大和徒然草子

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思ってたんと違う(14)血統より家の利益存続を重視した日本の「家」

皆さんこんにちは。

 

第二次世界大戦後、家父長制を制度化したいわゆる「家制度」がなくなり、個人主義的な価値観が広まったこともあって、代々受け継がれてきた「」を意識する機会は、よほどの旧家や老舗の一族でもない限り、一般的な日本人にはなくなってきていると思います。

 

日本人にとって「家」とは何でしょう。

儒教的な家父長制に基づく家族・一族で形成される集団をイメージされる方も多いかもしれません。

たしかに、中国や韓国など、儒教の影響が強い国でも、日本と同じく「家」という概念はあり、家長の男性である家父長が強力な権力を持つ点では、共通した特徴を持っています。

しかし、日本と中国・韓国の「家」は、文字で書けば同じでありながら、実は大きな違いがあります。

最も決定的な違い、それは父系の血統を絶対的な要件とするか、しないかにあります。

日本の「家」と中国、韓国の「家」の違い

日本では、「跡取り」の男子がいないとき、家名を存続させるため、他家の男子を養子に迎えることが、日常的に行われてきました。

養子は養父の一族だけでなく、時には全く血縁のない男子が迎えられることもあり、これは平安時代に貴族の中で日本的な「家」が生み出されてから近代にいたるまで、公家、武家、そして商家などあらゆる階層で見られる現象です。

そもそも、平安時代に生まれた日本的な「家」とは何かといえば、官職や権益が個人ではなく、「家」に付随するという仕組み。

摂政関白になるには、氏族が藤原氏であっても「摂関家」でなければダメという具合に、家格による身分秩序が作られ、この概念は武家、そして近世には庄屋や商家といった庶民にまで広がっていきました。

「家」は原則的には父からその男子に引き継がれましたが、最も重視されたのは「家」の利益を守り絶やさぬことです。

一部の例外を除いて男子がいない場合、養父の親族外からも養子を迎えることもしばしば行われました。

場合によっては跡継ぎの男子がいる場合でも、家の存続に有益であれば他家から養子を迎える場合さえあり、戦国時代の関東管領上杉憲実が、長尾景虎上杉謙信)に上杉の家督を譲った例が有名です。

 

このような例を見ると、日本人にとって「家」とは、血族集団というより利益集団としての側面の方が強いように思われます。

 

一方、中国や韓国など儒教思想の強い国では、これはほとんど考えられないことでした。

なぜなら、儒教において「家」とは血統に基づく男系子孫の一族集団を指すものに他ならないからです。

中国や韓国で夫婦別姓が当たり前なのはこのためで、子は必ず父親の姓を受け継ぎ守るものであり、そもそも姓を変更するという発想が生まれないのです。

また、「家」に特定の権限・権益が付随する家格という概念も存在しません。

もちろん、近世以前の中国や韓国にも祖先祭祀の継承を目的に、養子縁組の制度はありましたが、父親と同姓・同族であることが原則であり、日本のように他氏族から養子を受け入れるということは、行われませんでした。

このように、同じ「家」と書く集団でも、日本と中国、韓国とでは性質が全く異なるものなのです。

 

男系血統を重視しない日本の「家」

日本の「家」が古来男系の血統を重視していないことの証左と言えるのが、「ご落胤」伝説の多さにも見ることができるかと思います。

落胤伝説は特に平安末期の武家で顕著に見られ、平清盛白河天皇落胤とする説をはじめ、結城氏の祖・結城朝光、大友氏の祖・大友能直氏、島津氏の祖・島津忠久は、皆、源頼朝落胤伝承を持ち、さらに各家ともこの伝承をまんざらでもなく、肯定的なものと考え、積極的に世間へ吹聴する姿勢を示していることが特徴的です。

「家」が血統を重視しているならば、いかに上位者の血筋とはいえこのような血統の乗っ取りは許されないことでしょう。

しかし、伊勢平氏や結城氏、大友氏、島津氏の例は、むしろ貴人の血が入ることで、家格の上昇=家の利益向上が図られたと、当人たちや周りの者たちも納得していたことを強く示しています。

近世でも、豊臣秀吉が京都の公暁落胤、果ては天皇落胤とする伝承が生まれますが、秀吉落胤説は日本史上最も強大な権力を持った秀吉さえも、強固な日本の家格意識を無視できず、豊臣家の家格を箔付けする必要に迫られたと言えます。

一方の中国では漢の劉邦や明の朱元璋が秀吉同様、庶民出身で最高権力者・皇帝となるわけですが、特に自分の出自について、実は〇〇王の子孫とかとってつけたような出自の改竄はしません。

そもそも家格という考え方がないので、彼らが皇帝として権力を振るえるのは、彼らが属した家とは関係なく、劉邦朱元璋個人に「天命が下ったから」であり、彼らを祖とする男系子孫、すなはち「彼らの立てた家」に皇帝の継承権が与えられたと考えられたためです。

三国時代の蜀皇帝・劉備は、漢の中山靖王の子孫を称しましたが、これは自身が漢の皇室に連なる血統を持ち、漢を継ぐ資格を有することを主張するためで、秀吉の落胤説とは性質が異なります。

 

さて、「家」の継続に男子の血統を絶対視しない日本にも、例外となる「家」がありました。

それは天皇家です。

 

例外的な天皇「家」を考える

天皇家といえば、神話上の初代神武天皇以来、男系血統によって相続されてきたことが知られています。

天皇に男子の跡継ぎがない場合、継体天皇光格天皇のように、三代以上遡ってでも男系の子孫で引き継がれてきました。

この徹底した男系子孫による継承が、我が国の皇位継承の大きな特徴となっているのですが、これまで述べてきた通り、日本では必ずしも「家」の継承で男子の血統を絶対視してきた訳ではありません。

なので皇位、すなわち天皇家家長の継承で男系継承が徹底されていることは、必ずしも「日本古来の伝統的な家の継承の姿」とは言えないと考えられます。

いやいや、皇位という地位の継承と、「家」の継承一般と一緒に考えてはいけない、という向きの意見もあるでしょう。

なるほど、天皇家以外にも、足利家や徳川家といった家も、将軍家であった期間は、男系による「家」の継承が徹底されていました。

ちなみに鎌倉幕府の将軍家は、頼朝、頼家、実朝の源氏三代が絶えた後、新たに藤原頼経が将軍に立てられた際、1226(嘉禄2)年、幕府は頼経の「源」への改姓を申し出ましたが、春日大明神の神託で許可されなかったという経緯があります。おそらく頼経の改姓は、先例主義に則って認められなかったようで、幕府側もそこまで源氏の継続にこだわりがなかったのか、要求を取り下げています。

いずれにせよ、天皇家と足利、徳川両将軍家にだけ男系継承が徹底されたのは、これらの家に共通する特殊な事情があったと考えた方がよいのではないでしょうか。

 

真っ先に共通する特徴としては、これらの「家」は国家を代表する「家」として存在したことでしょう。

天皇は特に説明の必要もないでしょうが、古代、そして近代において対外的に国家元首の地位にあり、現在は法律上の明確な規定はないものの事実上の国家元首と言えます。

室町から江戸時代の武家政権でも、足利将軍は「日本国王」、徳川将軍は「日本大君」を名乗り、中国や朝鮮半島の王朝と対峙しました。

筆者は、天皇家をはじめ室町、徳川将軍家にみられる男系継承の徹底は、その根底に近世まで東アジア世界秩序のデファクト・スタンダード(事実上の標準)であった、儒教的思想に基づく王朝体制、つまり男系子孫による「王家」であると主張することにあったのではないかと考えています。

 

既にご説明した通り、中国や朝鮮半島では「家」は父系子孫による一族集団です。

女系で王統が受け継がれるということは、当時の東アジアの「文明社会」、特に中国の宋代以降の朱子学の隆盛下では考えにくく、女系を許容すれば、「野蛮国」と周囲から軽んじられると考えたのかもしれません。

これを嫌って、「王家」の男系継承は徹底されたのではないかと考えます。

特に徳川家が、日本史上でも特別厳格な後宮である「大奥」を作ったのは、江戸幕府が支配思想として重んじた朱子学の影響を無視することはできません。

 

ちなみに、天皇家後宮は全く大奥のような徹底した男子禁制は行われていませんでした。

史実ではありませんが、『源氏物語』では主人公・光源氏天皇の妃と密通し、その子が天皇となってしまうという禁断の物語が描かれますが、当時の後宮の実態、すなわち、天皇後宮天皇以外の男子が官女と密通が可能であった事実を、反映していると考えられます。

源氏物語』からはかなり後年にはなるものの、実際に1609(慶長14)年には宮中で大規模な密通事件(猪熊事件)が発生するなど、日本の天皇家は男系血統の継承を謳いながらも、実際は中国王朝や徳川将軍家ほど、男系の遺伝子を徹底的に継承するという姿勢が感じられません。

筆者が、日本の「家」では、血統より、家に付随する権益が継承されていくことを重んじていたと感じる点は、日本の多くの「家」で氏姓の違う家から躊躇なく養子を迎えていたこと以外に、天皇後宮において、徳川家の大奥のような厳密な血統管理の制度が設けられなかったことにもあります。

「男系による継承」はあくまで外国(主に東アジア世界)向けの建前だったのではないのかとさえ考えてしまいます。

 

少し話は変わりますが、豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかったという説があります。

この説の真偽のほどを確かめることは今や不可能ですが、医学的に見て秀頼が秀吉の実子である可能性は非常に低かったという話もよく聞きます。

秀吉は自分の実子であることを確信して、秀頼を世継ぎに決めたのかもしれませんが、

「家」を継承することが最優先と秀吉が考えたのなら、仮に秀頼が自分の実子ではないとわかっていたとしても、跡取りとして大事に扱った可能性はあります。

いやいや、明らかな血縁にあたる甥の秀次一族を抹殺してでも、秀頼への「家」の継承に固執した秀吉は、秀頼を実子と考えていたに違いないという考えもあるでしょう。

しかし、自身と同じく出自が低階層民の秀次が、自分の死後はたして天下人として諸大名が扱うであろうか、いや、むしろ織田家の血統である茶々(淀殿)と自分の「子」の方が、自分の死後も諸大名が豊臣の「家」を天下人の「家」と崇めるのではないか、と秀吉が家の利益を優先させたとするなら、秀吉にとっても秀頼が実子か否かは、たいして問題ではなかったかもしれないのです。

 

「家」の継承の伝統から見えること

これまで、述べてきた通り、日本では「家」の継承において、親、とりわけ父親の血統というものを絶対視してこなかったことを紹介してきました。

現在、男性皇族の数が減少していることから、「女性宮家」の創設をはじめとした「女系天皇」を容認するか否かなど、皇位の安定的継承についての議論が活発ですね。

ちなみに筆者は現行の男系による皇位継承を継続し、今すぐ「女系天皇」を含むような皇室典範の変更を行うことには慎重に考えています。

男系による王統という、東アジア文化に特徴的な継承の在り方を、継体天皇から数えても少なくとも1500年以上続けてきた事実はやはり重いと考えますし、現在の男系継承という皇位継承の在り方が、直接的に大きく社会へ悪影響を与えていないと、考えるからです。

(※いやいや、ジェンダーや男女同権の問題に大きな影響があるから、これを機会にすぐにでも導入すべき!という方も当然いらっしゃるでしょう。)

そして、「家」の継承を重視するという伝統を踏まえれば、万一天皇制の維持に皇室典範の変更が不可避の状況になった時は、これを改めて天皇制が維持されればよいなと考えています。

なので、いきなり「大統領制」とか、「女系天皇など王朝交代なので、それならいっそなくなってしまえ」といった極端な意見には、あまり賛同できそうにありません。

女系天皇」にせよ「男系天皇」を固守するにせよ、そもそも日本の「家」の継承の在り方や、今までの皇統継承の在り方を様々な角度から検討したうえで、冷静な議論によってより良い答えが出てくれることを期待したいです。

すでに男系血統による継承が、日本を取り巻く国際社会のデファクト・スタンダードではなくなっていますので、より自由な議論ができるんじゃないでしょうか。

 

ここまで日本では「家」の継承が、血統より「家」に付随する権益の継承を重視してきたことを紹介してきました。

戦後、華族制が廃止され、民法改正により「家制度」も崩壊した日本で急速に「家」意識が薄れていったのは、「家」に付加された特権が制度面で消えてしまったことが大きかったと思います。

一方で「家」の在り方に、血統をさほど重視してこなかったと思しき日本では、本来血の繋がらない「他人」も融通無碍に家族として受け入れられてきました。

昨今、多様な家族の在り方が議論されていますが、このような「伝統」の面からも、本来的に日本では、家族の多様性について寛容な下地があるのかもしれません。