大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

喜連環濠(喜連城)・大阪屈指の難読地名・喜連の消えた環濠跡を歩く

皆さんこんにちは。

 

環濠集落は、戦乱が激化した中世には全国各地に発生し、その濠は江戸時代以降も灌漑・治水に利用され、昭和の初め頃まではありふれた農村風景の一つでした。

しかし、戦後の経済成長で急速に進んだ宅地化によって、濠は埋められ、あるいは暗渠化され、多くの環濠が失われました。

大阪府の摂津・河内地域は、かつては多くの環濠集落が存在しましたが、宅地化の波に呑まれてほとんどの環濠が消失した地域です。

今回ご紹介する大阪市平野区喜連環濠も、そういった環濠の一つ。

しかし、大阪市内にありながら、現在も環濠時代の多くの社寺や古民家と、中世以来の環濠集落に特徴的な道筋を残す町です。

喜連環濠(喜連城)とは

喜連環濠の場所はこちら。

大阪きっての難読駅名である大阪メトロ谷町線喜連瓜破駅の北東にあります。

ちなみに、江戸時代まで喜連は摂津国、瓜破は河内国で、喜連瓜破駅はちょうど旧国境に位置します。

そのため当初「喜連駅」となる予定だった当駅は、瓜破側から猛烈な反対の声が起こって最終的に「喜連瓜破(きれうりわり)駅」となりました。

喜連も瓜破も難読地名で、この二つの難読地名が重なる駅名は、おそらく近隣以外の方が初見で正しく読むことは難しいでしょうね。

 

下掲の写真は戦後間もない1945(昭和20)年ごろの喜連環濠の航空写真で、集落を取り囲む環濠の姿がくっきりと見えます。

1945~50(昭和20~25)年頃の喜連環濠(国土地入り院HPより引用)

戦後もしばらく濠は残りましたが、1961(昭和36)年に姿を消し、現在は全て道路となっています。

 

喜連は大陸からの渡来人「伎人(くれびと)」の「クレ」から転訛した地名(『古事記伝』(本居宣長))とされ、古くから人々が集住した地でした。

喜連環濠の直接のルーツは、南北朝時代から戦国時代にかけてこの地にあった喜連城です。

喜連城は絵図も残っておらず、正確な縄張りは不明ですが、古い字名から集落北東の如願寺、楯原神社の境内一帯を主郭とする城だったと推定され、深さが3mもあったとされる環濠も城郭だった時代に成立したと考えられています。

正確な築城年は不詳ですが、1532(天文元)年に、細川氏綱*1が1544(天文12)年に畠山氏によって和泉へ追われるまで居城としました。

 

下図は現在の喜連環濠の航空写真に、環濠とその出入口など概略情報を記入したもの。

喜連環濠(喜連城)概略図(国土地理院HPより作成)

環濠の中央を南北に貫くのは中高野街道で、北は大坂街道守口宿から平野郷を経由して喜連に入り、河内長野までを結んでいました。

環濠で囲まれた集落は6つの口で環濠外と接続され、喜連城は河内と摂津を結ぶ街道を抑える要地にありました。

喜連城は細川氏綱が去った後、桃井氏、平井氏が入城しましたが、平井氏滅亡後に廃城となります。

その後、城郭は環濠集落となり、江戸時代には中高野街道沿いの集落として、農業の他、油、酒造、薬などの商業活動も活発に行われました。

 

現在は環濠も姿を消しましたが、集落の出入り口にあった6つの地蔵堂が残り、郊外だったため戦災を免れ、大阪市内では貴重な江戸時代~明治、大正期の町屋や古民家が約20軒ほど残されています。

環濠内

平野郷から中高野街道をまっすぐ南へ進むと、喜連環濠の北口に到着します。

北口地蔵

集落の北、中高野街道の出入り口である北口には、北口地蔵を祀ったお堂があります。

天文年間に、喜連城城主だった細川氏綱により建立されたと伝わります。

平安時代以来、高野山や熊野への参詣道だった中高野街道に面していた地蔵堂は、軒が広いため旅人の雨宿りにも利用されていたとのこと。

 

地蔵堂の北を東西に走る道路は、元々半分は石垣で固められた濠で、ボーリング調査の結果、深さは最大で3mあったことが分かっています。

地蔵堂北側の交差点には、かつて架橋されていた石橋・松山橋の欄干が一部残されていました。

西口地蔵

北口地蔵からかつての濠跡の道路をたどると、西口地蔵がありました。

現在もお堂の西側と前面には濠の石垣が埋まっているとのこと。

地蔵堂の脇に置かれた石は、おそらく濠の石垣の一部かと思います。

南口地蔵

更に堀跡沿いに進むと南口地蔵が見えてきました。

元は現在地の斜向かいにある法明寺の脇に東向きに建っていたそうですが、道路の拡幅にともなって現在地へ移設されました。

地蔵堂のそばに大神宮の常夜灯を発見!

喜連環濠内にもいくつか伊勢講があったそうです。

南口地蔵にほど近い古民家前に、喜連環濠内の古民家を紹介する案内板がありました。

マップとともに環濠内に散在する19の古民家が紹介されています。

町内の各所に案内板が設置され、筆者のような外来の散策者には大変ありがたい!

馬倉地蔵

中高野街道の南側出入口となる馬場口付近に祀られている馬倉地蔵

こちらの出入り口のみ石垣で囲まれた枡形で、喜連城時代は城の大手にあたる場所。

江戸時代には会所が置かれていました。

1945年頃の航空写真を見ると、四角い広場になっていることが分かります。

1945(昭和20)年頃の馬場口周辺(国土地理院HPより作成)

馬の給水のため、馬繫場があったことから「馬倉」と名付けられたとのこと。

現在は住宅が立ち、かつての枡形の面影はほとんどありませんが、元々城郭だったことが最も感じられる空間です。

馬倉地蔵から楯原神社まで続く、集落内では比較的広い道は馬場の跡で、喜連城の時代から幅も長さも変わっていないことが分かっています。

東口地蔵

集落の東口にある東口地蔵

本尊のお地蔵さんとその両脇に二体の石仏が一緒にお祀りされています。

案内板によるとお地蔵さんは江戸時代中期のもので、両脇の石仏は中世以前のものと見られ、現本尊が作られる前まで東口の守り仏だったと考えられています。

 

東口に隣接する浄土真宗本願寺派寺院の法性寺

大永年間(1521~1528年)に創建された念仏道場を発祥とし、1710(宝永7)年に法性寺の寺号を得た寺院です。
現在の堂宇は1854(嘉永7)年の南海地震後に再建されたものですが、使用された古材には宝永期のものが含まれています。

1872(明治5)年の学制発布で同年10月に誕生した喜連小学校は、当寺に設置されました。

集落のすぐ北にある中世以来の都市環濠・平野郷に設立された平野小学校より1か月早い創立で、平野区では最古の小学校で大阪市全体でも8番目に古い学校となります。

1796(寛政8)年以前から当寺で寺子屋が開かれていたことが分かっており、江戸時代以来の教育熱の高さが、早期の小学校創立につながったのでしょう。

 

尻矢口地蔵

集落北東にある尻矢口地蔵です。

案内板によると尻矢口とは喜連城後方の矢口という意味とのことで、地元では「しやぐち」「ししゃぐち」と呼ばれているとのこと。

矢口とは敵と戦闘開始の合図として矢を射かけるという意味があるので、この場で戦を始めた、もしくは敵に矢を射かける陣地があったのかもしれません。

いずれにせよ中世の戦乱に由来する地名になります。

 

地蔵堂前の住宅塀にかかっていた掲示版。

古くからの環濠集落には鬼門除けに集落の北東角を凹ませることがよく見られますが、喜連環濠もそのような造りになっています。

古来の習俗が今も受け継がれていることがよくわかり、ほっこりしました。

 

尻矢口からすぐ東側の住宅から延びる大椿は、江戸時代から濠端にあったそうで、かつての環濠の風景を現在にとどめる数少ない大樹です。

 

尻矢口から濠跡沿いに北西へと進むと、喜連幼稚園(写真右)の大榎が見えてきました。

現在の喜連幼稚園の敷地は江戸時代までは立原大明神という神社の境内で、「松山」と呼ばれる小さな丘陵地でした。

南北朝時代には砦としても利用されたらしく、喜連城の出丸だった可能性もありますね。

現在神社は無くなり、丘陵部も削られてしまって往時の姿をとどめるのは大榎の大木だけとなっています。

如願寺

喜連城の主郭が置かれたと推定されているのが、現在の如願寺の境内になります。

如願寺は、聖徳太子物部守屋を討伐したときに「喜連寺」として創建されたと伝わり、その後衰退していたのを弘法大師が820(弘仁11)年に再建して「如願寺」としたとされます。

その後、兵火や地震で堂宇は消失しましたが、享保年間(1716~1736年)に現在の本堂などが再建され、江戸時代は南に隣接している楯原神社の神宮寺として神社も運営していました。

 

中高野街道側から如願寺境内に向かう道にはクランク状の枡形になっており、喜連城時代は主郭への出入り口になっていたと思しき構造ですね。

境内やその近辺からは井戸が沸いていて、江戸時代には集落内の造り酒屋でも酒造に活用されていたとのこと。

小字、出入り口の形状に水の手があることからも、こちらの境内に主郭が置かれたとする説は、非常に蓋然性が高いと言えるでしょう。

楯原神社

如願寺と同じく、喜連城の主郭を構成していたと考えられる楯原神社

こちらは中高野街道に面した出入口。

非常に長い歴史と複雑な由緒を持つ古社で、明治までは天神社と呼ばれていました。

こちらは拝殿。

拝殿の他、境内の南東隅にある絵馬殿はもともと鐘楼だったようで、梵鐘が吊られており、江戸時代まで北隣の如願寺と一体の神社であったことを示す痕跡となっています(訪問時気付かず撮影できず:泣)。

 

南側参道に立つ鳥居。

馬場跡の広い道から見た参道。

写真中央の石灯籠が、かつて東口地蔵の横に立っていた大神宮の常夜灯です。

中高野街道・屋敷小路

集落内を南北に貫く中高野街道は、旧中喜連村と旧西喜連村の村境でもありました。

こちらの中高野街道の道標は、紛失していたものを2014(平成26)年に再建したもの。

こちらの道標から南側の道幅は狭くなりますが、古民家の集中地域になります。

中高野街道から丁字路を西に入ると、古民家の土塀が続く屋敷小路

大阪市内では貴重な、江戸後期から明治にかけての古民家の集中地区になります。

大阪市内で中世以来の道筋を残しつつ、ここまで多くの古民家が集中している場所はないかと思います。

地下鉄の喜連瓜破駅からも近いので交通アクセスも良いので、大阪府内で中世から近世にかけての在郷町の姿を味わうのに、最適な場所と言えるでしょう。

案内板も充実しており、筆者のような土地勘のない府外の者でも安心して散策できる点は非常にありがたかったです。

 

筆者は普段、奈良県内を中心に環濠集落を回っていますが、今回喜連環濠を巡ってみて、ここまで完全に環濠が消滅するものかという印象を受けました。

環濠の消滅に関しては、戦後急速に進んだ周囲の宅地化が最大の理由であることは勿論でしょうが、隣接する東喜連集落では既に江戸時代のうちに環濠が消滅したそうなので、やはり大和川の付け替えによって周辺の水害リスクが激減したのと、大和国に比べて灌漑用水が発達し、ため池としての需要も低かったのが、奈良県に比べて大阪府内の環濠集落が早くから姿を消した原因の一つではないかと考えさせられました。

 

とはいえ喜連環濠には、奈良の環濠集落と共通する遠見遮断を多用した中世環濠の町割りが現在も残されており、現代の車社会では不便な点も多いでしょうが、町の歴史を現在に伝えるものとして、この街並みが末永く維持されればと願います。

 

近隣情報

■平野郷は中世以来の環濠都市で、江戸時代は綿の集散地として栄え、濠はごく一部を除いて姿を消しましたが、かつての濠の痕跡や長い歴史に由来する旧跡が町のそこかしこに残る絶好の散策スポットです。

 

参考文献

日本城郭全集 第9 (大阪・和歌山・奈良編) 鳥羽正雄 等編

*1:細川典厩家出身。後に三好長慶と結んで対立する管領細川晴元と対峙した。