大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12)

1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄元を阿波へ撃退した細川高国は、10代将軍・足利義稙をも京から追い出して新将軍・足利義晴を擁立するなど、20年にわたって京都で政権を握りました。

しかし、家中の内紛から1527(大永7)年に高国政権は内部から崩れ、阿波に逼塞していた細川澄元遺児・晴元三好元長桂川原の戦いで将軍・義晴と高国を撃破すると、義晴、高国は近江へ逃亡。

高国政権は崩壊して晴元方が京都の支配権を握り優勢となります。

高国政権崩壊により高国の意向で結ばれた筒井氏と越智氏の同盟はほころびを見せ、1529(享禄元)年に筒井順興は領土的野心から河内の畠山稙長と結んで越智領へ侵攻。

再び筒井と越智の抗争が再燃しました。

 

柳本賢治の大和侵攻

桂川原の戦いで将軍・足利義晴細川高国が近江へ去り、細川晴元堺公方足利義維が和泉・堺に留まる中、京都周辺の支配を巡って晴元方の三好元長柳本賢治の間で激しい暗闘が繰り広げられました。

しかし、1528(大永8)年7月に三好元長が京都奪回と堺幕府の樹立に大きな功績のあったとして山城守護代に任じられると、柳本賢治は勢力の伸長先を大和、河内へと向けて体制内での勢力挽回を図ります。

1528(享禄元※同年8月改元)年9月に大和では筒井順興が越智家頼を攻撃して筒井と越智の抗争が再燃すると、薬師寺が戦乱に巻き込まれて西塔、金堂が焼亡するなど戦火は大和全土に広がりました。

この混乱する大和に同年閏9月、柳本賢治赤沢幸純(大和守)が数万の大軍を率いて突如侵攻を開始します。

赤沢幸純は赤沢朝経の弟とみられる人物で、三好元長と行動を共にしている武将であり、この京衆の大和侵攻は勢力伸長を図る筒井順興を快く思わない細川晴元の意向によるものと考えられます。

筒井順興に押され気味であった越智家頼、古市公胤は柳本賢治、赤沢幸純に付き、形勢不利を悟った順興は、抗戦することなく東山中へと逃亡。

赤沢幸純は興福寺に入って奈良の支配を強めました。

一方の柳本賢治は10月頃まで大和国内の支配・計略を進めた後、総州家当主・畠山義堯とともに河内へ攻め込むと、高屋城(現大阪府羽曳野市)を開城させ、畠山稙長を金胎寺(現大阪府富田林市)まで撤退させました。

高屋城には畠山義尭が入城し、河内では一転して総州家が優勢となります。

同年末になると柳本賢治三好元長の対立はいよいよ先鋭化し、山崎付近で両者の軍勢が小競り合いを起こした他、翌1529(享禄2)年正月、奈良に駐留していた赤沢幸純が賢治の攻撃を受け自害に追い込まれました。

大和支配を巡って競合関係にあった赤沢幸純を排除した柳本賢治は、同年4月に入ると配下の将を大和へ派遣しましたが、筒井順興が「礼銭」を支払うことで和睦に合意。大和から撤兵します。

しかし、この順興の和睦は京衆を奈良から去らせるための計略でした。

京衆が去った奈良には柳本賢治に与する古市公胤が駐留していましたが、4月21日に順興は古市勢を攻撃してこれを駆逐すると、替わって奈良に入ったのです。

山城、摂津で三好元長と争う柳本賢治が容易に再度大和へ侵攻することはないと順興は見たのでしょうが、筒井勢の軍事行動に柳本賢治は素早く反応しました。

4月27日、自ら軍勢を率いて大和へ侵攻した柳本賢治大和国内各地を焼き討ちにして、内山永久寺(廃寺・現天理市)では多くの寺僧を殺害。

内山永久寺跡

その後、柳本賢治法華寺(現奈良市)に陣取って数日を過ごしましたが、その間に再び筒井順興と和睦交渉が進められます。

結局、順興から礼銭3千貫と大和一円への私段銭の賦課権を得ることで話がまとまり、柳本賢治は大和から撤兵しました。

三好元長との抗争が続く中、柳本賢治にすれば長期間大和に大軍を駐留させて直接領国化することは難しく、攻め寄せると決戦を避けて東山中に籠る筒井順興を時間と兵力をかけて徹底的に叩くことは困難だったのでしょう。

ところで、この時期に筒井順興が東山中の詰城として整備したのが、のちに平野部の筒井城と並んで筒井氏の拠点となる椿尾上城です。

椿尾上城主郭部

赤沢朝経の大和侵攻以来、他国衆による侵攻が相次いだ大和では戦時の山城の整備と拠点城郭化が急速に進み、南和・越智氏の高取城を皮切りとして筒井氏の椿尾上城そして十市氏の龍王山城と、この16世紀前半に巨大な山城が出現するのです。

 

さて、柳本賢治の大和侵攻後、賢治と三好政長の讒言によって主君・細川晴元との関係が悪化していた三好元長は、畿内での状況不利を悟ったのか、兵をまとめて本拠地阿波へと引き上げました。

まんまと畿内から政敵である三好元長を追い出した柳本賢治でしたが、翌1530(享禄3)年5月に近江から巻き返しを図る細川高国との戦いの中、播磨へ遠征中に暗殺され、あっけない最期を遂げます。

細川晴元と高国の争いはこの後しばらく播磨、摂津を中心に行われることになり、大和には数年平穏が訪れることになりました。

 

梟雄・木沢長政の登場

柳本賢治の死は堺公方足利義維を擁する細川晴元にとって大きな戦力ダウンとなり、反転攻勢を強める細川高国の猛攻の前に、晴元は畿内での優勢を保てなくなっていました。

そのため晴元は阿波に逼塞した三好元長に、再び畿内へ復帰するよう懇願します。

賢治の死の翌年、1531(享禄4)年2月、ようやく元長は阿波勢を引き連れて畿内に復帰しますが、翌3月には京都が再び高国方の手に渡り、堺公方は危機的状況に追い込まれました。

数万の軍勢を率いて摂津、和泉へ侵攻した細川高国は、一気に堺の細川晴元を葬り去ろうと進撃しましたが、三好元長は数的不利な状況で高国の攻撃をよく防ぎ、戦線は膠着します。

しかし6月、細川高国の援軍として播磨からやってきた赤松政祐はひそかに足利義維細川晴元に内応。天王寺に布陣していた細川高国の軍を三好元長らと挟撃して壊滅させてしまったのです。

細川高国は戦線を離脱したものの捕縛され、尼崎広徳寺で処刑されました(大物崩れ)。

こうして永正の錯乱から24年続いた細川澄元・晴元父子と細川高国細川京兆家家督を巡る争いは終結したのです。

 

しかし、細川家中では高国横死後すぐに不協和音が生じ始めます。

その中心にいたのが、後に大和とも深く関わることになる一代の梟雄・木沢長政でした。

木沢長政は元々総州家・畠山義堯の被官でしたが、1530(享禄3)年頃から細川京兆家に取り入って次第に独自の行動をとり始めます。

長政は細川高国、次いで細川晴元の被官となって自身の勢力を拡張しようと動き始めたことから、元来の主君である畠山義堯から強く警戒されるようになりました。

 

さて、細川高国死後も近江には12代将軍・足利義晴が健在で、堺公方足利義維との対立関係は解消されぬままでした。

そんな中、突如として細川晴元はそれまでの足利義維の擁立から方針を転換し、足利義晴との和睦に舵を切ろうとしたのです。

京を追われたとはいえ、正式な将軍は義晴であり、近江の義晴の元には京の権門からの訴訟が持ち込まれるなど、将軍の実務は引き続き行われ、朝廷との関係も維持されていました。

加えて、近江の六角氏を始め、越前の朝倉氏、若狭の武田氏、但馬の山名氏など義晴を支持する守護大名も多数存在したため、ライバル高国を亡き者にした今、晴元にすれば義晴の下で管領となった方が混乱収拾の労力が少ないと判断したのでしょう。

しかし、余りに無節操なこの動きに晴元の重臣筆頭格であった三好元長は猛反対し、畠山義尭も反対を表明しました。

これに対し、細川京兆家内で勢力拡張を図りたい木沢長政と、以前から三好家家督を元長から奪いたい三好政長は結託して、晴元に元長を讒訴します。

武功抜群の元長が自分の地位を脅かしかねない存在と見なし始めていた晴元は、長政らの讒訴により一層疑心暗鬼を強め、晴元と元長主従の溝は修復不能なほど深まっていきました。

そして将軍位を巡る路線対立による三好元長・畠山義堯と三好政長・木沢長政の確執がピークに達すると、ついに1532(享禄5)年5月、畠山義尭は主家をないがしろにして行動する木沢長政を討伐すべく、長政の居城・飯盛山城(現大阪府大東市)を包囲しました。

この包囲軍には三好元長の他、大和から筒井順興も加わって、窮地に追い込まれた木沢長政は細川晴元に救援を求めます。

かねてより自分の意に反発し、抜群の武功から家中での存在感を増す三好元長を疎ましく思っていた細川晴元は、この機会に元長を排除しようと画策。

山科本願寺を本拠として、畿内から北陸にかけ大きな勢力を築いていた浄土真宗一向宗に協力を求めました。

証如上人像

木沢長政が細川晴元の被官になろうと接近した時、その仲介役となったのが当時一向宗最大の実力者であった10代法主証如の後見人、蓮淳(8代法主蓮如6男で証如の外祖父でもある)で、晴元は蓮淳に今回の事態の発端を作ったのだから協力するようにと要請したのです。

畿内各地で対立する法華宗の熱心な信者でもあった三好元長から、浄土真宗が弾圧を受けた経緯もあり、蓮淳は晴元への協力を決断。

法主・証如の名で各地の末寺に一揆勢の蜂起を呼びかけると、6月5日には17歳の証如を大坂御坊に入れて、参集を促しました。

飯盛山城での戦いは純然たる武家同士の争いでしたが、蓮淳は三好元長を槍玉に挙げ、この戦いを「法華宗との最終決戦」として、門徒たちの協力を求めたのです。

 

天文の大和一向一揆

同年6月15日、法主・証如の元に集まった10万の一揆軍は、飯盛山城を包囲する畠山義堯、三好元長、筒井順興の軍に襲い掛かります。

背後を衝かれた包囲軍は壊滅し、畠山義尭は南河内まで逃走したものの一揆勢に追い詰められて自害し、筒井順興も命からがら大和へ逃亡しました。

三好勢も壊滅し、三好元長は堺の法華宗寺院・顕本寺へ逃れましたが、たちまち周囲を一揆勢に囲まれます。

6月20日、元長は自ら腹を切り裂いて壮絶な最期を遂げます。

享年32。自ら切り裂いた腹の中から腸を取り出し、天井に投げつけて果てたと伝わり、あと一歩で政敵・木沢長政を攻め滅ぼせたところを主君の裏切りに遭って逆転された元長の無念のほどが偲ばれます。

 

「仏敵」三好元長を死に至らしめた一揆軍は勢いづき、畿内法華宗以外の勢力も打ち滅ぼせという声が一揆内で大きくなりました。

これは蓮淳や証如ら本願寺首脳部の意図を逸脱するものでしたが、戦勝の興奮に沸く一揆軍を本願寺はコントロールできなくなります。

暴走した一揆軍は、次なる目標を、大和で浄土真宗の活動を弾圧してきた興福寺と、その手足となって念仏道場の破却を繰り返す筒井氏、越智氏の討伐に定めました。

一揆軍が大和へ侵入する中、7月10日には奈良で浄土真宗門徒1万が蜂起し、興福寺に攻撃を加えました。

奈良で蜂起した一揆軍に対し、興福寺は七堂伽藍や一乗院、大乗院といった主要部への攻撃は何とか防ぎ切ったものの、多くの塔頭、僧房が破却、焼き討ちに遭って焼亡します。

7月17日には、一揆軍は春日大社へも乱入して破却と略奪の限りを尽くし、8月9日には奈良の町が焼き打ちにされ、全ての家屋が焼き払われました。

寺社、家屋の被害の他にも、春日の神鹿や猿沢池の鯉が悉く食べつくされるなど、奈良は壊滅的な打撃を受けたのです。

 

奈良の町が一揆勢に蹂躙される中、南下した一揆軍は7月30日に高取城に籠る越智家頼を包囲しました。

高取城

興福寺の命で今井郷(現橿原市)の念仏道場を破却するなど、越智氏は大和の本願寺門徒から恨みを買っており、河内から吉野郡の下市御坊(現下市町)、飯貝御坊(現吉野町)といった本願寺の拠点をつなぐ線上にあった越智氏の高取城は、一揆軍にとって攻略すべき拠点と映ったのでしょう。

 

筒井順興と越智家頼は一揆軍の侵攻直前まで対立関係にありましたが、大和全域が一揆軍ら本願寺勢力に蹂躙される中、順興は越智氏の救援を決断。

8月8日、筒井順興は十市遠治とともに高取城を囲む一揆軍の背後を衝いて攻めかかり、越智家頼も城内から打って出ました。

挟撃された一揆軍は壊滅。

一揆軍の残存兵は南和の布教拠点であった飯貝御坊・本善寺のある吉野まで落ち延び、高取城での戦いは大和国人衆の大勝利に終わります。

飯貝御坊・本善寺

その後、体勢を立て直した一揆軍は、8月下旬に葛上郡吐田(現御所市)まで再度進出しましたが、ここで越智家頼と合戦に及び再び大敗。

大和における一向一揆は、本願寺勢力という外敵の前に再び団結した大和の国人たちによって、鎮圧されたのです。

この一件で興福寺は、浄土真宗に対して奈良における永代禁制を発し、本願寺もこれを受け入れざるを得なくなりました。

その後松永久秀の大和侵攻によって大和国人たちの勢力が衰えるまで、大和における本願寺の勢力伸長はいったん衰えることになります。

 

また、同時期に畿内各地で大和と同様に一向一揆が頻発しており、これに危機感を抱いた細川晴元は一転して本願寺の弾圧を始めます。

結局本願寺は1532(天文(同年8月改元)元)年8月に山科本願寺を退去せざるを得なくなり、以後、大坂石山本願寺を本拠とすることになりました。

この一連の混乱で、三好元長と行動を共にした堺公方足利義維細川晴元に捕らえられた後に淡路へ出奔。次いで阿波へ逃亡して堺幕府は崩壊します。

三好元長の死と足利義維の出奔により、近江の将軍・足利義晴細川晴元が和睦するための障害はなくなり、同年11月に両者は正式に和睦することとなりました。

ちなみに細川晴元が諱に「晴元」と名乗るのは、義晴との和睦後にその偏諱を受けた後で、実はそれまでは通称の「六郎」を名乗っていました。※便宜上、当ブログでは晴元で統一。

 

畿内における一向一揆による混乱は、大和では1532(天文元)年には収束したものの、その他の地域では幕府と本願寺の抗争が数年続きました。

その間、大和では官符衆徒棟梁・筒井順興が奈良の治安を守り、越智氏、十市氏とも協力して興福寺による大和支配を支える体制が続きます。

そして1533(天文2)年には、十市氏当主・遠治が死去して嫡男・十市遠忠が跡を継ぎ、筒井氏でも1535(天文4)年に当主・順興が世を去って、嫡男・筒井順昭が新当主になり、次代の大和の戦国史を飾る二人の武将が、歴史の表舞台に登場しました。

 

そして1536(天文5)年、細川晴元本願寺と和睦すると一向一揆による畿内の混乱はようやく収まり、それと前後して再び他国衆による大和侵攻・木沢長政による侵略が始まるのです。

 

参考文献

『奈良県史 第11巻』 奈良県史編集委員会 編

『奈良市史 通史 2』 奈良市史編集審議会 編

『羽曳野市史 第1巻 (本文編 1)』 羽曳野市史編纂委員会 編

『続群書類従 第30輯ノ上 雑部(厳助大僧正記)』 塙保己一 編

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