大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1)

戦国時代の大和国(現奈良県域)では南北朝の争乱以来、激しく抗争する二つの国人がいました。

一つは添下郡筒井(現大和郡山市)を本拠として、戦国後期に大和の覇権を握る筒井順昭順慶父子を輩出した筒井氏

そしてもう一つが、高市郡越智(現高取町)を本拠とした越智氏です。

越智氏は大和南部を中心に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方主力として活躍した他、応仁の乱では西軍・畠山義就軍の中核兵力として大和、河内、京都を転戦し、一時は筒井氏ら東軍勢力を大和から駆逐して北和にも勢力を広げました。

戦国後期には一族間の争いもあって衰退し、近世初頭に筒井順慶の策謀と家中の混乱により滅亡しましたが、越智氏は筒井氏と並んで大和を代表する武家であり、越智氏なしでは大和の中世史は語れない重要な一族です。

 

越智氏が本拠とした越智は、西に曽我川、東は高取川にはさまれた、標高約200mほどの山塊からなる越智岡丘陵の中央を東西に延びる、南北約250m、東西約2kmの細長い谷間・越智谷にあります。

越智谷の場所はこちら。

最寄りはJR和歌山線掖上駅、もしくは近鉄吉野線の飛鳥駅で、散策には飛鳥駅からレンタサイクルの利用がおすすめの場所になります。

越智氏滅亡から400年以上経ちますが、現在も越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を散策しながら、今回はその足跡をご紹介します。

 

越智氏について

まず、越智氏について簡単にご紹介しておきましょう。

越智氏は平安時代中期、藤原道長に仕えて大和国司となり、大和南部に勢力を扶植した源頼親を祖とする大和源氏の一流を称した一族です。

越智氏が本拠とした越智(現地ではオウチと発音する)は、鎌倉時代春日大社領の南越智庄で、鎌倉時代中期の南越智庄荘官の中に源家弘の名が見え、源姓で、かつ越智氏歴代の通字「家」を名乗っていることから越智氏の先祖とも考えられています。

鎌倉時代後期にかけて、全国的に幕府や荘園領主の命に服さない「悪党」が跋扈しますが、高市郡は大和でも最も悪党の勢力が強かった地域の一つでした。

大和を知行国とする興福寺は寺領の保全と治安維持のため、これらの悪党たちのうち、強力な勢力を懐柔して体制内に取り込み衆徒・国民として傘下に収めていきましたが、越智氏も春日大社国民となって興福寺の傘下に入り、やがて地域の武士団のリーダー的存在になりました。

大和の武士団は、興福寺により鎌倉後期から南北朝期にかけ、春日若宮の祭礼を通して地域ごとに組織化されていきますが、越智氏を中心とする散在党は、大和国内ではいち早く組織化され、鎌倉末期には強力な武士団に成長します。

 

越智氏が歴史の表舞台に出現するのは南北朝の争乱期。

1350(正平5)年10月、足利尊氏と弟・直義の関係が悪化し、身の危険を感じた直義が大和へ逃亡して南朝方に降伏した時、直義と南朝の間を取り持ったのが越智氏で、この時『大乗院日記目録』に名が出る越智伊予守が、一次史料に現れる越智氏の初見となります。

越智氏は大和国における南朝方主力となって活動し、幕府方として勃興した筒井氏を中心とする勢力と熾烈な抗争を続けました。

南北朝合一後も越智党と筒井党の戦いは、15世紀前半まで実に150年以上も続くことになります。

 

越智氏は南北朝時代に勢力を拡大し、高市郡(現横大路(伊勢本街道)以南の橿原市、明日香村、高取町)の全域を勢力下に収め、葛上郡(現御所市)の一部にも進出します。

越智氏勢力図(国土地理院HPより作成)

上図は越智氏の勢力下に築かれた城郭等の分布図で、越智岡の谷間にある越智城を中心に、一族や被官化した有力国人を要地に配して、一躍南和の雄となったのです。

 

越智氏は1429(正長2)年に発生した大和永享の乱室町幕府6代将軍・足利義教から討伐を受け、当主・越智維通が戦死して一時没落しますが、1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱で将軍義教が暗殺されると、義教により冷遇されていた河内の畠山持国復権し、持国の後援を受けて維通の遺児・越智家栄が越智氏を再興します。

家栄は持国死後はその子・畠山義就に仕え、応仁の乱では西軍主力として活躍し、大和だけでなく、京都、河内を転戦しました。

そして応仁の乱本戦が東軍勝利で終わった後も、家栄は河内に割拠した畠山義就とともに転戦し、大和から東軍勢力だった筒井氏、十市氏、箸尾氏を駆逐して、古市澄胤とともに大和の覇権を掌握。越智氏の最盛期を築きます

しかし、1497(明応6)年に筒井党の反攻を受けて家栄が敗北すると、越智氏の運命は暗転します。

家栄は本拠の越智郷を追われると、1500(明応9)年に失意のうちに病死して、以後越智氏の勢力は振るわなくなりました。

ライバルの筒井氏が一族間の結束が強固だったのに対して、越智氏は一族間の争いが絶えずに弱体化し、1546(天文15)年には筒井順昭の侵攻を受けて越智郷が占領され、ついに筒井氏の軍門に降ることになったのです。

以後、度々本領復帰を目指して筒井氏に対して散発的な反抗を繰り返すものの、筒井順慶の時代には完全にその傘下に入ります。

そして1583(天正11)年、布施氏から惣領家に養子として入った越智家秀は、順慶に通じた家臣たちによって暗殺されて、ついに越智氏は滅亡しました。

越智氏の遺領には松倉右近ら筒井氏内衆が入り、筒井氏による南和支配が完成することになります。

 

越智谷

さて、下図はかつて越智氏がほ本拠とした越智谷の航空写真に、旧跡や河川、鉄道駅等を記入したものです。

越智谷周辺図(国土地理院HPより作成)

越智岡丘陵の中央部を南北に分断する越智谷の西端に、越智氏の居館である越智城があり、越智城周辺には越智氏初代の越智親家が創建したと伝わる天津岩門別神社、親家を祀った有南神社、越智氏歴代の墓所がある光雲寺があります。

そして丘陵北側のピークには詰城である貝吹山城が築かれ、谷の北側、東側を防護していました。

下掲の写真は越智谷の遠景で、手前の鉄塔が立つ小山が領主居館を取り囲む越智城、奥の山が詰城であった貝吹山城です。

越智岡丘陵は飛鳥のすぐ西側にあり、古代には多くの貴人が葬られ、近年、斉明天皇の陵墓と推定され注目を受ける牽牛子塚古墳をはじめとした多くの古墳が築造されましたが、越智城、貝吹山城ともに古墳群の墳丘や周濠を曲輪(防御陣地)や土塁、堀として活用していました。

 

また、当地に残った越智氏の一門、郎党の子孫とされる人々の聞き書き等を近世まとめた『越智家覚書』によれば、越智氏居館の周りには家臣の屋敷地が広がり、谷の中央に位置する寺崎集落の東側には「勘定場」があって、「南北の大道」沿いには商家が並んで六斎市が開かれるなど、城下町の様相を呈していたとされます。

そして、谷の北西に位置する字・大石には城下の北の関門である乾木戸があったとされ、越智岡丘陵を天然の城壁として谷間に領主居館と城下町が広がる様から、越前朝倉氏が本拠を置いた一乗谷とよく似た構造だったと想像されます。

東西2km以上の越智谷と越智岡丘陵全体を城郭と捉えることも可能で、中世大和国人の本拠地としては、最大の規模を誇る城塞都市だったと言えるでしょう。

 

越智城

下掲は現在の越智城跡周辺の航空写真に城域の字と遺構等を記入した図です。

越智城概略図(国土地理院HPより作成)

コの字型の丘陵に囲まれた小字・オヤシキが越智氏居館跡で、丘陵の尾根上には古代の古墳群を利用した曲輪群が並び、数か所の堀切で遮断されています。

発掘調査で城跡南西に溝跡が検出されており、屋敷地の区画を仕切る堀と見られ、鎌倉から室町時代にかけての建物跡や土器などの遺物も発掘されています。

ただ、遺物の殆どは14~15世紀頃のもので、戦国時代後期の16世紀のものは殆ど検出されておらず、城跡北西の北ノ寺廃寺跡の瓦も概ね15世紀頃のもので、火災で焼かれた跡が見られるとのこと。

15世紀末の1497(明応6)年に、越智家栄は筒井順賢十市遠治に敗れて越智城を失陥しており、以降は高取城が越智氏の中心城郭となっていきます。

越智城近辺で15世紀末以降の遺物が見られなくなる発掘結果は、家栄の敗走後、本拠地としての越智城は破棄され、より要害堅固な高取城周辺に越智氏の拠点が移動したことを示すものと言えるでしょう。

 

こちらは現在の越智城を南側から見た姿です。

コの字型の丘陵に囲まれた旧居館跡は畑地になり、南に広がる字・馬場、中馬場、南馬場一帯も水田と農業ハウスが広がります。

 

居館跡の字・オヤシキは三段の平坦地になっており、面積が最も広い二段目に越智氏の居館があったと考えられています。

国人領主の居館跡が住宅化されずに畑地化されているのは、奈良県内の中世城郭跡ではお馴染みの光景ですね。

なお、居館跡を囲む丘陵部には獣害対策の電柵が張り巡らされており、現在立ち入るのは危険で電柵を破損させてしまう可能性もあるため、おすすめできません。

 

城跡の南側を流れる横山川(与楽川)は、外堀の役割を担っていたのでしょう。

 

こちらは溝跡が検出された付近。

越智氏居館の周囲には被官の屋敷が立っていたと伝わるので、こちらの付近も往時は武家屋敷が並んでいたのかもしれません。

 

天津石門別神社(旧九頭神社)

越智城跡から小川を挟んで南西に鎮座しているのが天津石門別神社です。

現在の祭神は天手力男命(あめのたじからおのみこと)で、天岩戸に籠った天照大神を外の世界に引き出した神様ですが、江戸時代までは九頭明神を祀り、九頭神社という社名でした。

『越智氏系図』によると、1185(元暦2)年に平家滅亡後に当地に凱旋した越智家初代・越智親家が戦場守護の神として九頭明神を祀り、以後越智氏一族・郎党紐帯の中心として篤い崇敬を受けた神社とされます。

1875(明治8)年に奈良県の示達により延喜式神名帳に記された現在の社名と祭神に改められましたが、従来の祭神と全く関連性がなく、変更経緯は全く不明です。

 

こちらは拝殿。

基礎など見ると真新しいコンクリートが打ってありますので、近年改修されたもののようです。

境内も手入れが行き届いていて、居心地が良いです。

こちらは一見本殿のように見えますが、祝詞舎です。

実は、こちらの神社は本殿がなく、大変珍しい形状のご神体が祀られています。

 

こちらがご神体。

石板で囲った玉垣の中に一株植えられたがご神体になります。

古式の神籬造(ひもろぎづくり)という様式で、全国的にも珍しく、多くの古社が残る高取町内でも当社を含めて二つしかない貴重なご神体です。

 

自然崇拝の古い信仰形式を残しているため、当社は鎌倉時代に越智氏初代により創建されたと伝えられますが、実際にはもっと古くから祀られていたお社ではないかと思われました。

 

越智集落

越智城跡西側の越智集落には、古くからの町並みが、旧街道沿いに残ります。

街道沿いに家屋が密集する街村として発達した集落です。

伝承に伝わる「南北の大道」は、集落内を南北に貫く旧街道と見られます。

越智城に近い街道北側はクランクが多く、中世街道の風情を感じますね。

有南神社

さて、越智城から谷間を挟んで越智岡の麓に鎮座する有南神社は、越智氏初代の越智親家を祀る神社です。

『越智氏系図』によると、1197(建久8)年に没した越智親家は当地に葬られましたが、1391(明徳2)年の明徳の乱で軍功を挙げた越智氏一族の米田俊武が、曽羽(高取町市尾)に領地を得た時、遠祖・親家の墓所に廟を立てて有南神社と称したことが始まりとされています。

こちらは拝殿。

天津岩門別神社と同様、境内の手入れが行き届いたお社で、氏子の皆さんのお社を大事にされる思いが伝わる神社です。

春日造の立派なご本殿が建てられていました。

屋根に越智氏家紋の「立引ニ向柏(たてびき に むかいかしわ)」が掲げられています。

越智氏の出自については詳細が不明な点も多く、遺された系図も複数あって、大和源氏説の他、物部氏系の伊予越智氏説や伊予河野氏説などもあります。

しかし遺された系図の共通点が家祖を越智親家とすることと、中世の歴代当主が清和源氏を称したことは確かで、有南神社は越智岡を中心に近隣へ広がった一族紐帯の象徴となる神社だったのでしょう。

光雲寺

最後に訪れたのは、有南神社から西へ200mほどの場所にある越智山光雲寺

こちらの寺院には、越智氏歴代の墓所があります。

 

光雲寺は寺伝によると1346(貞和2)年に越智邦澄が越智氏菩提寺として建立したとされます。

越智邦澄は『越智氏系図』によれば、1333(元弘3)年1月に吉野で倒幕の兵を挙げた護良親王に呼応し、高取城を築城したと伝わる人物ですが、その他の一次史料には名が見えず、実在の是非を含めて謎に包まれた人物です。

光雲寺の元の名は興雲寺といい、1446(文安3)年に京都大徳寺の高僧で竜安寺を開創したことで知られる義天玄詔により復興されました。

時の越智氏当主は、後に越智氏全盛期を現出させる越智家栄で、興雲寺の復興は家栄により推し進められたと考えられます。

というのも、1439(永享11)年に大和永享の乱で将軍・足利義教に反抗した家栄の父・維通は敗死し、当時8歳の家栄こと春童丸(家栄幼名)は、越智氏家督を親族の楢原氏に奪われました。

1441(嘉吉元)年6月、嘉吉の乱で将軍・義教が暗殺されると、翌7月に河内守護・畠山氏の後援を受けた春童丸は、楢原氏を撃破して越智氏家督と本領を奪回します。

興雲寺が復興された1446年は春童丸の家督回復から5年後にあたり、15歳となった春童丸の元服時期とも重なることから、越智氏菩提寺の復興は、家栄の家督継承の正当性を内外に大きくアピールするための事業と考えることができるのです。

さらに、復興開基ではなく、そもそも実際の開基は家栄だった可能性もあるでしょう。

室町時代に越智氏菩提寺として復興した興雲寺でしたが、近世初頭に越智氏が滅亡すると寺勢は衰え、しばらく浄土宗寺院として細々と継続することになります。

時代は下って江戸時代の天和年間(1681~1684年)に、黄檗宗の禅僧・鉄牛道機が再興し、寺名を興雲寺から現在の光雲寺に改めました。

その後、高取城主・植村家の帰依所となるなど、江戸時代は伽藍の復興も進み安定した光雲寺でしたが、明治になると寺領を失い一時無住となるなど存続の危機に見舞われますが、歴代住職や檀信徒の努力で寺門が維持され、現在に至ります。

 

こちらは光雲寺門前の樹齢千年を超える杉の大木、厄除杉

天正年間に筒井順慶の侵攻を受けた際、越智氏被官の鳥屋氏の子息二人が、この木によじ登って身を潜め追手を逃れ、そのときの二人の年齢が42歳と25歳の厄年であったことから「厄除けの杉」と呼ばれるようになったと伝わります。

明日香村の岡寺で行われる星まつりでは、この杉の枝を持ち帰り厄除け行事が行われるとのこと。

一度は枯れかけたとされますが、訪れた時も青々とした葉を茂らせていました。

 

山門は鐘楼門で、18世紀の建築です。

奥に見える庫裏は1698(元禄11)年に当時の住職・天湫和尚に帰依した今井町の細井戸多衛門の寄進で本堂と共に造営されました。

 

山門にかかる「越智山」扁額は、高取城主の植村家9代藩主の植村家長の揮毫によるもので、当寺と植村氏の関係の深さが感じられます。

ちなみに植村家長は、11代将軍・徳川家斉の代に寺社奉行若年寄、老中と幕府内のエリートコースを歴任し、植村氏で幕府要職に就いた唯一の人物でした。

 

こちらは庫裏とともに1698(元禄11)年に造立された本堂。

本尊の釈迦如来像が安置されています。

山門、庫裏とともに装飾が少ないシンプルな造りで、一切の無駄を省く禅宗寺院らしさが感じられる建築です。

境内に祀られた庚申塚とお地蔵様。

おそらく明治以降、廃仏毀釈の風潮を逃れて当寺に移されたものかと思われます。

 

境内には設置された梅原猛の句碑もありました。

元雅の魂のさまよう越智の里」とあります。

梅原猛は国際日本文化センターの初代所長を務めた哲学者で、法隆寺聖徳太子一族の怨霊封じの寺であるなど、独特の説や日本文化論を唱えたことで知られた人物ですね。

この句碑に詠まれた元雅とは、能楽の大成者・世阿弥の嫡男であった観世元雅のことです。

元雅は演者としても劇作家としても父・世阿弥に勝るとも劣らない才を持ちましたが、将軍・足利義教が従兄弟の音阿弥(元重)を寵愛して世阿弥を疎んじたことから、父ともども仙洞御所や興福寺といった京都、奈良の主要な舞台から締め出され、不遇のうちに30代の若さで伊勢で客死した人物です。

元雅死後、観世座の嫡流である観世太夫は名実ともに元重の系統に移りましたが、元雅の子・十郎太夫は越智家栄の庇護の下で大和を中心に活動し、音阿弥の観世座とは独自の一流を築いて後世に越智観世と呼ばれました。

特に境内に案内はありませんが、梅原猛の句碑は、越智観世の祖となった元雅を偲んで建立されたものと思われます。

※観世元雅や越智観世の成立についての詳細は、下記の記事をぜひご覧ください。

越智観世は戦国後期には庇護者であった越智氏の没落もあって駿河に下向し、今川氏の庇護を受け、その地で徳川家康との縁に恵まれます。

世阿弥と音阿弥の不和もあったため、『風姿花伝』『申楽談儀』といった世阿弥の著書は観世座本体には伝わらず、越智観世や世阿弥と血縁のあった金春座にのみ伝わっていましたが、大和から駿河へ移った駿河十郎太夫から家康へ世阿弥の伝書は献上された他、時の観世太夫・観世宗節が家康との縁で駿河十郎太夫から世阿弥の伝書を受け継いだことで、世阿弥の演劇論や美意識が現在まで無事に受け継がれ、能楽だけでなく「幽玄」といった日本独特美意識の発達に大きく貢献することになりました。

 

越智氏が越智観世を庇護したのは、政治的な思惑もあってのことでしょうが、もし越智氏の庇護がなく越智観世が早々に消滅していたら、中世から近世にかけて形成された日本の伝統的美意識へ多大な影響を与えた『風姿花伝』等の世阿弥の伝書は、後世に伝えられることもなく消失していたかもしれません。

 

本堂脇に展示されているのは、越智氏ともゆかりの深い高取城の屋根瓦です。

現存する高取城の遺物として非常に貴重なもので、植村氏の家紋・丸に一文字割桔梗が刻まれています。

明治の中頃に高取城の建物が破却解体された際に、一部の建物は移築されましたが、その時に現在の香芝市の庄屋さんに引き取られたものとのことで、2007(平成19)年にご子孫から当寺へ寄贈されたとのこと。

高取の植村氏は藩祖・家政が2代将軍・徳川秀忠付の500石取りの小姓を振り出しに、異例の抜擢で大名に取り立てられた大名家として知られますが、元々徳川家最古参の譜代とされる酒井、本多、大久保と並ぶ安祥七譜代の一家でした。

家政の父・家次が家康嫡男の松平信康の近習だったことから、信康が謀叛の疑いで切腹されると一時牢人した影響で、植村家は大名家になるのが遅れたとも考えられます。

江戸時代、城郭の修理は些細なものでも幕府の許可が必要でしたが、植村氏は3代将軍家光から高取城の修理について直々に「一々言上に及ばず」と幕府に無許可で修理することが認められており、少禄ながら譜代大名でも格別の扱いを受けた家でした。

 

さて、境内西側の斜面上に越智氏歴代の墓所があります。

こちらは、光雲寺を創建したとされる越智邦澄(左)、越智邦永(右・邦澄の父)の供養塔。

鎌倉末期から南北朝時代にかけての越智氏当主で、事実上の家祖ともいえる二人の五輪塔は、一際立派なものです。

 

こちらは貞享年間(1684~1688年)に、光雲寺から越智谷を挟んで北側の山麓にあった越智氏の供養塔を改葬したものとのこと。

銘文は摩滅して判読不明なものが殆どで、誰の墓かはわからないようです。

 

こちらには越智氏一族の無数の五輪塔とともに十三重石塔が立っていました。

一点意外だったのが、越智氏の最盛期を築き、光雲寺が室町時代に再建された際に当主だった越智家栄の位牌も墓も不明な点です。

『高取町史』でもその点について不自然さが指摘されていますが、越智氏は一族間の主導権争いが激しく、『越智氏系図』などではいかにも一つの家で家督が継承されたかのように記述されていますが、実際は複数の一族間の力関係で、惣領家が頻繁に交替していたと見られるため、越智氏の複雑な家督の在り方が影響しているのかもしれません。

 

墓所の一角に、「越智氏御廟修復記念碑」がありました。

光雲寺では2016(平成28)年秋の集中豪雨で墓所の土手が崩落して墓石が倒れるなど、大きな被害が出ましたが、翌2017(平成29)年から修復事業を開始し、2018(平成30)年10月に災害復旧の完了を記念して建立されたものです。

広く募金で募り短期間で災害で破壊された墓所が再建されたことは、素晴らしいことですね。

 

次回は、越智氏の詰城で戦国末期には筒井氏と松永氏の攻防の舞台ともなった貝吹山城に向かいます。

参考文献

『高取町史』高取町史編纂委員会 編

『越智氏の勤王』山田梅吉

 

大和の戦国史を紹介してきた当ブログですが、戦国大和を代表する国人・筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏、古市氏の本拠を、今回でようやく全てご紹介することができました。

※他の四氏本拠地については、下掲の記事をぜひご覧ください。

■筒井氏の筒井城

十市氏の十市

■箸尾氏の箸尾城

■古市氏の古市城