大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(9)

 

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皆さんこんにちは。

真珠湾攻撃の空中攻撃隊総隊長を務め、戦後キリスト教への信仰に目覚めて伝道の道に入った淵田美津雄の数奇な生涯をご紹介して、今回9回目。最終回となります。 

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敗戦で軍人として職を失い、東京裁判では勝者による一方的な裁きに強い反感を抱いた淵田は、復讐心からアメリカによる捕虜虐待の証言集めを始めます。

しかし、帰国した日本人捕虜たちの話を聞く中で、両親を日本兵に理不尽な理由で殺害されながら、キリスト教への信仰心から恩讐を越え、日本兵捕虜に献身的な奉仕をおこなったアメリカ人女性の話に接して、淵田は深い感動を覚えて、意趣返しじみた自らの証言集めを中止しました。

回心

戦争が終わり、奈良県に戻った淵田でしたが、真珠湾攻撃の実施以降、海軍中枢に身を置き、そして生き残った淵田は、頻繁に東京の占領軍司令部から、取り調べのため、呼び出しを受ける日々を送っていました。

警察を通じて召喚命令は出され、淵田の住所を所管する橿原警察署の警察官が命令書を持参して京都駅まで同行して、淵田が進駐軍列車に乗り込むのを見届けます。

その日、1949(昭和24)年12月3日も、召喚命令を受けた淵田は、京都から列車に乗り込み、宿舎のある渋谷で下車しました。

この日は淵田の47歳の誕生日でした。

バスに乗り込もうと、駅前広場に出た淵田は、一人のアメリカ人が広場を行きかう日本人たちに、小冊子を手渡しているのを見かけます。

淵田がその男の前に差し掛かると、男は淵田にもその小冊子を手渡しました。

小冊子を見ると、その表紙には「私は日本の捕虜だった」と記載され、アメリカ軍の一伍長の写真が載っていました。

写真の男の名はジェイコブ・ディシェイザー。

日本本土を初めて爆撃したドーリットル空襲に参加し、日本の捕虜となった10名のアメリカ兵捕虜の一人です。

ディシェイザーは日本の捕虜となった後、収容所の中で信仰の道に入った人物で、小冊子は回心のいきさつを記したものでした。

淵田は戦中、ドーリットル空襲について関心を持っていたこともあり、この小冊子を読み進めます。

ディシェイザーを含むドーリットル空襲に参加したアメリカ兵捕虜は、軍事裁判でいったんは全員死刑が言い渡されますが、日本人捕虜への対応悪化を憂慮した昭和天皇への忖度もあって、ディシェイザーを含めた7名は無期刑に減刑され、指揮官や爆撃手ら3名が処刑されました。

仲間の処刑を知ったディシェイザーは、日本人へ激しい憎悪の念を抱きます。

「日本人と名のつく奴、全部地球上から消えてなくなりやがれ」

と、日本人を呪いました。

しかし、やがて自分自身がここまで日本人を憎いと思う原因、日本人がアメリカ人を憎む原因はなんなのだろうと考え始めます。

そして、ふと子どもの頃、人間同士の憎しみを、兄弟愛に変えるのがイエスの教えだと聞かされたことを思い出します。

看守に頼み込み、聖書を手に入れたディシェイザーは、来る日も来る日も聖書を読み続けました。

聖書を読むうちにディシェイザーは、自らを虐げる日本の看守たちへの憎悪が、次第に薄れて慈愛の情に変化していったといいます。

エスの教えを知らないのだから、日本の看守たちが自分たちを憎悪し、残酷であるのも当然のことだ。自分自身、その教えを知らなかったのだから、昨日まで日本人たちを憎んできた。しかし、イエスの教えを知り、彼らを兄弟として見る目を与えられたのだと。

終戦後、宣教師となったディシェイザーは、1948(昭和23)年、念願かなって日本に渡り、今は大阪で宣教活動をしているところで小冊子の物語は終わっていました。

 

ディシェイザーの小冊子を一読した淵田は、聖書というものに非常な関心を寄せます。

戦前からアメリカへの敵愾心に燃え、敗戦後も復讐心に苛まれ、この憎しみの連鎖を解くことが、平和への道を開くため重要であると淵田は考えていました。

先に聞いたマーガレット・コヴェルの話といい、このディシェイザーの回心録といい、かくも人の憎悪の根を消し去る聖書とは、どういうものなのか、淵田が聖書に興味を抱くのは当然だったのかもしれません。

 

占領軍に呼び出しを受けて上京した時、ようやく淵田は聖書を購入します。

しばらく取り調べなどに忙殺されて、しっかりと読むことができないでいましたが、ようやく時間を作って、熱心に読めるようになりました。

読み進めて一ヶ月ほどが経った頃、ルカ伝の23章に入っていました。

エスゴルゴタの丘磔刑に処せられる、聖書のクライマックスともいえるシーンです。

まさにイエスが十字架にかけられようというそのとき、イエスが自分を処刑しようとするものたちに対して、神に祈った言葉、その一節が淵田に深く突き刺さります。

父よ彼らを赦し給へ、その為す処を知らざればなり

以前、マーガレット・コヴェルの両親が、日本兵に対して祈りを捧げ、その祈りに応じて、マーガレットは日本兵捕虜に慈愛をもって奉仕するようになったという話を聞いた淵田は、その祈りがどのようなものであったのか、いくら考えても全く浮かんできませんでした。

しかし、この一節を読んで、淵田は日本兵に処刑される直前、コヴェル夫妻が日本兵に対し、何を祈ったのか瞬時に理解できたのです。

コヴェル夫妻は、自らを殺そうとする日本兵を赦してほしいと神に祈った。彼らは自分たちが何をなしているのかを分からずにいるのだと。

その両親の想いが娘のマーガレットに伝わり、彼女の憎悪が、日本兵捕虜への慈愛に転じたと理解した淵田は、あまりの感激に涙が止まらなくなりました。

 

そして淵田はハッとして、

「その「彼ら」にはお前も含まれているのだ」

 という思いを抱きます。

後に淵田は、これを神の啓示と述べています。

淵田は「私は四十七年という長い年月を、「なにをしているのか分らず」に過ごして来たのか」と自覚し、これを自らの罪と認識して、信仰の道に入ることを決心しました。

 

敗戦以来、帝国軍人として自らが信じた価値観のすべてが否定され、自分なりに懸命に努力を続けてきたにもかかわらず、自分自身や、その人生の価値が、こうも簡単にひっくり返されるものかと、淵田は深く苦悩していました。

現人神と崇めた天皇は、人間宣言で神ではなくなり、敗戦で日本で最も権威のある人物はマッカーサーとなりました。所詮は全て自分自身と同じ人間が勝手に決めた権威にすぎず、人間の決めた権威による評価は、時代や状況が替われば、容易にひっくり返ってしまう。

自身が生きていくための、絶対的な精神的支柱を、淵田は当時渇望していました。

そして出会ったのがキリスト教の教えでした。

 

敗戦によって、それまで信じた価値観が根底からくつがえる中、淵田はキリスト教の中に、時代が変わってもゆるぎない普遍性を感じ、自らの生きるよすがとしたのでしょう。

 

アメリカでの伝道

1951(昭和26)年3月、淵田は日本基督教団堺大小路協会の斎藤敏夫牧師のもとで洗礼を受け、伝道師として活動を開始しました。

翌1952(昭和27)年11月、淵田の回心を知ったアメリカの伝道団体スカイパイロットから、アメリカでの伝道の誘いを受けます。

スカイパイロットとしては、真珠湾攻撃の攻撃隊長であったという淵田の経歴に着目したのでしょうが、戦争の原因を相互の不理解にあると考えていた淵田としては、アメリカを知り、アメリカに日本を知ってもらう機会を得られると、その招待を応諾しました。

淵田はかつて真珠湾を目指して赤城で渡った北太平洋航路を辿り、サンフランシスコに降り立ちます。そして全米の様々な都市を伝道して回りました。

その中で、真珠湾攻撃で片足を失った元兵士の家で歓待を受けることもあれば、真珠湾で息子を失った母親から、「今すぐ日本へ帰れ。この古ネズミめ!」と、憎悪に満ちた手紙を受け取ることもありました。

また、真珠湾で爆沈したアリゾナで戦死した将校の遺児と会う機会もありました。

その少年が生まれたのは1941年12月7日。まさに真珠湾攻撃のその日に生まれたといいます。それも、アリゾナが轟爆した午前8時過ぎ、爆風によって病院の窓が震える中、生まれ落ちたと聞かされた淵田は、胸に迫るものがありました。

母親は以来、夫を奪った日本軍を憎んでいましたが、この日、真珠湾攻撃を指揮した淵田の証を聞いて深く感動し、神を信じない息子のために祈ってほしいと淵田に願い出ました。

淵田は、男の子の頭に手を置き、「父よ彼らを赦し給え、その為す処を知らざればなり」と、会衆一同と祈りをささました。

 

年が明けても淵田はアメリカにいました。

この年は、太平洋戦争で争った、アメリカの要人たちと次々に邂逅を果たします。

1953(昭和28)年2月に、カンザスに隠棲していた前大統領トルーマンと面会。

陸軍少佐であったトルーマンとは元軍人同士で話があったようです。

面会は温かい雰囲気で行われ、トルーマンは淵田に「真珠湾はボスギルティ(両者有罪)だ」と笑顔で語ったといいます。多分に淵田へのリップサービスであったでしょうが、本音の一端も含まれていたかもしれません。

同月、ワシントンに到着した淵田は、当時副大統領だったニクソンに面会。

ニクソンは太平洋戦争中、志願して海軍の補給士官として従軍。1943年には日本海軍と激戦を繰り広げた南太平洋の最前線で、兵站確保に努めた経歴の持ち主で、日本海軍の将校であった淵田を敬意をもって迎えました。

同年3月、ニューヨークで淵田は初めて東京を空襲したドーリットルと面会する機会を得ます。

この会見は淵田をアメリカに招待したスカイパイロットが、その活動宣伝に利用しようとマスコミにリークしたため、多くの新聞記者が詰めかける中行われました。

 

淵田が太平洋戦争中の要人たちと、多数面会する機会が得られたのは、淵田の存在を伝道活動の宣伝に利用したいスカイパイロットが、セッティングしたものでした。

アメリカ人にすれば、悪魔の所業ともいえる真珠湾攻撃の攻撃隊長が、回心してキリスト者となったということは、やはりインパクトの強い出来事だったのでしょう。

そして回心した淵田が、かつての激戦を繰り広げたアメリカ側の要人たちと和解のテーブルに着く姿は、スカイパイロットにとって格好の宣伝材料といえました。

真珠湾攻撃隊長であったという淵田の経歴を利用した伝道活動は、当時アメリカ国内で批判の声も少なからずありましたが、淵田は意に介すことなく、むしろ積極的に活用しました。

日米戦争の原因を相互不理解と考えてた淵田は、自らアメリカを知り、アメリカに自身を通して日本を知ってもらうためには、どのような批判も意に介すことはなかったようです。

 

その後、再び西海岸に向かった淵田は、大陸を自動車で移動しながら、百回もの集会に参加して伝道活動を行います。

そしてたどり着いたカリフォルニアで、かつて太平洋上で日本海軍と対峙した、元アメリカ太平洋艦隊司令長官であるチェスター・ニミッツと面会する機会を得ます。

ニミッツは1947年に退役して以来、多くの大学、企業から好待遇で誘われていましたが、太平洋戦争で死なせてしまった部下たちに申し訳ないという理由から、そのすべてを断っており、淵田が訪れたときはカリフォルニア大学の一評議員という立場でした。

ここでも淵田は温かく迎えられ、ニミッツが日本滞在中に贈られたという、終戦時の連合艦隊司令長官豊田副武大将の軍刀を、「本来自分が持つべきものではない」ということで、豊田へ返してほしいと託されました。

 

カリフォルニア滞在中、淵田はニミッツに続いて、ミッドウェーで日本の航空艦隊を壊滅させたスプルーアンスとも面会します。

太平洋戦争中に死力を尽くして戦ったかつての強敵たちと、親しく歓談する機会を、アメリカ伝道の旅で淵田は得ることができました。

 

その後、淵田はハワイ経由で日本への帰途に就くことになります。

ハワイでは真珠湾で戦死した空中攻撃隊員たちの埋葬地を訪ねています。

平和な日曜日に突如襲い掛かってきた日本海軍は、現地の人から見れば悪魔に等しいと見られてもおかしくありませんが、丁重に敬意をもって葬られていたことを知って、淵田は深く感激しました。

また、不時着した飛行兵を匿った、日系人の未亡人とも知り合います。

その飛行兵は、不時着後、日系人男性に匿われ、救出の潜水艦を待っていましたが、ついに潜水艦は現れませんでした。

最期は追っ手に捕縛されることを良しとせず、ピストルで自らを撃ち抜いて息絶えます。 

その後、飛行兵を匿った日系人男性は亡くなり、残された夫人は日本兵を匿ったとして反逆罪に問われ、幼子3人を孤児院に預けて、三年間服役を余儀なくされたといいます。

戦争によって大きな災難に見舞われた一家に、淵田は作戦を主導した当事者であったことに責任を感じてか、面会した夫人に深く詫びましたが、そんな淵田に夫人は言いました。

「そんなに詫びてもらっては、わたし困ります。私たちは米国生まれの米国市民ですから、米軍当局がわたしたちを反逆罪と決めつけるのは少しも間違っていません。しかしわたしたちには日本人としての血も流れています。したがって私は夫のしたことも間違いだとは思っていません」

この言葉に淵田はただただ頭が下がる思いでした。

 

その後淵田は、8月末に10か月に及ぶアメリカ伝道の旅を終えて日本に帰国しました。

 

恩讐を乗り越えて

 

1952(昭和27)年に始まる淵田のアメリカ伝道は、1967(昭和42)年まで8度に及び、真珠湾にも3度足を運びました。

15年間、全米を飛び回り、1957(昭和32)年には長男の善彌が、1961(昭和36)年には長女の美彌子も渡米します。

善彌はアメリカの大学に入学して建築の道に進み、夏休みの間は父の運転手として、ともに全米を回りました。

善彌はそのままアメリカにとどまって建築家となり、美彌子もインテリアデザイナーの職について、ともにアメリカ人と結婚して子どもにも恵まれました。

アメリカを震撼させた真珠湾攻撃の総隊長淵田の孫、ひ孫は、全員アメリカ人というのは感慨深いものがありますね。

 

8度目のアメリカ伝道から帰国した後、65歳となった淵田はようやく静かに奈良県橿原市で静かに土と親しむ生活に戻ります。

以後、ほとんど公の場に姿を現すことはなくなります。

しかしながら、旧海軍の親睦団体である大阪水交会の会長を務めて講演を行ったり、かつての盟友源田実参議院議員となった際に、選挙の応援演説に出向くなど、海軍時代の絆は最後まで大切にしました。

1970(昭和45)年、この年封切られた日米合作の映画「トラ・トラ・トラ!」のワールドプレミアに淵田は招待され、68歳の淵田は妻・春子とともに招待されて、夫婦でアメリカ、ヨーロッパを巡る世界旅行に出かけます。

トラ・トラ・トラ!」はアメリカ映画と思えないくらい、日米双方からの視点で描かれた戦争映画で、米軍が全面協力して撮影されたため、戦闘シーンや航空機の発着シーンなど本物の空母や戦闘機を使用するなど、全部CGで描いてしまう最近の映画では見られない迫力ある映像も魅力の映画です。

硫黄島からの手紙」ばりに日本側の視点でもきっちり描きこまれた作品だったので、アメリカ議会で「真珠湾攻撃を正当化するような映画に、国民の税金が使われる米軍が協力するとは何事か」と問題視されたことでも知られます。

淵田も当然登場し、名優田村高廣が演じました。

個人的には後年の「パールハーバー」よりずっと良い作品でしたので、興味のある方にはぜひ一度見ていただきたいです。

淵田も、日本側の視点もしっかりと盛り込まれた作品だったからこそ、喜んで制作会社の招待に応じたのでしょう。

 

その後淵田は持病の糖尿病が悪化し、1976(昭和51)年5月30日、大阪の病院で息を引き取ります。享年73。

 

淵田は太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾攻撃から、太平洋上での主要な戦闘に参加するなど、アメリカへの敵愾心に燃えて、対米戦を戦い抜きました。

しかし戦後は、二度と戦争の惨禍を繰り返さないことを願い、キリスト教との出会いから、「ノーモア・パールハーバー」と、相互理解による日米双方の憎しみの連鎖を断ち切ることを訴え続けました。

国家や民族間の紛争は互いの正義がぶつかり合います。

双方に言い分があり、一方的にどちらかを断罪することは難しいことが多いものですし、大きな遺恨が残ることも多いものです。

自ら信じた正義を敗戦ですべて否定され、戦後平和への道を希求しつつも、アメリカへの敵愾心に苛まれ続けた淵田にとって、聖書の言葉、

父よ彼らを赦し給へ、その為す処を知らざればなり

は、まさに福音となったのでしょう。

原罪という、キリスト教の特徴的な教えを感得することで、敵であっても慈しめる、その罪を赦せるようになったということでしょうか。

 

一方で、人間の理性や知性には、限界と不信を戦後強く感じていたのかもしれません。

その自叙伝の中で、淵田は広島の原爆慰霊碑の言葉

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

に触れ、「人類の英知に訴えるのだというのか知れない。人類の聡明英知と言ったところで、知れたものである」と、語りました。

被爆翌日の広島の惨禍を目の当たりにした淵田にとって、戦争となれば勝つために手段を選ばない人間の、理性、知性への大きな不審が実感としてあったのでしょう。

そして、「平和は、人間の力などで闘いとれるものではないのである。平和は上から与えられるものなのである」と、信ずるに足るのは神のみであると語りました。

浄土真宗の宗祖、親鸞が唱えた「絶対他力」による救済にも通じる考えのように感じます。

 

日本を含め、世界中のいたるところに、歴史的な経緯から他国や多民族と深刻な対立や

問題を抱える地域があります。

そのような問題を解決する糸口が、淵田の人生にはあると思います。

自己の主張を相手にどのようにぶつけ、飲ませるかではなく、相互にどのようにすれば赦しあえるのか。

そのために、相互不信の種を取り除こうとした淵田の後半生は、平和を希求する全ての人に多くの示唆を与えてくれるものといえるでしょう。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。