大和徒然草子

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昭和天皇、二つの決断。二・二六事件と終戦。

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大本営会議の様子1943年4月29日朝日新聞掲載

皆さん、こんにちは。

 

今年も8月を迎え毎日暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。

明日は終戦の日ということで先の大戦のことや昭和を振り返るニュースやテレビ番組も多くなってきますね。

平成が30年以上続き、今はもう令和。

昭和の時代をはっきり記憶に残している世代ってもう30代後半からうえの世代になると思うと、随分遠い時代になってしまったなと思います。

さて、昭和といえば今上天皇陛下の祖父である昭和天皇が在位していた時代です。

満州事変から太平洋戦争まで、昭和は太平洋戦争の敗戦まで多くの戦いが行われた戦争の時代でもありました。

今回は敗戦までの20年間で昭和天皇が戦前に行った重大な二つの決断に焦点を当ててご紹介したいと思います。

 


大元帥にして統治権の総攬者

 

昭和天皇明治憲法大日本帝国憲法)下で即位した最後の天皇であり、戦前は陸海軍を統帥する「大元帥」にして、「統治権の総攬者」でした。

ところで戦前の天皇といえば皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

現在の象徴天皇と比べて政治的に大きな力を持って、自ら国政に大きな役割を持たれていたと思われている方が多いかと思います。


確かに現在の象徴天皇は政治的な権能は一切有していないのに対し、明治憲法下の天皇は国家主権そのもの。

なので、現在とは違って国政に対して意見することや、政治家たちを叱責するようなこともありました。

また、政治的な影響という点では現在の天皇以上に直接的な影響力を持っていたのは事実でしょう。 

 

しかしながら国家の重大な決定事項に関しては、明治以来、臣下である内閣等の決定を尊重し、原則的にはそれに従って裁可することが徐々に慣習化していました。

立憲君主」として日本式の「君臨すれども統治せず」の姿勢が昭和天皇の時代には確立されていたと思います。

なので少なくとも、なんでも自分の思うままに裁断を下す「専制君主」ではありませんでした。
ではどうしてこのような形の君主制となっていったのでしょう。

 

明治憲法下の天皇の存在は「絶対的」なものであるため、裏を返すと「絶対に間違いを起こせない」存在なのです。

国家の重大事に万一天皇が決断を誤ったなどということになれば、天皇の権威が揺らぎ、権力の源泉が崩壊する可能性すらある。そんなことになっては当時の統治体制は崩壊の危機に陥ると考えられたのでしょう。

 

そのため、天皇の権威や存在を守るため、重大な決断事項は臣下である内閣や軍部が責任を持って決断のしたうえで上奏し、天皇は上奏された決定事項を原則的には裁可する。

このように最終的な責任を天皇に負わせない仕組みができていました。

そういうこともあり、日中戦争、太平洋戦争と、昭和天皇は開戦には非常に慎重であったとされていますが、原則的に臣下の決定事項には逆らえないのがこの時代の天皇ですので、最後には裁可したわけです。

特に太平洋戦争開戦については、泥沼化した日中戦争終結の糸口すら見えない当時の状況から、出口戦略の見えない対英米戦に相当に難色を示したようですが、最終的には押し切られて裁可しています。

戦後、昭和天皇自身が日中戦争、太平洋戦争を裁可したことについて、明治憲法下の天皇としては、臣下が決めたことには逆らえないという認識だったことを述べています。  

 

このように必ずしも戦前、表立って主体的な意見を国家意思に反映させることが多いわけではなかった昭和天皇ですが、慣習を破って自らの意思で重大な決断を行うことが2度だけありました。

 

一回目の決断

 

1936(昭和11)年2月26日未明。

陸軍の青年将校たちが「昭和維新尊王斬奸」をスローガンに決起し、政府要人を襲撃、政府機関や新聞社などを占拠する事件が発生します。

二・二六事件」です。

決起部隊により、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣渡辺錠太郎教育総監といった政府要人が殺害され、侍従長鈴木貫太郎が重傷を負います。

この一報に昭和天皇は当初から決起部隊を「賊軍」と呼ぶなど、敵意をあらわにしていたといいます。

昭和天皇が最初から決起部隊に対する激しい敵意をみせたのは、最初の一報が、鈴木侍従長の妻、鈴木たかかもたらされたことも大きかったかと思います。

たかは、昭和天皇が4歳から15歳まで皇孫御用掛として仕え、天皇も母親のような親しみを感じていた女性でした。

そのたかの夫であり、侍従長である鈴木が瀕死の重傷を負わされたともなれば、私憤すら禁じえなかったのではないでしょうか。

決起した青年将校たち最大の誤算は最初の段階で天皇から敵意を受けたことだったでしょう。

 

一方、当時の政府、軍部の状況です。

政府は岡田首相は幸い難を逃れたものの要人が殺害されたり各官庁も占拠されるなど完全なマヒ状態でした。

軍部、特に陸軍は大いに揺れていました。

というのもこの青年将校の決起には陸軍内部の派閥、統制派と皇道派の派閥抗争に端を発するものということもあり、軍首脳部にも決起部隊に同情的な者たちも多かったのです。

また、陸軍同士が戦うという「皇軍相撃」という状況を何とか回避したいという思いから穏便に事態を収束させたいという考えもつよくありました。

このような政権中枢が判断能力を失い、機能不全に陥るなか、昭和天皇の意向がその後の情勢を決定づけていくことになります。

26日午前9時、川島陸相昭和天皇に拝謁して、決起した青年将校らの決起理由を表した「蹶起趣意書」を読み上げて状況を報告しました。

この報告に対して昭和天皇は「なにゆえそのようなものを読み聞かせるのか」といい、速やかに事件を鎮圧するよう命じました。

すでにこの段階で、決起部隊の意思は問題にしない昭和天皇の姿勢が明らかですね。 

 

翌27日になっても「皇軍相撃」をおそれて動きの鈍い陸軍に昭和天皇の怒りはますます増します。

軍部も押し切られたのか「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」という奉勅命令が参謀本部から上奏。昭和天皇はこれをただちに裁可しました。

決起部隊を「反乱軍」として鎮圧する方向に動き出したといえます。

しかしその後も陸軍首脳から決起した青年将校たちに同情的な奏上が行われます。

なんとか決起した将校たちの精神は認めてもらえないか、国家のためを思ってやったことだということを認めてやってほしいというわけです。

これに対して昭和天皇は、「私の股肱の臣を殺戮するような、こんな凶暴な将校たちの精神のどこを許せることがあるというのか」「大事な臣たちをことごとく倒すのは、私の首を真綿で締めるに等しい行為である」と怒りをこめて述べ、「陸軍が(皇軍相撃を恐れて)躊躇するなら、私自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる」と反乱鎮圧への強い決意を示しました。

 

この昭和天皇の強い意思表示で、時局は一気に反乱軍鎮圧へと進むことになります。 

それまで慣例に従って自身の意思を明確に示して政治判断を行うことはなかった昭和天皇が初めて示した大きな決断となりました。


二回目の決断

 

次なる決断。

それは1945(昭和20)年8月。そうです。ポツダム宣言受諾の決断です。

1941(昭和16年)年12月に始まった太平洋戦争は序盤こそ日本が優位に進めたものの、じりじりと連合国側に押し返され、3月の東京大空襲をはじめとした戦略爆撃で全国の主要都市が廃墟と化し、6月には沖縄を失陥し、8月6日に広島、9日には長崎に相次いで原爆を投下され、とどめにソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦するなど、すでに敗戦は必至の状況にありました。

しかしながら当時の政府は、降伏勧告というべきポツダム宣言の受諾を決断できずにいたのです。

理由の一つは、降伏後に天皇制が温存されるという保障がなかったことで、陸軍が特に強硬にこの一点に拘ってポツダム宣言受諾に反対しました。

戦争は終わらせたいが、その後天皇制がどうなるかわからない条件で、戦争をやめるとは「言えない」という立場だったのでしょう。

外務省は連合国側から「降伏後の日本の統治形態は日本国民の意思にゆだねられる」という言質を取っていました。

これを事実上、天皇制存続の容認として政府は軍部の説得を試みますが議論は紛糾します。

「日本国民の意思にゆだねられるのだから、今までどおり天皇制でよいとなるでしょう」「いやいや、その国民の意思とやらで天皇制が否定されるようにもっていかれたらどうするのだ。何の保障にもなるものか。」

議論はデッドロック状態となり完全に暗礁に乗り上げます。

8月9日開催された御前会議においてもポツダム宣言受諾をめぐり議論は平行線をたどり、受諾に賛成反対の決を取った結果が3対3の同数となりました。

このとき、時の首相は二・二六事件で瀕死の重傷を負った鈴木貫太郎でした。

鈴木は日付が変わった8月10日の午前2時ごろ、議場で起立すると、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べました。

もう政府や軍の話し合いでは決着がつかない。昭和天皇のお考えに従いましょう。というわけです。

もはや和平に向けて一刻の猶予もない状況であり、鈴木としては慣例を破る禁じ手に賭けたといえます。

昭和天皇はこの鈴木の申し出に対し、外務省の意見に同意し、即時受諾案に賛意を示します。

昭和天皇自らの意思で、ポツダム宣言受諾の国家意思が決められた瞬間でした。

14日に再招集された御前会議で再度昭和天皇の決断(一般にはご聖断と呼ばれる)が再確認され、日本は正式にポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏することを決めました。

 

昭和天皇ご自身がこの大戦の終結を決断したことは、戦争終結の責任を追ったという点において大変重大なことであったと思います。

昭和天皇終戦の決断を行うということは、昭和天皇自身を戦争を終わらせることができた存在にしてしまうことになります。

昭和天皇に敗戦に至るタイミングに対する責任を負わせることになってしまう。

首相の鈴木としても断腸の思いであったろうと想像されます。

 

もっと早く終わらせられたじゃないか。

そんな批判を一身に受ける可能性につながりますが、昭和天皇は自らの意思でこれ以上の破局を防ごうと決断したのです。

 

今回は終戦記念日も間近ということで二・二六事件での叛乱部隊鎮圧とポツダム宣言受諾という昭和天皇の決断についてお話ししました。

ともに政府が正常な判断機能を発揮できなくなったとき行われた決断でした。

明治憲法の「欠陥」を昭和天皇が自らの責任で埋められたといってよいでしょう。 

 

この二つの決断について、皆さんはどのように評価されますでしょうか。

 

個人的には非常に良識ある判断であったと思っています。

とくにポツダム宣言の受諾に関してはあの段階で、首相の鈴木から判断を仰がれた機会を逃すことなく決断されたことは、決断に一刻の猶予もないことを理解していたことも含め、正しい判断であったと積極的に評価できると考えています。

戦前の手続き論から言えば、昭和天皇が決断できるタイミングは、首相の鈴木が天皇に聖断を仰いだあの瞬間しかありませんでした。

なので、もっと早く決断していればという批判は、いささか酷ではないかと考えます。

あのタイミングでのポツダム宣言受諾がなければ、3発目の原爆投下や戦略爆撃ソ連の南進によりさらなる犠牲が増え、ドイツのような国家消滅と分割占領が行われた可能性すらあったのです。

ドイツは降伏後、国家がいったん「消滅」して、占領軍による軍政が布かれました。

それに対し、日本は天皇を含めた国家が温存され、間接統治により占領政策がすすめられました。(ただし戦中占領された沖縄には軍政が布かれました。)

「国家」としての継続性を認められ、新憲法帝国議会の審議と天皇による裁可という旧憲法下の手続きに沿って公布されました。

随分と形のことなる国家となりましたが、おおむね国民から受け入れられている現在の国家を自前の手続きで成立させることができたのは大事なことだと考えます。

 

国家の存亡にかかわるような決断。

今は天皇ではなく総理大臣のお仕事です。

「この人の判断なら納得がいく」という人を選ぶのは我々国民の民意なのだと思えば、何年かに一度の選挙は必ず行っておかなきゃと思いますね。

「その時」はいつ来るかわからないですから。

 

 

 

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