大和徒然草子

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平野郷散歩(1)環濠都市の歴史と杭全神社界隈を巡る

皆さんこんにちは。

 

大阪市平野区というと、現在は都心から少し離れた郊外の住宅街というイメージを持たれる方も多いかと思います。

その平野区中心市街は、かつて平野郷と呼ばれ、実は大阪市内で最も古くから形成された集落の一つ。

中世には外敵からの攻撃を守るため、巨大な環濠を町の周囲に巡らした平野郷は、堺と並ぶ自治環濠都市として栄え、江戸時代に入って木綿の集散地として巨万の富を蓄えました。

近代に入り、堀はほとんど埋められてしまったものの、江戸時代の古い町割りと歴史ある古社寺、堀の痕跡が随所に残る絶好のお散歩スポットなんです!

 

今回は、平野郷のお散歩が一層楽しくなる、平野郷の歴史の概略と現在唯一かつての水堀が残る杭全神社界隈をご紹介します。

 

環濠都市・平野郷とは

平野郷の場所はこちら。

大阪市南東部にあり、JR平野駅の南側、大阪メトロ谷町線の東側一帯に広がる南北約900m、東西約800mほどの地域になります。

 

町の起源は古く、聖徳太子が現在の全興寺(せんこうじ)の地に薬師堂を建立し、周辺に町屋が建ち並び始めたのが起源とされます。

古来、杭全郷と称されたこの地は、難波津から斑鳩へと続く渋川道(後の竜田越え奈良街道)が東西を貫き、後には中高野街道が南北に交差する交通の要衝でした。

平安時代初期に、蝦夷征討で武名を挙げた征夷大将軍坂上田村麻呂の次男・坂上広野麻呂の荘園となり、一説には「平野」の地名は、広野麻呂の「ひろの」の転訛とされます。

その後、宇治平等院の荘園となった後、戦国期に織田信長の直轄領となるまで、平等院の荘園で、鎌倉時代頃に「杭全荘」から「平野荘」と呼ばれるようになりました。

 

中世、守護不入の地として惣年寄による自治が行われ、戦国期には町の周囲を全長3kmを超える巨大な水堀と土塁で囲んだ環濠集落となります。

ちなみに自治といっても、堺の会合衆のような合議機関は平野郷にはなく、集落内の有力者代表である郷長が領主的権限をもって、支配を進めていたようです。

 

1615(慶長20)年の大坂夏の陣では、平野は徳川方に協力したこともあって大坂方の焼き討ちに遭い、町は灰燼に帰しました。

戦後、平野の豪商だった末吉孫左衛門吉安が平野荘代官に任じられて復興にあたります。

下掲の絵図は江戸中期の1763(宝暦13)年のもので、大坂の役からの復興時に改めて掘りなおされた環濠が町を取り囲む様子がよく分かります。

摂州平野大絵図(『平野郷町史』より引用・国立国会図書館蔵)

大坂の役後の復興では、町割りも碁盤目状に改められ、現在に続く平野の町並みがこの時に形成されました。

豊臣家が滅んで太平の世となったことから、堀の役割は都市防衛から農業用水や治水対策中心に変化し、町並みも人やモノが通りやすい碁盤目状に改められ、集落内外を結ぶ出入り口が13も設けられるなど、戦時の防衛を意識した町から平時の経済発展や利便性を追求した町に変わっていったと考えられます。

 

平野は江戸時代の前半は幕府直轄領、後半は下総国古河藩の領地で、1704(宝永元)年に大和川の付け替えが完了すると、周辺が国内随一の綿花生産地になったことから綿業を中心に産業発展を続けます。

江戸時代の初めに、京橋・平野・柏原を結んだ平野川の水運・柏原船による交易が始まると、平野は中継地として栄えました。

柏原船は、1620(元和6)年に発生した大和川の氾濫で荒廃した柏原の復興と平野の繁栄を願って、平野の豪商で地域の代官でもあった末吉孫左衛門長方(吉安の子)が計画。

1636(寛永13)年に運航を開始した柏原船は、柏原を物資集積地とすることでその復興・繁栄を後押しするとともに、平野にも綿の交易による莫大な富をもたらしました。

 

しかし、1889(明治22)年に大阪鉄道が現在のJR関西本線大和路線)・湊町(現JR難波)~柏原間を開業させると、柏原船は貨物を鉄道に奪われて衰退し、1907(明治40)年に最後まで営業していた2艘が廃業して250年余の歴史に終止符が打たれました。

江戸後期から平野川の舟運は積荷量の減少から衰退を始め、平野郷の経済にも影を落としていましたが、鉄道の開通をチャンスととらえた平野郷では、鉄道開通と同年の1889年に平野紡績会社(現ユニチカの前身企業の一つ)が町内有志の出資によって設立され、開業したばかりの平野駅南側に広がる杭全神社の境内と神宮寺僧房跡に、近代的な紡績工場が建設されます。

1925(大正14)年、大阪市の拡張により平野郷は住吉区編入され1943(昭和18)年に東住吉区に分区編入された後、1974(昭和49)年に平野区に分区編入され現在に至ります。

 

下掲は1931(昭和6)年の地図で、昭和初期まで町を取り巻く環濠がほとんどそのまま残っていたことが分かります。

平野郷町図(『平野郷町史』より引用・国立国会図書館蔵)

地図を見ても明らかですが、当時の平野周辺は環濠の外がほとんどが農地で、農業用水としての需要が高かったことから、環濠が残されていたのでしょう。

しかし、太平洋戦争後に周辺が宅地化されると環濠は道路や宅地と化し、杭全神社の東北側に一部が保存されている他は、全て姿を消しました。

 

下掲は現在の平野郷周辺の航空写真に、江戸時代の堀と街道、13あった木戸口を書き込んだもの。※堀の形は古図と昭和初期の地図、現在の地形・地割から類推。

国土地理院HPより作成

町の東西を竜田越え奈良街道(難波~奈良)と八尾街道(堺~久宝寺~八尾)が通り、南北に中高野街道(守口~河内長野)が交差する交通の要衝だったことが、地図上からよくわかります。

※江戸時代は絵図によると、奈良街道を大坂道、大和河内信貴山道、八尾街道を住吉堺道、中高野街道を高野道と呼んでいたようです。

 

環濠から町内に入る口は13あり、全ての口に木戸門が設けられていました。

杭全神社の参道に続いていた社内入口から、各口の名前は以下の通りです。

 

社内入口(杭全神社参道に続く)

河骨池口(柏原船の舟入に接続)

市ノ口(八尾街道の東側出入口)

樋尻口(竜田越え奈良街道の東側出入口)

出屋敷口(辰巳墓地への参道。道明寺・藤井寺方面へ通じる古市街道へ接続)

田畑口(古市街道の出入口)

流口中高野街道の南側出入口)

堺口(八尾街道の西側出入口)

西脇口

田辺道西脇口

小馬場口

馬場口(奈良街道に接続する大念仏寺の参詣道)

泥堂口(竜田越え奈良街道の西側出入口)

 

設置された木戸門の形状は定かではありませんが、大きさは各口によって違い、規模が大きかったのは社内入口 市ノ口、樋尻口、流口、馬場口、泥堂口の6つの門で、高さ二間半(約4.55m)、幅一間半(約2.73m)ほどだったといいます。

さらにこの6つの木戸口には門番屋敷の他、遠見櫓まで設けられていました。

その他の口には小さな木戸門が設けられ、高さ一間半(約2.73m)、幅一間(約1.82m)ほどだったとされます。

 

現在はすべての門が撤去されましたが、門とともに各木戸口に設置されていた13の地蔵堂の内、社内入口、泥堂口を除く11の地蔵堂が、今も残されています。

撤去された2つの地蔵堂のお地蔵さんは、現在町内の全興寺にお祀りされているとのこと。

 

JR平野駅~馬場口

それでは、いよいよ環濠に入っていきましょう。

筆者は奈良県在住ということもあり、JR大和路線を利用して訪問しました。

という訳で、JR平野駅からお散歩開始です!

 

JR平野駅南口から国道25号線方面へ南下すると、「大日本紡績 平野工場 私道」と刻まれた石柱がポツリと立っていました。

現在巨大マンション街となっているJR平野駅南東一帯は、大日本紡績平野工場の敷地だった場所で、工場に入るための私道に立てられていた石柱でしょう。

撤去されずに今まで残っているのが奇跡的!

1969(昭和44)年、ニチボー平野工場は解体され、この地から紡績工場は消滅しましたが、当時の記憶をとどめる貴重な遺構になっています。

 

現在マンションとなっている旧ニチボー平野工場跡の西側を通る通路は堀跡で、マンションの敷地から一段下がっているのがわかります。

こちらもかつての環濠の痕跡です。

 

JR平野駅前の道をさらに南下すると、国道25線の大念佛寺北交差点に突き当たります。

この交差点の南側に、平野郷の木戸口の一つ馬場口があり、竜田越え奈良街道から大念佛寺への参詣路となっていました。

泥堂口~古河藩陣屋跡

国道25号線沿いに東へ進むと、平野北中学校前の陸橋手前で南側に細い道が分岐しています。

現在国道は直進していますが、1932(昭和7)年に奈良街道が直進拡幅されるまで、奈良街道はこの場所で南へ屈曲し、泥堂口という木戸口を通って平野郷に入り、東の樋尻口から八尾、柏原方面へと抜けていました。

 

更に国道を進むと平野小学校前に古河藩陣屋跡の石碑があります。

江戸時代の平野郷は、1694(元禄7)年までは天領で、その後藩領→天領と目まぐるしく領主が変遷しますが、1713(正徳3)年から下総国古河(現茨城県古河市)藩領となって幕末まで続きました。

え!大阪に茨城県の殿様の領地があったの?と驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんね。

実は江戸時代、諸侯の領地が本拠から遠く離れた場所にあることは、ごく一般的なことで、そういった飛び地には代官所や陣屋を置いて支配しました。

特に平野郷は幕府から重要視されたようで、歴代の領主は柳沢吉保に始まり、松平氏、本多氏、土井氏といった老中クラスの譜代の重臣が務めています。

平野郷の陣屋は天明年間(1781~89年)、老中・土井利厚が領主の時代に設置され、幕末まで続きました。

明治に入ると陣屋跡には郷役所、警察署、小学校が建てられ、現在は平野小学校の敷地となっています。

こちらは、平野小学校の表門として使用されていた陣屋門の写真です。

平野小学校表門(『平野郷町誌』より引用・国立国会図書館蔵)

長らく平野小学校の表門として使用されていましたが、1961(昭和36)年の第二室戸台風で大破した木造校舎とともに撤去されました。

翌1962(昭和37)年に下掲写真の大念佛寺南門として移築されたとされています。

しかし、陣屋の門は長屋門でなのに対し、写真の通り南門は薬医門

形が全然違いますよね。

実は現在の大念佛寺南門は、陣屋門をそのまま移築したものではなく、当時痛みが激しかった大念佛寺南門を再建するにあたり、旧南門の古材と陣屋門の古材を活用して再建された薬医門とのこと(『大阪の歴史 (52)』)。

旧陣屋門由来の部材で分かりやすい部分は門扉で、厳密には移築門とは言い難いですが、かつての陣屋の面影を残す貴重な遺構です。

 

杭全神社

古河藩陣屋跡から国道25号線を東に進むと、杭全神社の大きな石鳥居が見えてきます。

現在の鳥居は1899(明治32)年に再建されたもの。

杭全神社の石鳥居は1707(宝永4)年の宝永地震、1891(明治24)年の濃尾地震で倒壊しましたが、倒壊のたびに再建されてきました。

かつては後醍醐天皇による「熊野三所権現」の勅額がかけられていました。

後醍醐天皇勅額(『平野郷町誌』より引用・国立国会図書館蔵)

南北朝時代に平野荘は南朝方に付いたため、後醍醐天皇から送られたとのこと。

今は宝庫に収められ、現在の扁額は1903(明治36)年に小松宮彰仁親王によって揮毫されたものになります。

 

杭全神社は、862(貞観4)年に杭全郷の荘園領主だった坂上田村麻呂の孫・坂上当道牛頭天王を勧請して現在の第一本殿・祇園社を建立したのが創始とされる古社です。

鎌倉時代初期の1190(建久元)年に現在の第三本殿・熊野證誠権現が建立された後、鎌倉時代末期の1321(元享元)年に第二本殿・熊野三所権現後醍醐天皇により勧請されると、それまでの祇園社から熊野権現の総社に改められました

以後明治まで平野熊野権現として知られ、江戸中期の1796~98(寛政8~10)年に刊行された摂津名所図会でも紹介されています。

平野熊野権現(『摂津名所図会 巻1』国立国会図書館蔵)

江戸時代までは神仏習合の神社で、境内には多宝塔や大師堂といった仏堂の姿も見られます。

明治に入ると神仏分離令により境内の仏堂が破却されたほか、本社を第一本殿の祇園社(祭神:牛頭天王素戔嗚尊)としたうえで、社名も杭全神社と改められ現在に至ります。

 

弁天池に鎮座するのは、杭全神社の境内社である・宇賀神社

祭神は市杵島姫命です。

古河藩陣屋の絵図を見ると、こちらの弁天池は陣屋の堀も兼ねていました。

そういう意味では陣屋の遺構ともいえます。

 

境内の入り口にある大楠は幹の太さが10mという大木。

樹齢千年を超える大阪最古の古木とされ、大阪府の天然記念物に指定されています。

実際見ると、その巨大さに圧倒されますよ。

 

大門鎌倉時代の建築で、大阪府下でも最古級の建築と伝わります。

普通に考えると国宝級の建築で、どうして文化財指定されていないのかなと思いましたが、調べてみると予想外のいきさつが…。

1932(昭和7)年にに奈良街道が泥堂口から直進するルート(現国道25号線の道筋)に移った時、大鳥居の近くにあった御旅所が道路に収容され無くなってしまったため、それまで御旅所で行われていた夏祭りの宮入神事が境内で行われることになりました。

ところが、大門の高さが足りず、宮入するだんじりが大門をくぐれなかったそうです。

そこで、祭りを優先した地元の人々により、下の写真のように石段を積んで60cmほど背を高くしたとのこと。

この改造のため「文化的価値が無くなった」という理由で国宝指定されなかったそうです。

「国宝より地元の祭りを優先した」という話で、平野の人々の祭りにかける意気込みが伝わるエピソードですね。

しかし、改造から90年以上が経過し、夏祭りの宮入行事を守るための改造という経緯を考えると、改造とその経緯も含めて文化的価値があると思います。

本当に鎌倉時代の建築と年代が明らかならば、国の重要文化財に指定すべき建築と言えるでしょう。

大阪府下にあっては貴重な古建築かと思いますので、まずは府市のほうで文化財指定して保護の対象とすべきかと思います。

ちなみに貝塚市孝恩寺の観音堂鎌倉時代の建物で、大阪府下で最古級の貴重な建築として国宝指定されています。

 

拝殿は1858(安政5)年の建造で1990(平成2)年に大改修されたとのこと。

唐破風の豪華な拝殿で、東西七間となっています。

当社は坂上氏の氏神であったため、坂上氏後裔を称して祭祀を支配した平野郷七名家(末吉氏、土橋家、辻花氏、成安氏、西村氏、三上氏、井上氏)がそれぞれ着座するため東西七間の造りとなっているとのこと。

 

拝殿の奥に3つの門が回廊でつながれた中門があり、こちらの奥に3つの本殿があります。

西(写真の左)から第一本殿、第二本殿、第三本殿と続きます。

残念ながら各社殿の姿は、中門の格子戸から覗き見ることしかできません。

 

第一本殿は1690(元禄3)年に奈良春日大社の第三殿として建立された社殿を1711(正徳元)年に当地に移築したもの。

1513(永正10)年建立の第二本殿。

もともと本社だったことから三つの社殿の中で最も大きな社殿です。

 

こちらは第三本殿で、東側には若一王子社、八王子社と並び、すべて第二本殿と同じ1513(永正10)年に建立されました。

第二本殿、第三本殿、若一王子社、八王子社はともに1513(永正10)年の建築で、記録から年代が分かる建築としては大阪市内最古の建築になります。

また、三つの本殿は全てに国の重要文化財

建築年が同じなら若一王子社、八王子社も重要文化財に指定すべきと思うんですが、特に文化財指定はされていません。

何らかの事情があるのかもしれませんが、度重なる戦災で古い建築が残っていない大阪市内で、古建築は残っているだけでも貴重だと思うので、文化財指定で保護していくべきかと思います。

 

本殿西側に鎮座する田村神社

坂上田村麻呂像が祀られ、坂上氏とその子孫を称した平野郷七名家の祖霊等を祀る神社です。

こちらはどう見ても仏堂に見えると思います。

御察しの通り熊野三所権現時代から境内に現存する唯一の元仏堂で、江戸初期の1649(慶安2)年に建立されたました。

元は弘法大師が祀られた大師堂で、明治の廃仏で大師像は町内の長宝寺へ移され、替わりに長宝寺田村堂に祀られていた田村麻呂像がこちらの堂に移され祖霊社となりました。

元の大師堂の位置は、摂津名所図会を見ると境内の東側に描かれていることから、仏堂の破却が行われた際に現在の位置に移築されたのでしょう。

 

境内にはほかにも、日本で唯一現存している連歌があります。

中世以来、連歌は茶会と並ぶ社交の場でした。

京都の貴族とも交流が深かった七名家は江戸時代まで盛んに連歌会を催したようで、1708(宝永5)年に再建されました。

連歌所内部(『含翠堂考 (郷土先賢叢書 ; 第6篇)』より引用・国立国会図書館蔵)

現在建物は大阪市指定有形文化財になっています。

環濠

杭全神社の境内北東側に、かつて集落を取り巻いていた環濠が残っています。

水堀の中には鯉が放されていました。

集落全体を包んでいた長大な環濠も、現在残っているのはこの場所だけです。

土搔きのため、定期的に市民の皆さんで草刈りなどのメンテナンスが実施されています。

環濠を昔の姿のまま残していくのって大変で、周辺住民の皆さんの不断の努力で、往時の環濠を偲ばせる貴重な場所が守られていることに、ただただ感謝です。

 

杭全神社の参道東側にある杭全公園も、お茶池という環濠の一角をなす池でした。

公園は1967(昭和42)年3月19日に開園(『平野郷 : 大阪市編入五十周年誌』)とのことなので、お茶池の埋め立ては昭和40年代の初め頃に行われたと見られます。

 

杭全神社参道の東側には、堀の土手跡の石垣が並びます。

これも環濠の貴重な痕跡。

公園北側のお茶池橋跡の橋形モニュメント。

元々お茶池に架橋されていた橋が老朽化して歩行に危険ということで、1935(昭和10)年に架け替えられた橋の跡です。

モニュメントはコンクリートの橋床に金属の欄干ですが、往時は木造朱塗りの橋だったそうです。

知らずに見ると、「川もないところに何で橋?」ってなりそうですが、これも環濠の記憶を未来に伝えるものになっています。

 

平野川の河畔にある「南無妙法蓮華経南無大菩薩」と刻まれた3基の石碑。

古来より大和川平野川流域では水害が多発して多くの犠牲者が出たため、無縁供養と「天下泰平国土安穏」を祈願した鍋屋弥右エ門が、1849(嘉永2)年に市ノ口門外に建立した碑で、1973(昭和48)年に現在地に移転されました。

ちなみに中央の背の高い碑は1911(明治44)年、日蓮の650年忌に建立されたもの(『平野郷 : 大阪市編入五十周年誌』)とのこと。

 

JR平野駅から杭全神社周辺を回ってきただけで、かなりの長文になってしまいました。

町の歴史が古く、各スポットの持つ情報が広くて深いのが平野郷の大きな魅力です。

次回は平野郷西部を、奈良街道界隈を中心にご紹介したいと思います。

 

参考文献

『平野郷町史』平野郷公益会編

『平野郷:大阪市編入五十周年誌』平野振興会編

『大阪の歴史 (52)』大阪市史編纂所 編

杭全神社 (大阪市平野区) [お宝ウオッチング〜文化財をたずねて〜] (大阪日日新聞)

『近世町支配機構の構造と変遷 : 末吉文書および摂州平野郷年寄文書を中心に』(出原真哉)

 

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