皆さんこんにちは。
日本史上、唯一官軍が破れた戦いである承久の乱。
鎌倉時代初頭の1221(承久3)年、それまでの支配勢力であった京都の朝廷と、新興勢力として台頭した鎌倉の武家政権、いわゆる鎌倉幕府が軍事衝突して幕府側が勝利。武家による全国支配が以後、600年以上も続く切っ掛けとなった兵乱です。
この戦いを鎌倉幕府に仕掛け、結局敗退して隠岐に配流されてしまった人物として知られるのが、今回取り上げる後鳥羽上皇です。
歴史の教科書には、主に承久の乱の敗者として取り上げられ、その他の事跡としては、新古今和歌集の編纂を命じたことくらいしか、取り上げられることも少ない人物かもしれません。
承久の乱があまりにあっけなく鎌倉幕府の勝利に終わったこともあり、後鳥羽イメージと言えば、幕府に無謀な戦いを挑み、時流を読めなかった人物と、あまり優れた人物のイメージはない方が多いのではないでしょうか。
しかし、実際の後鳥羽は、歴代の天皇の中でも屈指の才能を示した人物であり、承久の乱も全く勝算のない戦いでは、ありませんでした。
後鳥羽上皇とはどんな人
後鳥羽上皇は1180(治承4)年8月に、高倉天皇の第4皇子として生まれました。
当時の治天の君(=天皇家の家長で最高権力者)、後白河法皇の孫であり、平家とともに壇ノ浦に沈む安徳天皇の異母弟になります。
後鳥羽が生まれて数日後、東国で源頼朝が挙兵。後鳥羽が生まれたのは、まさに治承・寿永の乱いわゆる源平の争乱が切って落とされた、その時でした。
1183(寿永2)年、源義仲が京都に迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて、西国に逃れます。
安徳天皇は退位したわけではありませんでしたが、都に天皇が不在であると政務が滞ることもあり、後白河法皇の意向で新帝として践祚したのが、当時4歳の後鳥羽でした。
安徳天皇在位のまま後鳥羽が即位したため、この年から平家滅亡の1185(文治元)年まで、日本には二人の天皇が並びたち、両者の即位期間には重複が生じることになります。
三種の神器なしに即位し、平家滅亡後に勾玉と鏡は取り戻せたものの、剣は壇ノ浦に沈んで戻らなかった後鳥羽。即位以来、手元に三種の神器が揃わないことは、皇位の正統性という面で、後鳥羽には相当なコンプレックスが生じていたと思われます。
生まれながらに皇位継承の有力者であったわけでもなく、三種の神器も持たない後鳥羽が、周りに自分の皇位の正統性を認めさせるには、実力と実績を見せつけるほかありませんでした。
1192(建久3)年に後白河法皇が亡くなるまでは後白河院政が続き、後白河没後は関白の九条兼実によって朝廷は主導されましたが、1196(建久7)年に兼実は院近臣であった土御門通親との政争に破れて失脚すると、以後、摂関家を押さえ込み、17歳で親政を開始します。
複雑怪奇な朝廷内の権力闘争の中に、若年ながら身を投じた後鳥羽の才能が開花するのは、1198(建久9)年、まだ4歳の長子である土御門天皇に譲位し、院政を開始した頃になります。
皇室の持つ膨大な荘園のほぼ全てを確保した後鳥羽は、その絶大な経済力を背景に、殿上人を整理し、院政の機構を改革するなど、意欲的に政策を進めました。
後鳥羽が若いながら、ともすれば反発も多い宮中の改革を、迅速に進められたのは、大荘園領主であっただけでなく、彼の強烈な個性にもあったと思われます。
和歌については、後鳥羽自身が日本史上に残る達人であり、1201(建仁元)年、和歌所を再興。古今和歌集に次ぐ勅撰和歌集となる新古今和歌集の編纂を命じ、自身も撰者となるなど、日本文学史に大きな足跡を残しています。
三種の神器を持たずに即位した後鳥羽にとって、この勅撰和歌集の編纂は、自身の権威の正統性をアピールするためにも、重要な事業でした。
歌だけでなく管弦も得意で、際立った文化的才能の持ち主でした。
驚くべきは、後鳥羽の才は文化的才能にとどまらなかったこと。
武芸に優れ、弓は流鏑馬をよくして、相撲にも強く、橘成季が編んだ説話集『古今著聞集』には、後鳥羽が都を荒らす盗賊を目の前に、怪力で巨大な櫂持ち上げて見せ、恐れをなした盗賊が敢えなく捕縛されて、家来となったという逸話があるほどです。
また、非常に刀を好み、備前をはじめ諸国から刀鍛冶を集めて刀を打たせただけでなく、自らも焼き刃を入れて、十六弁の菊紋を毛彫りしました。後鳥羽が御所で造らせた刀は「御所焼」「菊御作」と言われ、有名な名刀「菊一文字」などは後鳥羽が自ら焼き刃した刀と伝わりますが、このとき用いた菊紋が、現在も皇室を象徴する菊紋となりました。
後鳥羽は、日本史上傑出した個人的文武の才を示した天皇であり、古代、そして近代を除いて唯一の武人気質をもつ天皇だったと言えるでしょう。
個人的才覚に優れ、経済力もある後鳥羽は、朝廷を中心とした秩序の回復を理念に、改革に力を注ぎました。
承久の乱は無謀な戦い?
さて、桓武天皇が軍団制を廃止して以来、朝廷は直属の軍事力を失い、在地の武士をアウトソーシングすることで、その軍事力を維持していました。
後鳥羽は、軍事面においても武士を積極的に登用したことでも知られます。
院の軍事力としては、白河上皇によって創設された北面武士(ほくめんのぶし)が大変有名ですが、1200年頃、後鳥羽は新たに西面武士(さいめんのぶし)を組織します。
この西面武士には、佐々木広綱、加藤光員、土岐光行といった、西国に所領を持つ有力な御家人が、多く所属していたことが大きな特徴です。
また、伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津の西国6か国の守護であった、源氏一門の有力御家人、大内惟義と、直接君臣のつながりを持つことにも成功。
鎌倉政権の構成員である御家人、それもかなり有力な御家人を、味方に引き入れていたのです。
御家人でありながら、上皇(朝廷)と直接主従の関係を持つことは、源義経の例が有名ですが、源頼朝存命の時代なら決して許されないタブーでした。
しかし、頼朝の死後、鎌倉政権内で巻き起こった内部抗争による混乱もあったのか、後鳥羽による西国御家人の取り込みは、関東側も黙認するしかなかったようです。
また、直接鎌倉の政権中枢に組み込めない西国御家人たちは、北条氏中心の関東への不満や自己保身のために、後鳥羽に近付くことに利益を見出していたこともあり、積極的に鎌倉殿の家臣でありながら、後鳥羽とも主従の関係を築いていきました。
こうして有力な御家人たちを、事前に仲間に引き込むことに成功していた後鳥羽に対して、倒幕を成功させたとされる後醍醐天皇は、挙兵以前に有力御家人の引き込みに全く成功していません。
後醍醐が引き起こした元弘の乱では、当初天皇方には有力御家人は全く味方をせず、その挙兵も倒幕計画が露見したことで、全く準備が整わない中での挙兵となりました。
この時後醍醐に味方したのは、楠木正成ら、当時は全く無名の武士であり、伝統的に朝廷が頼った仏教勢力だけ。
結果的に有力御家人であった足利尊氏が、突如天皇方に寝返ったため、足利が天皇方に付くなら俺たちも、とばかり、多くの御家人が雪崩を打って尊氏に同調して、後醍醐は倒幕に成功するわけですが、その挙兵は行き当たりばったりで、戦略的にはお粗末なものだったと言えるでしょう。
それに比べると後鳥羽は、西国に領地を持つ守護クラスの名だたる大御家人たちを、傘下におさめることに成功し、その武力を背景として、鎌倉政権に対して強気の姿勢で臨むことができたのです。
後鳥羽は決して、徒手空拳で古代以来の権威だけを恃みとして、関東の武士たちに無謀な戦いを挑んだのではなく、相応の軍事的実力を背景として、鎌倉政権を圧迫。
倒幕に成功した後醍醐よりも、戦いの前段階としては、はるかに周到な準備の下、関東の王となった北条義時に決戦を挑んだと言えます。
よって、後鳥羽の鎌倉政権への挑戦は、必ずしも「無謀」で勝算のないものではなかったと、いうことができます。
後鳥羽はなぜ敗れたか
1219(承久元)年、三代将軍源実朝が、甥の公暁(二代将軍源頼家の遺児)に暗殺されるという大事件が勃発します。
実朝を通じて、鎌倉政権を制御しようとしていた後鳥羽にとって、実朝の急死は青天の霹靂であったことでしょう。
源氏将軍が絶えた鎌倉政権は、後鳥羽の皇子である雅成親王を将軍・鎌倉殿として迎えたいと、後鳥羽へ打診しましたが、後鳥羽はこれを拒否。結局、九条道家の子三寅(後の九条頼経)を将軍として鎌倉へ下向させることで、妥結しますが、この将軍後継問題は、後鳥羽と鎌倉政権の緊張をにわかに高める結果となりました。
その後、荘園を巡る後鳥羽と鎌倉政権の対立などで、両者の緊張は高まり、1221(承久3)年5月、後鳥羽は城南宮で催す「流鏑馬揃え」を口実に兵を集めると、自前の軍団である北面武士、西面武士の他、従来より君臣関係にあった大内惟信や、2人いる京都守護の一人で鎌倉の重鎮、大江広元の子である大江親広、三浦氏当主三浦義村の弟で検非違使として在京していた三浦胤義といった有力御家人を味方につけ、京都守護伊賀光季を攻め滅ぼして対に挙兵。
鎌倉政権のリーダーである北条義時追討の院宣を、三浦氏、武田氏などの有力御家人に発し、朝廷からも諸国の守護、地頭たちへ義時追討の官宣旨が発令され、ここに承久の乱が勃発するのです。
しかし、乱はたった1か月で鎌倉方の勝利に終わり、7月には後鳥羽は隠岐に流されてしまいます。
周到な準備を勧め、有力御家人の取り込みにも成功していた後鳥羽の挙兵は、なぜかくもあっさりと、失敗してしまったのでしょう。
後鳥羽にとって大きな誤算は二つあったと思います。
一つは、予想に反して関東の御家人たちが全く院宣に呼応しなかったこと。
後鳥羽の目論見では、院宣により鎌倉方の北条氏以外の有力御家人、とくに味方に引き入れた三浦胤義の兄で鎌倉の重鎮、三浦義村は、必ずや味方になると期待していたようです。
しかし、義村は弟胤義からの使者を追い返し、北条義時に後鳥羽からの密書を提出。
結局後鳥羽や朝廷の院宣に呼応した関東の御家人はいませんでした。
関東の御家人たちはどちらが勝ちそうか、どちらに味方した方が自身の利益になるかといった打算や損得勘定で動いたのです。
決して関東の御家人たちは一枚岩ではありませんでしたが、後鳥羽が思うほど、彼の院宣は関東の御家人には響きませんでした。
さらに、北条義時が京都に攻め上るという積極策を採用したことで、義時のもとに雪崩を打つように味方する御家人が集まることになります。
当初、義時ら鎌倉政権の中枢は、箱根で京都からの討伐軍を迎え撃つ迎撃論が、主流となっていました。
しかし、大江広元は即時京へ攻め上るべきと、出撃論を強く主張しました。
利害得失で動き、必ずしも一枚岩ではない御家人たちをまとめるのに、時間をかけることは後鳥羽側に有利に働くと、文官で御家人たちの打算的な性質を傍目で見ていた広元は、よく見抜いていたといえるでしょう。
後鳥羽側に十分な兵力が整う前に、多くの御家人を味方につけて一気に片を付ける。
最終的にこれが広元の思惑通りとなり、鎌倉を発向した時、北条泰時、時房らわずか18騎だった軍勢に多くの御家人たちが参集して、京都に入ることには万を超える大軍となたのです(吾妻鏡には19万騎という記述がありますが、当時の人口など考えるとさすがに誇張かと思います)。
後鳥羽のもう一つの誤算は、思うように兵を集めることができなかったことです。
西国の有力御家人を多数味方に引き入れていたはずの後鳥羽に、どうして兵が集まらなかったのか。
後鳥羽が味方につけた有力御家人の多くは、西国の守護でした。
国ごとに置かれた守護は、その国の御家人たちのリーダー的存在ですが、室町時代の守護大名とは違い、在地領主たちと主従の関係にはありません。
在地領主である御家人たちの主人は、あくまで鎌倉殿。
鎌倉時代の守護の権限は、重犯罪者の検断(逮捕・裁判権)、大番役(京都警固)の指揮監督など、非常に限定されたもので、さらに元々、平家の勢力下であった西国の守護達は、東国から落下傘式に任じられたものも多く、現地の武士たちを多数動員できるほどの関係性を、築けていなかったのです。
そのため、後鳥羽のもとに集まった兵の数は、挙兵時に大番役として駆り出されていた数千から、中々増えません。
そうこうしているうちに、関東から大軍が押し寄せることが知れ渡ると、積極的に後鳥羽に味方する西国の在地領主は皆無となります。
動員された兵たちも、たまたま大番役で京都に詰めていただけで乱に巻き込まれたものも多く、士気が高かったとも思えません。
結果、1か月であっけなく承久の乱は鎌倉方の勝利に終わってしまったのです。
守護クラスの大御家人を抑えておけば、充分な軍事力を動員できると考えたことが、後鳥羽の致命的な判断ミスだったのですが、これは後鳥羽個人の才能だけでは越えられない、大きな限界だったと思います。
後鳥羽の不幸は、実情や現場に明るいブレーンが、身近にいなかった点にあるでしょう。後鳥羽はあまりに地位が高すぎたため、6か国の守護で、最大の御家人であった大内惟信ですら、直接後鳥羽と対面して、話をすることができませんでした。
要するにあまりに現場から遠いところで判断するしかなかった点が、後鳥羽の状況判断を誤らせたと言えるでしょう。
もし、後鳥羽の身近に正確な状況分析ができるブレーンがいたなら、承久の乱は起きなかったかもしれませんし、意外とうまく御家人たちを操った可能性もあったかもしれません。
承久の乱の結果、日本の歴史は本格的に武家が全国を支配する時代を迎えます。
敗者となった後鳥羽の評価は近代まで非常に低く、幕府に無謀な戦いを挑んだ暗愚な帝王というイメージが、非常に根強いものがあります。
しかし、実際の後鳥羽の行動を追うと、その挙兵は周到に準備されたものであり、当時決して一枚岩ではなかった鎌倉方が、もし判断・選択を誤っていたら、承久の乱は後鳥羽の勝利に終わった可能性も十分にあるものでした。
後鳥羽もまた、敗者ゆえに大きくその実像をゆがめられた人物と、言えるのではないでしょうか。
<参考文献>
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