歴史好きの大和徒然草子

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思ってたんと違う(4)源平合戦その2

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皆さんこんにちは。

 

前回、源氏と平氏の関係性について、巷間広まっているイメージとは異なるものであったことをご紹介しました。

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源平の戦いについては、有名な個別の戦いについても、世間一般に広く知られているイメージと、実像が全く違うものがあったりします。

今回は「思ってたんと違う」源平の戦いをご紹介したいと思います。

 

富士川の戦い

1180(治承4)年に、以仁王の令旨に呼応して挙兵した源頼朝と、これを追討するため派遣された平維盛が、駿河国富士川で激突した富士川の戦いは、頼朝が平氏の大軍勢を打ち破った戦いとして知られます。

富士川を挟んで対陣していた源平両軍でしたが、夜中に水鳥の群れが一斉に飛び立った羽音を、敵の夜襲と勘違いした平氏方が恐慌状態となり、戦わずして四散逃亡してしまい、平氏の惰弱ぶりが露になった戦いとして、広く喧伝されていますね。

しかし、富士川の戦い平氏の討伐軍の矢面に立った東国軍の主体は、頼朝ではなく、甲斐源氏武田信義であったというのが、近年通説となってきていることをご存知でしょうか。

 

武田信義八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光の曾孫で、武田八幡宮元服した際、祖父義清が名乗った武田の名字に復した人物で、甲斐国巨摩郡武田(現山梨県韮崎市)を本拠として、甲斐源氏武田氏の初代とされる人物です。

戦国時代、甲斐の虎と恐れられた武田信玄のご先祖様にあたります。

1180年8月、頼朝同様に以仁王の令旨を受け取り、甲斐で挙兵した信義は、頼朝が石橋山で大庭景親に大敗を喫した翌日、平氏方を波志田山の戦いで撃破して甲斐の支配権を握ると、9月には信濃国伊那郡にも出兵。諏訪大社上宮に入り、周辺の平氏方武士たちを駆逐して9月14日には甲斐に帰還しました。

甲斐と諏訪周辺から平氏方を駆逐した信義の、次の標的は駿河でした。

 

一方、相次ぐ東国での反乱勃発に対して、京都では9月5日に頼朝追討の院宣が発せられたものの、当時西国は大飢饉に見舞われており、兵糧の調達に時間がかかったため、結局平維盛率いる追討軍が京都を出発したのは9月25日のことでした。

平安時代、地方反乱に対する中央政府の対応は、基本的には在地の勢力で対応し、中央からの派遣軍は最後の総仕上げに派遣されることが通例でした。

平将門の乱も、乱を治めたのは地元関東の藤原秀郷でしたし、平忠常の乱でも関東の在地武士たちが忠常を追い詰め、最後のダメ押しに源頼信が派遣されて鎮圧されており、平氏の総帥であった平清盛も、過去の事例に沿って対応し、まずは家人である大庭景親、伊東祐親らに大方片付けさせた後に、中央軍を派遣していっきに鎮圧するという戦略だったのでしょう。

しかし、大庭、伊東らは当初こそ頼朝を石橋山で打ち破ったものの、その後の事態は清盛の思惑通りに進まず、甲斐、信州で甲斐源氏が勝利を重ねた上に、京都からの追討軍派遣が遅れたことが致命傷となり、関東の平氏家人たちは徐々に孤立して各個撃破されていったのです。

 

平氏の家人で駿河目代であった橘遠茂は、甲斐源氏駿河を狙って富士北麓に進軍していることを察知し、これを撃滅すべく甲斐方面へ進軍しました。10月13日のことで、維盛の討伐軍がちょうど駿河に入った日でした。

そして翌10月14日、鉢田山(所在地は不明です)で信義の軍勢と会敵し、山岳戦となります。

この鉢田の戦いは信義の大勝に終わり、大将の遠茂が捕虜となったほか、多くの将兵が討ち死し、この大勝に勢いを得た信義は一気に南下して駿河へ侵攻、駿河東部をその支配下に置きました。

10月17日、武田信義は討伐軍である維盛へ挑戦状を送り付け、翌日富士川を挟んで両軍は対峙しました。

ちなみにこの時頼朝も、東進する維盛軍に備えるため、駿河に入っていましたが、富士川から20Km以上も離れた黄瀬川に着陣しており、合戦の当事者というよりは両軍の様子を少し離れたところから見守っていたとみるべきかと思います。

 

戦勝続きで意気上がる甲斐源氏に対し、鉢田の戦いで現地軍が壊滅した維盛の軍勢の士気は大変低く、折からの兵糧不足もあって脱走、投降する兵が続出しました。

甲斐源氏の兵、数万騎に対し、維盛軍は1~数千騎にまで減少しており、すでに戦う前から勝敗は決していたと言えるでしょう。

結局維盛は戦わずして兵を引き上げ、大規模戦闘がないまま平氏は敗退します。

この時の平氏撤退のきっかけが、水鳥の羽音であったとされていますね。

この記述は平家物語源平盛衰記といった軍記物だけでなく、鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡や、当時の貴族の日記山槐記の記述にも見られるため、ある程度事実を伝えていると考えられそうです。

実際に全軍が恐慌状態となって潰走したのかもしれませんし、水鳥の羽音から敵の進軍に気付き、分がないと判断して撤退したのかもしれません。

 

いずれにせよ平氏は敗走し、これを信義は追撃して、戦後、遠江駿河をその勢力下に納めることに成功しました。

戦勝の果実を信義が独占したという点でも、この戦いの勝者が頼朝ではなく武田信義であったことが明らかに思えます。

この富士川の戦いの結果、東国では頼朝が南関東武田信義が甲斐、駿河遠江に割拠することになりました。

従来、富士川の戦いの主体は頼朝である説が強かったのですが、平家物語などの軍記物や、吾妻鏡の脚色による影響が非常に強かったためかと思います。

実際この時期、甲斐源氏は木曽の源義仲同様に頼朝とは独立した存在であり、武田信義は頼朝と源氏の棟梁を競うライバルですらありました。

2022年大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では、最新の通説も盛り込まれ、頼朝と信義が互いに棟梁を名乗って、風下に立とうとしない様子がよく描かれていますね。

 

屋島の戦い

源義仲を滅ぼし、一の谷の戦い平氏を西国に追い落とした頼朝は、その後の平氏追討については、短期的な決着を望んでいなかったようで、東国軍の総大将格であった弟範頼を鎌倉に召喚しました。

早急な平氏追討を望む後白河院に一定の配慮はしながらも、腹心の土肥実平を通じて一の谷で捕虜としていた平重衡三種の神器の交換を画策するなど、平氏との和睦交渉を進め、一方で交渉が決裂した時に備えて義経を京都に派遣し、後白河院畿内、西国の武士たちへ義経の指揮下に入るよう命じてほしいと依頼しています。

1184(寿永3)年2月、平氏との和睦交渉が決裂すると、頼朝は義経を京都守護とし、梶原景時土肥実平を対平氏最前線である播磨、美作、備前、備中、備後の守護に任じたうえで追討使に起用しました。

義経がこの時平氏追討の任に選ばれなかったのは、義経が頼朝に無断で検非違使に任官したからと従来語られることがありますが、義経の任官は1184(元暦元)年8月のことであり、全く無関係です。

義経麾下の畿内の武士は、連戦続きで疲弊していたため、山陽道の武士たちを動員することにしたという説があり、妥当な考えかと思われます。

 

梶原景時土肥実平による平氏討伐戦は同年6月から本格化しますが、讃岐国屋島を本拠とする平氏は頑強に抵抗し、西国武士の多くが平氏方に付いたこともあって、東国軍は大苦戦を強いられます。

これに業を煮やした頼朝は、7月初めに後白河院義経平氏追討に起用することを、ついに申し入れました。

しかし、同月、伊賀と伊勢で平氏方の武士たちが一斉に蜂起し、一の谷の戦いの後に派遣されていた東国武士たちを駆逐し、京都をうかがう事態が発生したのです。

義経は京都守護として、畿内の武士たちを統率して伊賀、伊勢の平氏勢力の鎮圧にあたるため、身動きが取れない状態となりました。

 

やむを得ず、頼朝は範頼を追討使に起用します。

範頼には補佐として千葉常胤和田義盛を付け、三浦義澄比企能員そして北条義時といった鎌倉政権の重鎮たちがその軍勢に加わりました。

このことからも、範頼軍こそが鎌倉政権の主力軍であったことがうかがえますね。

範頼軍は破竹の勢いで快進撃を続け、1184年10月には周防を攻略します。

しかし、長門に侵攻するあたりで補給船が伸び切り、範頼軍は深刻な食糧不足に陥りました。

屋島を拠点とする平氏方に瀬戸内海の制海権を握られていたことが大きな要因で、範頼は頼朝に早急に兵糧と船、軍馬の補給を依頼しています。

これに対して頼朝は補給に応じる旨と、九州武士と良好な関係を保ち、平家の本拠八島攻略を急ぐことなく「閑かに沙汰」するよう命じます。

この命令から頼朝の戦略構想は、九州の武士も最終的に動員し、屋島平氏を長期包囲することで降伏させることにあったと読み取れるかと思います。

また、平氏の手の内にある安徳天皇を無事に取り戻すことも指示しており、別途三種の神器の確保も命じていました。

当時京都では三種の神器がない状態で後鳥羽天皇が即位しており、その正当性には大変な傷がついていました。

頼朝はじわじわと平氏を締め付けて降伏させ、確実に安徳天皇三種の神器を取り戻し、戦後の後白河院との交渉における強力なカードにしようとしていたのでしょう。

 

翌1185(元暦2)年1月になっても範頼軍の苦境が続き、範頼は兵糧不足で士気が大幅に低下していることを鎌倉へ伝えます。

この使者が鎌倉に着くのに当時1か月かかり、2月に範頼苦戦の報を受けた頼朝は、九州武士の動員が成功しない場合は屋島を攻略するよう命じました。

ここに至って頼朝も長期包囲戦の構想を、一部あきらめかけていた節がありますね。

しかし、前線から頼朝への連絡に1か月を要する中、その苦境が頼朝に伝わる前に、範頼軍の状況は思わぬ好転を見せていました。

範頼軍は1月の末に豊後の豪族から軍船を調達、周防の豪族からも兵糧の補給を受けることに成功し、2月には渡海して九州に攻め入って九州を勢力下に収めるめどがつき、頼朝の長期戦構想の前提が整うことになったのです。

従来範頼は平氏相手に苦戦するばかりで、義経の輝かしい活躍に比べて凡庸なイメージが広く流布されていますが、兵站がおぼつかない中、頼朝の命令を忠実に実行して九州の平氏勢力を切り崩した事実からも、決して暗愚な武将ではなかったと考えられますね。

しかし、この状況はすぐに頼朝や京都に伝わらず、これが、さらなる状況の急転を招きます。

 

1月、京都にあった義経が、後白河院の許しを得たうえで四国へ出撃するのです。

史料上、頼朝が義経に出撃を命じたという記載がなく、義経の四国出撃は、範頼軍の状況を悲観した義経の判断であった可能性が高いと思われます。

もし範頼軍が兵糧不足で撤退したら、鎌倉政権側の西国でのプレゼンスは一気に低下し、平氏方の反転攻勢を招く危機がありました。

また、長引く戦乱で地方からの年貢が届かず、京都の貴族たちは困窮しており、戦乱の早期決着を望む空気を、京都にいた義経は強く感じていたことでしょう。

このままでは貴族の指示を失い没落した義仲の二の舞になりかねないと、義経は強い危惧を抱いていたのかもしれません。

京都にあった義経には、頼朝の思惑に反し、一刻も早く平氏を撃滅しなければならないと考えるに足る材料がいくつも重なっていました。

1月早々に京都を発った義経は、摂津渡辺津に1か月ほど滞在して、畿内水軍の組織化を進め、2月17日に阿波に上陸します。

 

この義経の四国入りについて、吾妻鏡などの史料上、頼朝から命じられたという記述がないため、義経の全くの独断という説もありますが、摂津で1か月に及ぶ入念な準備を行っていることから、これが頼朝の耳に入らないわけはなく、追認されたと見るのが妥当ではないでしょうか。

実際、頼朝も先述の通り、範頼軍の状況次第では長期戦の戦略を放棄し、屋島攻略を視野に入れており、義経を四国に入れることで平氏の戦力が分散し、主力である範頼軍が動きやすくなると、頼朝も判断したのでしょう。

もとより東国武士たちを主力とする範頼軍こそが鎌倉政権の主力であり、屋島攻略は範頼軍が行うべきもので、頼朝にとっては「外様」といえる畿内、西国武士の寄せ集めである義経軍が、難攻不落の屋島を攻略できるなど、頼朝も想像だにしていなかったでしょう。

しかし、そのまさかが起こってしまいます。

義経は阿波上陸のわずか2日後、2月19日に電撃的に屋島を攻略してしまうのです。

屋島の戦いについては従来義経の天才的軍略による奇襲攻撃で源氏の勝利に終わったと語られてきましたが、先述の通り、義経は出兵まで1か月にわたる入念な準備を摂津で行っており、この地道な準備が、屋島攻略における電撃戦を実現させたと言ってよいでしょう。

海上からの攻撃を警戒していた平氏軍は、背後からの思わぬ奇襲に恐慌をきたし、安徳天皇の安全を最優先したため、抗戦をあきらめ屋島を放棄し海上へ逃れました。

屋島の失陥で平氏は瀬戸内海の制海権を失い、この時点で軍事的に挽回することが、ほぼ不可能な状況となったのです。

壇ノ浦の戦い

3月、義経から頼朝に屋島攻撃を報告する使者が鎌倉に到着しましたが、攻撃前に出発した使者だったので、頼朝は勝敗を含め、状況を把握することができず、引き続き範頼軍を主軸とした長期戦を企図して、範頼への指示を送っていました。

屋島の戦いで勝利した義経の勢威は増大し、熊野別当湛増が麾下に入ったことは、特に重要な意味を持ちました。

義経熊野水軍を指揮下に組み込み、鎌倉政権の軍で、唯一平氏と真っ向から海戦を行う実力を手に入れたのです。

義経熊野水軍に加えて西に進撃。伊予の河野水軍も味方に組み入れて、瀬戸内海の制海権を握り、着々と関門海峡彦島に拠る平氏水軍のとの決戦に備えました。

この義経の動きから、義経率いる熊野水軍が九州に進出してくるという噂が、九州で奮戦している範頼の耳に届くと、範頼は義経は四国の担当であって、九州の担当は範頼という指示を受けていたはずで話が違うと、義経の越権を非難して、鎌倉の頼朝に事情を照会する使者を送っています。

これに対し、頼朝は九州に義経麾下の熊野水軍を向かわせることはないと範頼をなだめるとともに、九州攻略を進める東国武士たちの功を誉め、しっかりと労うように指示を送っています。

また、北条義時ら主だった武将たちには個別に書状を送って、感謝の意を伝え、前線で奮戦する御家人たちへ大きな気遣いを示しました。

 

一方の義経は、屋島攻略後に京都へ戻らず、水軍力の向上に努め、頼朝の判断を仰ぐことなく3月中旬には平氏最後の拠点である彦島に向けて、ついに進軍を開始します。

頼朝指示を仰ぐには使者の往復でたっぷり1か月以上かかってしまい、平氏との決戦を急ぐ義経にとって、そのような時間をかける余裕はありませんでした。

寄せ集めの義経軍は長期にわたる士気の維持は難しく、連勝の余勢をかって速やかに決着をつけるしか、勝機はないと見ていたのでしょう。

こうして3月24日、関門海峡壇ノ浦で両軍は激突しました。

壇ノ浦の戦いの勝敗を決したのは、平家物語の記述などから、潮流の変化を読んだ義経の軍略とされ、それを支持する学説もあるのですが、近年の研究では合戦時の潮流は穏やかで、潮流が勝敗の決定的な要因とはならなかったことが判明しています。

では、義経の勝因は何かといえば、やはり単純に兵数で平氏の水軍を圧倒したと考えるのが自然でしょう。

 

義経に瀬戸内海の制海権を奪われ、背後の九州も範頼軍に制圧されていた平氏方は、補給路を完全に断たれており、決戦前からすでに劣勢が明らかな状況でした。

しかし、九州への退路を断たれ、完全に窮鼠と化した平氏は頑強に抵抗。最後には安徳天皇をはじめ、主だった人々が次々と海に身を投げるという事態を引き起こし、三種の神器も海に沈み、草薙剣は永遠に失われます。

頼朝が性急な平氏殲滅戦を望まなかったのは、このような不測の事態を防ぎ、確実な安徳天皇三種の神器の確保を目指すためでしたが、その思惑は全く打ち砕かれました。

こうして「源平合戦」は、頼朝の描いた結末とは全く違った形で終了してしまったのです。

 

さて、屋島の戦い壇ノ浦の戦いにおいては、従来義経の活躍以外はほとんど一般には伝わらず、頼朝、範頼については、全く存在感がありませんでした。

実際には頼朝は範頼率いる鎌倉政権主力軍と頻繁に連絡をとり、着実に平氏を追い詰めるべく後方から指導を行い、範頼も兵站の確保に苦心しながら、兄の命令を忠実に守り、東国御家人たちを率いて西国、九州を転戦していました。

屋島、壇ノ浦における義経電撃戦は、頼朝、範頼にとっても大きな衝撃であったと思います。

平氏の追討が鎌倉政権の主力たる範頼軍ではなく、畿内・西国武士たちを中心とした義経軍によって達成されたため、東国御家人たちの功績は霞んでしまい、恩賞も畿内・西国の武士たちが厚く報われることになったのは、東国御家人たちの大きな不満となって鬱積していったことでしょう。

後に義経が頼朝に反旗を翻したとき、関東の御家人たちが誰一人義経に従わなかったのも、さもありなんというところでしょうか。

 

また、頼朝は自身が指示していた安徳天皇三種の神器の確保を義経が軽んじ、後白河院や朝廷がのぞんだ平氏の早期追討を優先させたことで、義経に対する大きな不信感を抱いたと見ることができるでしょう。

 

後に頼朝、義経は干戈を交えることになりますが、屋島の戦い壇ノ浦の戦いの実像を追うと、両者の破局は必然のものだったと考えられるのではないでしょうか。

 

<参考文献>


 

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