当ブログでは鎌倉時代から江戸時代までの大和武士たちの活躍や動向を、当時の畿内史と関連付けながら21回にわたって「大和武士の興亡」として奈良の戦国史を詳しく紹介しました。
今回は奈良の戦国史について切り口を変え、戦国の大和で活躍した大和武士の一族たちに焦点を当てて、ご紹介していきます。
最初にご紹介する大和武士の一族は、戦国末期に大和国の覇権を握って近世大名へと躍進することになる筒井氏です。
筒井氏の出自
筒井氏は興福寺一乗院方衆徒で、大和国添下郡筒井(現大和郡山市筒井町)を本拠に活動した国人の一族です。
その出自については大きく2つの説があります。
一つは大物主神を祖神とする大和の古族・大神氏とする説(『平城坊目遺考』『大和志料』等)で、もう一つは藤原氏とする説(『和州諸将軍伝』『寛政重修諸家譜』等)ですが、結論としては正確なところが判然とせず、現在のところ出自は不明と言わざるをえません。
ただ、最後の当主・筒井定次は藤原氏を名乗って居り、『続武家補任』で「筒井藤原定次」とある他、江戸幕府公式の家系集である『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』でも筒井氏は「藤原姓」となっています。
しかし、順慶以前に筒井氏が藤原姓を名乗った記録はなく、定次以降に名乗った「藤原姓」が、江戸時代を通じて定着化していったとも見られています。
その他、筒井氏家紋が梅鉢紋であったことから、天神様として有名な菅原道真と同じ菅原氏との説もありますが、こちらも決め手に欠けると言えるでしょう。
筒井氏が史料上にその名を現すのは14世紀末、南北朝時代の末期で、1384(至徳元)年の春日若宮祭礼(いわゆる春日若宮おん祭り)における流鏑馬神事の記録『長川流鏑馬日記』の願主たちの中に「筒井」の名が見えるのが最初になります。
鎌倉期から史料上にその名を現す箸尾氏などに比べると後発の武家だったのかもしれません。
そもそも、筒井氏が本拠地とした「筒井」の地名自体が古代の史料からは確認できず、筒井氏が史料上に出現した後の1406(応永13)年『薬師院日記』が初出であることから、筒井氏の勃興とともに「筒井郷」という地名が確立していったと考えられます。
江戸時代の軍記物である『和州諸将軍伝』には筒井氏の祖は、768(神護景雲2)年に藤原氏祖神の天児屋命が河内枚岡から春日社へ遷宮したときに供奉し大和国添下郡筒井に移住した藤原順武であるとしていますが、順武やその父・順快の名は他の史料に見えず、『和州諸将軍伝』の史料的信憑性の評価が一般的に低いことからも、にわかに史実とは信じがたいと言えるでしょう。
信用性の高い史料に見える最初の当主は、1386(至徳3)年の『興福寺衆徒評定状』に現れる筒井順覚になります。
この時、順覚は官符衆徒となっていました。
ここで大和武士の特質として抑えておくべき、衆徒、国民について簡単に説明しておきます。
大和国は興福寺が事実上の守護、国主となっており、興福寺の荘園管理を担った在地領主のうち、一乗院や大乗院といった興福寺の別当寺院に仕える法体(僧形)の者は衆徒、春日大社神人として俗体の者は国民と呼ばれました。
大和では南北朝時代から各地の衆徒・国民が地縁、血縁で党を組み、興福寺は春日若宮祭礼の宮座として各党を体制下に組み込みましたが、筒井氏は大和北西部の衆徒・国民から成る乾(戌亥脇)党の刀禰(リーダー)として台頭したと考えられます。
衆徒の中でも官符衆徒(衆中)は、興福寺別当らに直属する定員20名からなる衆徒の代表者たちで、興福寺の軍事の中枢を担う存在であり、順覚以降、筒井氏当主は戦国期の順慶まで代々官符衆徒を世襲することになります。
以下は『多聞院日記』等の史料をベースに作成した順覚以降の筒井氏系図です。
筒井氏は順覚以来最後の当主筒井定次が伊賀に転封されるまでの約200年間、大和戦国史の中心的一族であり続けました。
次節以降、筒井氏歴代の事績を紹介しつつ、筒井氏が戦国大和をどのように生き抜いていったかを見ていきましょう。
筒井氏歴代
順覚(南北朝~室町初期)
先述のとおり、史料上最初に現れる筒井氏当主が筒井順覚です。
順覚は1386(至徳3)年官符衆徒として歴史上出現しますが、おそらく筒井氏は順覚の代に官符衆徒になったと推察されます。
というのも順覚が登場する2年前、1384(至徳元)年の史料『長川流鏑馬日記』には、春日若宮祭礼における流鏑馬神事の願主が列挙されているのですが、この中に「筒井」の名があるからです。
実はこの史料にリストアップされた願主たちは皆「国民」で、筒井氏が属した乾党の官符衆徒である井戸氏や竜田氏らの名は見えません。
しかし筒井氏のみが記されていることから、当時の筒井氏当主は僧形の「衆徒」ではなく俗体の「国民」だったと見做しうるのです。
それから2年のうちに筒井順覚は衆徒となり、興福寺の幹部である官符衆徒に成り上がりました。
この急速な身分上昇の背景には時の将軍・足利義満の後ろ盾があったのではと考えられます。
『大乗院寺社雑事記』の延徳二年十二月晦日条には、鹿苑院(足利義満)の時代に興福寺の一部勢力が強訴に及ぼうとしたとき、義満の命を受けた筒井氏が強訴の首謀者たちを成敗したとの記事があり、普広院(足利義教)の時代も筒井は将軍に奉公したと記されています。
足利義満から義教にかけての筒井氏当主は順覚であり、義満は平安末期から南北朝時代まで猛威を振るった興福寺の強訴と、根強い抵抗を続ける大和の南朝勢力へ対抗するため、筒井氏を積極的に後援したのでしょう。
※興福寺の強訴についての詳細は下記記事で詳しくご紹介しています。
さて、室町将軍の後援を得た筒井氏ですが、1392(明徳3)年の南北朝合一後も旧南朝勢力の国人たちが多数を占める大和国にあっては、非常に非力な存在でした。
1403(応永10)年に後南朝勢力の箸尾為妙と十市遠重が筒井郷を攻撃した際は、筒井順覚は撃退できず、足利義満は1406(応永13)年に兵を送って箸尾氏と十市氏を討伐し、筒井氏を支えます。
6代将軍足利義教の代に移ってからも幕府の筒井氏支援は続き、筒井氏と越智氏が全面対決して大和全土を巻き込む大争乱となった大和永享の乱が1429(正長2)年に勃発すると、義教は筒井氏を支持し、1430(永享2)年には興福寺の重要な収入源であった摂津国にある河上五ヶ関の代官職を順覚に与え、経済的にも筒井氏を大きく支援しました。
しかし、幕府の大きな支援にもかかわらず、筒井順覚は1436(永享6)年に越智維通との合戦(慈明寺の戦い)で大敗し戦死してしまうのです。
成身院光宣と順弘、順永(河上五ヶ関を巡る抗争と応仁の乱)
当主・順覚の戦死で、筒井氏はその子である筒井順弘が跡を継ぎましたが、敵対する越智氏、箸尾氏の攻勢にさらされ危機的な状況となりました。
この筒井氏の危機を救ったのが、順弘の弟で興福寺末寺の衆徒である六方衆の棟梁であった成身院光宣です。
光宣は六方衆棟梁として興福寺内の実力者にのし上がった人物で、大和永享の乱勃発時に軍事介入には慎重だった幕府を説き伏せ、慎重派の管領・畠山満家の死後、将軍義教から幕府の軍事支援を取り付けるなど、幕府と筒井氏をつなぐうえで大きな役割を担っていました。
父・順覚の死後、光宣は再び幕府に大規模な軍事支援を依頼し、以後、大和永享の乱は幕府軍対越智、箸尾軍の様相を呈しました。
圧倒的な幕府の軍事力の前に越智、箸尾は敗退し、1439(永享11)年に越智維通が幕府の追手に討たれたことで大和永享の乱は終わりました。
さて、大和永享の乱が終結してまもなく大和国内で大きな火種となったのが、筒井順覚の時代に筒井氏に与えられた河上五ヶ関代官職の権益です。
順覚の死後、代官職の相続を巡って筒井順弘と成身院光宣の兄弟が争い始めたのです。
1441(嘉吉元)年に嘉吉の変で将軍義教が暗殺されると、義教によって冷遇されていた河内の畠山持国が復活し、その持国の後援で義教に討伐された越智維通の遺児・家栄が南和の旧領を回復した後、筒井順弘側に付いて介入するなど筒井氏の内訌は泥沼化しました。
筒井氏の内訌は最終的に筒井順弘が成身院光宣によって追放されたことで光宣の勝利に終わり、筒井氏家督は順弘、光宣の弟・順永が継ぎます。
しかし河上五ヶ関代官職を巡る争いは止まず、今度は興福寺の別当を務めた大乗院門跡経覚が、元々興福寺の権益であったことを理由に光宣に対して代官職の返還を要求しだしたのです。
光宣が代官職返還を拒否すると、経覚は大乗院方衆徒の古市胤仙や越智家栄を味方に付けて筒井氏と武力抗争に発展し、泥沼の戦いは主戦派の古市胤仙が死去した翌年1454(享徳3)年に光宣と経覚の和睦が成立してようやく終わりました。
しかしこの抗争を切っ掛けとして筒井氏と古市氏は不倶戴天の宿敵となります。
河上五ヶ関代官職を巡る抗争が終結したのもつかの間の1454(享徳4)年、筒井氏は河内畠山氏の内訌に早くも巻き込まれます。
畠山氏の内訌は嫡男のいなかった元管領の畠山持国が、一度は弟の持富に家督を譲ると決めた後、母親の身分が低かったため嫡子とできなかった実子の義就に後継者を変更したことから生じました。
畠山家中は持国・義就派と持富の子である弥三郎派に分裂して1454(享徳4)年8月から抗争を始めたのです。
大和では畠山持国に大恩のある越智家栄と越智氏と連携する古市胤栄が義就派につき、成身院光宣率いる筒井氏は、友好関係にある幕府管領・細川勝元が畠山持国と政敵だったこともあって弥三郎を支持したため弥三郎派に与します。
畠山氏の内訌で河内・大和は大乱になりますが、戦いは義就派有利に進みました。
そして1459(長禄3)年に畠山弥三郎が急死すると、光宣が主導して弥三郎の弟・政長を擁立して戦いを継続させたのです。
ここに畠山氏は義就流の総州家と政長派の尾州家に完全分裂しました。
そして光宣主導で政長を擁立したことから筒井氏も内乱の当事者となって、戦いから抜け出せなくなりました。
以後、筒井氏は戦国期を通じて畠山尾州家と共同歩調をとっていくことになります。
この畠山氏の内訌と、細川勝元と山名宗全の幕政を巡る主導権争いに斯波氏の家督争いが結びついて1467(応仁元)年に勃発したのが応仁の乱でした。
筒井氏は東軍主力として京都で戦い、大和でも西軍に付いた越智家栄、古市胤栄、澄胤兄弟と激しい抗争を繰り広げます。
なお、応仁の乱前後の大和の政治情勢については、ベストセラーとなった呉座勇一著の『応仁の乱』で詳細かつ大変分かりやすくまとめられていますので、是非ご一読ください。
応仁の乱が長引く中、乱の終結を待つことなく成身院光宣と筒井氏当主・順永は病死し、筒井氏当主は順永の子の順尊が継ぎました。
順尊、順賢(筒井氏の没落と大和復帰)
1477(文明9)年に応仁の乱は形式上は東軍勝利で終結しました。
しかし畠山氏の内訌は続き、京都から退去した畠山義就は河内、大和を席巻して政長派を圧倒。
応仁の乱本戦は東軍勝利に終わったものの、筒井順尊は大和を追われて東山中や京都への逃亡を余儀なくされます。
順尊は同様に大和を追われた十市遠清らとともに粘り強く大和への復帰を目指し、越智家栄、古市澄胤と戦いますが、ことごとく失敗して、1489(長享3)年失意のうちに亡命先の京都で「酒毒」により病死しました。
筒井氏当主は嫡男・順賢が継ぎましたが、幼少のため叔父の成身院順盛が後見します。
本領を追われて当主が早世するなど厳しい状況の筒井氏に、さらなる試練となったのが1493(明応2)年に勃発した明応の政変です。
8代将軍義政室の日野富子、幕府政所執事の伊勢貞宗らと共謀した管領・細川政元が、畠山政長らと河内遠征中の将軍・足利義材を廃立して、堀越公方・足利政知の子、義澄を擁立したこの政変で、筒井氏が恃みとする畠山政長は討ち死にして畠山尾州家が没落。大和では政元らに加担した越智家栄と官符衆徒棟梁となっていた古市澄胤が全盛期を迎えることになります。
しかし、1497(明応6)年に畠山総州家内で内紛が起こると、河内で政長の子で畠山尾州家を継いだ畠山尚順が反撃を開始し、これに呼応する形で筒井順賢も大和へ帰還して挙兵しました。
折しも越智家栄と古市澄胤の関係が悪化していたこともあり、筒井順賢は越智氏と古市氏を各個に撃破して大和への復帰を果たします。
越智家栄・家令父子や古市澄胤は各々本拠地を奪われ没落を余儀なくされました。
ところで、この時筒井氏を支援すべく越智方の万歳氏領へ攻め入った畠山尚順は、占領した土地を自らの馬廻に与えるという事件が起こりました。
建前上とはいえ興福寺領が他国衆に領有される初めての事態に、興福寺は大きな衝撃を受け、以後、赤沢朝経、木沢長政、松永久秀と続く他国衆による大和侵略の嚆矢となります。
1499(明応8)年に細川政元は京都復帰を目論み侵攻してきた前将軍の足利義尹を撃退すると、大和で勢力を盛り返した畠山尾州家方国人の筒井氏らを討伐するため、赤沢朝経を差し向けます。
京衆を引き連れた赤沢朝経は古市澄胤の手引きで奈良に侵攻し、筒井氏らを撃破して喜光寺などの寺社を焼き払い、翌年には闕所となった北和の筒井領を自身の被官に領地として与えました。
1504(永正元)年になると、細川政元の養子・澄元、高国をそれぞれ支持する家臣団の争いが発生し、赤沢朝経は一時失脚。
京衆が大和から引き揚げたため、一時大和を追われた筒井氏ら国人たちも本領へ復帰します。
しかし赤沢朝経による本格的な他国衆の大和侵攻は、大和国人内に積年の恩讐を乗り越えた結集の機運を起こしました。
同年12月に河内で畠山尾州家と総州家が細川政元の専横に反発して和睦したことも後押しして、ついに翌1505(永正2)年2月、筒井順賢、越智家令、箸尾為国、十市遠治らを頂点に主要な大和国人たちが同盟を結び、局外中立と他国衆の排除を目的とした大和国人一揆体制が構築されたのです。
大和国人一揆は、同年復権した赤沢朝経の再侵攻や、朝経死後にその養子の赤沢長経の大和侵攻には一致団結して対抗することになり、1507(永正4)年に再び両畠山氏が反目し合うまで継続されました。
順興(筒井氏の戦国大名化)
1507(永正4)年に幕政をほしいままにした細川政元が家臣に暗殺されると、細川京兆家でも家督を巡って細川政元養子の澄元、高国が家督争いを始めて分裂し、畿内は両細川の乱によって混乱状態に陥ります。
細川高国は前将軍・足利義尹(元・義材)を、細川澄元は将軍・足利義澄を奉じて争い、1508(永正5)年に義澄が病死したこともあって義尹(1513年に義稙に改名)が将軍位に復帰し、細川高国が政権を握りました。
両細川の乱では筒井順賢は畠山尾州家と共に高国派に与し、越智家教、古市公胤は澄元派に与して大和で激戦を繰り広げていました。
畿内での紛争が高国派有利に進む中、大和での筒井、越智両党の争いは一進一退を繰り返していましたが、1517(永正14)年に越智家教が急死して越智党内に混乱が生じ、筒井順賢は奈良を越智党から奪回します。
しかし、将軍親裁志向が高い足利義稙は大和の将軍家領国化を目論み、許しを得ずに奈良に入ったと順賢に難癖をつけて奈良から退去させ、順賢に替わって寵臣の畠山順光を官符衆徒棟梁、すなわち大和守護代に任じようと画策しました。
興福寺は興福寺衆徒以外の者が官符衆徒棟梁になることは前例がないと、足利義稙の裁定に強硬に反発し、最終的に義稙は興福寺の要求を受け入れ、畠山順光も奈良から退去せざるを得なくなります。
この混乱の中、1518(永正15)年3月新たに官符衆徒棟梁となったのが、順賢の弟・筒井順興でした。
順興の房名が兄とされる順賢と同名の「良舜房」であることから、順興と順賢は同一人物の可能性もあるとされていますが、順興が官符衆徒棟梁となった後、史料上から順賢の名は消えるので、将軍家との関係がこじれた順賢に替わり、弟の順興が新たな当主に立てられたのでしょう。
順興が当主となってから、細川澄元が阿波で病死したこともあり、畿内の混乱は細川高国有利のうちに収束しつつありましたが、大和では筒井党と越智党の争いが依然として収まりませんでした
しかし、畿内での混乱を望まない細川高国の意向もあってか、河内守護代・遊佐順盛の仲介で1520(永正17)年に筒井順興と越智家頼が和睦し、再び大和国人一揆体制が確立します。
1524(大永4)年には畠山尾州家と総州家の戦いに、大和国人一揆は尾州家側としてともに参陣するなど、順興は国人一揆体制の維持に努めました。
しかし、1528(享禄元)年に細川高国が阿波から反転攻勢に出た細川晴元(澄元遺児)、三好元長主従により京を追われて政権を失うと、順興は越智氏との同盟を破棄。畠山尾州家と組んで越智領への侵攻を始めます。
元々、細川高国の意向で進められた同盟関係でもあり、高国が力を失った時点で、順興は独自の判断で越智領の併呑を目指しました。
また、順興は占領した越智氏の旧領を畠山氏に割譲する事を約して援軍を得ていました。
官符衆徒棟梁でありながら、本来固守すべき興福寺の領土を他国衆に引き渡すことを独自の判断で行っており、順興は筒井氏戦国大名化の嚆矢となる人物だったと言えます。
再び大和国内各地で戦乱が巻き起こり、順興の背後を衝こうとした北和の越智党の兵により薬師寺の天平伽藍が消失するなど、各地に多くの爪痕を残しました。
大和での筒井氏と畠山氏の跋扈を快く思わなかった細川晴元が柳本賢治を大和へ派兵すると、順興は東山中への逃亡を強いられるなど苦戦しましたが、細川晴元政権内の混乱を巧みに利用しながら粘り強く柳本賢治と交渉し、1529(享禄2)年には礼銭支払いと私段銭の賦課権を認めることで交渉をまとめ、柳本勢の大和からの撤兵を実現しました。
1532(天文元)年になると細川晴元と三好元長の関係が悪化。三好元長を排除するため浄土真宗本願寺教団の武力を利用しようとした細川晴元は、本願寺をそそのかして畿内各地で本願寺による一向一揆を蜂起させ、三好元長は一揆勢によって敗死します。
一向一揆は次第に暴徒化し、大和でも蜂起した一揆勢は河内の門徒衆らと共に奈良を壊滅させて南下し、高取城を包囲しました。
この他国勢力による外冦で再び国人一揆結成の機運が高まり、筒井順興は十市遠治とともに高取城の救援に駆け付け、城内の越智家頼と連携して一向一揆を撃破。その後も協力して大和の一向一揆を鎮圧します。
大和一向一揆の蜂起と鎮圧をとおして大和国人一揆体制が再び構築され、細川氏被官の木沢長政による大和侵攻まで、大和国内は数年間安定期を迎えました。
筒井順興は、大和国人一揆体制の中で官符衆徒棟梁として筒井氏を大和国人のリーダー格に押し上げた他、娘を十市遠治の嫡男・遠忠に嫁がせたり、有力な筒井氏一族である福住氏に実子を養子に送ったりと、縁戚を通じて大和国内における筒井氏の影響力増大につとめ、孫・順慶の代に近世大名へと脱皮する礎を築いたのです。
順昭(大和を武力統一した最初の覇者)
1535(天文4)年に筒井順興が死去したとき、嫡男藤松は13歳と元服前の少年でしたが、一族や家臣たちに支えられて筒井氏当主となり、1538(天文7)年には得度(元服)して栄舜房順昭を名乗ります。
筒井順昭が家督を継いだ翌年1536(天文5)年から、大和国は事実上の河内国主であり京で政権を握る細川晴元の被官でもある木沢長政の侵攻を受けていました。
同年、大和河内国境に信貴山城を築いた木沢長政は、興福寺が幕府に訴えた越智党・戒重氏による年貢滞納の解決を口実に、戒重氏、越智氏の領土へ侵攻し、奪い取った領地を我がものとして家臣たちに分与していったのです。
この木沢長政の侵攻に筒井氏は協力姿勢をとり、木沢長政の越智領侵攻を黙認して、大和国人一揆は崩壊し、その後二度と結ばれることはありませんでした。
さて、筒井氏が木沢長政に恭順する一方、筒井氏の同盟者である十市遠忠は当初は木沢氏と筒井氏に同調する動きを見せながらも、妻の実家でもある筒井氏との多年にわたる同盟関係を解消して、木沢長政・筒井順昭と激しい抗争を開始します。
木沢・筒井連合と十市氏の戦いは、1540(天文9)年に興福寺と幕府の仲介で和睦が成立するまで続きました。
さて、当主になってからも暫くの間、若年ということもあってか活発な動きを見せなかった筒井順昭でしたが、1542(天文11)年に木沢長政が政敵である三好長慶との戦いで敗死すると、自立的な動きを見せ始めます。
同盟者であった木沢長政の死後、伝統的な同盟関係にある畠山尾州家との関係を再び強化した筒井順昭は、木沢長政残党の討伐で初めて河内へ出陣したのを皮切りに、1544(天文13)年までに東山中の簀川氏、柳生氏、古市氏の攻略に成功して北和を制圧しました。
畠山尾州家を後ろ盾とする筒井氏の勢力伸長に警戒を強めた越智家頼は、京都で政権を牛耳る細川晴元に接近してその猶子を養子に迎え、筒井氏に対抗する姿勢を見せます。
しかし、筒井順昭の勢いは衰えず、1546(天文15)年には箸尾為政を謀殺して箸尾氏を従属させました。
同年、和泉国では畠山尾州家の支援で、細川高国の養子・氏綱が反細川晴元の兵を挙げると、筒井順昭は畠山氏との関係から氏綱派に与します。
急速な筒井順昭の勢力伸長に危機感を抱いたのか、前年父の急死で十市氏家督を継いだ十市遠勝は、同年8月に畿内各地で細川晴元派と氏綱派が戦闘を開始する中、突如として筒井氏との同盟を破棄して筒井方の城に攻撃を掛けました。
十市遠勝の攻撃は失敗に終わり、その後十市遠勝は多武峰、吉野と越智氏の勢力圏に逃亡したことから、晴元派に与したようです。
筒井順昭は直ちに十市遠勝を追って龍王山城、十市城といった十市氏の本拠を接収し、ついには越智郷(現高取町)へと侵攻。同年10月に勧学寺の戦いで越智勢は多くの死傷者を出して大敗し、貝吹山城も陥落して越智氏は筒井氏の軍門に降りました。
こうして筒井順昭は、初めて大和一国を武力で統一した国人となったのです。
筒井順昭による大和統一後も、畿内では細川晴元派と氏綱派の抗争は続きましたが、1548(天文17)年4月に和睦が結ばれいったん収束しました。
しかし、その直後から今度は細川晴元とその家臣・三好長慶の関係が悪化して畿内では再び軍事的緊張が高まります。
来るべき戦乱を予見したのか、同年9月に筒井順昭は戦時の詰城だった「筒井山ノ城」こと椿尾上城を、政庁機能を併せ持つ拠点城郭として大規模改修しました。
同年の翌10月には三好長慶が「細川氏綱側へ寝返る」という形で、細川晴元から離反すると、畠山尾州家の重臣・遊佐長教を通じて筒井氏は三好氏と友好関係を結ぶことになります。
翌1549(天文18)年3月、筒井順昭に待望の男子(後の筒井順慶)が生まれますが、翌月順昭は病に倒れ、生まれたばかりの嫡男・順慶に家督を譲ると言い残して、わずかな供回りと共に比叡山へと籠りました。
同年6月、三好長慶が細川晴元、足利義晴、義輝父子を京都から近江に追い出して三好政権を樹立させるなど、畿内は激動の年となりましたが、筒井氏は当主不在の中でも一門・家臣団が結束して大和では大きな混乱は起こりませんでした。
父・順興の時代に戦国大名化を果たした筒井氏は、順昭の時代に他国衆と連携しながら、大和国内で圧倒的な力を有する国人に成長した反面、軍事力による強引な大和統一で従来越智、十市、箸尾ら他の有力国人たちとの勢力均衡で保たれてきた国内の安全保障秩序を破壊し、興福寺を中心とした大和国人の連帯を喪失させます。
後年、松永久秀による大和侵攻の際に順昭が屈服させた箸尾氏、柳生氏が真っ先に筒井氏から離反し、他の国人もその時々の利害得失で行動して以前の外冦時に結ばれた大和国人一揆が復活しなかったのは、順興、順昭の二代で推し進めた、武威による大和国内糾合の副反応だったといえるでしょう。
順慶(近世大名化した最後の官符衆徒棟梁)
1550(天文19)年、約1年ぶりに帰国した筒井順昭は、奈良の屋敷で病死し、2歳の筒井順慶が正式に家督を継ぎました。
幼い順慶は、筒井氏歴代の本拠地である筒井城ではなく、東山中の要害堅固な椿尾上城で一門衆の重鎮である福住宗職の後見で養育されました。
さて、筒井氏は幼主を仰ぎながらも畿内最大勢力の三好氏、畠山氏との友好関係から、国外からの脅威にさらされることはありませんでしたが、その内部では筒井氏の在り方を巡って順慶の後見人・福本宗職のグループと、順慶の叔父・筒井順政のグループによる大きな対立が内在していたのです。
福住宗職を中心としたグループが寺門・衆中と協調してその意向を尊重し畠山氏などの他国勢力から自立した行動を指向する一方、筒井順政を中心とするグループは畠山氏との伝統的連携関係を重視して筒井氏の勢力伸長を図りたいと考えており、両派の主導権争いは徐々に激しくなっていきました。
この筒井氏の内部対立は、隣国河内で巻き起こった畠山氏の内訌と結びつき、最終的に大和の戦国史最大の外冦を招くことになります。
河内国では、1551(天文20)年に事実上の河内国主であった河内守護代・遊佐長教が家臣に暗殺されてから家臣団の争いが起こり、大和出身で遊佐氏被官であった安見宗房が台頭して、河内を支配するようになっていました。
1557(弘治3)年12月、筒井順慶が突然椿尾上城から出奔して安見宗房の居城・飯盛山城へ入り、翌1558(永禄元)年2月に安見宗房に伴われて奈良に帰還するという事件が起こります。
まもなく順慶の後見人だった福住宗職が出家して、筒井順政が後見人となったことから、筒井順政が安見宗房と結託して筒井氏の実権を福住氏から奪ったものと見てよいでしょう。
同年11月には遊佐長教の娘と順慶の祝言が行われ、順政と宗房の同盟ラインがより強化される中、同月安見宗房の専横に嫌気がさした河内守護の畠山高政が紀伊へ出奔しました。
この河内の混乱に、畠山高政と同盟関係にあった三好長慶が介入。
1559(永禄2)年6月に松永久秀とともに河内へ侵攻した三好長慶は、安見宗房を大和へ逃亡させ、畠山高政を紀伊から河内の高屋城へ復帰させます。
そして同年8月、安見宗房追撃を名目として三好長慶は松永久秀に対して大和侵攻を命じました。
ここから大和の覇権を巡って筒井順慶と松永久秀の18年以上に及ぶ抗争が始まったのです。
松永久秀の侵攻で、それまで筒井氏に押さえつけられていた箸尾氏、柳生氏らを始め、順政主導の筒井氏に不満を持つ一門の福住氏までが松永方に付いたこともあり、本拠筒井城は瞬く間に陥落し、国中地域(奈良盆地)の大部分を松永久秀は短期間のうちに手中に収めました。
東山中に逃れた筒井順慶、順政は、以後椿尾上城を本城として、信貴山城と新たに奈良に築かれた多聞山城を本拠とする松永久秀に対して、東山中からゲリラ的に攻撃を掛ける苦しい戦いを強いられます。
1561(永禄4)年に近江六角氏と河内畠山氏との関係を悪化させた三好長慶は、南北から挟撃されて苦境に陥り、松永久秀も六角勢との戦いに忙殺されて三好氏の大和支配が一時的に揺らぎましたが、1562(永禄5)年に河内国で畠山勢を教興寺の戦いで撃破すると、畠山方で参陣していた筒井順政は堺へ亡命を余儀なくされるなど、再び筒井氏は東山中への逼塞を余儀なくされます。
そして1563(永禄6)年に筒井順政が亡命先の堺で客死し、若干15歳の少年大名・筒井順慶は、棟梁として難敵・松永久秀と直接対峙することとなりました。
しかし、翌1564(永禄7)年に三好長慶が死去すると、松永久秀と三好三人衆の対立が表面化して三好家中で内紛が発生。筒井順慶は三好三人衆と同盟して勢力を盛り返し、1566(永禄9)年には筒井城の奪回に成功します。
そして本拠地復帰を果たした順慶は同年、成身院で剃髪・得度して陽舜房順慶を名乗りました。
三好三人衆との同盟で大和では松永久秀に対して優勢となった順慶でしたが、1568(永禄11)年松永久秀と同盟関係にあった織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆は四国へ退散し、順慶も大和へ押し寄せた織田勢の大軍に抗しきれず、筒井城を放棄して東山中・福住へと逃れました。
しばらく東山中に逼塞した順慶でしたが、1570(元亀元)年になると、浅井、朝倉、六角、三好三人衆、本願寺、延暦寺といった畿内近辺勢力が、一斉に織田信長と足利義昭幕府に反旗を翻し、その対応に信長も松永久秀も忙殺されたため、ようやく順慶も十市城(現橿原市)を得て平野部に復帰した他、椿尾上城を大規模改修して反転攻勢に打って出ます。
1571(元亀2)年には織田信長から満足な支援も受けられないまま、摂津で三好三人衆相手に苦戦していた松永久秀は、三好義継とともに三好三人衆との和睦を進めて、三好氏の再統合を図る動きを見せ、同年5月、ついに三好義継、三好三人衆とともに幕府を支える河内守護・畠山秋高を攻撃して、幕府から離反します。
三好氏の離反で畿内で孤立することを恐れた将軍・足利義昭は、大和で松永久秀と敵対していた筒井順慶に接近し、養女を順慶のもとに嫁がせました。
松永久秀が幕府から離反したことで、それまで松永方であった箸尾氏ら多くの国人が筒井方へ寝返り、同年8月に奈良南郊の辰市城で筒井勢と松永勢は決戦に及びます。
この辰市城の戦いで筒井順慶は松永久秀に大勝。討ち取った松永方の多数の首級を織田信長に送って、自らの武威を誇示しました。
その後、1573(天正元)年になると畿内で孤立を深めた足利義昭は、三好氏ら反織田勢力と結託して信長と敵対しますが敗北。
足利義昭は京都を追放され、朝倉、浅井そして三好義継が相次いで信長に滅ぼされると、孤立した松永久秀は信長に降伏します。
1574(天正2)年正月、順慶は初めて岐阜城で織田信長に拝謁して正式に臣従しました。
そして翌1575(天正3)年に大和守護に任じられた信長近習・原田直政配下の与力大名となります。
その後順慶は原田直政のもと、長篠の合戦に鉄砲隊を出陣させたり、本願寺との戦いで軍功を重ね、1576(天正4)年に原田直政が石山合戦で戦死すると、後任の大和守護に任じられました。
積み上げてきた軍功と官符衆徒棟梁としての興福寺や大和国人たちとの深いつながりを信長に買われ、ついに順慶は大和一国の軍事指揮権を委ねられる地位を掴んだのです。
順慶の大和守護就任が受け入れられなかったのか、松永久秀は翌1577(天正5)年に石山合戦の前線から突然離脱して信貴山城に籠城。上杉謙信や毛利輝元、本願寺らと呼応して信長に反旗を翻しましたが、順慶を先鋒とする信長の討伐軍によって敗死し、18年に及ぶ順慶と久秀の抗争にようやく終止符が打たれます。
1580(天正8)年に本願寺が信長に降伏して畿内から信長の敵対勢力が消えると、順慶は滝川一益、明智光秀らとともに大和国内の差出検地(自己申告による検地)を実施した他、順慶に反抗的だった国人たちの多くを処刑し、信長の命により郡山城へ本拠を移転のうえ、郡山城以外の国内城郭を破却しました。
検地と反抗的国人の粛清、城郭破却により、大和では郡山城の順慶を頂点とする一元的な支配体制が確立され、筒井氏は近世大名化することになったのです。
その後も天下統一へまい進する織田政権下の外様大名として、外征や大和国内の治政に東奔西走していた順慶でしたが、1582(天正10)年6月に勃発した本能寺の変で織田信長・信忠父子が明智光秀の謀叛で討たれると、最終的に羽柴秀吉に味方して家名を保ち、同年に信長の遺領分配を話し合った清須会議で、引き続き大和国内の本領安堵と軍事指揮権を認められました。
清須会議以降、順慶は大坂を本拠に畿内最大勢力となった羽柴秀吉に近付き、実子がなく後継者と目されていた従兄弟で甥の小泉四郎(後の筒井定次)を人質として秀吉に差し出して従属姿勢を鮮明にします。
国外では秀吉に協力して賤ヶ岳の戦いや伊賀の一揆鎮圧などに当たる一方、国内では越智家秀を謀殺して長年のライバル関係にあった越智氏を事実上滅亡させたうえ、その闕所に松倉右近ら筒井氏内衆を送り込んで南和の直領化をすすめるなど、大和一国を治める近世大名として着々と足場を固めていきました。
1584(天正12)年3月、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で小牧長久手の戦いが勃発すると、順慶は羽柴秀長と共に尾張に着陣しましたが、戦線が膠着していた7月に病に倒れ、8月に帰らぬ人となります。享年36。
幼年で家督を継いだ順慶の生涯は、その前半の殆どを松永久秀との苛烈な抗争に費やす一方、織田氏に服属後は信長の求めに柔軟に対応し、中世以来の大和の支配構造を、筒井氏による近世的な一元支配に改めた点で、短いながらも筒井氏歴代で最も劇的で変化に富んだものになったと言えるでしょう。
また、順慶は筒井氏の近世大名化を図る過程で、父・順昭同様に政敵の謀殺(越智氏等)を辞さなかったうえに、南和の反抗的な国人領主たちを処刑するなど、従来の大和では考えられないほど苛烈な手法で自身への集権化を行い、官符衆徒でありながら検地を強行して寺社からその領地を取り上げ、石山合戦では鉄砲玉鋳造のために寺社の梵鐘を徴発するなど、大和での伝統的な権威である寺社勢力にも容赦がない一面を見せています。
こうした順慶の動きが大和国内で様々なハレーションを生み出していたことは容易に想像できますが、生涯、それでもなお興福寺官符衆徒として生きた順慶にとっては、やむを得ないこととはいえ相当なストレスとになっていたのかもしれません。
順慶夭折の陰には、近世大名として筒井氏の生き残り策と相反する、官符衆徒棟梁としてのアイデンティティとの大きな葛藤があったのかもしれないですね。
定次(筒井宗家最後の当主)
筒井順慶の死後、家督を継いだのは羽柴秀吉の下に人質として送られていた小泉四郎が継ぎました。
四郎は定次を名乗ると、興福寺衆徒となることなく俗体のまま、当主の座について順慶の直領18万石と、大和44万石の兵権を相続します。
南北朝末期の順覚以来、代々の当主が興福寺の官符衆徒となる慣例を破った定次によって、筒井氏は豊臣政権のもとで名実ともに近世大名になったと言えるでしょう。
当主となった定次は、大和国衆を率いて小牧長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐と秀吉の期待に応えて軍功を挙げました。
しかし、四国征伐が終わった1585(天正13)年閏8月、秀吉は本拠である大坂の周囲、摂河泉三か国と紀伊そして大和の直轄化を企図して、筒井氏に伊賀20万石への転封を命じます。
この命令に筒井定次は即応し、命令から一週間足らずで内衆と一部の与力大名を引き連れて、伊賀へと移りました。
定次は旧伊賀守護の仁木氏居館があった丘陵地に上野城を築いて城下町を開くと、服従しない土豪勢力を鎮圧して、伊賀に近世的な武家支配を浸透させることに成功します。
その後、家臣団内の軋轢などで、旧大和国人層を中心に家臣の出奔が多発しますが、九州征伐、小田原攻めで戦功をあげ、文禄・慶長の役でも肥前名護屋に駐屯(渡海はしていない)するなど、豊臣恩顧の大名として活躍を続けました。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従って会津征伐に参加していたこともあって東軍に付き、会津遠征中に本拠地・上野を西軍の新庄直頼に奪われたものの奪回に成功。関ヶ原本戦でも東軍主力の一翼を担って戦後、本領を安堵されます。
1603(慶長8)年に徳川家康が征夷大将軍となって江戸に幕府が開かれ、1605(慶長10)年には秀忠が2代将軍に就き、大坂の豊臣氏と江戸の徳川氏の間で緊張が続く中、1608(慶長13)年に定次は家臣・中坊秀佑の讒訴によって江戸幕府により改易。所領没収は没収され、定次は嫡男・順定とともに陸奥磐城平の鳥居忠政のもとに預けられました。
そして1615年(慶長20)年に、前年の大坂冬の陣で豊臣方への内通の嫌疑をかけられた筒井定次、順定父子は切腹を命じられ、筒井宗家は滅亡するのです。
正次、正信(徳川氏旗本・筒井家)
さて、定次・順定父子の死によって筒井宗家は絶えましたが、江戸時代も筒井氏一族はいくつかの系統が残りました。
その中でも徳川氏旗本となった筒井氏は、福住宗職の養子となった筒井順興の子・福住順弘の系統になります。
福住氏は順慶が若年の頃、筒井家中における筒井順政との主導権争いに敗れてから筒井一門の主流からは外れたようで、松永久秀の大和侵攻時でも一時松永方に付くなど筒井宗家との関係は良くなかったようです。
その余波もあってか、順弘の子の筒井順斎も定次とは折り合いが悪く、筒井氏の伊賀転封には従わず旧領の福住に残り、5千石を領していました。
定次としても、血統的に自身のライバルになりかねない順斎の存在は、家中の求心力を維持するうえで脅威と感じてもおかしくないでしょう。
江戸幕府が編纂した『寛政重脩諸家譜』によれば、浜松時代の頃から徳川家康に仕えていたと記されますが、これは少し信じられないものの、順斎は早くから徳川家康に接近していたらしく、家康の妹・市場姫を妻に迎えています。
順斎の跡を継いだ子の筒井正次は、1615(慶長20)年に幕府の命で郡山城の守備に就いていましたが、4月26日に大坂夏の陣の緒戦で大坂方の攻撃を受けると防戦しきれず城を脱出。逃亡先で正次は自害しました。
戦後、弟・筒井正信への家督継承が許されましたが、大和福住の旧領は相続が緩されず、以後は武蔵国足立郡等に1000石を有する旗本として幕末まで家名は続くことになります。
幕末に旗本の久世氏から筒井氏の養子に入った筒井政憲は、南町奉行、長崎奉行、大目付などを歴任し、日露和親条約交渉の日本側全権として活躍するなど、内政、外交に高い能力を示した幕臣として知られます。
筒井氏ゆかりの旧跡
筒井城
南北朝時代以来、筒井氏歴代の本拠となった城郭。
近鉄筒井駅の東側一帯が城跡で、城域は現在ほぼ全域が住宅地になっていますが、菅田比賣神社境内に内堀跡の水路と土塁が残り、筒井順慶の時代に拡張された外堀のうち、北側の水堀は土搔きの往時の姿をとどめて良好に残っています。
※現在の筒井城の様子については下記記事で詳細にご紹介しています。
椿尾上城
椿尾上城は、筒井順昭により本格的な拠点城郭に改修され、戦時には平野部の筒井城とならぶ筒井氏の本城として機能した城郭です。
実際に松永久秀に筒井城を追われた筒井順慶は当城を本城として徹底抗戦し、順慶時代に拡張、改修された城域には現在も多くの石垣遺構が残され、奈良県の内の中世城郭では最大規模の石垣群を有する城郭です。
※現在の椿尾上城の様子については下記記事で詳細にご紹介しています。
郡山城
1580(天正8)年に筒井順慶が織田信長の命で筒井城から本拠を移動させたのが郡山城です。
順慶が本拠を移転した後は、大和国における武家支配の中心地となりました。
現在の縄張りは豊臣秀長時代に拡張・整備されたもので、実は筒井氏時代の郡山城の姿については現在も謎に包まれています。
現在城址公園は国指定史跡となっており、長らく城内高校の校地となっていた麒麟曲輪、緑曲輪、厩曲輪も城址公園として整備が進んでいます。
天守台からの眺望は、高層建築が少ない奈良盆地内では抜群の見晴らしのよさです。
※郡山城については下記記事もご参照ください。
筒井順慶墓所
筒井順慶は死後、父の菩提寺でかつて筒井氏の奈良屋敷であった圓證寺に一度埋葬された後、現在の大和郡山市長安寺町に建立された墓所へ改葬されました。
かつては「西寺」という墓寺が併設されていましたが今は失われ、順慶の廟所だけが残されています。
順慶の五輪塔を覆う「五輪塔覆堂」は安土桃山時代の建築で、国の重要文化財に指定され、周囲は公園となり自由に内部を見学できるよう解放されています。
場所はこちらで、近鉄平端駅から徒歩5分ほどの場所にあります。
駐車場はなく、周辺の道路も狭いので電車での訪問がおすすめです。
筒井氏関連年表
南北朝~戦国時代初期(1392~1508年)
■主な出来事
1392(明徳3)年南北朝合一
1429(正長2)年大和永享の乱
1441(嘉吉元)年嘉吉の変
1467(応仁元)年応仁の乱
1493(明応2)年明応の政変:管領細川政元が将軍足利義材を追放
1507(永正4)年永正の錯乱:管領細川政元が暗殺され細川京兆家分裂
戦国時代中期(1511~1532年)
■主な出来事
1509(永正6)~1532(天文元)年両細川の乱:細川京兆家家督を巡る抗争
1528(享禄元)年薬師寺焼失
1532(天文元)年天文の錯乱、大和一向一揆
筒井順昭による大和統一期(戦国後期)
■主な出来事
1542(天文11)年太平寺の戦い
1546(天文15)年筒井順昭による大和統一
1549(天文18)年三好長慶政権の樹立
筒井順慶幼少期(戦国末期)
■主な出来事
1559(永禄2)年松永久秀の大和侵攻開始
1562(永禄5)年久米田の戦い、教興寺の戦い
1564(永禄7)年三好長慶死去
筒井順慶青年期(戦国末期)
■主な出来事
1565(永禄8)年永禄の変
1567(永禄10)年東大寺大仏殿の戦い
1571(元亀2)年辰市城の戦い
1572(元亀3)年三方ヶ原の戦い
1573(天正元)年足利義昭が京都から追放され室町幕府が事実上滅亡
筒井順慶晩年(近世)
■主な出来事
近世以降
■主な出来事
1585(天正13)年筒井氏の伊賀転封
1600(慶長5)年関ヶ原の戦い
1603(慶長8)年徳川家康が征夷大将軍に就任(江戸幕府開府)
1608(慶長13)年筒井氏改易
1614(慶長19)年大坂冬の陣
1615(慶長20)年筒井定次父子・自害(筒井宗家滅亡)、大坂夏の陣
参考文献
[rakuten:book:21079056:detail]