1507(永正4)年6月に畿内の覇者であり幕政を取り仕切った細川政元が、細川京兆家の後継者を巡る家中対立が原因で暗殺されました(永正の錯乱)。
政元の暗殺後、細川家中は阿波守護家出身で三好之長ら阿波衆の支持を受ける澄元と、従来の細川京兆家重臣である畿内国人衆の支持を受ける高国という政元の二人の養子を担ぐ二派に分裂。
澄元は11代将軍・足利義澄、高国は10代将軍・足利義尹をそれぞれ戴いて相争う状況になります。
この混乱の中、細川政権のもと大和を支配した赤沢朝経、長経父子が相次いで戦死し、領地を追われた筒井氏、十市氏、箸尾氏ら大和国人衆も、相次いで大和の故地へ復帰しました。
一方、河内では畠山尚順(尾州家)と畠山義英(総州家)の和睦が反古となり、筒井党と越智党の間で結ばれた大和国人一揆も解消されることになり、再び大和国では二派に分かれて国人間で相争うこととなったのです。
足利義稙・細川高国政権の確立
1508(永正5)年、足利義尹擁する細川高国は大内義興とともに入京を果たし、将軍・足利義澄、細川澄元は近江に逃亡しました。そして、義尹を将軍に復位させるとともに、義尹から細川京兆家当主であることを認める御内書を得て、細川京兆家当主であることを示す右京大夫へと任官するのです。
こうして足利義尹を将軍に戴き、それを細川高国とその舅である畠山尚順、西国最大の守護大名・大内義興が支える政権が確立されました。
また、大和では畠山尾州家、総州家の同盟解消とともに国人一揆が解体され、旧来の両畠山との関係性から筒井党は尾州家、越智党は総州家に与することとなります。
1508(永正5)年7月頃の畿内の対立関係は以下の通り。
将軍家 | 足利義澄(11代将軍) | 足利義尹(義稙・10代将軍) |
細川京兆家 | 細川澄元 | 細川高国 |
細川家臣 | 三好之長(阿波衆) | 伊丹元扶(摂津国人) 内藤貞正(丹波守護代) |
畠山家 | 畠山義英(総州家) | 畠山尚順(尾州家) |
守護大名 | ー | 大内義興 |
大和国人衆 | 古市公胤 越智家教 |
筒井順賢 十市遠治 箸尾為時 |
表にしないと、この時代の畿内情勢は複雑怪奇で本当によくわかりません。
さて、都を追われて近江に逃亡した細川澄元は、翌1509(永正6)年6月、重臣・三好之長とともに京都へ侵攻。しかし、兵力不足で細川高国、大内義興軍に如意ヶ嶽(現京都市左京区)で打ち破られ、もとの領国・阿波へと逃亡しました。
近江から細川澄元・三好之長が去ったのを好機と見た足利義尹は、細川高国に命じて足利義澄を匿う近江国人の討伐を命じ、1510(永正7)年に高国は近江へ出兵しましたが、国人たちの頑強な抵抗に遭って大敗北を喫します。
そして翌1511(永正8)年7月、阿波に撤退していた細川澄元が再び反撃を開始。
これに呼応した畠山義英は、7月13日に畠山尚順と河内で決戦に及びます。
この戦いには筒井順賢、十市遠治、箸尾為時ら筒井党の有力国人も尚順方として参戦しましたが、戦いは義英の勝利に終わり、尚順は遊佐筑前等の重臣を失うなど大敗。筒井順賢らは東山中の都祁まで逃亡します。
大和国内では越智党が優位にたち、越智家教が「ツボ坂幷タカトリ山ノ城ヘ入」(『二条寺主家記抜萃』)り、古市公胤も故地である古市城の北側にあたる鹿野園まで進出し、付近に「六寸ノ城」を築きました。
なお、後に日本有数の近世城郭へと発展していく高取城の文献上の初出はこの時となります。
しかし、7月26日になると、筒井、十市、箸尾ら筒井党の面々はそれぞれの故地に復帰し、翌8月2日には反撃を開始して、古市方の籠る「六寸ノ城」を攻略。古市公胤は春日山まで退却を余儀なくされました。
一方、摂津、河内方面では細川澄元方が攻勢を強めると、8月16日に足利義尹、細川高国は京都を捨てて丹波へ逃亡し、阿波から進撃してきた三好之長はついに入京を果たします。
ようやく京を奪回した細川澄元・三好之長でしたが、近江から衝撃的な知らせが入りました。
なんと、11代将軍・足利義澄が逃亡先の近江で死去したうえ、義澄を匿っていた近江守護・六角高頼が義尹方へ寝返ったのです。
推戴すべき将軍と、六角氏という強力な見方を失った細川澄元方に動揺が走る中、丹波へ退去していた足利義尹と細川高国は反撃を開始し、8月23日には大内義興を先鋒として京都へ進撃。澄元方の籠る船岡山城を攻め落として、再び京都を奪回しました。
この戦いの後、細川澄元、三好之長は再び阿波へ退去し、両細川氏の戦いはしばらく小康状態となります。
京都では足利義澄の死によって、義尹の将軍復位が確実なものとなり、細川高国が幕政を主導。河内では、畠山義英が没落して尚順が再び河内守護となりました。
一方、大和では筒井党、越智党のにらみ合いが続きます。
筒井順興の登場
足利義尹は将軍に復位したものの、細川高国と大内義興、畠山尚順らの軍事的支援のもと成立した政権であったため、親裁志向の強い義尹と高国、義興との間には徐々に溝ができ始めます。
自分の意見が中々通らないことに不満を覚えた義尹は、1513(永正10)年3月に突如京から近江へ出奔しました。
結局この時は足利義尹と細川高国、大内義興の間で和解が成立して義尹は京都に復帰しますが、手持ちの軍事力を持たない足利将軍とそれを軍事力で支える大名との政治的対立という構図は、この頃からいよいよ顕在化してきます。
なお、義尹はこの頃、諱を義稙と改めており、この名が後世彼の名としては最も知名度の高い名となりました。
阿波へ逃れた澄元との戦いが小康状態となる中、1515(永正12)年に畠山尚順は、総州家家督を嫡男・稙長に譲ると、稙長を在京させたうえで、自身は河内、越中といった領国支配に専念するようになります。
一方、大和では越智氏の勢力が健在で、1514(永正11)年6月28日には東大寺へ足利義稙が、越智家教討伐の戦勝祈願が行われています。
このとき、実際に幕府による越智氏討伐が行われたのかは不明ですが、細川澄元が阿波へ逃亡し、畠山義英が河内を失い没落する中、南和の雄・越智氏は反幕府勢力として孤塁を守っていたことが伺えます。
翌1516(永正13)年10月、越智家教は古市公胤とともに唐院(現奈良県川西町)で成身院順盛、十市清矩(十市氏一族か?)らを撃破。畿内で幕府方が優勢の中、筒井順賢らは本拠を放棄し牢人となりました。
しかし、翌1517(永正14)年4月に、越智家教が急死。跡は家頼が継ぎましたが、当主交替により混乱する越智氏の間隙をついて再び筒井党が盛り返します。
同月、筒井順賢は好機到来と奈良へ攻め入り、奈良に駐屯していた越智方を打ち破って宿院辻子の称名寺(現奈良市宿院町か?)に陣を構えましたが、将軍・足利義稙は自身の命令を待たずに奈良入りした順賢の行動に怒り、厳しく問責しました。
畠山尚順の代官・遊佐順盛が将軍の怒りを解こうと取りなしたものの義稙は許さず、結局順賢は奈良から退去させられてしまいます。
ここで改めて義稙は上使を興福寺へ派遣し、新たな官符衆徒棟梁として自身の同朋衆で寵臣の畠山順光(式部少輔)を任命すると伝えました。
事実上、大和を将軍家料国にしようと義稙が動いたもので、難癖をつけて順賢を奈良から追放した最大の狙いが、順光の官符衆徒棟梁、すなわち大和における守護代就任だったと考えられます。
これには興福寺の学侶・六方が猛反発し、京衆を官符衆徒棟梁に据えるのは前例がないと、春日大社の大鳥居前に郷民たちを集めて、強く抗議しました。
興福寺側の強い抵抗に、南都へ入った畠山順光も抗しきれずに帰京し、翌1518(永正15)年3月には、筒井順賢の弟、順興が官符衆徒棟梁となることを将軍・義稙も承認します。
この頃の興福寺内では、筒井氏と古市氏のどちらか勢力の強い方を官符衆徒棟梁に就けることが、指導層である学侶・六方の合意事項になっており、将軍にもこれを認めさせたものと言えるでしょう。
ただ、義稙が奈良から追った順賢ではなく、その弟順興を棟梁としたのは、幕府への譲歩だったのかもしれません。
また、順興が官符衆徒棟梁に就任したこの頃、筒井氏家督は順賢から順興へ移ったと見られます。
この順興から、子の順昭、孫の順慶と三代にわたって筒井氏が興福寺官符衆徒棟梁の地位を世襲することになり、順興は戦国大名・筒井氏の礎を築く人物となるのです。
大和国人一揆の再結成
1518(永正15)年8月、細川高国政権を揺るがす重大な事態が発生します。
政権を軍事面で支えていた大内義興が、兵を引き上げ帰郷してしまったのです。
義興は1508(永正5)年から10年近く在京して政権の中枢を担っていたものの、将軍・足利義稙や細川高国との関係は徐々に悪化したうえ、長年の在京による負担が大きくなっていて、家臣の中には勝手に帰国するものが続出する有様でした。
また、出雲の尼子経久が大内領への侵攻の動きを見せたことから、義興はこれに対応するため管領代の職を辞任。兵をまとめて堺から帰国したのです。
こうして生まれた軍事的な空白を、阿波に逼塞していた細川澄元、三好之長主従は見逃さず、翌1519(永正16)11月に阿波から摂津へ上陸を果たします。
翌1520(永正17)年2月には細川澄元方が越水城(現兵庫県西宮市)を攻略すると、細川高国は摂津の伊丹、池田両城を放棄して京都に逃げ帰り、将軍・義稙を連れて近江へ撤退しようとしました。
しかし、この時、細川澄元側有利と見た足利義稙は高国との同行をなんと拒否します。
何かと意見が合わず、自分の意向を尊重しないことの多い高国への不満を募らせていた義稙は、ここに至って高国を切り捨てて澄元支持へと乗り換えたのです。
高国はやむなく一人近江へと逃れました。
一方河内では、畠山義英と越智家頼が細川澄元の動きに連動して、畠山稙長の籠る高屋城(現大阪府羽曳野市)に攻撃をかけていました。
翌3月に高屋城が落城すると、越智家頼が高屋城に入ります。
そして余勢をかって澄元方の赤沢氏が大和へ侵攻する動きを見せましたが、これは澄元が畠山義英を通じて止めさせました。
理由は「大和は神国であるから武家の介入は控えるべき」というもので、大和を侵略した赤沢朝経、長経父子の悲劇的な最期が春日神の神罰であったと喧伝された効果が、一定程度あったのかもしれません。
ここまで押されっぱなしの高国方でしたが、5月に入ると近江六角氏、越前朝倉氏、美濃土岐氏の支持を取り付け、反撃を開始しました。
5月5日、京都に進軍した細川高国は等持院の戦いで入京していた三好之長軍を撃破し、京都から澄元勢を駆逐します。
大和でもこの動きに連動し、筒井順興が超昇寺(現奈良市山稜町)など北和に点在する越智党の在所を焼き払うと、5月7日には古市公胤の籠る油山城(現奈良市古市町)を攻撃し、翌8日夜には陥落させました。
河内では5月10日、畠山稙長が高屋城を奪回し、畠山義英は越智家頼を頼って吉野へ没落します。
翌5月11日、細川高国に捕縛されていた三好之長が処刑され、京都、河内での高国方の勝利がほぼ確定しました。
畿内での戦闘が収束する中、激しい戦闘が継続していたのが大和国。
畠山稙長は高屋城を奪回した直後に、重臣・遊佐順盛を大和へ派遣して、筒井、越智両氏の和睦仲介を始めますが、話がまとまらずなお戦闘は継続されます。
油山城を落とされた古市公胤でしたが、5月23日には東山中で陣容を立て直して奈良市街まで進出してくると、筒井方の中坊氏は宿院に布陣して対峙。筒井順興自身は井戸城(現川西町結崎)に布陣して、越智家頼の北上に備え、当時京都に浪人していた十市遠治も田辺(現京田辺市)まで進出して戦いに備えました。
5月の末から6月2日にかけ、奈良市内で筒井氏と古市氏は大規模な戦闘を起こし、一時は古市氏が奈良を制圧したものの、中坊氏が再び奈良から古市氏を追い出すなど、一進一退を繰り返しました。
奈良で戦闘が続く中、6月10日、阿波勝瑞城で細川澄元が再上洛を果たせぬまま失意のうちに病死します。享年32。
最期まで執念を見せた細川高国打倒は、嫡男・晴元と三好之長の嫡孫・元長に引き継がれることになりました。
その翌日6月11日、大和では越智家頼が井戸に本陣を構える筒井順興との決戦に向けて佐味(現奈良県田原本町)まで進出。古市公胤も再び油山城を修築するなど、筒井、越智の決戦に向け、大和国内の緊張はピークに達しました。
三好之長、細川澄元が相次いで世を去り、当面畿内に脅威が無くなった細川高国にとっても、これ以上畿内中枢の大和の混乱は押さえたい所だったのでしょう。
6月22日、畠山稙長は細川高国の意向も受けたうえで再度、遊佐順盛を大和へ派遣し、再び和睦の仲介に乗り出します。
順盛の強い説得で、この時はいったん両軍とも陣を引き、大きな戦いにはならなかったものの、和睦は8月に入ってもまとまりませんでした。
和睦の最大の障害は、京都で牢人となっていた十市遠治の旧領が越智氏知行となっていることをはじめ、番条氏、嶋氏ら多くの牢人化した国人たちの旧領復帰についてなかなか調整がつかなかったようです。
しかし、ついに10月9日、遊佐順盛の仲介により、法隆寺で筒井順興、越智家頼の会見が実現。
旧領を失った国人たちの故地への復帰や、筒井党、越智党それぞれへの帰属先の調整事項が合意され、再び大和国人一揆の体制が樹立されました。
なおこの一揆から、古市氏は今回も除外されています。
筒井順興にとって官符衆徒棟梁の座を争う存在となった古市氏は不倶戴天の敵であり、越智氏の顔を立ててその知行所領を認めるまでが、最大限の譲歩だったのでしょう。
翌1521(大永元)年6月には筒井順興が越智氏の娘を妻に迎え、筒井氏と越智氏の同盟関係はさらに強化されました。
さて、大和でも国人間の争いが収まり、ようやく畿内に平穏が訪れたかに思われましたが、幕府中央では大きな火種がくすぶっていました。
細川澄元、三好之長が快進撃をしていたときに、これを支持する姿勢を見せた将軍・足利義稙と細川高国の関係悪化が、もはや修復不可能なレベルに達していたのです。
翌1521(大永元)年3月7日、ついに足利義稙は細川高国の影響下を離れるため堺へ出奔しましたが、彼に付き従ったのは畠山順光ら近臣のみで、伊勢貞忠ら幕府奉行人のほとんどが京都に残って将軍を見限りました。
また、同年3月22日には後柏原天皇の即位式が行われる予定で、義稙はその直前に出奔したため出仕することができなくなり、天皇から大きな怒りを買うことになります。
細川高国は幕府奉行人から見放され、天皇の信認も完全に失った義稙をさっさと切り捨て、播磨赤松氏の下で養育されていた11代将軍・足利義澄の遺児、亀王丸を京都へ迎え、将軍に擁立します。
亀王丸は元服して足利義晴と名乗り、12月に12代将軍に補任されました。
こうして将軍家は再び二つに割れ、畿内の争乱の新たな火種となっていくのです。
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