皆さんこんにちは。
今回ご紹介するのは、大和五ヶ所御坊の一つ、奈良県橿原市の畝傍御坊・信光寺です。
大和国内、とりわけ国中(くんなか=奈良盆地内)における本願寺教団の布教拠点として、戦国時代から江戸時代の初期にかけて建立された、今井、御所、田原本、高田、そして畝傍の各御坊は、周囲に濠を巡らした寺内町を形成し、江戸期を通じて隆盛を誇りました。
現在も各御坊の周辺は、その多くが寺内町の往時の町並みを残しますが、今回ご紹介する信光寺は、大和五ヶ所御坊の中では、たいへん数奇な運命をたどった寺院です。
畝傍御坊とは
信光寺の歴史は、1612(慶長17)年、江戸幕府の旗本であった神保相茂(じんぼうすけしげ)が自身の領地であった畝傍山山麓の地に、伏見から屋敷の門や建物を移築して、御堂を建立したことに始まります。
ちなみに相茂は、もともと紀伊・河内に勢力を持った管領家・畠山氏家臣で、畠山氏没落後も豊臣、徳川と仕え、関ヶ原の戦いの功で7000石の大身旗本となり、子孫も交代寄合として幕府に仕えました。
能楽が趣味だった相茂は、能楽を通じての知己であった本願寺坊官、下間仲之を通じて本願寺12世法主の准如に寺地と御堂を寄進。こうして開かれたのが信光寺の前身となる光福寺です。
1678(延宝6)年、准如の諡号「信光院」から寺号を取り、以後、信光寺と称しました。
江戸時代の本堂は、桁行10間(約18.2m)、梁間11間半(約20.9m)という中本山の寺格にふさわしい規模の御堂で、内陣は極彩色の欄間彫刻が施されていたといいます。
広大な境内には本堂の他、真宗寺院にはお馴染みの太鼓楼に経堂が立ち、周囲には環濠がめぐらされ、寺内町を形成していました。
皇紀2600年祝典事業による移転
神仏習合を否定していた浄土真宗寺院であったこともあって、明治の廃仏毀釈も無事に乗り切った信光寺。
しかし、それまでの信光寺の姿を大きく変えるきっかけとなったのが、明治末年のころから本格化する橿原神宮の神域拡張でした。
幕末の1863(文久3)年に神武天皇陵が現在の位置に治定され、1890(明治23)年に橿原神宮が、神武天皇の宮跡とされた畝傍山東山麓に創建されると、それまで田畑や集落が散在する長閑な地だった現在の橿原神宮周辺は、にわかに初代天皇を祀り、顕彰する地として多くの参拝者を集める地域となります。
1923(大正12)年には、大阪電気軌道(現近鉄)畝傍線の終着駅として橿原神宮前駅が開業。開業当時の駅は、現在の位置よりもやや北西で、第一鳥居の目の前に開設されており、駅周辺には多くの商店も立ち並んで、賑わいを見せました。
しかし、民家や商店が、神宮の前に無計画に立ち並ぶ様を、好ましくないと考えていた当時の奈良県は、1940(昭和15)年の皇紀2600年を迎えるにあたり、1938(昭和13)年から、橿原神宮の東側に、大規模な神宮外苑の拡張整備を計画。これを実行します。
この橿原神宮における皇紀2600年奉祝記念事業は、国が神宮内及び神陵の拡張造苑を担い、県が拡張用地の確保、区画整理そして県道の付け替えを担当し、国家的な事業として進められ、このとき造営されたのが、現在の県立橿原公苑です。
この事業で大きく姿を変えたのが、鉄道路線と周辺の区画です。
まず鉄道は、大軌畝傍線が東へ約300mの位置に移設。旧軌道内にあった畝傍山駅は畝傍御陵前駅に、橿原神宮前駅は、現在の位置にそれぞれ移転されました。
そして、外苑拡張にともない、建設予定地にあった住宅や商店は撤去されることになります。
信光寺は、現在の橿原公苑陸上競技場付近に広大な境内を持っていましたが、国家的事業となった神宮拡張事業には協力するほかなく、300年以上親しんだ境内の移転を余儀なくされました。
移転によって、境内の広さは大幅に縮小され、移設された鉄道によって寺内町は東西に分断。往時の姿は完全に失われてしまったのです。
現在の信光寺と旧寺内町
現在の信光寺の場所はこちらです。
旧境内地であった橿原公苑陸上競技場から道路を挟んで東側にあります。
浄土真宗寺院に特徴的な大きな屋根の本堂が見えます。
こちらは山門前に立つ寺院名碑。閣号は金剛閣といいます。
こちらは山門です。
山門の正面に本堂があります。
移転後に信光寺最大の危機となったのは、1998(平成10)年9月の台風(猛烈な突風で室生寺五重塔が損壊したのと同じ台風7号か)。この台風で文化財指定の候補ともなっていた本堂は、復旧困難なほど甚大な被害を被り、2001(平成13)年に新築再建されました。
再建された現在の本堂はかつての本堂に比べ、規模は縮小されたそうですが、閣号額や内陣の欄間や獅子頭彫刻などは、昔の物を修復して再利用されているとのことです。
境内に立つ親鸞上人像。
こちらの宝篋印塔は、移築前からのものでしょうか。
銘などから、何年の物かちょっと確認できませんでした。
こちらは信光寺所蔵の本願寺八代法主・蓮如上人真筆の南無阿弥陀仏の名号を写した碑です。
境内の一角に古い屋根瓦が置かれていました。
旧本堂の鬼飾りかと思います。
聖徳太子東水井の碑がありました。
由来など少し調べましたが、ちょっとわかりませんでした。
同じ橿原市内で聖徳太子ゆかりの井戸と言えば、今井町の東、飛鳥川沿いにある蘇武井(そぶのい)が有名かなと思いますが、信光寺のすぐ南西には、聖徳太子の弟、来目皇子が開基と伝わる久米寺もあったりするので、こちらも橿原市内に多く伝わる聖徳太子伝承のスポットの一つなのでしょう。
寺を出て少し南側に、位置的にかつての環濠の跡と思しき水路が東西に流れていました。
西側の環濠は橿原公苑の敷地内ということで、完全に失われているようです。
環濠東側の跡とみられる水路。
水路の東側だけ、ずーっと石垣が続きます。
北側の堀跡は、宅地化が進んで住宅街の中に埋没してしまったのか、残念ながら見つけられませんでした。
現在、橿原公苑は奈良県内で開催されるスポーツ競技会のメッカになり、広く県民に愛される近代的空間になっていますが、その陰で失われてしまった原初の町の風景があったことを記憶に留めておきたいですね。
畝傍御坊以外の大和五ヶ所御坊の各寺内町については、以下の記事でご紹介していますので、ぜひご一読いただければと思います。