大和徒然草子

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平野郷散歩(2)舟入と大阪初の民間教育機関・含翠堂、奈良街道界隈

皆さんこんにちは。

 

大阪市平野区の中心街区でJR平野駅の南側、地下鉄平野駅の東側に広がる一帯は、平野郷と呼ばれ、大阪市内で最も古くから成立した集落の一つです。

中世には守護不入の地で郷民による自治が行われ、戦国時代には集落防衛のため巨大な環濠を周囲に巡らし、堺と並ぶ自治都市として栄え、江戸時代は木綿の集散地となって平野川の水運と四方に延びる街道を活用した商業地として繁栄しました。

国土地理院HPより作成

戦後、周辺の宅地化で環濠はほとんど姿を消しましたが、現在も江戸の町並みと歴史ある寺社や旧跡そして環濠の痕跡が、町のいたるところに残り、散歩スポットとしての魅力が高い地域です。

前回は平野郷の歴史と杭全神社界隈のスポットをご紹介しました。

今回は下図の破線の範囲、平野郷の東部を中心に奈良街道界隈の旧跡をご紹介します。

国土地理院HPより作成

舟入~河骨池口地蔵(舟入

杭全公園から東に向かい、河骨池口を目指します。

国土地理院HPより作成

河骨池平野川と直結し、大坂と柏原を結ぶ貨物船・柏原船の発着場で、その周囲は市の浜と呼ばれて問屋や宿が軒を連ねたエリアでした。

江戸時代まで木綿の集散地として栄えた平野郷の「物流センター」ともいえる地域だった場所です。

ちなみに「河骨池」の読みは「こおのいけ」。

まず初見では読めない地名ですね。

筆者も「こおほねいけ」って読みました(苦笑)

 

柏原船は、下の図の通り全長約12.6m、20石積みの小舟で浅い川でも航行できるのが特徴の舟でした。

柏原船(『和漢船用集』より引用・国立国会図書館蔵)

最盛期には70艘以上の柏原船が柏原と大坂の間を結んでいましたが、1889(明治22)年に大阪鉄道の湊町(現JR難波)~柏原間(現在の関西本線大和路線))が開通すると、柏原船は鉄道に貨物を奪われ衰退。

1907(明治40)年に最後の2艘が廃業して江戸の初期から250年余の歴史に幕を下ろしました。

 

こちらは市の浜の現在の様子。

写真左(西)側がかつての舟入ですが、現在は全て住宅地になっており、当時の様子を想像するのはちょっと難しいですね。

 

市の浜と環濠内の出入口となる河骨池口付近。

江戸時代、柏原船の運航は柏原、平野、天満の三か所に設けられた船会所で管理されていましたが、平野船会所は河骨池口の木戸門前にありました。

ちょうど上の写真では、右側の駐車スペース奥にある民家が建つ辺りになります。

 

こちらが木戸口に設置された河骨池口地蔵堂

13あった全ての木戸口には地蔵堂が設置されていました。

こちらの地蔵堂は、住宅と一体化していてユニークですね。

 

目に付くのが地蔵堂の前に「平野青果市場」と刻まれた2本の石柱。

太平洋戦争中に閉鎖されるまで、地蔵堂のすぐ西側(平野宮町二丁目8)に平野周辺で栽培された農産物が出荷される「平野青物市場」があったので、市場の敷地で使われていた石柱かもしれません。

ちなみに地蔵堂の東側、京町一丁目(現平野市町三丁目)には1909(明治42)年に平野で最初に開設された「平野郷青物市場」もありました。

平野川の水運は、明治40年に廃止された後も平野から天満へはしばらく続いていたらしいので、そちらを利用しやすいよう河骨池付近に市場が設立されたのかもしれないですね。

市門筋~市ノ口

河骨池口から、かつての堀沿いに東へ進むと、瑞興寺の北側に堀の痕跡が分かる場所がありました。

手前のトラックなどが止まっている駐車場より、「もと平野青少年会館」に向かって奥(北)側が明らかに低くなっていて、かつて堀があったのがよくわかる地形です。

 

南に進むと国道25号線に出てきました。

市ノ口に続く市門筋は、宮前東交差点から国道25号線となります。

市ノ口を出ると加美から久宝寺、八尾に至る八尾街道へ通じていました。

ちなみに、平野川の東岸で久宝寺へ向かう八尾街道のルートと、直接竜田越えの柏原方面へ向かうルートに分岐するため、この道は奈良街道ともいえます。

市門筋の沿線のかつての町名は市町で、現在は本町通(樋尻門筋)が平野の商業中心地となっていますが、江戸時代までは河骨池から市ノ口近辺が、商家の建ち並ぶエリアだったのでしょう。

国道の南側には、今も古い町屋がちらほらと残っています。

平野小学校の前も同じなのですが、国道25号線は南側の方が昭和初期以前の古い家屋がたくさん残っています

国道の拡幅は、道の北側に向かって広げられたことがよく分かります。

 

市ノ口門のそばにあった市ノ口地蔵堂

国道の拡幅で元の場所からは若干移動しているとのこと。

13ある地蔵の中で最も大きなお地蔵さんで、お堂前の灯篭には1736(享保21)年の銘が刻まれています。

 

市ノ口から国道沿いに東に向かうと平野川の手前にラーメン屋さんが。

ちょうどお昼時だったので、「らー麺藤吉」でとんこつスープの「とうきちラーメン」をいただきました。

国道25号線を西へ引き返し、宮前東交差点へ戻ってきました。

写真の左(南)へ曲がると現在バス通りとなっている田畑筋で正面(西)の細い道が市門筋になります。

市門筋と田畑筋の辻に道標が残されていました。

1845(弘化2)年の銘があり、下記のように刻まれていました。

左 志ぎ山(信貴山

すぐ 道明寺

右 ふじい寺 大峯山

 

ちなみに江戸時代以前の道標で「すぐ」とは、まっすぐ・直進という意味です。

こちらの道標で「すぐ」「みぎ」となっている方向は、田畑筋を南進するルートです。

田畑筋を南へ進み、田畑口を出ると道明寺、藤井寺から古市(羽曳野市)へ通じる古市街道に接続していました。

道標に大峯山の名があるのは、古市街道は古市で大和へ向かう竹内街道へ接続していたため、大坂から大峰山への参詣ルートになっていたことを示しています。

 

含翠堂跡

宮前東交差点から国道25号線沿いに西へ向かうと含翠堂跡の石碑があります。

含翠堂は1717(享保2)年に、土橋友直らが中心となって開設された大阪では最も古い民間の教育機関です。

平野郷民有志の出資だけで運営され、1724(享保9)年に大坂市中で設立され、現在の大阪大学文学部の前身となる懐徳堂の設立にも影響を与えたとされます。

教育だけでなく万一に備えた基金の積み立てを行って、飢饉の際に窮民救済を行うなど、他の学塾には見られない特徴ある教育期間でした。

摂津名所図会でも見開きで紹介されるなど、摂津を代表する有名施設だったことがうかがえます。

含翠堂(『摂津名所図会 巻1』国立国会図書館蔵)

1872(明治5)年の学生公布で廃止されるまで155年間、平野郷民の教育や窮民救済に多大な貢献をしました。

 

奈良街道

杭全神社の石鳥居前から国道を挟んで一つ南側を通る道が、かつての竜田越え奈良街道です。

1800(寛政12)年建立の道標が、杭全神社参道との分岐に残っていました。

道標には下記のように刻まれていました。

(北側)右 大坂

(西側)當社 熊野権現 祇園

(南側)右 ふぢゐ寺(藤井寺) 大峯山 かうや山(高野山

(東側)すぐ 大坂

 

こちらの道標から北側に、13あった木戸口の一つ社内入り口がありました。

 

奈良街道を東に進むと流門筋残在橋筋)に入り、進路は南へ変わります。

市門筋との辻にある福本商店 亀乃饅頭さん。

幕末に建てられたと推定される建物で、建築当初に近付けてきれいに改修されています。

奈良街道、八尾街道、中高野街道が交わる辻で、かつては人の往来も多かったと思われ、当時は一等地だったんでしょうね。

 

流門筋はちらほらと幕末から明治の初め頃と思しき町屋が残っています。

平野は太平洋戦争中の大阪大空襲で、周辺部の野地に焼夷弾が投下されたものの大規模な火災は発生しませんでした。

そのため、大阪市内では他の地域に比べて、江戸から昭和初期にかけての古い建築物が残された地域になっています。

 

本町通りで奈良街道は東へ、中高野街道は南へと分岐します。

奈良街道と中高野街道の辻から東へ少し入ったところに、「新聞屋さん博物館」があります。

1929(昭和4)年に建てられた鉄筋二階建て及び木造の社屋兼住居(写真奥)は、国の登録有形文化財です。

1889(明治22)年創業の大阪市内で最古の朝日新聞売店小林新聞舗さんの社屋で、月に一度だけ「博物館」として公開されます。

■開館日:第4日曜日の11時〜17時

小林新聞舗さんの隣に、全興寺(せんこうじ)の北門があります。

聖徳太子が建てた薬師堂が起源とされる寺院で、平野郷はその薬師堂の周囲に人々が集まり集落を形成したと伝わることから、平野郷発祥の寺ともいえる古寺です。

 

流門筋から東側の中央本通商店会のアーケード街は、残念ながらシャッター通り化が進んでいました。

大阪市内で、地下鉄平野駅からも十分徒歩圏内。

昭和レトロな町並みに、ちらほらと旧街道時代からの建物も残る商店街なので、残されたものを活かした特色ある街づくりで、再び人の往来が戻ってきてくれればと思います。

 

アーケードの中に古い町屋が残っていました。

二階の形状(つし二階)から明治~江戸時代に建てられた商家と推定されます。

大阪市内には他にも古い町屋が残る地域は散在していますが、平野のように江戸の商家、農家の町屋から昭和初期の長屋風看板建築まで、多種多様な歴史ある建物がまとまって残っている地域は少ないでしょう。

樋尻口

旧奈良街道を東に向って樋尻口出屋敷口へと向かいます。

国土地理院HPより作成

奈良街道の出入り口であった樋尻口(ひのしりぐち)

門番小屋や遠見櫓を備えた樋尻口門は、規模の大きかった6つの門の一つ。

現在は門番小屋ならぬ交番があって、町の治安を守っています。

 

木戸口に設置された樋尻口地蔵堂

樋尻口地蔵堂には大坂夏の陣にまつわる伝承があります。

道明寺方面での戦いから撤退中の真田信繁が、大和方面から進軍してくる徳川家康がこの地を通過することを見越して、家康を爆殺するため樋尻口地蔵堂に爆薬を仕掛けました。

信繁の目論見通り家康はこの地を通過したものの、タイミングがずれて爆発したため家康は辛くも難を逃れたといいます。

現在全興寺に祀られている「首地蔵」は、この時爆破され吹き飛ばされてきた樋尻口地蔵の頭部とされます。

 

平野郷は大坂の陣では大和方面から大坂を目指す幕府軍の進軍路上にあり、冬の陣では徳川秀忠の本陣がおかれ、夏の陣では大阪方に焼き討ちされて壊滅的な打撃を受けました。

江戸時代以前の古い木造建築が集落内に少ないのは、大坂夏の陣で町が焼き払われた影響が大きいのでしょう。

 

樋尻口には、大坂夏の陣にまつわる旧跡がもう一つあります。

樋尻口地蔵堂の向かいにある安藤正次の墓です。

正次は徳川家の旗本で、大坂夏の陣では将軍秀忠に属して伝令として活躍しましたが、任務中に大阪方と交戦して深手を負い、平野郷の願正寺で療養中に快復の見込みがないと自刃しこの地に葬られました。

平野公園周辺

さて、樋尻口から東に少し進むと平野公園の北側に、地中に埋もれた石橋があります。

これは、平野川の取水口(樋尻口)から平野郷町内にひかれていた水路・大溝に架橋されていた、松山小橋という石橋でした。

1931(昭和6)年頃の地図を見ると、平野川から水路が町内に引かれていることが分かります。

国土地理院HPより作成

この水路に架橋された石橋で、水路が埋められた後も橋は残されて、重要な水路跡の痕跡としてモニュメントとなりました。

ちなみに、平野川から取水する樋の出口に位置したことが、樋尻口の名前の由来になっています。

 

さらに東へ進むと、平野の黄金水と呼ばれる古い井戸があります。

この井戸は1924(大正13)年に上水道が引かれるまで、平野郷民の飲料水として使われていました。

低湿地で井戸の水質が悪かった平野郷では随一の水質を誇り、飲料水の他には酒造にも使われました。

中世には平野郷の酒は銘酒として知られ、豊臣秀吉の醍醐の花見でも用いられたとか。

 

さて、樋尻口の南東に広がる平野公園は、その大部分が環濠の一角をなす松山池でした。

池の一部が公園の片隅に残っています。

松山池の名前は、公園と赤留比売命神社の間に残る巨大な土塁・松山に由来します。

平野公園は杭全神社周辺と並んで、かつて平野郷を取り囲んだ堀跡と土塁が良好に残る場所です。

 

上の写真とほぼ同じアングルの在りし日の松山池が下掲の写真。

1931(昭和6)年当時の松山池(『平野郷町誌』より引用)

池と土塁の巨大さがよくわかる写真で、集落全体をこのような堀と土居が囲む姿は、壮観だったことでしょう。

 

赤留比売命神社(三十歩神社)

平野公園の西側に鎮座する赤留比売命神社

延喜式にも記載された古社で現在は杭全神社の境外社ですが、もとは住吉神社末社五社の一つでした。

新羅からの渡来人がこの地に集住して祭祀したのに始まる神社で、祭神も赤留比売命という朝鮮半島出身の女神様です。

通称は三十歩神社

応永年間(1394~1428年)の旱魃(1420年の応永の旱魃か)で祈雨のため社殿で法華経三十部を読誦したところ霊験があり、以来「三十部」と称されましたが、いつしか「三十歩」と転訛して三十歩神社と称されるようになったと伝わります。

江戸時代中期に出版された『摂州平野大絵図』にも「三十歩大明神社」として記載され、鎮座地周辺の古い町名も三十歩町。

現在でも地元の人々からは三十歩神社の名で親しまれています。

 

こちらが社殿と境内社天満宮

天満宮は元々背戸口町(現平野本町三丁目)の本町通り沿いにありましたが、1897(明治30)年に当地へ遷座されました。

 

あと、こちらの神社の境内には、かつて奈良街道の泥堂口門外にあった一里塚の常夜灯が移されています。

おそらくこちらの常夜灯。

 

赤留比売命神社から西側も古い町屋が残るエリア。

集落北東部と並んで、平野郷では町屋が集中して残る地域になります。

 

こちらは出屋敷口地蔵堂

住宅街の奥まったところにひっそりあるので、11残っている地蔵堂の中では、最も見つけにくい地蔵堂かもしれませんね。

出屋敷口は集落南東部にあった出入り口の一つで、藤井寺、道明寺から古市に至る古市街道へ接続するとともに、近隣郷民の辰巳墓地への参道になっていました。

1931(昭和6)年当時の地図にも集落南東の池の北側に墓地の記号が見えます。

『平野郷町誌』より引用(国立国会図書館蔵)

出屋敷口門は1712(正徳2)年に普請されたとされるので、古市街道と墓地へのアクセスを改善し郷民の利便性を高めるため江戸時代に設けれたのでしょう。

参考文献

『平野郷町史』平野郷公益会編

『平野郷:大阪市編入五十周年誌』平野振興会編

 

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