皆さんこんにちは。
さて、源氏と平氏といえば、源平合戦に代表されるように、一般にライバル関係にあった一族という見方をされる方も、少なくないんじゃないでしょうか。
年末の風物詩、紅白歌合戦の紅白も、源氏が白、平氏が紅い旗を使っていたことに由来しますし、私が子どもの頃は、夏に人気の昆虫、カブトムシは平氏、クワガタムシを源氏という呼び方があり、とかく並立つものの代名詞となってきた感があります。
また、武家政権は源氏と平氏で交代していくという源平交代思想という、トンデモ論も、未だに根強く語られるほど、両氏は武家のツートップとして認識されています。
やはり、平家物語で描かれた源平の争乱のイメージが、その後の両氏に対するイメージを決定づけたように思われますが、果たして源氏と平氏の関係はどのようなものであったのでしょうか。
両氏のルーツについて
源氏も平氏も天皇がルーツの軍事貴族であり、ともに平安末期に武家の棟梁として台頭した一族でした。
一般に武家貴族として高名な源氏の一統といえば清和源氏ですね。
清和天皇の孫、経基王が臣籍降下により源経基を名乗ったのが初めであり、多くの系統に分かれましたが、河内国壷井(現大阪府羽曳野市)を根拠とした河内源氏は、平忠常の乱や前九年の役、後三年の役といった東国の争乱に介入することで、関東に足掛かりを築きました。
また、八幡太郎義家、新羅三郎義光といった剛勇を知られる兄弟の出現により、河内源氏の名は一躍武家の棟梁としての地位を確立します。
当時朝廷を支配していた摂関家との強い結び付きをテコに、大きく勢力を広げた河内源氏でしたが、義家の子の世代からは一族の内紛が続いたこともあり、急速に没落していくことになりました。
一方、平氏はというと、桓武天皇をルーツとする高望王が祖となる、桓武平氏が有名です。
関東を中心として、これまた様々な系統に分かれて栄えましたが、最も有名なのが関東から伊勢に移った伊勢平氏です。
桓武平氏の中では傍流の伊勢平氏でしたが、白河法皇、鳥羽法皇に仕えた平忠盛は、瀬戸内海の海賊討伐や、南都北嶺と呼ばれた比叡山や興福寺の僧兵勢力の鎮圧などで武名を挙げ、一族で初めて昇殿を許されるなど、大きく飛躍しました。
この忠盛の嫡男が、後に史上初の武家政権を成立させる平清盛です。
源平はライバルか
さて、源氏と平氏がライバルと見なされるようになったのは、やはり保元の乱に始まる平安末期の争乱でしょう。
この争乱の中で源氏と平氏が覇権を争い、平治の乱で平清盛が河内源氏の棟梁だった源義朝を打ち破って平氏政権を樹立し、清盛死後に義朝の嫡男頼朝が平氏を滅ぼして鎌倉幕府を開いたという見方が、従来一般的に語られてきたかと思います。
では、実際にこの平安末期の争乱は、源氏と平氏が覇を競った戦いだったのか見ていきましょう。
まずは1156(保元元)年に勃発した保元の乱から。
こちらのそもそもの発端は、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟による天皇家の主導権争いと、摂関家内の内紛が原因でした。
上皇側、天皇側ともに源氏と平氏の有力者を味方につけて戦いましたので、源平の戦いとは言い難いものです。
保元の乱は後白河天皇の勝利に終わり、戦後その近臣であった信西が政権の中で諸改革を進め、清盛がその軍事力で信西を支える体制となりました。
しかし、平和も束の間で、新政権内で派閥が生まれて激しく対立するようになります。
信西の軍事的協力者であった清盛が1159(平治元)年、熊野詣に出掛けたことで、京に軍事的空白が生じると、反信西派の藤原信頼がクーデターを決行。
これが平治の乱です。
信頼のクーデターには、保元の乱で父為義を斬り、河内源氏の棟梁となっていた源義朝も参加していました。
さあいよいよ源平相打つ戦いが始まったかと思いきや、実際のところ信頼と行動を共にした源氏は、義朝の家の子郎党や畿内の一部の源氏にとどまり、源氏の本流ともいえる摂津源氏の源頼政らは、むしろ平氏方につきました。
信頼、義朝のクーデターは決起直後は信西を討ち取るなど、優位にことを進めたものの、信西憎しで結束していた反信西派は、信西の死後、あっという間に空中分解し、二条天皇、後白河上皇が相次いで信頼、義朝のもとから逃亡してしまいます。
そして電撃的に帰京した清盛が兵力を整え、天皇、上皇を迎えると反撃を開始。
そもそも大規模な戦闘を想定していなかったこともあって、兵力が少なかった信頼、義朝の軍はたちまち打ち破られて敗北してしまいます。
義朝は拠点のある東国に逃亡中、味方の裏切りで殺され、その子頼朝は捕縛されたのち、命だけは助けられて、伊豆へ流刑となりました。
結果、信西亡き後、その協力者であった平清盛が政権を掌握することになるのですが、信西派、反信西派の主導権争いという側面が強く、やはり源氏と平氏の覇権争いとは言えないでしょう。
実際、摂津源氏の源頼政は、平氏政権内でも厚遇されて、源氏でありながらも政権中枢で活躍することになります。
ここまで源氏と平氏が関わったふたつの戦乱を見てきましたが、どちらも互いを宿敵として戦ったものはありませんでした。
時には味方ですし、時には敵として対峙したものの、行き掛り上そうなってしまっただけと言えるでしょう。
治承・寿永の乱は源平合戦か
平治の乱後、朝廷の有力者となっていた清盛は、1179(治承3)年にクーデターを決行。後白河法皇を幽閉して、関白松殿基房を解任のうえ配流に処し、武力で政権を奪取。ここに史上初の武家政権が樹立されます。
この強引な政権奪取に関白基房と関係の深かった大和の興福寺や、法皇と親密であった近江の園城寺が反発。新たに平氏の知行国となった地では新任の国司と在地領主の対立が深まって、各地で反平氏の機運が盛り上がりました。
クーデターの翌年、1180(治承4)年3月に清盛が孫の安徳天皇を即位させると、後白河の第3皇子で、安徳天皇の即位により皇位の芽が完全に消えた以仁王が、諸国の反平氏の機運に乗って挙兵を企てます。
この挙兵計画は事前に漏れてしまい、兵力が整わないうちに挙兵した以仁王の反乱はあっさりと鎮圧されましたが、このとき以仁王が全国にばらまいた平家追討の「令旨」をきっかけとして、各地で反乱が発生しました。
全国的な大動乱となった治承・寿永の乱の開始です。
この戦乱は、伊豆に流されていた源頼朝や、木曽に逃れていた木曾義仲ら、諸国の源氏が一斉に蜂起したイメージが強く、一般には源平合戦として知られているわけですが、実際に蜂起したのは源氏だけではありませんでした。
伊予では源氏とは関係のない河野氏が蜂起し、九州でも菊池氏ら源氏ではない武士たちが反乱を起こします。
関東では関東八平氏の相模の三浦氏、下総の千葉氏といった桓武平氏の一族が、頼朝に与して蜂起しました。
また、源氏であっても常陸の佐竹秀義は平氏に与し、上野の新田義重は日和見を決め込んでなかなか動こうとしませんでした。
このように治承・寿永の乱では、以仁王の令旨を口実として、各地の諸勢力がそれぞれの事情で蜂起し、あるいは平氏方について相争ったのです。
特に関東は、かつて源義朝に従った在地領主が多かったため、義朝が平治の乱で敗れた後、平氏は関東各地に代官を送り込み、地元に根付いた房総の千葉氏、上総氏や相模の三浦氏といった有力武士たちを圧迫しました。
彼らが挙兵した頼朝を担ぎ上げたのは、その父義朝の家人だったからというよりは、このまま平氏の世が続いてはジリ貧に陥ると考えたからでしょう。
挙兵後まもなく、石橋山の戦いで大敗を喫して、命からがら房総に逃れた頼朝でしたが、千葉氏や上総氏が頼朝の求めに応じて挙兵すると、南関東の在地武士たちは次々と頼朝の軍に加わっていったのです。
1180(治承4)年8月に挙兵した頼朝は、同年10月には鎌倉に入って本拠地とします。
ちなみに、この時点での頼朝軍は、完全な反乱軍です。
かつての平将門を倣うように、南関東の国衙を次々に支配化に置き、中央政府から独立した武装勢力として割拠しました。
瞬く間に南関東を席巻した頼朝でしたが、その後は平氏討伐には消極的で、北関東に割拠していた同じ源氏の佐竹氏や、叔父の志田義広、さらには従兄弟の義仲と激しく対立していきました。
ちなみに現在でこそ頼朝は源氏の嫡流として当たり前に見られていますが、当時は、佐竹氏や甲斐の武田氏、下野の足利氏、上野の新田氏なども、充分に源氏の棟梁足りうる家と見られていました。
南関東の王となったばかりの頼朝の地位は、その家柄により確約されたものではなく、義仲や叔父の義広はもちろん、他の源氏の一族は、頼朝にとって平氏以上に自分の地位を脅かす潜在的ライバルだったのです。
頼朝は中央の平氏には目もくれず、常陸から同族の佐竹氏を駆逐すると、北関東の足利忠綱(清和源氏ではなく、藤原秀郷の子孫)を撃破して、ついに関東を平定します。
それでは、いよいよ平氏討伐に動くかと思いきや、頼朝は鎌倉を動こうとしません。
いや、正確には動けなかったと言えます。
奥州藤原氏が敵か味方か旗幟を鮮明にせず、常に背後を脅かしていたうえ、頼朝と対立した叔父の源行家、志田義広を保護した、信濃の義仲との緊張関係がピークに達していたからです。
1183(寿永2)年、義仲と頼朝は合戦寸前のところで和睦し、義仲が北陸から京都方面へ進出していく中、頼朝は、意に沿わなくなった有力家臣の上総広常を謀殺して、自身の権力基盤強化を図ります。
一方、京都に到達し、平氏を福原に追った義仲ですが、自身が庇護していた以仁王の遺児、北陸宮を皇位に就けるよう後白河に要求したことで、朝廷との関係が悪化。さらに京都の治安維持にも失敗して後白河の信認を急速に失っていきます。
義仲は失地挽回とばかりに西国の平氏を討つべく出陣しますが、義仲不在の中、頼朝は朝廷と交渉を進め、自身の東国支配の追認と義仲の排除を後白河に求めました。
後白河は朝敵となっていた頼朝を赦免するとともに、東海道、東山道諸国の公領、荘園からの官物・年貢を京都に収めることを保証させたうえで、その支配権を事実上認めます。
朝廷は諸国の年貢が定期的に運ばれてくるなら、地方の政治には口を挟まない。朝廷が地方政治を完全にアウトソーシング化した瞬間でした。
ともあれ、旗揚げから3年。ようやくここで、頼朝は反乱軍のボスから、公の権力となったわけです。
しかし、後白河は義仲の排除については、聞き入れようとせず、義仲の勢力圏である信濃や北陸諸国については、頼朝の支配権を認めませんでした。
さすがに平氏を都から追い落とし、現に京都を軍事制圧している義仲を朝廷としても排除する事はできなかったのでしょう。後白河は頼朝に義仲と和平するよう求め、ともに平氏を討つように求めます。
しかし、頼朝にとって義仲は、平氏以上に自分の立場を脅かす存在であり、後白河の申し入れを拒絶しました。
さらに頼朝は、弟の範頼、義経に軍勢をつけて西へ向かわせ、実力で義仲に圧迫をかけます。
西国で平氏との戦いに大苦戦していた義仲は、頼朝の西上軍が京都に迫っている報を聞くや、京都へ撤退。自分が不在の間に頼朝と交渉を進め、その東国支配権を認めた後白河に強い不信感を抱きます。
義経の軍が近江まで到達すると、後白河はついに義仲を見限り、「急ぎ平氏を追討せよ。頼朝と戦うなら自身の責任で戦え。京都に残るなら謀反と見なす」と最後通牒を突きつけました。
ここに至り、平氏と頼朝に東西から挟撃されることを恐れた義仲は、敵を頼朝と定めます。
義仲は後白河が武装して立て籠もる法住寺を攻撃して、後白河と後鳥羽天皇を幽閉。
後白河を恫喝して頼朝追討の下文を得ると、範頼、義経率いる頼朝軍と1184(寿永3)年の正月、宇治川で決戦に臨みます。
宇治川の戦いは数に勝る頼朝軍の大勝に終わり、義仲は敗走。本拠地の北陸方面へ逃走の途中、近江国粟津で討ち死にしました。
源氏の棟梁をめぐる最大のライバルであった義仲を葬った頼朝は、同時期に甲斐源氏の重鎮一条忠頼を鎌倉で謀殺するなど、当初同格であった甲斐源氏の弱体化を進めました。
そして甲斐源氏を家人とすることに成功した頼朝は、名実ともに源氏の棟梁、東国の王として君臨することになったのです。
平氏が壇ノ浦で滅亡するのはその翌年、1185(元暦2)年3月で、頼朝は5年にわたる治承・寿永の乱のうち、そのほとんどを東国の覇権をかけた争いに費やし、源平合戦と呼べる平氏との全面対決は、一の谷の戦いから壇ノ浦までの最後の1年足らずだけでした。
このように、史実を見ていくと、必ずしも源氏と平氏は宿敵として常に相争う存在ではなかったことがわかります。
治承・寿永の乱の最終局面においても、史実の頼朝は安徳天皇と三種の神器の確保を最優先として、平氏との和睦も選択肢としていたと見る向きもあり、必ずしも徹頭徹尾、平氏を根絶やしにしようとは思ってはいなかったともいわれます。
結局、屋島から壇ノ浦にいたる一連の戦いは、ここが平氏を完膚なきまでに叩きのめす戦機と見た、義経の独断専行によるところが大きく、これは頼朝が当初描いていた構想とはかけ離れたものでした。
結局、安徳天皇の確保と三種の神器確保という頼朝の優先事項を守れず、平氏殲滅を優先させた義経は、頼朝の不興を買って没落することになりました。
さて、どうして源氏と平氏に後世語られるような、劇的なライバル関係のイメージが根付いてしまったかといえば、やはり保元物語、平治物語、平家物語、承久記といった軍記物語による影響が強いと思います。
源氏と平氏の栄枯盛衰が過去の因果を複線として劇的に脚色されることにより、平安末期の動乱は広く人々に知れ渡りました。
そして今なお、読み継がれ、語り継がれて、何度もドラマなどの創作物の題材として取り上げられてきました。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、まさにこの時代を描いたドラマです。
私個人としては鎌倉時代が最も好きな時代であり、三谷幸喜の脚本ということで、頼朝をめぐる東国武士たちの、どろどろの仁義なき群像劇を、どのような切り口で描かれるか大変楽しみです。
戦国時代に比べると、とりわけファンも少ない時代区分になりますが、大変面白い時代なので、今回の大河ドラマでその入り口に入ってくれる方が一人でも多く増えればいいなと思います。
<参考文献>
色々あって表舞台で姿を見かけなくなった呉座さんですが、やはりこの方の歴史の著作は読みごたえがあります。 |