大和徒然草子

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叡尊~旧仏教の改革者か新仏教の開祖か

皆さんこんにちは。

 

鎌倉時代、それまでの南都六宗天台宗真言宗といった、国家から保護された旧来の仏教宗派から、新興の武士や一般庶民に広くその教えを広めていく、いわゆる鎌倉仏教の宗派がたくさん生まれました。

浄土宗の法然、その弟子で浄土真宗親鸞時宗一遍日蓮宗蓮、臨済宗栄西曹洞宗道元らが、いわゆる鎌倉新仏教の開祖として非常に有名ですね。

 

鎌倉時代、それまで、仏教による救いの外に置かれていた人々にまで、教えを広めていった僧侶たちがたくさん現れました。

その中に叡尊という人物がいます。

興正菩薩叡尊)像

ところで、叡尊の名は聞かれたことがあるでしょうか。

日本史の教科書で、その弟子忍性とともに、旧仏教である律宗を改革した人物として載っていたのを、うっすら記憶されている方もいらっしゃるかなと思います。

また、多くのお寺を建立、再建したので、訪れたお寺の由緒が気でその名を目にした方も多いかと思います。

ただ、鎌倉仏教を代表する僧侶の一人ながら、法然親鸞日蓮といった鎌倉新仏教の開祖たちに比べると、いささか知名度が低い人物かもしれません。

 

しかしながら、当時宗派によっては救済の対象とされなかった、女性や非人とされた極貧の路上生活者、ハンセン氏病患者にまで、救いの道を説き、国家権力からは独立して、大規模な救済事業を行ったという点では、叡尊は他の鎌倉新仏教の開祖たちにも引けを取らない、大きな革新性をもった人物なんです。

 

出生と戒律復興への目覚め

叡尊は1201(建仁元)年、大和国添上郡箕田里(現奈良県大和郡山市白土町)に生まれました。

父親は、興福寺学侶の慶玄

あれ、お父さんがお坊さんなのと、少し気になった方もいらっしゃるかもしれません。

当時の僧は、公に妻帯でできないことになっていましたが、実のところ平安時代の末ごろには、顕密僧ともに妻帯は一般的となっていたんです。

なので家族を持っている僧侶も少なくなかった。

叡尊の父もそういった僧侶だったわけです。

ちなみに慶玄は源義仲の後裔を称していたといいますから、これが事実であれば、叡尊源頼朝らと同じ河内源氏の流れだったということになります。

 

7歳で母、藤原氏と死別した叡尊は、11歳で京都醍醐寺の門前の家の養子に入り、1217(建保1217)年、17歳で醍醐寺阿闍梨叡賢の下で出家し、仏門に入りました。

同年中には東大寺戒壇で授戒して、正式な官僧となった叡尊。その後、醍醐寺高野山東大寺真言密教の修行に励みましたが、国家権力との強い結びつきから生じる、当時の密教行者の様々な堕落ぶりを、目の当たりとすることになります。

こんなものかと、ほとんどの僧侶が時勢に流される中、叡尊は、そのような現状に大きな疑問を抱くようになります。

思い悩む青年僧、叡尊に転機が訪れるのは34歳の時。叡尊は考え抜いた末、弘法大師の遺戒「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや。すべからく顕密二戒を堅固に受持し清浄にして犯すことなかれ」に触発され、密教修行で悟りを開くには、釈尊が定めた戒律を固く守ることが肝要であるとの結論に達しました。

密教行者の堕落の根本を、戒律の衰退に見出した叡尊は、生涯をかけて戒律復興に取り組むことを決意するのです。

 

西大寺の再興と戒律復興

1235(文暦2)年、叡尊西大寺宝塔院に入ります。

西大寺奈良時代孝謙上皇の発願によって建立され、南都七大寺の一つに数えられた大寺院でしたが、平安時代に衰退し、叡尊が入った頃は災害などですでに多くの堂塔が失われていて、興福寺支配下にありました。

西大寺で、戒律の研鑽を進めた叡尊は、翌1236(嘉禎2)年、同志であり、後に唐招提寺中興の祖となる覚盛や、円晴有厳らとともに、自誓授戒を行います。

自誓授戒とは、適切な戒師がいない場合、仏前で自らに菩薩戒を授けるというもの。

叡尊らは東大寺で一度授戒を受けた官僧であったはずなので、自誓授戒するということは、国家による僧としての公認を、自ら否定するに等しい行為でした。

叡尊たちは自誓授戒を行うことで、東大寺などで行われる国家公認の授戒を、形骸化して堕落したものであると批判し、旧来の国家公認の仏教からはっきりと決別する意思を示したわけですね。

 

同年、叡尊は地頭による略奪などで西大寺が荒廃したこともあって、龍王に移りますが、1238(暦仁元)年に海龍王寺の衆僧と持戒の在り方を巡って対立。再び西大寺に戻り、以後ここを拠点として、戒律復興に尽力することになります。

西大寺 本堂

大和、山城、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨など、現在の近畿地方を中心に、叡尊自ら遍歴、遊行し、世俗在家の人々を対象に授戒活動を行いました。

国家権力の力を借りずに自ら勧進し、官僧の世界を離れた叡尊の姿は、いわゆる鎌倉新仏教の開祖たちと差異がなく、これを根拠に、叡尊が興した真言律宗教団を、鎌倉新仏教と主張する学者も存在しています。

また、それまで朝廷が独占的に許可していた戒壇を、独自に設置したことも画期的であり、叡尊真言密教律宗をその信仰の母体としながらも、国家権力から信仰面で距離をとったことは、旧来の仏教とは大きく一線を画した姿であるといえるでしょう。

 

弟子忍性と非人救済

叡尊の布教活動で特筆される事跡に、非人の救済があります。

中世の非人は、自然災害による集落の荒廃や貧困、権力者の暴政、ハンセン病などの病といった、様々な要因で地域の共同体から離脱を余儀なくされ、卑賤視された人々でした。

9~10世紀にかけ律令国家が崩壊していく過程で史料上出現し、11~12世紀にかけては集住化も進み、畿内各地の宿場周辺にその姿が広がっていきます。

従来仏教では救済の埒外にあった非人たち。

叡尊は、そんな彼らを『文殊経』を拠り所に、「文殊菩薩の化身」と見立てて供養し、戒律を授ける活動を始めます。

 

この非人救済のきっかけとなったのが、忍性を弟子としたことでした。

忍性は伴氏の出身で、1217(建保5)年、大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれました。

幼いころから母の影響で、知恵の仏であるとともに、貧民救済の仏でもある文殊菩薩の熱心な信仰者になり、母の死を契機に16歳で出家。額安寺や生駒の竹林寺文殊信仰の修行をしていましたが、1239(延応元)年、23歳の時に叡尊から授戒し、その弟子となって西大寺再興の勧進聖に加わりました。

忍性の文殊信仰から大きな影響を受けた叡尊は、それまで仏教から無視され続けてきた非人への救済活動を始めたのです。

 

ただ、民衆への布教を唱えながらも、叡尊は学者気質だったのか、実際に庶民と交わって布教することは苦手だったようで、実際の非人救済や民衆布教は忍性に任せていました。

また、忍性が非人だけを救済することは、さらなる差別の助長につながると、すべての階層の人々に対する救済を志向したのに対し、叡尊はあくまで非人救済に専念すべきと、両者の間には温度差もあったようです。

叡尊ハンセン病の患者を前世の因縁によるものと、当時としては一般的な差別的価値観も持っており、現在的な人権感覚で庶民の救済を行ったわけではないことには、注意を払っておくことも必要でしょう。

それでも、当時の卑賤視の壁を越え、差別や貧困に苦しむ多くの人々を救済した事実は、叡尊の大きく評価される事跡と考えていいんじゃないでしょうか。

興法利生

叡尊が布教の根本理念としたものが「興法利生」です。

「興隆仏法」「利益衆生」を合わせた語で、仏法の興隆と民衆を救済することを一体に捉えたもので、身分を問わず在家の人々に授戒したほか、多くの荒廃した寺院の修復・復興を進め、その名が広く知られるようになりました。

1262(弘長2)年には、天変地異や飢饉疫病の頻発に苦慮していた幕府に招かれ、関東に下向。時の最高権力者である執権北条時頼に拝謁授戒を果たし、広く鎌倉の人々に律を講じます。

この時、時頼からは西大寺復興のための支援や寺領寄進の申し出がありましたが、政治権力が信仰へ介在することを嫌った叡尊は、この申し出を断りました。

権力に接近しても、その経済的援助を受けない点で、叡尊の対応は一貫していたといえますね。

また、1279(弘安2)年には亀山上皇、1284(弘安7)年には後深草上皇に授戒し、皇族公卿にも広くその教えを広めていきました。

 

また、叡尊は長らく閉ざされていた尼僧への授戒の道を、開いたことでも知られます。女性の救済の道を説いた点でも、叡尊は旧仏教とは一線を画す、鎌倉新仏教に特徴的な信仰を持っていたことが伺えますね

 

このように叡尊は、非人から執権、皇族にいたるまで戒を授け、貴賤を問わず帰依を受けました。

鎌倉仏教で活躍した僧の中でも、ここまで同時代に生きた幅広い階層の人々から支持を集め、帰依された人物は、叡尊をおいて他にいないでしょう。

生涯で、道俗97710人に菩薩戒を授け、新たに建立した寺院は100を超え、修築は590余所、最盛期に西大寺の末寺は1500余寺を数えるなど、叡尊の興した戒律復興運動は同時代の大きなムーブメントとなりました。

あくまで旧仏教の改革者というイメージが強く、他の鎌倉新仏教の開祖たちに比べると、知名度が低い叡尊ですが、その事跡を考えれば、もっと評価され、その名や業績が知られてよい人物ではないでしょうか。

 

<参考文献>

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikushigaku/35/0/35_KJ00009273543/_pdf/-char/ja