大和徒然草子

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思ってたんと違う。(1)中世武士の実像

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皆さんこんにちは。

 

実像とイメージがかけ離れていることって、世の中いろいろありますよね。

とくに、歴史上の人物だったり、事象であったり、遠い過去の話となると、その後作られた創作物などによってイメージが形作られ、実像を知ると「思ってたんと違う」といった印象を受けた、そんな経験された方も多いんじゃないでしょうか。

日本人にとって馴染みの深い武士も、時代によってさまざまな側面を持ち、その実像は一様でなく、時代劇などで形作られたイメージとはかけ離れているところも少なくありません。

 

今回は、そんな「思ってたんと違う」武士の実像をご紹介したいと思います。 

恐ろしい中世武士

さて、武士といえば、源頼朝が12世紀の末、鎌倉に武家政権を打ち立てて以降、明治維新によって近代国家が成立する19世紀末まで、一貫してこの国の支配層を形成した人々です。

 

我々が一般的に想像する武士といえば、どんな武士でしょう。

合戦で活躍する戦国武将や、江戸時代の大名や、時代劇のお奉行様、はたまた、幕末の志士たちなど、その多くは近世以降の武士たちのイメージが強いのではないでしょうか。

しかし、平安時代中期から歴史の表舞台に出現する武士の勃興期、そのあり様は江戸時代以降の、礼儀や忠節を重んじるイメージの武士とは全く違ったものでした。

 

そもそも武士が生まれる大きな契機となったのは、平安時代律令制の崩壊によって、特に地方の治安が崩壊したことにありました。

奈良時代律令国家は庶民に税負担として、兵役を課し、各地に国司配下の軍団を置いて地方の警備、防衛にあたっていました。

しかし、792(延暦11)年、破綻しつつあった律令制の立て直しのため、桓武天皇が軍団制を廃止して武芸に秀でたものを選抜採用する健児(こんでい)制を導入したことをきっかけとして、朝廷は直轄の軍事力を喪失します。

京都周辺には検非違使を置いて、最低限の治安維持に努めようとしたものの、地方は事実上の野放し状態。

日本は全国的に北斗の拳も真っ青の無法地帯と化したのです。

 

強盗・殺人は日常茶飯事で、取り締まられることもありません。

自分の身や財産は自分で守るしかない、究極の自己責任社会です。

このような社会状況になると、私有地を持つ地方の人々は、自分の土地を守るため、当然のように武装することになります。

こういった武装した地方の人々が武士の起源となり、平安時代中期から後期にかけて、武士団が形成されていきました。

 

さて、突然ですが「武士の武器」といえば皆さん何を思い浮かべられますか。

そりゃ刀だろ。と、思う方が多いんじゃないでしょうか。

しかし、刀が武士のアイコンとなるのは江戸時代以降のこと。

おそらく二本差しの帯刀が武士にのみ許されたことや、江戸時代に入って剣術が盛んになり、多くの剣豪が有名な武士として認識された影響が大きいと思います。

 

平安時代に登場した武士ももちろん帯刀していましたが、帯刀は当時の武士を象徴するものではありませんでした。

当時の武士を武士たらしめたもの、それは騎射です。

すなわち、馬に乗り、馬上から弓を射るという高度な技能をもつ芸能者こそ武士でした。

当時の武士の道徳観を示す「弓馬の道」という言葉が、その事実を物語るといってよいでしょう。

騎射を含めた乗馬技術を幼少期から叩き込まれ、馬に乗って戦場に出る家柄に生まれたものこそ、当時の武士でした。

よく武士を、ヨーロッパの騎士と対比することがありますが、そもそもの武士は騎士のような槍騎兵ではなく弓騎兵であり、当時の武士はヨーロッパの騎士より、むしろモンゴル騎兵に近いと思います。

騎兵という要素は非常に重視され、中世以降、足軽という新たな武士が生まれてくると、馬に乗ることを許されるかどうかは、大きな身分上の差となり、江戸時代には上級武士と下級武士を分ける大きな目安となったのです。

 

さて、先述の通り、まさに「自由と暴力」の巷と化す世紀末的世界に勃興した当時の武士たちの気質とはいかなるものだったのか。

それをよく示しているといわれるのが、重要文化財男衾三郎絵詞」です。

ちなみにこの記事の冒頭に掲載した写真。歴史の教科書などで武士を紹介するとき必ずと言っていいほど使用される絵ですが、こちらは男衾三郎絵詞の一コマになります。

13世紀、鎌倉時代に制作されたとされる非常に有名な絵巻物なのですが、主人公男衾三郎は、模範的な鎌倉武士とされた畠山重忠がモデルともされています。

で、この男衾三郎、どのような人物として描かれているかというと、「馬小屋の隅に生首を絶やすな」ということで屋敷の前を通る通行人を、誰彼構わず殺戮するとんでもない男で、「修行僧が屋敷の前を通ったら、犬追物の犬の代わりに的にしろ」と、神仏の威光すら恐れないハチャメチャな人物なのです。

あくまで物語上の極端な脚色なのかもしれませんが、主人公のキャラ設定として、否定的な文脈ではなく、むしろあるべき姿として肯定的に描かれている点で、当時の武士の残虐性と、非文化性が非常に特徴的に描かれているのではないかと思います。

 

そんな彼らの関心事は、自分たちの領地をとにかく守ること。

彼らの権利は公に守られたものではなく、実力で守るしかないわけで、そのありようとしては、現在で言うなら暴力団に近いといえるでしょう。

平安時代には、上皇や有力貴族、寺院に接近して、その暴力の対価として領地の維持に努めた武士たちですが、とにかく上前のはねられ方がひどく、地方の武士たちに不満がたまります。

摂関家に替わって、武家である平家が朝廷の実権を握っても、基本的な構造は変わらなかったので、武士たちの不満が根本的に解消されることはありませんでした。

そんな彼らの不満を巧く汲みとり、東国に最初の本格的な武士の政権を確立したのが、ご存知、源頼朝です。

 

鎌倉殿と関東武士たち

最近では、平清盛が確立した平氏政権が最初の武家政権といわれることも多くなってきているようですね。

武士で初めて朝廷を牛耳り、それまで当たり前のように支配権を振るってきた、天皇を頂点とする平安貴族たちを抑え込んだ清盛の行動は、確かに時代の画期であったことは間違いないでしょう。

しかし、平氏政権はあくまで貴族たちによる支配構造に乗りかかる形で登場し、結局は地方の武士たちの大きな支持を集めることができませんでした。

そして、最終的に頼朝を中心とする東国の武士たちによって、滅ぼされてしまいます。

 

1180(治承4)年、以仁王が発した平家追討の令旨に呼応して、伊豆で挙兵した頼朝は緒戦は苦戦を強いられたものの、富士川の戦い平維盛を撃破しました。

この勢いのまま一気に上洛しようとする都生まれの頼朝でしたが、彼を支える有力な関東武士であった上総広常千葉常胤らは上洛には消極的で、関東を手中に収めることを強く主張します。

彼らにとっての関心事は、もっぱら自領の維持、拡大にあり、平家追討の令旨などは挙兵の口実に過ぎなかったわけです。

「都なんてほっといて、いうこと聞かねえ連中を叩き潰して、その土地分捕りやしょうぜ!」

くらいの勢いだったと思います。

自前の兵力を持たない頼朝は、上総、千葉らにそっぽを向かれては立ち行かず、彼らの主張を認めて、関東で勢力を伸ばします。

この中で頼朝は、従うものには「本領安堵」、歯向かうものは滅ぼして、その土地(闕所)は功のあったものに分け与える「新恩給与」という、新たな仕組みを作り上げます。

朝廷、律令の枠をはみ出して、御家人となった武士に「暴力」提供の対価として、自領の保全と新たな領地の付与を行うという、明治まで続く武家支配の根幹的仕組みを確立したのが、平氏政権の最末期に関東で割拠した頼朝の政権でした。

この点から、私はやはり日本で初めての本格的な「武士」の政権は、頼朝の政権だと考えます。

たとえ零細領主であったとしても、鎌倉殿である頼朝の御家人になることで、朝廷によるピンハネから脱し、頼朝を中心とした御家人グループの集団的安全保障体制によって自領の保全が図れるこの体制は、広く武士たちの支持を集めて、頼朝の政権は急成長するわけです。

歴史学者本郷和人さんの言葉を借りると、「武士の武士による武士のための政府」こそ、頼朝の政権、後世「鎌倉幕府」と呼ばれることになる政権の実態だったといえるでしょう。

頼朝を中心とするこの政権の支配の源泉は、純粋な暴力でした。

そういう意味では、公の地方政権ではなく、私的な頼朝を中心とする大小暴力団の集合体、いうなれば鎌倉の頼朝を本家とする広域暴力団ととらえたほうが実態に近いと思います。

 

頼朝の下で一定の結束を見せていた関東武士たちですが、もともとは大小の利害対立を抱えていたこともあって、発足当時から凄惨な権力闘争を繰り返します。

そのやり口が、とにかくえげつない。

頼朝の旗揚げ間もないころから、主力として働いた上総広常は、頼朝の寵臣だった梶原景時と双六に興じていたところを、景時の手によって暗殺。

その景時も、頼朝死後にその専横ぶりが他の御家人たちに嫌われ、鎌倉から追放された上に、一族を連れて上洛中に襲撃されて、一族もろとも殺戮されました。

二代将軍源頼家の舅で、執権北条時政の政敵となった比企能員は、仏事にこと寄せて時政の私邸に招かれたところを暗殺。

比企一族は攻め滅ぼされ、比企氏に近かった将軍頼家も伊豆修善寺に幽閉されたうえ、入浴中に時政の手勢の襲撃を受け、殺害されてしまうのです。

陰謀渦巻き、多数派工作と裏切りに次ぐ裏切り、殺るか殺られるか。まさに「仁義なき戦い」が繰り返されたのが鎌倉時代でした。

 

このあたりの血みどろの抗争劇、2022年大河ドラマである「鎌倉殿の13人」でどのように描かれるか、今から非常に楽しみなところです。

どう切りとっても惨劇に次ぐ惨劇なのですが、そこは三谷幸喜ですから、どんな愉快な群像劇に仕上げてくれるのか、今から興味が尽きません。

戦国、幕末以外の大河は視聴率で苦戦することが多いのですが、鎌倉幕府草創期の人間ドラマは大変面白いので、多くの方にとって鎌倉時代や中世への興味の扉になってくれればと願いたいです。

 

しかしまあ、やくざの抗争も真っ青の政争が繰り広げられていたのが、当時の鎌倉でした。

3代将軍実朝の暗殺後、後鳥羽上皇は実子を将軍に迎えたいと要請してきた、執権北条義時の申し入れを、拒否するわけですが、政治上の主導権争い以外にも、こんな物騒な場所へ可愛い実子を送れるかという本音も見え隠れします。

 

撫民による支配

承久の乱で、鎌倉の武士政権は、ついに京都の朝廷を撃破し、実力で全国を牛耳ることになります。 

関東から全国に地頭として散らばった、関東武士の民衆支配がどのようなものだったか。

有名なのが紀伊国阿氐河荘の百姓たちが、地頭の非道を訴えた百姓訴状にみられます。

この訴状には、地頭による強引な年貢の徴発に反発を示した農民に対して、「耳を切り、鼻を削いで、女は髪を切って尼にしてしまうぞ」と、なんとも酷い脅し方で暴力的な支配を実行していた、当時の武士の言動が記録されています。

 

同様のケースは他の多くの地域でも見られたらしく、こんな領主の下ではやってられないと、逃散してしまう農民が多数現れ、ひどい地域になると、農民の数が半分に減ってしまったというような場所もありました。

せっかく領地を持っても、農民に逃げ出されて耕作地が放棄されてしまっては、年貢が集まらず、武士の生活は成り立ちません。

産声を上げたばかりの武士の支配は早くも綻びを見せたのです。

  

収奪するばかりでは、生産性は落ちるばかりで、いかにして年貢徴収を安定して行っていくかが武士にとって大きな課題となったのです。

その解決策が、武士の中で生まれたのが撫民という思想でした。

「民を慈しみましょう。大事にしましょう」

という思想です。

古代の天皇や支配者にも、個人単位でこのような思想をもち、それに従った政策を行った事例はありましたが、法制化して普遍性を持たせたのは、鎌倉幕府でした。

3代執権北条泰時の時制定された「御成敗式目」は、史上初の武家の法典として知られます。

多くは御家人の土地所有に関して、その相続や境界争い、公家や大寺院との紛争を、ルールに従って解決を図る条文で埋められていますが、その中には「農民から物品を不法に奪った場合は速やかに返す」というものも含まれ、それは暴力ですべてを解決するという、それまでの武士の当たり前を否定するものでした。

この御成敗式目によって、武士は「反社会的勢力」から「社会的勢力」に初めて脱皮したと言えるでしょう。

 

この撫民政策をさらに進めたのが、5代執権北条時頼でした。

時頼は、御成敗式目に「大金を盗んだ民がいても、罪は本人一人のものであり、親類や妻子まで罪を問うてはいけない」「武士と民がけんかをしても、武士のほうが無傷であれば、民を罪に問うてはいけない」など、民衆保護の規程を追加し、これに従わない武士を厳しく処罰したり、財産を没収したりしました。

そして、禅宗を通じて武士の教化に努め、慈悲や忍耐など、従来的な武士にはなかった精神文化を広めていきます。

 

さらにそれまでほとんど受け付けられなかった、民衆からの訴えも、問注所の職員を増員するなどして対応可能としました。

これは日本史上初めて、制度的に一般民衆への行政サービスを行う画期的なものでした。

地方行政も治安維持も放棄して、ゆかりも知れぬ古法に則って、土地からの上りを収奪し続けるそれまでの平安貴族とは大違いですね。

年貢(=税金)を納める代わりに、土地争いや水争いなどの紛争があれば、訴訟などの行政サービスを受けることができるというこの制度は、支配を受ける民衆にとっても納得感の高いものだっといえるでしょう。

 

撫民こそ、民衆の利益を優先する支配者として、武士が公家に取って代わる画期的な思想となったのです。

まさに武士にとって撫民政策は、持続可能な年貢徴収策の根幹でした。

現代的な言葉で言えばSDGsの一環だったといえるでしょう。

 

また、この幕府の撫民政策の影響を受け、京の朝廷も幕府を真似て、民衆の訴訟を受け付けたりするようになってきます。

こうして支配者が一方的に民衆を収奪するという古代的な支配構造は消え、御恩と奉公、年貢の貢納と行政サービスの付与といった、双方向的契約関係をベースとした支配の構造が、全国的に根付いていくことになるのです。

 

<おすすめ書籍>

テレビのコメンテーターとしても有名な、アイドルおたくの東大教授、本郷和人さんの著書で、鎌倉時代に興味のある方には是非お勧めしたい一冊です。