篠、宝来(ともに現奈良市)を突破すると、西大寺に陣を移し翌8月3日には西ノ京、郡山を陥落させます。

さらに8月4日、赤沢朝経が郡山まで陣を進めると、井戸城(現天理市)に籠っていた筒井順賢と成身院順盛は不利を悟って東山中に撤退しました。

今回の赤沢朝経は徹底的に大和を蹂躙しようとしていたらしく、さらに軍を南に進めて8月11日戒重城(現桜井市)を陥落させると、十市遠治、箸尾為国は多武峰(現桜井市)に籠城し、越智家令は大窪(現橿原市)まで進出して睨み合いとなりました。

永正3年・赤沢朝経による大和侵攻略図

8月16日、東山中へと兵を引いていた筒井順賢は、赤沢朝経の主力が南和に進出したのを見図って、手薄となった古市郷(現奈良市)を急襲します。

この攻撃に古市澄胤・胤盛父子は敗退。筒井勢は古市郷を焼き払ったのち、郡山城を奪回。8月21日には続々と北和の国衆が郡山城に入城した他、伊賀衆の参陣などもあり反撃の体制を整えつつありました。

しかし北和の異変を察知した赤沢朝経は、戒重から素早く北上を開始し、8月24日、現在の天理市中心市街である布留郷一帯で、筒井順賢と決戦に及びます。

この戦いは赤沢朝経の大勝に終わり、数十人もの有力家臣を失った筒井順賢ら筒井党は東山中の吐山(現奈良市)まで撤退しました。

散々な敗北であったようで、筒井勢の敗北の様を『多聞院日記』の同日条には「言語道断之躰也」と記しています。

翌日には郡山城が落城した他、古市澄胤によって奈良や平野(現香芝市か)でも筒井党が打ち破られると、越智、十市、箸尾勢はそろって多武峰に籠城しました。

 

北和の残敵を掃討した赤沢朝経はすかさず南進し、8月27日には耳成山に陣を構えて多武峰への攻撃を開始しました。

一揆勢の他、多くの寺衆も討ち取られ9月5日に多武峰は陥落。

談山神社・権殿(旧行者堂)赤沢朝経の焼討から最も早く、永正年間に復興されたお堂

多武峰は焼き討ちに遭って大きな被害を受けることになりました。

おそらく多武峰に籠った越智、十市、箸尾勢らは吉野方面に逃れたようで、10月10日には赤沢勢は吉野の竜門郷にまで攻め入り、村々を焼き払っています。

こうして大和再侵攻で勝利を収めた赤沢朝経は、討ち取った国人衆の首級131を京都に送り、闕所となった国人衆の所領を自らの支配下に収めて、奈良盆地一帯を知行地化しました。

 

しかし、翌1507(永正4)年6月23日、天下を揺るがす大事件が勃発します。

管領細川政元が廃嫡された養子・澄之の家督相続を目論んだ内衆・香西元長らによって暗殺されたのです。(永正の錯乱

この時、赤沢朝経は政元の命により一色義有を攻撃中で、丹後に遠征していました。

6月27日に政元の横死を知った朝経は、和議を結んで撤退を図りますが、一色勢の反撃に遭って自害に追い込まれ、一色攻めに従軍していた古市胤盛までもが討死してしまいます。

足利義政の弓術師範から身を立て、山城上三郡の守護代と大和一国の主まで一代で駆け上がった男の余りあっけない最期でした。

 

細川政元と赤沢朝経の唐突な死によって、細川氏に蹂躙されていた河内と大和では駐屯していた細川政元、赤沢朝経配下の兵が逃散してしまいます。

そのため、空き城となった河内高屋城には紀伊から畠山義英が復帰し、大和では赤沢朝経に追われた筒井順賢、越智家令ら大和国人衆が旧領を奪回しました。

細川政元の暗殺により、応仁の乱足利将軍家、畠山氏、斯波氏が分裂して力を失う中、一族が鉄の結束を守って覇権を握った細川氏が、宗家・細川京兆家家督を巡りついに分裂。

以後、分裂した将軍家、細川氏、畠山氏の合従連衡畿内を戦乱に巻き込み、大和の武士たちもその渦の中に飲み込まれることになるのです。

 

参考文献

『奈良県史 第11巻』 奈良県史編集委員会 編

(4)片岡氏とその城塁跡

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