1477(文明9)年11月、大内政弘他、土岐成頼ら西軍諸将は東軍・幕府方へ帰参。
西軍諸将は京都から領国へ兵を引くことで、11年に及んだ大乱・応仁の乱は外形上は東軍勝利でようやく終わりました。
一方、応仁の乱の主たる原因であり、1454(享徳3)年から続く管領家・畠山氏の内訌は終わることを知らず、舞台を京都から河内、南山城そして大和に移して続きます。
京都で東軍優勢のうちに応仁の乱が収束したのに対して、京都を去った西軍・畠山義就は河内、大和で東軍・畠山政長を圧倒。河内、大和の国人たちは義就の支配下にはいりました。
大和では応仁の乱の開戦時から畠山政長を支えた筒井順尊や箸尾為国ら筒井氏を中心とする筒井党の国人たちが、本拠を放棄して東山中などへ逃亡し、義就方の越智家栄、古市澄胤ら越智氏を中心とする越智党が大和の国人衆を主導するようになります。
筒井党の没落
筒井順尊の逃亡後、奈良の軍事的空白を埋めたのは古市澄胤でした。
政長派の筒井氏が去った以上、畠山義就と強いつながりを持つ古市氏に奈良の防衛と治安を委ねる他ないと考えた興福寺は、澄胤に官符衆徒棟梁の就任を打診します。
これに対し澄胤は、自分一人を棟梁に据えるなら受けると条件を付けます。
従来から官符衆徒棟梁は5名いることが通例で、この時も豊田氏、高山氏らが棟梁の座を求めていましたが、古市氏以外に奈良の治安は守れないと考えた大乗院尋尊は澄胤の申し出を認めました。
畠山義就、越智家栄の推薦もあって、1478(文明10)年正月、澄胤は官符衆徒棟梁の座につき、奈良の検断権を得ることになります。
さらに同年6月には越智家栄の娘が澄胤の妻となり、古市氏の勢威はますます高まりました。
澄胤はさらに奈良の防衛拠点として、破却された鬼薗山城(現奈良ホテル敷地)に替わり、その向かいの山に西方院山城の築城を始めます。
しかし翌1479(文明11)年9月になると、筒井順尊は叔父が養子に入っていた福住氏の本拠である東山中の福住郷(現天理市福住町)を拠点として反撃を開始します。
順尊は足軽を用いたゲリラ戦を展開し、奈良や現在の大和郡山近辺の各所を襲って放火や義就方国人の兵糧の略奪を繰り返し、古市、越智方をかく乱し、この一連の攻撃で築城間もない西方院山城も焼かれてしまいました。
これに対し、古市氏、越智氏も足軽を投入して対抗。
両軍とも足軽への俸給代わりに略奪を許可したため、応仁の乱で京都を襲った足軽による災禍が、大和全域で猛威を振るう事態となりました。
南北朝以来、戦乱が止むことのなかった大和ですが、応仁の乱後に足軽が積極活用されるようになったことで、戦争の悲惨度がもう一段上がったと言えるでしょう。
大和各所で民家へ放火や略奪の応酬が数年続く中、1481(文明13)年7月、畠山義就が死去したという噂が大和で広まります。
結局この噂はデマだったのですが、筒井党の筒井氏、箸尾氏、十市氏はこの噂に色めき立って挙兵し、7月20日に筒井順尊は菅田(現天理市)、箸尾為国は法貴寺(現田原本町)、十市遠相は田原本に布陣し、成身院順盛は福住城に入って臨戦態勢となりました。
先手を打ったのは越智党の越智氏、古市氏、越智氏で、今市城(現奈良市)から越智氏代官の堤栄重が古市城の古市澄胤配下の兵とともに奈良の筒井方寺院を次々と襲い、焼き討ちにします。
7月23日に国中(くんなか=奈良盆地)へ進出した筒井、箸尾、十市勢は、多武峰の協力も得て越智党の戒重氏(現桜井市)に攻撃を加えましたが大敗。7月下旬には畠山義就も河内から大和へ出兵し、八木(現橿原市)に布陣しました。
戒重の戦いで大敗した政長派を追撃するように、畠山義就は攻勢を強め、8月には宇陀郡の秋山氏、澤氏も越智党に加わり国中の筒井党勢力はほぼ駆逐されてしまいました。
畠山義就はこの時点で幕府の赦免を得ていなかったため、大和における義就の勢力拡大は幕府にとっても看過できないものでした。
そこで翌1482(文明14)年6月、幕府は興福寺に対し、義就派すなわち越智党の衆徒・国民を討伐するよう命を下します。
これに対し、大乗院尋尊は『大乗院寺社雑事記』六月七日条で、政長派の国人は番条氏と窪城氏以外は全て逃亡してしまっており、幕命の実行は不可能だと嘆いています。
しかし、この幕命が効いたのか、同年6月下旬に高山氏(現生駒市北部の国人)が幕府に帰参したのを契機として、片岡氏(現香芝市、北葛城郡の国人)も幕府側に寝返り、大和の筒井党は再び活動を活発化しました。
8月25日には筒井順尊が筒井城に戻って義就方の稗田、箕田(ともに現大和郡山市稗田町、白土町)を焼き討ちにし、箸尾為国、十市遠清らも菅田(現天理市)まで進出して陣を置きます。
義就方も速やかに反撃を開始すると、越智家栄の軍勢が宇陀の秋山氏、澤氏、義就の足軽勢とともに十市郷、箸尾郷を焼き打ちにしたほか、郡山氏は天井(現大和郡山市)などの筒井傘下の郷村を攻撃。古市勢は櫟本を襲いました。
両者の足軽による激しい放火と略奪の応酬が続く中、同年10月30日に筒井順尊、箸尾為国、十市遠清は結崎(現川西町)に布陣。
これに対し越智家栄、古市澄胤らも結崎に進出して当地で大規模合戦(結崎の戦い)となりました。
戦いは結崎以外でも大和各所で発生。
筒井党の十市勢は八木郷(現橿原市)を焼き打ちにしましたが、越智党と畠山義就配下の河内勢が攻勢をかけ、河内勢は高山氏の守る平群谷(現平群町)、鳥見谷(現生駒市)を攻撃して高山氏を打ち破り、大和郡山では古市勢が筒井方の武将を多く討ち取るなど、戦いは越智党優勢で進みました。
結局、戦いは越智党の勝利で終わり、筒井党は翌1483(文明15)年には再び国中から駆逐されてしまうのです。
下図は結崎の戦い直後の主な大和の衆徒・国民の分布状況ですが、筒井党の国人たちはその多くが本拠を追われ、東山中や他国に逐電。牢人となってしまいました。
山城国一揆
大和で畠山義就と越智党が、畠山政長と筒井党を圧倒する中、いったんは西軍が撤兵した南山城にも大和の勢いそのままに義就の勢力が伸びてきます。
応仁の乱終結後、幕府は財政の立て直しのため畠山政長を山城守護に任命して、南山城からの徴税を強化しようと目論んでいましたが、義就の猛威になすすべなく、1483(文明15)年の正月には宇治川以南の南山城三郡(久世、綴喜、相楽)が義就の手に落ちました。
政長の山城支配が機能しなくなると、幕府も対応の変更を検討せざるを得なくなり、将軍・足利義尚とその母・日野富子は1482(文明14)年12月に畠山政長を見限って、畠山義就に山城守護を変更しようとします。
しかし、これに反対したのが大御所の足利義政で、隠居を表明しながら実権を握り続ける義政と将軍・義尚、富子の関係は急速に悪化しました。
義政は政長以外の有力守護を山城守護に任じて、事態の打開を図ろうとしましたが、これに応じる大名はなく、やむなく政長の支援に動き、1483(文明15)年8月に南山城の寺社本所領の年貢の半分を軍費として徴収することを認めた他、義就討伐の綸旨を再び政長へ与えました。
義政に督戦される形で義就に対して政長は攻撃を加えましたが、河内太田城(現枚方市)、山城水主城(現城陽市)を主戦場とする戦いでことごとく敗退。
この時、政長とともに戦った筒井順尊、十市遠清は本拠を追われ、箸尾為国はついに越智氏へ降参します。
筒井城には越智家栄の重臣・堤栄重が入って北和の牢人化した筒井党支配の荘園で代官支配を行いました。
一向に事態が好転しないため、翌1484(文明16)年9月、ついに義政は政長から山城守護職を取り上げて南山城を御料国(幕府直轄地)とし、政所執事の伊勢貞宗を代官に任じます。
とはいえ、義就の南山城支配が続く中、幕府にとって事態は何ら好転することはありませんでした。
しかし、翌1485(文明17)年7月、畠山義就家臣で南山城に駐留していた斎藤彦次郎が突如主君・義就と対立して幕府に降参してきたのです。
これを好機と見た畠山政長は攻勢をかけ、10月には牢人となっていた筒井順尊、十市遠清も参陣して斎藤彦次郎と合流します。
義就も重臣の誉田正康に河内衆を率いさせて派遣し、奈良からは古市澄胤自らが出陣。
政長方が総勢1500だったのに対し、義就方は誉田勢700、古市勢300と劣勢だったため、誉田、古市は越智家栄に援軍を求めました。
援軍要請を受けた越智家栄は11月13日嫡男の家令(いえのり)を箸尾為国とともに出陣させます。
こうして両軍は下図のように久世、綴喜両郡の境界付近で睨み合いとなり、戦線は膠着状態となりました。
10月から南山城で睨み合う畠山両軍は、南山城各地で兵糧や人夫の徴発を行い、戦乱で奈良と京都の交通は遮断されました。
また、両軍とも各所に関所を設けて関銭を取り始めたため、南山城三郡の経済的疲弊は極限状態となります。
この事態に南山城三郡の地元国人たちは12月11日に国一揆を結成。
「両畠山氏の撤退と再侵攻の禁止」「寺社本所領の回復(=大和の国人などによる荘園代官就任の禁止)」「新しい関所の設置禁止」を両畠山氏に突きつけ、即時撤退に応じなければ攻撃すると宣言しました。
12月17日、大和の国人たちを含めた畠山氏両軍が撤兵し、国人たちが守護を追い出して自治を行うという、前代未聞の体制・山城国一揆が完成します。
以後、7年以上にわたって、南山城は36人の有力国人たちの集団指導体制をとることになりました。
両畠山氏の対立はなおも続いたものの、山城国一揆によって最激戦地となっていた南山城で戦闘が終結し、以後、しばらくの間沈静化しました。
大和でも散発的な戦いが、東山中で散発したものの大規模な戦いは起こらず、1487(文明19)年6月頃からは越智氏と筒井氏との間で和睦の動きが出て、東山中、国中ともにようやく平穏な時期を迎えることになります。
10代将軍・足利義材の誕生
1489(長享3)年7月23日、筒井順尊は亡命先の京都で世を去りました。
享年39歳で死因は「酒毒」といいますから、1477(文明9)年に大和を追われて以来、ついに本領回復を果たせなかった無念の日々を酒で紛らわせていたのでしょう。
大乗院尋尊は順尊の客死を「大明神御罰也」と辛らつな筆致で記録しました。
大和に戦乱と混乱をもたらした当事者の一人として、批判的に見ていたことがうかがえます。
順尊の跡は、福住にいた嫡子の順賢が継ぎましたが、幼年だった為叔父の成身院順盛が後見しました。
順尊が無念の客死を遂げた同じ年の1489年3月、将軍・足利義尚が近江へ出陣中に急死します。
そのため大御所・義政が再び政務に戻りました。
義尚に跡継ぎがなかったため、義政とその妻・富子は応仁の乱終結後、美濃に下向していた足利義視の子・義材を後継にと考え、父子ともども美濃から呼び戻します。
この時、幕府最大の実力者であった細川政元は、応仁の乱で西軍の方の旗手となった義視の子である義材の将軍就任には反対で、天竜寺で禅僧となっていた大御所・義政の異母兄で堀越公方・足利政知の子・清晃を時期将軍に推しました。
しかし日野富子は実子・義尚亡き後、妹の子である義材を時期将軍に強く推し、結局富子の意向が通って義材が時期将軍となることにほぼ決したのです。
翌1490(延徳2)年正月、大御所・義政が義尚の後を追うように世を去ると、いよいよ義材が次期将軍となるのですが、富子の邸宅・小川殿の相続を巡る問題で義材の将軍宣下は大幅に遅れることとなりました。
小川殿は元々細川勝元の邸宅でしたが、応仁の乱の最中に将軍・義政が移って屋敷とし、次代の義尚もこの屋敷に入ったことから、事実上の将軍御所となっていました。
1483(文明15)年以降、富子の邸宅になっていましたが、元々細川氏の屋敷だった為、富子は細川政元へ返還を申し出ました。
しかし、事実上の将軍御所となった屋敷を預かるのは畏れ多いと政元が固辞したため、富子はこの屋敷を清晃に譲ることにしたのです。
この行動が、「富子と細川政元が清晃を次期将軍にしようとしている」という噂を生み、これに怒った義視は清晃の入居前に小川殿を破却してしまいました。
明らかな過剰反応かと思いますが、義視のこの行動に日野富子は大いに不快感を示し、義視・義材父子を次第に敵視するようになります。
こうして日野富子の支持を失った義材は、義政死後もなかなか将軍宣下を受けることができず、ようやく7月になって新将軍に就任します。
しかし、元々義材の将軍就任が不服の細川政元は、義材の将軍就任に伴う儀式の執行に管領が必要のためその職に就いたものの、儀式が終わるとすぐに辞任し、幕府政所執事として幕政を取り仕切っていた伊勢貞宗も父・貞親が義視の政敵であったことから義材の将軍就任には反対だったようで、家督を嫡男・貞陸に譲って隠居。
幕政の中心を担っていた細川政元、伊勢貞宗の二人は、ともに新将軍・義材に非協力的な態度を露骨に示したのです。
同年10月には義材の母が死去し、義材は当時事実上の将軍家家長であった日野富子との大事なパイプ役を失ってします。
翌1491(延徳3)年正月には後見役で大御所を称していた父・義視も病死。こうして義材は新将軍となったものの幕府内で急速に孤立化し、極めて不安定な政権運営を迫られることになりました。
足利義視が死去するのと前後して、もう一人応仁の乱の中心人物が姿を消します。
1491(延徳2)年12月12日、河内、大和の二国を切り取り、幕府から独立して割拠した畠山義就が世を去ったのです。
義就の跡は子の義豊(基家)が継ぎました。
相次ぐ実力者の死とともに不安定な権力基盤しか持たない将軍の誕生に、応仁の乱後少しばかり続いた畿内の平穏は、破られようとしていました。
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