大和徒然草子

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古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2)

中世の大和国では、奈良の興福寺が事実上の守護として君臨し、在地の国人領主である武士は興福寺春日大社の衆徒、国民として組織されてその傘下にありました。

しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての戦乱で、国人たちは寺社領を蚕食して勢力を蓄え、興福寺の制御から外れて独自の動きを取るようになります。

南北朝時代以降、大和で特に大きな力を持つようになった国人が、筒井氏古市氏箸尾氏十市そして越智氏でした。

越智氏は大和源氏の一流を称して高市郡越智(現高取町)を本拠に、吉野南朝の主力となって勢力を伸ばし、15世紀末の戦国時代初め頃までは大和における幕府(北朝)方主力として勃興した筒井氏をしばしば圧倒した国人です。

そんな越智氏の本拠・越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を、前回は越智氏の足跡とともにご紹介しました。

今回ご紹介するスポットは、越智氏の築いた中世山城、貝吹山城です。

15~16世紀にかけて戦国時代の争乱が深まる中、大和国でも武士たちは平地の館城から、それまで戦時の詰城としていた山城に居館と政庁の機能を併せ持たせた戦国期拠点城郭を築き、本拠機能の一部、もしくは全部を移しました。

筒井氏における椿尾上城、十市氏における龍王山城が戦国期拠点城郭として知られますが、越智氏においては高取城、そして貝吹山城が拠点城郭だったとされます。

 

貝吹山城とは

貝吹山城は、越智氏が本拠を置いた越智谷北側山塊のピークである貝吹山山上に築かれた中世山城です。

もともと平時の領主居館であった越智城の詰城として築かれましたが、下図を見るとわかるように、貝吹山城は南朝方が本拠とした吉野から続く山塊の北端で、奈良盆地へ北進するための拠点でもありました。

奈良盆地周辺の主要城郭分布(国土地理院HPより作成)

ちなみに「貝吹山」の名は、ほら貝を吹いて敵襲を知らせる場所だったことに由来しているとされ、もとは奈良盆地方面を監視する櫓台が置かれていた場所と考えられます。

貝吹山城の正確な築城年代は不明ですが、城郭として史料上の初見は1546(天文15)年のことで、『多聞院日記』天文十五年九月日条に、筒井順昭が越智郷へ六千余騎の軍勢で侵攻した記録の中に「貝吹ノ城」として登場します。

同年、越智郷は筒井順昭によって占領され、貝吹山城は筒井氏の手に落ちました。

その後、越智氏によって貝吹山城奪回戦が数度にわたり繰り返されますが、都度筒井氏に跳ね返されます。

1559(永禄2)年に三好長慶配下の松永久秀が大和侵攻を開始すると、越智氏は筒井順慶に味方したようで、1566(永禄9)正月には越智氏一門の越智家増(伊予守)に貝吹山城が引き渡され、越智氏は20年ぶりに貝吹山城を回復しました。

1568(永禄11)年、織田信長が上洛して信長の協力者となった松永久秀は、信長の支援を受けて貝吹山城にも侵攻しますが、家増の反撃に大損害を受けて敗退します(『多聞院日記』永禄十一年十二月八日条)。

翌1569(永禄12)年5月にも貝吹山城は松永方の侵攻を受けましたが、家増は再び撃退に成功し、松永方の柳本氏や信長名代の「ウタノ助」等、名のある武士たちが戦死しました(『多聞院日記』永禄十二年五月十日条)。

しかし同年11月4日、松永氏の圧迫に抗しきれなかったのか、貝吹山城は開城されて松永方へと引き渡されます。

その後、貝吹山城は文献史料上からは姿を消し、1580(天正8)年に信長の命で郡山城を除いて大和国内の全ての城郭が破却された際に、廃城となったとされます。

 

貝吹山城跡

それではいよいよ、現在の貝吹山城の様子をご紹介していきます。

貝吹山城の本丸までは、北の橿原市側、南の高取町側のどちらからも登山道がありますが、今回は主要な曲輪を観察しながら登城できる高取町側から本丸を目指しました。

高取町側登山道入り口への最寄り駅は近鉄飛鳥駅で、距離は2kmほど。徒歩だと20分ほどでしょうか。

途中、牽牛子塚古墳など著名な古墳も数多くあるので、ゆっくり散策しながら訪れるのもお勧めです。

さて、貝吹山城の城域は、下図の凡そ青い網掛けで囲んだ範囲で、山頂の本丸を中心に稜線に沿って階段状に曲輪を配したいわゆる連郭式山城になります。

貝吹山城周辺図(国土地理院HPより作成)

本丸から西に延びる稜線上には、越智氏の居館があった越智城に通じる道があり、平時の館である越智城が攻撃を受けた際は、詰城として機能していました。

越智谷と谷を取り囲む丘陵には6~7世紀に築造された古墳が点在し、越智城も貝吹山城も城域に多数の古墳が存在します。

これらの古墳の墳丘には後世の削平の跡もみられることから、防衛設備として改変されていたのかもしれません。

奈良県下で城塞化された古墳としては黒塚古墳天理市)が代表例ですが、古墳の墳丘や周濠を城郭設備に転用した例は県下でも多数散見され、貝吹山城近隣の明日香村でも、雷丘の雷城が古墳を改変した城郭と類例もあることから、墳丘を防衛設備に活用した蓋然性は低くないと思われます。

 

貝吹山城の南西麓にある与楽乾城古墳(カンジョ古墳)。

6世紀末から7世紀前半までの築造と推定され、国指定史跡「与楽古墳群」の古墳の一つです。

こちらの古墳が貝吹山城の南側登城ルート入り口の目印になります。

世界遺産登録を目指す「飛鳥・藤原」の構成遺産候補にはなっていませんが、近年隣接する与楽鑵子塚古墳とともに史跡整備が進められています。

駐車場がどうやら設けられるみたいなので、貝吹山城へのアクセスも飛躍的に向上することが期待できますね。

 

古墳前のお地蔵さん前にある道標にしたがって右(東)に進みます。

正面に小さな丘が見えてきますが、こちらも古墳で与楽ヲギタ遺跡西側の尾根になります。

こちらの丘からは中世の土塁跡が検出されており、谷筋に突出した貝吹山城の防衛施設であったと推察されます。

 

獣害対策の電気柵をまたいで登城ルートに入ります。

越智城も同じでしたがイノシシが多いらしく、付近のいたるところに電気柵が設置されており、大きなイノシシ捕獲用の罠もありました。

イノシシらしき足跡も見かけたので、登山時は注意が必要ですね。

電気柵を越えるとき、うっかり触れて感電しないように気を付けましょう。

 

尾根筋を山頂目指して登ります。

 

尾根筋の各所に削平地が見られますが、近世以降は里山として利用され、城跡なのか畑跡なのか判然としません。

ちなみに上の写真の右(東)側金網の奥は県営水道ポンプ場で、ポンプ場建設前の発掘調査で14世紀頃に谷間が埋め立てられて削平されたことや、同時期に斜面に築造されていた古墳の上部が削平されていることが分かっています。

現在まで貝吹山城は、周囲を囲む古墳の調査は一部進められているものの、城跡全体の本格的な発掘調査が行われていません。

こちらのヲギタ遺跡の発掘内容からも、貝吹山城は古代から現在に至るまで、継続的に土地利用されてきた跡が残っている点で文化財としての価値が非常に高いと思われます。

 

本丸まで200mほどの地点まで登ってきました。

帯曲輪と思しき平坦地があります。

曲輪跡かなとついつい足を踏み入れたくなりますが、特に春先などは「たけのこ」を傷める危険があり、土地主の方に大変なご迷惑をかけてしまうので、登山道から見学させてもらいましょう。

山頂に近付くにつれて曲輪跡と思しき平坦部が非常に多くなってきます。

ただ現在もたけのこ取りなど、里山として活用されていることもあり、中世の城郭遺構なのか近世以降の土地改変なのかはわかりにくいです。

大きな土塁や堀切などがあればわかりやすいのですが、貝吹山城跡にはほとんど見られません。

こちらの看板が見えてくると山頂までもう少しです。

本丸まで100mほどの場所に、「折れ」のある枡形が見えてきました。

貝吹山城で「山城」らしさを実感できるスポットになります。


枡形の上にある平坦地。

本格的に城郭遺構と思しき曲輪が増えてきます。

山頂の本丸に近付くにつれて急峻になってきます。

 

登山道は途中から大手筋を離れて切岸斜面に設けられているようです。

 

本丸への最後の上り坂にはロープが吊るされていました。

急峻な切岸を体感しながらよじ登りましょう。

 

最後の切岸を登ると、本丸の平坦部に出てきます。

南側は現在草木が茂って眺望はさえぎられていますが、往時は木々もなく越智谷が一望出来たのでしょう。

山頂部が見えてきました。

実はこちらも古墳の墳丘と見られています。

本丸東隅に「牛頭天王」の石碑がありますが、かつては牛頭天王社が山頂に祀られていました。

山頂部も削平されており、かつては櫓が設けられていたと見られます。

山頂には「貝吹山城址」の石碑が立てられています。

山頂付近の本丸主要部は近年橿原市の皆さんにより整備され、眺望も開けて城郭愛好者だけでなく、ハイキング愛好者にも広く気軽に楽しめるスポットになっています。

 

山頂部の曲輪から南側の眺め。

階段状に曲輪が配置されていることが分かります。

山頂から北側を見ると、山頂部では最大の曲輪が広がります。

こちらでは室町時代の焼き物など、生活空間の存在を示唆する遺物が発見されています。

土師器など室町時代の遺物は、城跡西麓にある与楽乾城古墳や与楽鑵子塚古墳付近の削平地からも発見されており、貝吹山城を中心に多くの城兵が常在していた可能性もあります。

15世紀末に筒井党の攻勢によって越智氏が越智郷を一時追われた後、平城で防御性の劣る越智城は放棄されたと見られ、以後は貝吹山城とさらに吉野に近い山間の高取城へ、越智氏の拠点城郭は移動したと考えられますが、今後発掘が進んで、中世の屋敷跡や大規模な住居遺構が確認されれば、戦国末期における貝吹山城の位置付けがより明確になるでしょう。

 

山頂から西側。

越智谷の先に葛城山金剛山が見えます。

 

本丸北側からの眺望

大和三山から遠くは信貴山生駒山まで、奈良盆地を一望することが可能で、この山に城郭が置かれ、激しい争奪の舞台になった理由が実感できる眺めです。

 

本丸北側の縁には、橿原市方面へと続く登山道があります。

時間に余裕があるならば城跡を南北に縦走するのもよいでしょう。

 

山上から東側の眺望。

白橿町の団地の先に飛鳥の甘樫丘が見えます。

 

山上には地元の方々によって設置された貝吹山城や越智城、越智氏についての説明板もあり、当地の歴史的な背景を知るのにもってこいの場所になっています。

城郭の規模については、中世山城としては大規模な部類に入り、越智岡の北側一帯が城壁の役割を担ったと考えるなら、奈良県下の中世山城としては最大級の城郭の一つといえるでしょう。

城郭の構造的には高い切岸や一部に小規模な枡形構造や土塁が見られる以外は、大規模な堀切、枡形などは殆ど見られず、戦国末期まで使用された城郭でしたが、戦国初期の一般的な山城の構造から大幅な修築は行われなかったようです。

戦国末期は越智氏惣領家の本拠は越智谷から高取城に移動していたとも見られるため、貝吹山城の強化は筒井氏に占領される天文期(16世紀前半)の時点で、止まってしまったのかもしれません。

 

城跡は近年ハイキングコースとしての整備も進み、軽装でも気軽に登城できる山城になっています。

周囲には古墳時代最末期の貴重な古墳群が多数あり、古代には古墳、中世は山城、近世以降は里山として連続的に土地活用されてきた過程が、そのままの姿で残されている点で、シンプルに史跡として大きな魅力を秘めていると思いました。

 

奈良県戦国史で中心的勢力の一つだった越智氏が拠点とした城郭だけに、現在まで本格的な発掘調査が実施されていないのは大変残念な状況です。

橿原市や明日香村が「飛鳥・藤原の宮都とその関連史跡群」の世界遺産登録を目指す中、近隣の古墳では史跡整備が進められていますが、十分な調査が行われない状況のまま、古代史跡にのみフォーカスを当てた整備が行われると、貴重な城郭遺構が十分な調査も行われないまま永久に失われてしまう恐れもあります。

実際に石舞台古墳の南西部、国営飛鳥歴史公園・祝土地区の祝土城跡では、公園の遊歩道などの整備のため、全く調査が行われることなく城跡が大規模破壊されたこともあり、古代から現在まで連綿と続く人々の営みが詰まった貴重な遺構として、貝吹山城の調査と史跡整備が進められていくことを強く願います。

 

参考文献

『多聞院日記 第1巻』 英俊