飛鳥時代の古代官道・上ツ道をルーツとし、現在の奈良市と桜井市を結んだ上街道は、中世以来、大和国内の主要な南北幹線であり、沿線には古代から近世までの長い歴史の中で生まれた名所・旧跡が多く残されています。
この上街道沿いの散策スポットを当ブログで紹介していますが、前回は奈良市南郊の帯解周辺エリアをご紹介しました。
今回は、上街道から分岐し、五ヶ谷街道を東へ1kmほど歩いた場所にある窪之庄城をご紹介します。
窪之庄城の場所はこちら。
国道169号線沿いの窪之庄集落北側にある城跡で、奈良県平野部の城跡には珍しく中世館城の土塁と堀が良好に現存する貴重な城郭遺構になります。
窪之庄城とは
下図は現在の窪之庄の航空写真に、城域や環濠、土塁・堀の位置を『日本城郭大系』の縄張図をベースに記入したもの。
窪之庄城は山村台地を堀と土塁で遮断した二つの単郭方形居館(領主の館城)を内郭とし、居館南側の環濠集落を外郭として構成された城郭です。
高土塁と空堀で居館を方形に囲む城館の造りは、三重県伊賀地方によくみられる形式で、奈良県内でも石打城(現月ヶ瀬村)など大和高原(東山中)地域で見られ、東部山間地域の城館形式が麓の窪之庄でも採用されている点で大変興味深い城跡でもあります。
また、領主である国人の館城を中心として環濠集落が発達し、その旧態を遺したまま現在もその集落形態を保っている点で、中世集落の成立過程を研究するうえでも大変重要な場所とも言えます。
窪之庄城を拠点とした窪城氏は、もともと東大寺領荘園だった窪庄の預所だった一族で、室町時代には大乗院方坊人となっていました(『大乗院寺社雑事記』康正三年四月二十八日条)。
応仁の乱前の当主・窪城順専は、筒井氏出身の実力者・成身院光宣の妹を妻とし、娘を十市氏や古市胤栄に嫁がせて男子を福住氏の養子に出すなど周辺の有力国人と縁戚関係を結ぶことで勢力の維持に努めましたが、次代の春藤丸は隣接して対立関係にあった高樋氏が筒井方であったことから古市方に味方します。
しかし分家の窪城西家は筒井氏に与して一族は分裂し、応仁の乱以降の戦乱では一族間で古市方の本家と筒井方の西家に分かれて激しく抗争しました。
窪之庄城の内郭というべき居館は、東西二つに分かれていますが、東側が本家、西側が西家の屋敷跡と考えられています。
お隣の親戚同士で本気の殺し合いをするというのは、なんとも凄惨な話ですね。
応仁の乱直後の大和は西軍・畠山義就に与した越智氏・古市氏が優勢となりましたが、両氏はその後関係を悪化させ、1497(明応6)年に京都へ亡命していた筒井順賢、十市遠治らが河内の畠山尚順の挙兵に呼応して反攻を開始すると、越智家栄・家令父子と古市澄胤は各個撃破されて没落し、筒井党が大和へ復帰して越智・古市党と筒井党は一進一退の状態となります。
1506(永正3)年7月、窪城氏は高樋氏の拠る高樋城に攻め寄せましたが攻略に失敗。
逆に高樋氏の後援に駆け付けた筒井勢の攻撃を受けて窪城氏は没落し、窪之庄城は筒井氏に攻略されました(『多聞院日記』永正三年七月十七日条)。
その後、窪之庄城には現生駒市高山町を本拠とした鷹山氏の一族・鷹山頼円が入り、その子藤宗から窪庄氏を名乗ります。
窪庄藤宗は筒井順昭の弟・順政の娘を妻に迎え筒井氏に従って行動し、1559(永禄2)年に三好長慶重臣の松永久秀が大和侵攻を開始すると、筒井順慶に与して対抗しました。
1568(永禄11)年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、松永久秀は信長や新将軍・義昭と結びます。
翌10月になると信長は久秀の大和攻略を支援するため、細川藤孝、佐久間信盛らに二万の大軍を預けて大和へ侵攻し、圧倒的な織田勢の兵力を前にして、10月10日、窪之庄城は敢え無く落城しました。
その後しばらく松永方の支城となっていましたが、1571(元亀2)年に松永久秀とその主・三好義継が敵対していた三好三人衆と和解して旧三好勢力が再結集されると、松永久秀と将軍・足利義昭の関係が急速に悪化。
畿内で孤立することを恐れた義昭が筒井順慶に接近したことから、大和における筒井党の反撃が始まります。
1571年5月までには窪之庄城は筒井方に奪回され、5月9日から11日にかけて松永勢の攻撃を受けましたが撃退に成功(『多聞院日記』元亀二年五月九日条、十一日条)。
窪之庄城は東山中から奈良盆地へ反転攻勢をかける順慶と、多聞山城を拠点に奈良を死守したい久秀が攻防を繰り広げる最前線の城となりました。
その後、7月に窪之庄城から北西約3kmに築城された辰市城で筒井順慶は松永久秀に大勝して、大和での覇権を奪い返すのです。
元亀2年の記述を最後に、窪之庄城は史料から姿を消し、正確な廃城年は不明。
筒井氏被官となった窪庄氏のその後も定かではありませんが、藤宗次男の頼一は嫡流が絶えた鷹山氏宗家を継ぎ、江戸時代前期に現在の東大寺大仏殿の再建に尽力した公慶上人は、頼一の孫になります。
※鷹山氏については、下記記事で詳しくご紹介しています。
江戸時代になると、窪之庄は柳生氏の領地となり明治を迎えることになりました。
窪之庄城跡
それでは、窪之庄城の現在の様子をご紹介していきます。
内郭となる城館跡の東殿、西殿は、南側半分以上が道路と宅地によって地形改変が進んでいますが、丘陵地寄りの北側に、土塁や堀などの遺構が残っています。
八坂神社(東殿)
東西二つの館跡のうち東側の東殿には、現在八坂神社が鎮座しています。
祭神は素戔嗚尊で、江戸時代は牛頭天王を祀る牛頭天王社でした。
境内は東西と北側をコの字型の高土塁で囲まれています。
春日造の本殿。
本殿をはじめとした社殿は1980(昭和55)年に修理され、丹塗りの朱がまだまだ鮮やかです。
境内には多くの石灯籠が奉納されていますが、本殿左奥には「柳生家御武運長久 文政十三年云々」と刻まれた石灯籠があり、窪之庄が柳生領だったことを示す痕跡になります。
(ちなみに文政13年は西暦1830年です。)
本殿背後は崖に見えますが、実は内郭を囲む高土塁。
台地の縁を利用して築造されたものと思われますが、奈良県内の平野部で残されている中世城郭遺構としては最大級の土塁だと思います。
境内の西側の土塁に上ると、東殿と西殿を遮断する堀と西殿の土塁が見えます。
写真で見てもはっきりとわかる巨大な堀切です。
西殿北側を遮断する堀切も見えます。
北側台地
八坂神社境内北側の山村台地の上へ回り込んできました。
東殿北側の台地上は平場になっており、台地南側の堀切で台地と内郭が遮断されています。
東殿と北側台地を遮断する堀切と土塁は、場所によっては2mほどの深さがあるでしょうか。
削平地と東殿を遮断する堀切と土塁(写真左側)。
ここは堀が埋まってかなり浅くなっていますね。
西殿北側の堀切と土塁が見えます。
概して東殿に比べて西殿側の方が堀が深く、土塁も高く感じられます。
実際に西殿の堀は、東殿の堀に食い込むような形で新たに深く掘られており、16世紀初頭に窪城本家が筒井方に追われ、分家の窪城西家が当地を支配するようになった時系列とも一致する構造になっていました。
あと、北側の台地上からは南側の内郭は丸見えになっているので、このままだと台地を的に占拠された場合、内郭を飛び道具(矢や石)で攻撃されてしまいますから、往時は土塁を竹薮にして城壁としていたのでしょう。
中央の大堀切
八坂神社南側の県道187号線にもどり、八坂神社の西側に進むと道路からも東西両郭を遮断する堀切がはっきりと確認できます。
住宅街からすぐの道路わきに中世城跡の巨大な堀切が確認できる好スポットですね。
西殿
西殿の一部は現在亥丸大神を祀る神社の境内となっており、その他は宅地以外、竹薮化が進んで中に入ることはできません。
境内に入ると「亥丸大神」と刻まれた石碑があり、社殿などはありません。
町内の個人でお祀りされている神様ようで、『奈良市史』によると「商売繁盛の霊験」があるとか。
狐が神使の神様と言えば真っ先に頭に浮かぶのはお稲荷様ですが、「亥丸大神」という神様は初見です。
お隣には「白水明神」と刻まれた石碑が祀られていました。
東側には堀切越しに、東殿・八坂神社の境内が見えます。
広い削平地はなく、西殿東側の土塁の一角が境内地となっているようです。
窪之庄環濠集落
窪之庄城は内郭が近世初頭に廃城となりましたが、外郭を構成した集落は引き続き環濠集落として残り、現在も中世環濠の面影を残しています。
国道169号線の窪之庄バス停のそばにかつての濠が水路化されて流れます。
集落内は狭い路地が続き、遠見遮断の丁字路、クランクが多用される中世以来の環濠集落ではお馴染みの町並みが残されています。
集落内には枝堀だった水路も残っていました。
集落南側から北側へ通じる路地のクランク。
開基、創建年などは不詳ですが本堂前に1547(天文16)年の銘がある六字名号碑が残されています。
集落の集会所が現在も境内に隣接してあり、会所寺だったのかもしれないですね。
さて、窪之庄城跡は奈良県平野部に残る貴重な中世国人の館城遺構なのですが、残念ながら本格的な遺跡調査は行われておらず、現地には案内板すらありません。
東大寺や興福寺の古文書にもその名が現れ、在地領主の変遷を現存遺構からも確認できる貴重な城跡ですので、椿尾上城などとともに奈良市による早急な史跡調査と保全対策を期待したい城跡でした。