歴史好きの大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(5)

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皆さんこんにちは。

 

真珠湾攻撃の空中攻撃隊総隊長、淵田美津雄をご紹介して今回5回目です。

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真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争の序盤戦、日本は瞬く間に南太平洋を席捲し、アメリカ、イギリスを圧倒しました。

敗戦続きのアメリカは、空母による東京空襲を計画し、後にドーリットル空襲と呼ばれる日本本土への攻撃を成功させます。

この空襲による軍事的な戦果はほとんどなかったものの、東京を空襲された事実に衝撃を受けた日本海軍首脳は、ミッドウェー作戦を計画、そして実行に移していくことになります。

MI作戦

ドーリットル空襲で初めて本土空襲を受けた日本。

この空襲が真珠湾攻撃で撃ち漏らした空母ホーネットによる攻撃であったことから、ミッドウェー島の攻略とアメリカの残存空母群の撃滅を目的とするMI作戦が立案・実行されることになります。

この作戦の骨子は、アメリカの根拠地であるミッドウェー島を攻略・占領して、残存したアメリカの空母群を釣りだしてこれを撃滅。続くハワイ攻略の足掛かりとするというものでした。

淵田ら空母航空隊員達から「柱島艦隊」と揶揄された 戦艦大和を中心とする第一艦隊も出撃、真珠湾攻撃以来となる大規模攻勢となったのです。

しかし、真珠湾攻撃とは大きな違いがいくつも発生していました。

まずは、情報管理の徹底が、真珠湾攻撃に比べて徹底されてはいませんでした。

真珠湾攻撃では単冠湾出航後まで、船員のほとんどが作戦目標を知らされていなかったのに対し、空母飛龍では出港前から、船員のほとんどが目的地をミッドウェーと知っており、一般住民にまで知られていたという証言もあるほか、近々大きな作戦があることをにおわせる情報が、多く流れていました。

また、主力の機動艦隊においては、真珠湾攻撃に参加した多くの経験ある航空隊員が異動で離れて練度が落ちており、前回緻密な作戦計画を立てた源田実ら参謀たちは、第一段作戦の後始末に忙殺されて、ミッドウェー攻略作戦については具体的な検討に手を付けられず、鹿龍之介参謀長にいたっては真珠湾での空中攻撃隊の戦死者に対する二階級特進の折衝で、ミッドウェー攻略計画の研究どころではなかったといいます。

草鹿は後に「なんとかやれるだろう」と作戦を楽観視していたことを述懐しており、淵田はその著書の中で「日本は上下ともに、第一段作戦の勝利に驕って、アメリカ海軍を侮っていた」と、当時を振り返っています。

 

一方のアメリカは、南太平洋から日本の機動艦隊が引き上げていることを踏まえ、日本海軍の太平洋正面での大規模作戦が近いとみて、必死に情報収集に努めていました。

暗号解析を進め、1942年5月頃には日本軍の使う略式符号「AF」が攻撃目標であることはわかったものの、それがどこかは確定できない状況で、この時点では「ハワイ」「カリフォルニア」がワシントンの統合参謀本部では有力視されていたといいます。

しかし、ハワイで指揮を執るチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は、配下の情報主任参謀エドウィン・レイトン中佐らの情報分析より、日本海軍の攻撃目標はミッドウェーという見方を深めていたものの、確信が得られない状況でした。

ここで、アメリカは日本軍の攻撃目標を確定させるべく、一計を案じます。

それは、ミッドウェー基地からハワイ宛に、平文の英語で「海水ろ過装置の故障で水不足」という電文を発信させるというものでした。

その後まもなく、日本のウェーク島守備隊から「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮されたし」という暗号電文が発信されたことをアメリカ側が傍受し、ニミッツは攻撃目標はミッドウェーであると確信します。

しかし、ワシントンの米軍上層部は、この時点でも「日本側の偽情報では」とニミッツの判断を全面的に信用しなかったため、ニミッツは自己判断に基づいて迎撃作戦を実行に移していきます。

 

暗号傍受で、日本の作戦概要はほぼアメリカの知るところとなり、作戦が6月3日から5日まで行われることや、アリューシャン諸島のアッツ島キスカ島占領やダッチハーバー空襲が陽動であることも判明しました。

ちなみにこの時点で、ニミッツの手元には日本海軍の主力を迎撃する戦力が十分にあるとはいいがたく、アリューシャン、アラスカ方面には最低限の部隊を配置して、ミッドウェーに主力を集中させます。

後に圧倒的物量で日本を圧倒するアメリカですが、この時点では戦力的に劣り、ミッドウェー海戦アメリカにとっても、勝利の核心を必ずしも持てないものでした。

空母一つとっても、日本側が正規空母6隻を有していたのに対し、ニミッツが作戦発動した5月28日時点で、彼の手元で戦力的に計算が立つのは、エンタープライズとホーネットの2隻だけだったのです。

しかし、5月上旬に行われた珊瑚海海戦で大破したヨークタウンが、不眠不休72時間におよぶ突貫修理で戦線に復帰することが可能となり、アメリカは太平洋で当時残存していた空母3隻すべてを作戦投入できることになりました。

珊瑚海海戦は、史上初めて航空母艦同士による航空攻撃の応酬が行われ、日本の空母翔鶴瑞鶴はこの戦いの損耗が激しかったため、ミッドウェー攻略作戦への不参加を余儀なくされます。

アメリカが空母を1隻当初予定より多く配備できたのとは対照的に、日本は真珠湾攻撃にも参加した正規空母2隻を、予定より減らさざるを得ず、後の戦況に大きな影響を与えることになりました。

 

ミッドウェー海戦

さて、1942(昭和17)年5月27日、37回目の海軍記念日日本海海戦を記念して制定された)に、厳重な無線封鎖のものと南雲機動艦隊(第一航空艦隊)は広島湾柱島から出撃しました。

一方、アメリカ太平洋艦隊も5月28日に空母エンタープライズ、ホーネットを中心とした第16任務部隊がハワイ真珠湾を出撃し、空母ヨークタウンの修理を待っていた第17任務部隊も5月30日に出撃。来るべき日本海軍を待ち構えるべく、一路ミッドウェー海域を目指します。

 

このころ淵田は、胃腸の調子がすぐれず、ミッドウェーへの航行中になんと盲腸を発症。赤城艦内で緊急手術を受けた淵田は、実戦指揮を取れなくなりました。

6月4日早朝(現地時間)、手術明けの淵田は赤城艦内の病室をこっそり抜け出して甲板に上がり、ミッドウェー島を空襲するため出撃する第一波空中攻撃隊を見送ります。

第一波攻撃隊の目的は、ミッドウェー島航空兵力の撃滅でした。

6月6日(現地時間)にミッドウェー島攻略部隊が上陸するため、アメリカの航空兵力を無力化しておく必要があったためです。

第一波攻撃隊が飛び立った後、赤城の飛行甲板には第二波攻撃隊が、敵艦隊出現に備え、対艦船攻撃用兵装で待機しました。

この時、南雲機動艦隊の間近で、アメリカの空母3隻から成る機動艦隊が息を潜めて攻撃の機会をうかがっていましたが、日本側は知る由もありません。

 

ミッドウェー島への攻撃は、真珠湾同様、奇襲による攻撃を前提とするものでしたが、僥倖が真珠湾攻撃から続くことはなく、現地時間の午前5時ごろ、第一波空中攻撃隊と南雲機動艦隊はアメリカの哨戒網に捕捉されます。

即座にミッドウェー基地は迎撃態勢に入り、午前6時には早くも迎撃機と、南雲機動艦隊を攻撃するための爆撃機が次々と飛び立ちました。

 

午前6時16分、アメリカの迎撃機は飛龍飛行隊長、友永丈市大尉率いる第一波攻撃隊を捕捉し、攻撃を加えます。

日本の攻撃隊は不意を突かれる形となりましたが、零戦隊の奮戦もあって最初の空戦を制し、ミッドウェー基地を空襲しましたが、すでに基地はもぬけの殻で、指揮所、発電所などに打撃を与えたものの、航空機のいない滑走路を爆撃するほかありませんでした。

友永隊長は敵航空戦力に対する戦果が不十分とみて、赤城の南雲長官へ「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電します。

 

その頃、南雲機動艦隊は、ミッドウェー基地から襲来した爆撃機雷撃機の攻撃を受けていました。

戦闘機の護衛のない攻撃機による空襲だったため、直掩機による迎撃で攻撃は退けたものの、この空襲はミッドウェー基地の航空隊が健在であることを表していました。

午前7時15分、南雲長官は友永大尉からの打電もあって、ミッドウェー基地への再攻撃を決断し、飛行甲板で敵艦隊出現に備えて待機中の第二波攻撃隊へ、雷装から爆装への換装を命じます。

対艦兵装で魚雷を積んでいた飛行機に、飛行場を攻撃するための爆弾を積み換えろという訳です。

この命令に赤城の飛行甲板はてんやわんやの慌ただしさとなりました。

 

一方、アメリカ機動艦隊は6時過ぎに日本の機動艦隊現るの報を受けて直ちに出撃準備に入り、午前7時に攻撃隊を発艦させるよう準備を進めます。

午前7時28分、日本の偵察機アメリカの機動艦隊をついに発見します。

日本の偵察機に捕捉されたことを知った、第16任務部隊の司令官、レイモンド・スプルーアンス少将は、全機準備が終わってからの一斉発艦を予定していたのを変更し、急遽、準備ができた攻撃機から逐次発艦させました。

このスプルーアンスの決断がミッドウェー海戦の結果に大きな影響を与えることになります。

 

アメリカ機動艦隊を発見した日本の偵察機ですが、その報告は「敵らしきもの10隻見ゆ」という曖昧なものでした。

この報告がもたらされたのは午前8時過ぎ。

爆弾に換装し終えた第二波攻撃隊がまさに出撃しようかというときでしたが、敵艦隊現るの報に動きが止められてしまいます。

この時もっとも艦隊司令部が知りたかったのは、敵艦隊に空母がいるかどうかでした。

漫然と「敵らしきもの」などという報告では対処のしようがありません。

偵察機からの続報もなく、艦種を知りたい艦隊司令部から「艦種知らせ」と続報を求めると、ようやく「巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」と返電がありました。

この報に艦隊司令部がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、「後方に空母らしきもの含む」との報がもたらされます。時刻は午前9時を過ぎていました。

 

隊司令部はアメリカの機動艦隊がいると判断し、ミッドウェー基地攻撃用に爆装に換装していた第二波攻撃隊を、再び対艦用の雷装への換装を命じます。

また、ミッドウェー基地からの攻撃に対応していた直掩の戦闘機隊の収容も命じました。戦闘機による援護なしに敵空母に攻撃をかけることは自殺行為であったからです。

こうして、爆装した攻撃機を飛行甲板から降ろして戦闘機を収容しつつ、対艦兵装への換装が行われ、赤城の格納庫は再びてんやわんやの慌ただしさとなりました。

 

ミッドウェー基地への再攻撃準備、敵艦隊発見から、そこに空母がいることが判明するまでの報告の遅延、そして再度の対艦兵装への換装と、失った時間の代償は、南雲機動艦隊にとって致命傷となりました。

 

赤城ではようやく出撃準備が整い、制空隊の戦闘機と、換装を終えた攻撃機が飛行甲板に上がり、戦闘機が発艦を始めました。あと5分もあれば全機発艦できると淵田は後に回想しています。※この時まだ換装は終わってなかったとの説もあります。

 

まさにその時、エンタープライズ、ホーネットから発艦した降下爆撃隊が、赤城、加賀、蒼龍の頭上に襲い掛かりました。

「敵機来襲!」

見張員の声に、飛行甲板にいた淵田が空を見上げると、急降下爆撃機の9機編隊が視界に飛び込んできました。

この攻撃で赤城は大火災を起こし、淵田は甲板にさく裂した爆弾の爆風で吹き飛ばされ、両足骨折の大けがを負います。

身動きのとれなくなった淵田は、炎の中でひっくり返っていたのを助け出され、軽巡洋艦長良へ送られ、からくも生還します。

 

この最初の攻撃で、赤城、加賀、蒼龍の空母3隻は大火災を起こして戦闘不能となり、淵田が将来の連合艦隊司令長官と期待していた山口多聞少将乗艦の飛龍だけが、かろうじて攻撃を免れて、応戦態勢を取りました。

飛龍の反撃によって、ホーネットが撃沈されたものの、アメリカ空母3隻の集中攻撃に衆寡敵せず、飛龍は航行不能となって、味方の雷撃により沈められることになります。

 

 赤城を退艦して、長良に移乗した南雲艦隊指令はなおもアメリカ機動艦隊に水雷による夜戦を仕掛けようと、艦隊に集合を命じたものの、現地時間の6月5日午前0時15分、大和艦上で戦況を見守っていた山本五十六長官はミッドウェー島攻略作戦の中止と撤退を命令。残存艦隊は生存者らを救出しつつ、ミッドウェー海域を脱出しました。

 

こうして日本が、真珠湾攻撃に続いて打って出たミッドウェー島攻略作戦は、日本の大敗に終わりました。

この戦いで、日本は正規空母4隻とその艦載機のすべてを失い、戦死者は3,057名に上りました。

一方アメリカの損害は空母、駆逐艦がそれぞれ1隻ずつ撃沈し、戦死者は307名と、数字の上では圧倒的な勝利といえましたが、航空機搭乗員の戦死者については、日本側は110名、アメリカ側は日本を上回る172名。当時太平洋上で稼働していた3隻しかない虎の子の空母1隻を失ったのは、アメリカ側にとっても非常に大きな損失でした。

日本側の航空機搭乗員の死者の多くは、アメリカの空母3隻と激烈な航空戦を繰り広げた飛龍航空隊の72名で、赤城、加賀、蒼龍の航空隊員の多くは補給・換装のため船上にいたため生還しています。

淵田もその一人で、航空機を失ったものの、多くのパイロットが健在であったため、この大敗の中でも、まだまだ戦況は挽回できると考えていたといいます。

パイロットの養成は非常に時間がかかるため、人員の損耗がもっとも大きな被害であり、アメリカにとってもミッドウェー海戦は大きな被害を伴うものでした。

しかし、真珠湾攻撃以来の日本の進撃を止め、正規空母4隻を葬った意味は大きく、戦前から建造中だったエセックス級空母の大量配備までの時間を、確保することができたのです。

 

日本側ではこの大敗北で、山本五十六長官の発言力が大幅に低下し、山本が望んだ戦争序盤でアメリカへ大打撃を与え、早期講和に持ち込もうという算段は、完全に消え去りました。

以後、太平洋戦争は長期消耗戦への道をたどることになります。

 

ミッドウェーでの大敗北は、日本国内では大勝と発表されました。

敗戦の事実は固く秘匿され、前陸軍大臣にすら知らされないという徹底ぶりで、国力差による戦況の悪化が決定的となる以前、様々な戦略、戦術、用兵上の問題点を抱えた敗戦であったにもかかわらず、戦訓研究会が開かれることもありませんでした。

淵田をはじめ、第一航空艦隊の全ての幕僚、士官は現場から転出となり、ミッドウェー海戦は淵田にとって最後の実戦となったのです。

  

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。

 

次回はこちらです。 www.yamatotsurezure.com

 

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