大和徒然草子

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鎌倉殿の13人~後世まで子孫が生き残り栄えたのは誰の家か

皆さんこんにちは。

 

2022年大河ドラマ鎌倉殿の13人」で、今まで日本史では、戦国や幕末維新に比べて人気のなかった平安末期から鎌倉初期の時代が、にわかにスポットを浴びました。

このドラマのタイトルにある13人とは、鎌倉2代将軍源頼家のとき形成された、幕府有力者たちによる合議体制のメンバーが、13人だったことに由来します。

史上初の本格武家政権となった鎌倉幕府の草創期、中核だったこの13人のメンバーはその後内部で、血で血を争う凄惨な権力闘争を繰り広げ、最終的に北条氏鎌倉時代を通じて権力を掌握。北条氏得宗家による独裁体制を築いていくことになります。

一家、また一家と滅亡・没落する中、生き残った家は果たして誰の家だったのでしょう。

 

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13人の合議制メンバーと、その子孫たちの生き残り

1199(建久10)年2月に源頼朝が急死すると、若干18歳の嫡男頼家が家督を継ぎ、新たな鎌倉殿となります。

同年4月、頼家が訴訟を直接「聴断」することは禁じられ、訴訟は必ず幕府の宿老13人の合議に取り計られ、彼ら以外の訴訟取次を認めないと決定。若いリーダーを補佐する体制が構築されました。

このメンバーの内訳は、御家人からは北条時政北条義時梶原景時比企能員和田義盛三浦義澄安達盛長足立遠元八田知家ら9名、京下りの文官からは、大江広元中原親能二階堂行政三善康信ら4名の計13名。

いずれも頼朝の近親者、伊豆挙兵時以来の御家人、特に重用した文武の官らで占められていました。

 

さて、この13人のうち、真っ先に脱落してしまうのが、梶原景時です。

頼朝が最も重用した御家人であり、頼家の信任も厚かった景時は、他の御家人たちから相当嫌われていたらしく、合議制発足間もない1199(正治元)年11月には、御家人結城朝光を頼家に讒訴したことをきっかけに失脚。翌1200(正治2)年正月に鎌倉を捨て京都へ落ち延びようとした途中、一族もろとも殺害されてしまいます。

 

次に脱落したのが比企能員

1203(建仁3)年、頼家が重病のため一時危篤に陥ったとき、実朝の将軍擁立を狙う北条時政と政争を起こしますが、自身は時政から仏事に事寄せておびき出されたところをだまし討ちに遭い、一族も攻め滅ぼされてしまいます。

こうして、武蔵随一の勢力を誇った比企氏は没落しました。

 

13人のメンバーで最後に殺されたのが、侍所別当和田義盛です。

すでに3代将軍源実朝の時代に移っている1213(建暦3)年、2代将軍頼家の遺児を将軍に擁立しようとする陰謀、泉親衡の乱に、義盛の子や孫が関連したことから、義盛は北条義時と乱の事後処理を巡って対立します。

義時の挑発に乗って挙兵した義盛でしたが、当初ともに挙兵を約束した一族の三浦義村に土壇場で裏切られ、あえなく討ち死。

この和田合戦で一族の多くが死に、孫の朝盛は生き残ったものの、後に承久の乱後鳥羽上皇方に付いたため、やはり没落しました。

一方、朝盛の嫡男で同族三浦一族の庶流だった佐久間氏の養子となっていた佐久間家盛和田義盛の曾孫)は幕府方に付き、承久の乱の恩賞として尾張国御器所に所領を得て、子孫が定住します。

この尾張に移住した佐久間氏から、のちに織田信長の宿老で「退き佐久間」の異名で名高い、佐久間信盛が登場することになるのです。

 

さて、時代が下って次に脱落したのが三浦氏です。

三浦氏は執権となった北条氏の外戚として、三浦義村以降、幕府内では北条氏に次ぐ権勢を振るうようになるのですが、その勢力を警戒した5代執権北条時頼と、北条氏外戚となって三浦氏排斥の急先鋒だった安達景盛によって、1247(宝治元)年攻め滅ぼされました。

後に庶流によって三浦氏は再興されますが、この宝治合戦により、義澄流の三浦宗家は滅亡してしまうのです。

ちなみに、大江広元の子孫も三浦方に付いたため、この宝治合戦で一時逼塞することになるのですが、しぶとく命脈をつないで、戦国時代に大発展することになるんですが、それは後程ご紹介します。

 

ここまでで、御家人で生き残っているのは北条氏、安達氏、足立氏、小田氏(八田知家の子の代から領地の小田邑から名字を変更)の4家のみ。

13人の合議制が発足して半世紀もたたないうちに、半数の家が滅亡・没落するという有様です。

 

次に没落するのが、安達氏とその同族であった足立氏

宝治合戦で三浦氏が滅亡し、北条氏が突出した勢力となると、御家人の中から、北条氏宗家である得宗と直接君臣関係を結ぶ者たちが出てきます。

これを御内人(みうちびと)というのですが、次第に幕府の御家人得宗被官である御内人との対立が激化。御家人の代表格であった安達泰盛と、御内人の代表格である内管領平頼綱は、激しく対立するようになります。

両者の調停役となっていた8代執権北条時宗が、若くして世を去り、その死の翌年1285(弘安8)年に、ついに頼綱は泰盛に先制攻撃を仕掛けます。

この霜月騒動安達泰盛は本人以下、一族郎党の多くが殺害され、安達氏と一族であった足立氏も大きく勢力を失うことになります。

ついに、安達氏と足立氏が消え、13人のメンバーで残った御家人は北条氏と小田氏だけになりました。

 

そして最後に鎌倉時代の終焉とともに姿を消すのが北条氏です。

霜月騒動で北条氏得宗による専制が完成しましたが、一方、敗北した足利氏などの御家人たちには大きな不満の火種が残る結果になりました。

北条氏と御内人が権勢をほしいままにする一方、御家人たちは元寇以降、異国警固番役の負担増や経済状況の悪化も相まって、困窮、没落するものが続出し、北条氏への不満が日に日に高まっていきます。

そして1331(元徳3)年から始まる元弘の乱で、御家人たちのほとんどが後醍醐天皇につき、北条氏は鎌倉で滅亡。

幕府滅亡時に、鎌倉で北条氏と運命を共にした御家人がほとんどいなかった事実からも、北条氏が御家人の信任を完全に失っていたことが分かります。

ついに小田氏以外の御家人は、全て没落。

一方、文官だった4家は、大江氏が宝治合戦に巻き込まれて一時衰退するものの、三善氏、二階堂氏は高い行政能力を家業とすることで、長く権力の中枢で行政官として活躍し、中原氏、大江氏は、地方に活路を求めることでしぶとく生き残りました。

 

八田知家の子孫たち

さて、鎌倉時代、大きな打撃を受けることなく生き残った5家の子孫たちは、どんな活躍をしていったのか、まずは、八田知家の子孫たちから見ていきましょう。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、市原隼人さんが演じ、なんだか毎度土木作業をしているイメージで描かれていたのが印象的な人物です。

史実の知家は、姉が頼朝の乳母の一人であったことから、その挙兵の早い段階から御家人として従った人物でした。

元々、下野国の宇都宮氏の出身で、下野を本拠としていましたが、1193(建久4)年に曽我兄弟の仇討が発生すると、この混乱を利用して常陸国に広大な領地を有していた多気義幹を、北条時政と共謀して罠に嵌め、その領地を奪います。

以後、常陸の小田に本拠を移して常陸守護を務め、子孫は小田氏を名乗りました。

小田氏は、鎌倉時代を通じて常陸守護として栄え、室町時代に入ると関東八屋形の一家として、高い格式を持つ家として存続します。

しかし、戦国時代に入ると、同じ常陸の佐竹氏や小田原の北条氏、越後の上杉氏の圧迫を受け、周囲を大国に囲まれて苦境に陥ります。

最後の当主、小田氏治は一部の歴史ファンからは、「戦国最弱」の異名で知られる武将で、何度も本拠の小田城を奪われ、合戦でも敗北を重ねながらも、都度、本拠奪回に執念を燃やしたことで知られます。

結局、氏治の代で豊臣秀吉小田原征伐が始まり、氏治は豊臣方になっていた佐竹氏を攻撃したため、戦後領地を没収されてしまい、ここに八田知家以来続いた北関東の名門、小田氏は滅亡しました。

 

小田氏の他、知家の著名な子孫の一族としては、四男家政に始まる宍戸氏があります。

鎌倉幕府が滅亡した1333(元弘3)年、足利尊氏とともに六波羅探題を攻撃した宍戸朝家は、その功により安芸守に任官して安芸国に移住。五龍城(現広島県安芸高田市)を拠点としました。

戦国時代に入ると、宍戸氏は近隣の毛利氏と対立しますが、時の当主宍戸隆家毛利元就の娘を妻に迎えて、以後、毛利氏と行動を共にして、子孫は長州藩の一門として家老を務めることになります。

 

三善康信の子孫たち

三善康信は、代々太政官の書記官を務め算道を家業とする下級貴族に生まれた人物で、母が頼朝の乳母の妹という縁で、頼朝の流人時代から関係を築いていた人物です。

鎌倉幕府では、初代問注所執事として裁判実務の責任者を務めました。

同僚の大江広元らに比べると、やや影の薄い人物なのですが、子孫も派手な槍働きとは無縁のため世間一般には無名の人物が多いものの、文書作成など堅実な行政事務を家業として受け継いで、室町時代末期まで時の権力の中心にありつづけます。

孫の康持から町野氏と名字を変え、引き続き問注所の執事や評定衆を歴任。

康持は北条氏内部の権力闘争である宮騒動に巻き込まれて、失脚するものの、子孫は活動の拠点を京都に移し、六波羅探題評定衆として活躍することになります。

鎌倉幕府が倒れた後も、建武政権雑訴決断所に出仕し、室町幕府でも評定衆となるなど、高級実務官僚として活動を続けました。

足利義輝の頃まで幕臣としての記録が見られますが、その後は室町幕府内部の権力闘争に敗れたのか、幕府を離れ、子孫は近江の蒲生氏に仕えたのち、保科正之に召し抱えられて会津藩士となりました。

武士となった後も、実務官僚の家系として振る舞い続けたあたりは、まるでお公家さんのようです。

二階堂行政の子孫たち

二階堂行政は、もとは工藤行政を名乗り、朝廷に仕える下級官僚でしたが、母が頼朝の外祖父である熱田宮司の妹であった縁もあり、鎌倉に下って頼朝に仕えた人物です。

屋敷が鎌倉永福寺のそばにあり、永福寺の二階建ての仏堂が二階堂とよばれたことから、これを名字としました。

主に政所で大江広元を補佐し、広元が在京の時には政所を統括する役割を担う、高級実務官僚として活躍しました。

子孫は、代々幕府の政所執事世襲し、建武政権室町幕府においても評定衆を務めるなど、三善康信の子孫と同じく、中世を通して高級官僚を輩出する家として残るとともに、全国に散在する所領に多くの庶家が生まれます。

陸奥須賀川戦国大名で、蘆名盛隆の実父として知られる二階堂盛義も、そういった二階堂一族の一人でした。

また、霜月騒動で行政の嫡流である行景は死亡し、子の泰行は領地のあった薩摩国阿多郡に移住して、後に島津氏家臣となりますが、この家系から自民党副総裁や幹事長を歴任した二階堂進が輩出されます。

 

中原親能の子孫たち

中原親能は、明経道儒学の研究・教授)を家学とする中原氏の出身で、大江広元は弟になります。

この人、他の文官とは少し毛色が違い、源義経の上洛に随行して朝廷との折衝を行ったり、土肥実平源範頼の参謀として活躍するなど、日本で唯一存在した軍師(文官の軍事参謀)ではないかと思う活躍をした人です。

源平合戦では、範頼の参謀として各地を転戦し、文官でありながら頼朝から感状を与えられるなど、軍事面でも評価されたためか、日本全国に広大な所領を有していました。

親能の家系で大きく発展するのが、妻の甥で養子とした能直の系統です。

能直は、後に所領の相模国足柄上郡大友郷から名字を取って、大友氏を名乗り、養父親能から受け継いだ九州の所領を地盤に、頼朝の寵愛を受けて豊前、豊後、筑後守護職鎮西奉行を歴任。旧平氏勢力の多かった九州の抑えの任を担うことになります。

能直は頼朝から余りに厚遇されたため、頼朝の落胤ではないかと噂されたほどでしたが、養父親能から引き継いだ遺産が大きくものを言ったのかと思います。

実際に九州へ本格的に移住したのは3代頼康で、元寇で武功をあげたことで、その後の大友氏の興隆の基礎を築き、一族を次々と土着豪族の養子に送り込むことで、その支配を確固たるものにしていきました。

鎌倉、室町と九州の大勢力として君臨し、戦国時代には大友宗麟がほぼ北部九州を制圧するなど最盛期を迎えます。

しかし、宗麟の子の吉統の代に大友氏は改易となり、江戸時代は1000石の旗本として存続しました。

大友氏の一族で近世大名として残ったのが立花氏

1586(天正14)年、大友氏庶流で剛勇をもって知られた立花宗茂は、豊臣秀吉九州征伐で先鋒を務め、大きな武功を上げたことで秀吉から柳川13万石を与えられ、独立した大名となります。

関ヶ原の戦いでいったんは所領を失うものの、後に大名として復帰。立花氏は柳川10万9千石の大名として明治まで存続しました。

大江広元の子孫たち

大江広元は、中原親能の弟で、早くから頼朝に仕えていた兄との縁で関東に下向し、頼朝に仕えたと見られます。

政所別当として文官の筆頭格であった広元ですが、その子どもたちは、みな武士となりました。

広元の子孫でもっとも大きく飛躍したのは、四男の季光の家系でしょう。

季光は父の所領であった相模国毛利荘(現神奈川県厚木市)を相続し、領地から名字をとって、毛利季光と名乗りました。

承久の乱で武功をたて、有力な御家人となった季光でしたが、運命が暗転したのは1247(宝治元)年に起こった宝治合戦

当初、北条側に加勢しようとしていた季光でしたが、妻が三浦氏出身であったため、三浦氏に加勢し敗北します。季光は4人の息子とともに鎌倉の法華堂で自刃して果てました。

季光の息子で唯一生き残ったのが、合戦時に越後にいた四男の経光で、毛利氏は相模国毛利荘の領地を失ったものの、越後国佐橋荘、安芸国吉田荘の相続は、同族長井氏のとりなしもあって認められました。

経光は、越後国佐橋荘を嫡男基親に、安芸国吉田荘を四男時親に相続させ、以後毛利氏は越後と安芸で、国人領主として存続します。

越後毛利氏は、その後本拠とした南条の地名から南条氏を名乗ったのち、北条(きたじょう)氏と名乗り、そこからさらに安田氏が枝分かれします。

戦国時代の北条氏当主、北条高広上杉謙信のもとで剛勇をもって多くの武功を上げましたが、謙信没後の家督争い御館の乱で、上杉景勝と対立して敗北。甲斐の武田勝頼のもとに亡命してその後の消息は不明となりました。

安田氏は景勝に従って、米沢藩士となり継続します。

 

さて、安芸国吉田荘を相続した時親ですが、本格的に安芸に移住したのは、その最晩年、南北朝の争乱が開始された後のことでした。

安芸毛利氏は北朝方について、吉田郡山城を拠点に有力な国人領主へ成長。

そして戦国期に毛利元就が出るに及び、一代で中国10か国と九州の一部を領有する、戦国随一の勢力となりました

元就の孫、輝元の代に関ヶ原の戦い徳川家康に敗北し、領土は防長2か国36万石余に縮小されたものの、西国の雄藩として幕末を迎えると、明治維新の大きな核の一つとなりました。

 

鎌倉時代を生き抜いた5つの家を見ると、共通点は、中央での熾烈な権力闘争からは距離を置き、主体的にかかわることが、ほとんどなかったということが挙げられるかなと思います。

生き残った5つの家のうち、13人の合議制メンバーとなった時点で、有力御家人だったのは八田知家だけでしたが、知家については、幕政を牛耳ろうという野心はなく、北条氏とはつかず離れずで、地元の経営に専念していた感があります。

小田氏(八田知家子孫)、大友氏(中原親能子孫)、毛利氏(大江広元子孫)は、地方領主として中央の政治から距離を置くことで生き残り、町野氏(三善康信子孫)、二階堂氏(二階堂行政子孫)は、家業である行政事務能力を武器に、権力者へのサポートに徹して家名を維持しました。

 

鎌倉幕府草創期に有力御家人だった一族は、鎌倉時代が終わるとほとんど姿を消してしまい、地位的にやや低かった京下りの文官たちの子孫が、その後引き続き活躍しというのは、なかなか面白い事実です。

地元の経営や得意分野をコツコツ実行していくのが、結局長生きの秘訣だったということでしょうか。

 

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