大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

思ってたんと違う(5)前近代の罪と罰

皆さんこんにちは。

 

悪いことをしたら捕まって、裁判を受けた後、罰を受けます。

現在では当たり前のことなんですが、前近代、とりわけ中世以前では、その様子はずいぶん違ったものでした。

今回は、そんな今と違う前近代の刑罰事情や治安のあれこれをご紹介します。

 

平安時代に「死刑」はなかったのか

平安時代は「死刑」がなかったと聞くことがあります。

巷間よく広まっているのは、平安初期に起こった薬子の変(810年)で藤原仲成が処刑されてから、保元の乱(1156年)の戦後処理で処刑が実施されるまでの間、政府公認の死刑は行われなかった、というもの。

でも、これって実際に正しいんでしょうか。

たしかに、時の政権から捕らえた罪人に死刑命令が出たというのは、薬子の変から保元の乱までなかったのかもしれません。

しかし実のところ、実態としての死刑の命令は頻繁に出ていました。

いわゆる「追討令」がそれにあたります。

追討令は、謀反人や、山賊、海賊に対して出されるものですが、これは単純に言うと、「対象者に追手を差し向けて殺害せよ」というもの。

要するに対象者を生け捕りにせず、現場で処刑しろということなので、実態としては死刑制度だったといってよいでしょう。

※なんか死刑制度廃止してるけど、凶悪犯は現場で撃ち殺しちゃう国みたいな感じもします。

 

ちなみに、2022年の大河ドラマ鎌倉殿の13人」のクライマックスである承久の乱は、一般には後鳥羽院鎌倉幕府に戦争を仕掛けたものと理解されますが、実際には後鳥羽院北条義時追討令を出したことから始まります

つまり、外形上は鎌倉幕府という組織に対して兵を差し向けたというのではなく、義時個人を処刑・殺害するため挙兵・追捕の兵を募ったということなんです。

 

追討令は平安時代の中頃から平将門藤原純友といった地方の大規模反乱首謀者はもちろん、各地の盗賊、海賊に対しても盛んに発せられることになりました。

その背景には、律令国家の軍団制が崩壊したことによる、治安の崩壊があるでしょう。警察も軍事も、地元の有力者や荘官、後には武士にアウトソーシングされ、罪人・謀反人の追討令がたくさん出たわけです。

また、平安時代以降、中央の貴族たちの間には犯罪そのものや、犯罪に対する刑の執行といった行為に、強いケガレ意識と忌避感が生じてきます。

これが、治安維持や刑の執行といった、中世には検断と呼ばれる行為の実務について、アウトソーシングする流れを、ますます加速させたんでしょう。

 

保元の乱以降、貴族から治安と軍事を請け負っていた平清盛源義朝といった武士たちが、本格的に政権の中心に入る時代になり、死刑が「復活」するというのは、必然だったと思えます。

 

盗みは殺人と同じ!?

戦国時代、日本にやってきた宣教師、フランシスコ・ザビエルルイス・フロイスが、本国への報告で、そろって書き残しているのが、日本では盗みを犯した者は、それがたとえ少額であったとしても死刑となる、ということでした。

そのため、泥棒が少ないというようなことも、書いてあるのですが、窃盗で死刑になるというのは、現代人の私たちの感覚では、少し考えられない量刑ですよね。

ザビエルやフロイスも、私たちと同じ感覚であったようで、日本独特の風習として驚きとともに報告しています。

本当にそんなことがあったのでしょうか。

 

実際の中世以前の法令を見てみると、最初の武家法典である御成敗式目や、鎌倉末期に出された検断法令でも、殺人などが重罪とされるのに対して、窃盗の罪は軽罪と規定されていました。

御成敗式目以前の公家の法令でも、窃盗の罪は入獄を罰として適用するなど、公武を通じて支配層の窃盗に対する認識は、軽罪とするものであったといえるでしょう。

しかし、その一方で各荘園内で適用された本所法は、少し様子が違います。

鎌倉時代の本所法で好例とされる高野山領荘園の荘官起請文には、窃盗は「殺害等大犯」の一つに数えるほか、「殺害盗犯等重罪」と、殺人と並んで重罪と規定していました。

また、室町初期の1367(貞治6)年の『西大寺検断規式』にも、「家内の財宝、田畠の作毛を盗んだものは殺人と同罪」とあり、窃盗を重罪とみなす考えは、実際に人々が暮らす荘園内で適用される本所法では、一般的なものだったようです。

実際に、水泥棒や共有林から木や竹を盗んだものが、その罪を問われて殺されるといった事例は多く見られ、盗みが命を持って償うべき重罪であるという認識は、盗みの現場では、広く共有されていたと言えそうですね。

そう考えると、御成敗式目の規定は、むしろ過酷すぎる本所の量刑を緩和する、いわば「撫民」的な規定だったのかもしれません。

 

さて、ではどうして窃盗が重罪視されるようになったのでしょう。

実のところ、明確な理由は分かっていませんが、窃盗行為そのものが、原状回復不能な不浄な災いであると見られていたから、という説もあります。

その一つの証左として、検断権の行使によって没収された財物、これを検断物というのですが、これを検断権者の所有とすることが広く認められていたことが、知られています。

盗難被害にあった盗難品は、盗人が捕まれば、現在の私たちの感覚であれば被害者の元に戻すのが、道理のように感じますよね。

しかし、中世においては盗難されたものは、すでにこの世から失われた物として扱われ、結果、裁判官である検断権者によって没収されました。つまり、賠償などで償いようがない罪として扱われていたのです

この慣習は、フロイスが窃盗犯の処刑とともに、驚くべき慣習としてその報告に記しています。

 

現在の量刑感覚から見れば過酷と言える窃盗に対する死刑適用は、近世まで続き、徳川吉宗が定めた公事方御定書でも、家宅侵入や蔵を破っての窃盗や、10両以上の金銭を盗んだ者は死罪と定められていました。

盗みの罪に対する重罰観は、明治になって西欧の刑法が取り入れられるまで、根強く残ったと言えるでしょう。

ちなみに、現代刑法でも殺人と窃盗を一緒に行うと、死刑または無期という最も重い量刑になっていますが、これは西欧諸国も同様に極刑(死刑廃止国は無期拘禁など)の国がほとんどなので、日本の伝統というよりは国際標準なのだと思います。

 

殺人事件はほったらかしの無法地帯

今、日本で殺人事件が起これば、警察は独自に捜査をはじめ、犯人検挙に全力を挙げますよね。

これが中世までの日本では、殺人がたとえ起こったとしても、公権力はほったらかしでした。

殺人は大罪と、法令では定められているのに、全く取り締まられていませんでした。

社会不安を取り除くため、殺人が起きたあと、公権力が自発的に捜査を開始し、犯人検挙を行うようになるのは、江戸時代に入ってからになります。

殺人より、むしろ盗みの方が厳しく取り締まられた感すらあります。

これは、賊を取り締まることで、賊の財物を取り締まった者、検断権者が取得できるという風習に拠るところも大きかったのかもしれません。

 

前述の通り、平安時代、地方の治安が崩壊すると、日本は戦国時代が終わるまで究極の自己責任社会、自分の命や財産は自力救済が原則の社会になりました。

荘官や寺社といった層は、自衛のために武装し、力をもたない庶民はとても個人で生きてはいけないので、武士や寺社の庇護を受けたり、後に鎌倉末期から南北朝期には惣村を形成して、集団で自衛を図るようになります。

中世に山奥でポツンと独り暮らしなんて、とてもできたものではなかったでしょうし、共同体から追放されることは、即生存の危機を意味したと言ってもよいでしょう。

諸国を漂泊する芸能者たちも、座を組んで集団で行動するようになりますが、これも劣悪な治安状況が大きな要因だったと思います。

 

治安面を見れば、戦国時代が終わり、近世に入って村落や都市の治安が維持されるようになったのは、大きな飛躍だったと思います。

しかし、領主が切り替わる境界付近や街道沿いは権力の目が届かず、無宿人が賭場を開帳したり強盗も多発するなど、治安の悪さは相変わらずでした。

そうなると、旅人などは結局自衛するほかありません。

なので、実のところ庶民も、脇差や小太刀を護身用に携行し、武装することが許されていたんです。最低限、自分の身は自分で守ってねと、

庶民は丸腰というイメージが強い江戸時代ですが、腰に一本、脇差や短刀を差した旅人の絵は、浮世絵にも多数描かれています。

脇差を差す旅人『東海道五十三次之内(行書東海道)吉原』(安藤広重

また近世以降も、街道沿いの治安が悪かったことは、明治の初期、日本で初めて拳銃の携帯を認められたのが、街道を往来して郵便物を運ぶ、郵便配達員であったことでも明らかだろうと思います。

 

明治維新後、全国の警察力が強化され、刑法をはじめとした刑事法制がととのったことで、ようやく日本は、庶民が一人でも安心して暮らせる国になったのだと思います。

前近代、中世などは町を歩くのも命がけだったことを思うと、今の日本はありがたい国になった、今さらながらに思いますね。

 

ここまで、中世から近世にかけての犯罪と刑罰、治安の状況などご紹介しました。

現在の私たちの感覚が、戦国時代の日本人より、同時代の西洋人であるザビエルやフロイスに近いというのは、面白いですね。

明治維新後、西洋の法文化を積極的に導入し、100年以上運用してきたことで、罪と罰に対する意識が、かなりの部分西洋化されてしまったということなのかもしれません。

 

<参考文献>

網野善彦をはじめとした、日本中世史の碩学たちが語る中世の犯罪と刑罰。

盗みは殺人、悪口は流罪など、現代社会とは全く違う中世社会の姿が、とても分かりやすく浮き彫りになる一冊です。