室町時代は一般に将軍権力が弱く、有力守護大名たちのパワーバランスによって、不安定ながらも秩序が守られていた時代です。
そんな室町時代で三代将軍・足利義満は、守護大名達の家督争いに介入してその力を分散し、巧みに対立する各守護家家中の派閥と合従連衡を繰り返すことで自らのプレゼンスを高め、室町時代を通じて最高の権勢を誇りました。
以後、この手法は歴代足利将軍たちの常套手段となり、六代・義教、八代・義政へと引き継がれていきます。
前回は、万人恐怖と恐れられた六代将軍・義教が嘉吉の変で暗殺された後、大和国で10年以上も続くことになった興福寺の権益・川上五ヶ関を巡る争乱について紹介しました。
義教の死によって復活した畠山持国は、管領になると大和の紛争に介入し、義教によって没落していた旧南朝方の越智氏や大乗院門跡だった経覚を支援して、大和の戦乱を再燃させます。
一方、中央政局で畠山氏と主導権を争う細川勝元は南北朝争乱以来、幕府に従順な筒井氏、成身院光宣を支援して大和国の争乱は畠山氏と細川氏の代理戦争の様相を呈しました。
この戦いのさ中、後に京の都を焼き尽くす応仁の乱最大の火種になった、畠山氏家督を巡る争いが勃発することになります。
畠山氏の内訌
幕府の実力者だった畠山持国は、嫡流の男子に恵まれず、側室との間に次郎という男子が一人だけいました。
しかし、次郎の母親はどうやら遊女であったらしく、出自の低さもさることながら持国自身が実子であることを確信できなかったためか、次郎は嫡子とされず石清水八幡の社僧に出され、持国は実弟の持富を跡継ぎとしていました。
ところが1448(文安5)年、成長した次郎の姿に実子であることを確信して親心を抑えきれなかったのか、持国は次郎を呼び戻して持冨への家督継承を突然撤回してしまうのです。
次郎は元服して義夏と名乗る一方、持富自身は自身の廃嫡に異を唱えることはなかったものの、畠山氏の被官の中には守護代・神保氏をはじめ、この決定に反対する勢力が形成され、畠山家中は分裂の様相を見せ始めます。
この家中分裂には畠山氏に内在した家臣団の対立がありました。
持国が将軍・義教から隠居を余儀なくされたとき、古くからの被官である神保氏らは、持国を積極的に守ろうとしなかったため、持国はこれに遺恨を抱き、復権後は自分に忠実だった一部の家臣を重用して、神保氏らを冷遇していたのです。
義教が打った畠山氏への楔は、嘉吉の変から10年以上経ても、しっかりと効いていたと言えるでしょう。
1450(宝徳2)年に持富が死去すると、義夏の家督に反対する一派は持富の子である弥三郎を擁立しようと動き始めます。
この家中分裂の動きに持国は、1454(享徳3)年4月、弥三郎方の神保氏らに謀叛の嫌疑をかけて誅殺・追放し、断固として義夏に家督を継がせようとしました。
この持国の動きを将軍・足利義政も支持。義政は持国の求めに応じて弥三郎の討伐令も出しました。
持国による家中の粛清から逃れた弥三郎は、持国の政敵である細川勝元に助けを求めます。
かねてより畠山氏の弱体化を狙っていた勝元は、将軍・義政の意向に背いて弥三郎を家臣宅に匿い、支援の姿勢を見せます。
また、弥三郎の家臣たちもそれぞれ牢人となり、嘉吉の変後に赤松氏を討伐して幕府の重鎮となっていた山名宗全がこれを庇護しました。
後の応仁の乱では袂を分かつ宗全と勝元ですが、勝元は宗全の養女を妻に迎えており、この頃の両者は協調関係にあったのです。
細川、山名という幕府の二大大名が味方したことで、畠山家中の大部分が弥三郎方に付いた他、大和の成身院光宣や筒井順永も勝元に同調して弥三郎の支持に回りました。
8月になって弥三郎方の牢人たちが京都の持国邸を襲撃すると、持国は隠居に追い込まれ、義夏は京都を追われて伊賀に落ち延びました。
元々持国、義夏に与していた将軍・義政は、この事態に大いに不満ながら、軍事的に弥三郎方の勝利が確定してしまったため、9月に上洛した弥三郎と面会して討伐令も取り消します。
しかし、将軍・義政はよほど腹の虫がおさまらなかったのか、形として喧嘩両成敗としようと、弥三郎を匿っていた勝元の被官を処刑するように命じました。
当然勝元はこれに反発して管領の辞任を申し出ると、ここで勝元に去られては困る義政は命令を撤回。
今度は矛先を山名宗全に向け、11月には諸大名に対して宗全の討伐令を出します。
岳父・宗全の赦免を願う勝元の取り成しで討伐令は撤回されたものの、12月になると宗全は但馬へ逼塞を余儀なくされました。
京都から宗全がいなくなると、なんと義政は軍勢を率いた義夏を京都に呼び戻すのです。一度は渋々宗全の軍事力の前に、自らの意向を引っ込めた義政でしたが、宗全がいなくなった途端にやはり義夏を支援したいと考えたのかもしれません。
義夏の上洛で京都にいられなくなった弥三郎は、光宣、筒井氏を頼って大和へ逃亡を余儀なくされます。
翌1455(享徳4)年2月、義夏は義就(よしひさ)と改名。翌月父持国が死去するとついに畠山家の家督を継ぎました。
義就は同年7月、ついに弥三郎を追って大和へ侵攻。
これに弥三郎は筒井氏、箸尾氏とともに迎え撃ちましたが、大敗を喫します。
翌8月には弥三郎方の筒井順永、箸尾宗信は敗走して国外へ逃亡し、光宣は鬼薗山城を放棄して逃亡しました。
こうして弥三郎方に付いた光宣や筒井氏、箸尾氏が没落する中、持国・義就方であった越智家栄、古市胤栄が再び勢力を盛り返して、大和の主導権を奪うことになります。
1457(長禄元)年10月には幕府により筒井氏、箸尾氏の所領が没収され興福寺に寄進され、翌1458(長禄2)年9月には大和の争乱の中心地となっていた鬼薗山城が、興福寺衆徒によって破却されました。
大和の攻防と義就の逼塞
畠山義就は弥三郎との抗争で、南山城、大和国にその勢力を扶植していきましたが、度々義政の上意と偽って兵力を動員したため、次第に義政の信用を失っていきます。
この機運を読み取ったのか、義就の勢力伸長を抑えたい勝元は、1459(長禄3)年5月に光宣、筒井順永、箸尾宗信らの赦免を斡旋すると、6月には順永、宗信らを大和へ帰国させました。
7月に入ると畠山弥三郎も赦免されて上洛しますが、間もなく弥三郎は急死。
旗頭の死は弥三郎方にとって激震でしたが、光宣によって弥三郎の弟・政長が擁立され、速やかに反撃体制が整えられます。
この政長擁立によって、とうとう光宣は畠山氏家督問題の当事者となってしまいました。
こうして大和の混乱は完全に畠山氏の内訌と分離不能の状態に陥って、拡大の一途をたどることになります。
筒井城に戻った順永は、同年7月に越智方・小泉氏の「小泉館」(現大和郡山市小泉町。小泉陣屋と同地)を陥落させ、小泉重栄らを自害に追い込みました。
翌8月には同じく越智方・番条氏の居城、番条城を攻撃。
『大乗院寺社雑事記』長禄三年八月二日条には、番条長懐父子は城を焼いて逃亡し、多くの郷民が濠に落ちて溺死したとあり、現在はのどかな田園が広がる農村の環濠で、凄惨な戦いが繰り広げられたことがうかがえます。
旧領と隣接する小泉・番条といった地域を抑えた順永はその余勢をかい、箸尾宗信と協力して、越智家栄に奪われた佐味(現奈良県田原本町佐味)を攻撃。
畠山義就も家栄へ援軍を出しましたが筒井・箸尾連合軍の前に敗退してしまいます。
いったんは義就方に駆逐された筒井、箸尾の両氏は、着実に旧領の回復を進めて勢力の巻き返しに成功しました。
大和で政長方の勢力が勢いを取り戻す中、義就は紀伊でも根来寺との合戦で大敗を喫するなど、畿内での勢いを失います。
そんな中、1460(長禄4)年9月に幕府は弱り目の義就に対して、自身の隠居と家督を政長に譲るよう命じました。
これに不服の義就は京都の自邸を焼いて河内へ下り、公然と幕府の裁定への不満を表明します。
この態度に怒った将軍・義政は政長に畠山家家督を認めると、同年閏9月に近畿諸国の武士に義就追討を命じたのです。
この時、大和武士たちへの義就追討命令は、管領・細川勝元から光宣を通じて行われており、ベストセラーとなった呉座勇一さんの『応仁の乱』では政長の家督継承と義就追討は勝元・光宣のラインで画策、推進されたものとの見方が提示されています。
この追討令を受けて畠山政長は奈良に下向し、義就の領有していた大和国宇智郡(元奈良県五條市付近)へ攻撃を加え、自身も光宣とともに龍田城へ入って義就の本拠・河内侵攻の準備を進めます。
しかし、ここで政長、光宣に大きな誤算が生じました。
将軍・義政から義就追討令を受けた多くの大和国人が、これをサボタージュする動きを見せたのです。
将軍からの追討令があるため、本来義就に大恩ある越智家栄らも義就方への加勢はしなかったものの、政長・光宣の追討軍にも加わらず、越智、番条、小泉、万歳らは従軍を拒否しました。
思うように兵が集まらない龍田城の政長・光宣方に対し、義就は多勢を恃んで積極策に転じ、河内から大和へ出兵します。
義就は信貴山に本陣を置くと、本隊で政長が籠る龍田城に攻め込み、別動隊を政長・光宣方の拠点・嶋城に向かわせて攻撃を掛けました。
ちなみに、この戦いが戦国期に筒井順慶、石田三成の家臣として名を馳せる島左近の一族・嶋氏の居城とされる嶋城が、史料上現れる初見となります。
龍田城を攻撃する義就に対して、政長・光宣方は虚を突かれた形となりましたが、筒井順永が手勢50を率いてその背後を襲うと、戦況は一変。
城と後方から挟撃された義就方は総崩れとなり、龍田城から竜田川を挟んで南西岸にある三室山へ撤退しました。
政長はこれを追撃すると、義就方は多くの将兵が討ち死にして敗走。
信貴山の義就は先陣が崩れると陣を引き払って河内に撤退し、嶋城に攻めこんだ別動隊も退却して、義就方の攻撃で始まった龍田合戦は、政長・光宣方の勝利に終わりました。
この戦いに敗れた義就は河内の嶽山城に籠城します。
嶽山城を攻撃した幕府軍の主力は、筒井順永、箸尾宗信ら大和勢で、光宣は畠山政長の参謀として作戦を指導しました。
籠城戦は、2年以上にもおよびましたが、1463(寛正4)年4月に光宣の計略で嶽山城南東の国見山が占拠され、糧道を断たれた嶽山城はついに陥落。
義就は吉野へ逃亡して、逼塞を余儀なくされました。
同年8月、将軍・義政の生母が亡くなると、恩赦で義就の討伐令は取り消されましたが、義就は越智家栄の後援の下、天川での潜伏を続けることになります。
文正の政変
1464(寛正5)年、実子のいなかった将軍・義政は、出家していた弟・浄土寺義尋に後継者となるよう頼み、義尋は還俗して義視と名乗りました。
ところが翌1465(寛正6)年11月、義政に実子・義尚が誕生して事態が複雑化します。
義政は、義視→義尚の順で将軍を継承させようと考えていたようですが、当時幕府を支えていた3つのグループはそれぞれの思惑で動き始めるのです。
グループの一つ目は、伊勢貞親を中心とする義政の近臣グループです。
義尚の乳父(養育係)であった貞親は、義視の将軍任命を望まず、義政から直接義尚に将軍位が継承されることを強く希望していました。
一般に義尚実母で将軍御台所であった日野富子が実子の将軍継承を希望して、義視の排除に動いたと語られがちですが、実は義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は悪くなく、積極的に義視排除の動きを見せたのは貞親ら、義政の近臣グループだったのです。
ちなみにこの貞親に仕え、その片腕として活躍していた伊勢守定の子が、伊勢新九郎盛時。後の北条早雲です。
伊勢新九郎は後に義尚の側近として仕えましたが、これは貞親の口添えがあったとする説もあります。
この貞親らと当時激しく対立していたのが、山名宗全を中心とするグループでした。
宗全は領土的な競合関係にあった赤松氏の再興問題や管領家である斯波氏の家督継承をめぐる争いを通し、貞親ら義政の近臣グループとは対立関係にありました。
政敵である貞親らを排除して、義視を将軍にして義政を隠居させ、管領には後援している斯波家当主で娘婿の斯波義廉を就ければ、それは宗全が幕府の実権を握ることを意味したのです。
もう一つのグループは細川勝元で、前年に管領職を畠山政長に譲ったものの、政長は勝元の後援なしには自立できなかったため、事実上、幕府の最高権力者と言えました。
勝元は将軍後継については義政の意向どおり義視→義尚で問題ないと考えていたようです。
この三者の微妙なパワーバランスの下、当時の幕政は動いていましたが、1466(文正元)年にこの鼎立は崩れました。
この年、伊勢貞親の意向に従い、将軍・義政は斯波氏の当主を義廉から貞親らの推す義敏に挿げ替えるのです。
これに義廉を支援していた宗全は強く反発します。
また、伊勢貞親は細川氏と明との勘合貿易利権を巡って対立し、幕府から討伐令を受けた大内政弘も赦免。
これには勝元も隠居を申し出るなど強い不満を表明し、貞親ら義政近臣グループと山名、細川グループの対立が先鋭化したのです。
同年9月、貞親による「義視謀叛」の讒言を信じた将軍・義政は義視の誅殺命じます。
この事態に義視が山名宗全と細川勝元に助けを求めると、宗全と勝元は手を組んで義政に抗議し、貞親や斯波義敏は失脚しました。
この事件を文正の政変といいますが、勝元の屋敷に入った義視は事実上の将軍として政務を開始し、細川、山名の両大名が義視を支える体制が構築されます。
しかし、この事態に一度は貞親の讒言に乗った義政は、臆面もなく義視に害意がないことを誓い、全責任を貞親らに押し付けてしまうのです。
事態の穏便な収束を図りたい勝元は、義政の政務復帰を認め、貞親らを追放したうえで義視を元の屋敷に戻しました。
義政の政務復帰に不満を抱いたのは、義視を将軍に据えたいと願っていた宗全で、貞親という共通の敵を排除するために共闘した勝元と宗全でしたが、そもそも政権構想の違う両者の対立は、水面下でくすぶり始めていたのです。
大乱の引き金~布施・高田の戦いと御霊合戦
京都で政変が起きるのと前後して、大和では天川に逼塞していた畠山義就が活動を再開していました。
文正の政変が起こる直前の1466(文正元)年8月25日、義就は天川を出て壷阪寺(現奈良県高取町)に移り、9月2日には河内へ移動して烏帽子形城(現大阪府河内長野市)を攻撃し、翌日これを陥落させます。
この義就の動きについて『大乗院寺社雑事記』の八月二十五日条には「京都儀以外故、相侍時宜分歟云々、」とあり、文正の政変と連動した動きではないかと見られていました。
軍事行動を再開した義就に対し、管領の政長は家臣を河内に派遣してこれを鎮めようとします。
しかし、9月5日に文正の政変が起こると、時局混乱の拡大を望まない勝元は、筒井順永に義就への攻撃を禁止しました。
勝元により反応を鈍らされた政長方に対し、義就方は攻勢を強め、ついに9月25日には越智家栄が布施氏(現奈良県葛城市付近の国人)、高田氏(現奈良県大和高田市付近の国人)といった政長方国人の領地に焼き討ちをかけます。
大和で攻勢を強める義就方に危機感を高めた光宣が、上洛して勝元、政長に援軍を要請。
ついに10月、勝元は政長へ大和への出陣を命じると、義就も大和で越智家栄と合流して、現在の御所市付近で決戦の様相を見せます。
この時期の両畠山氏の主たる国人たちの勢力分布は下図の通りで、この決戦は大和国人を政長方、義就方に分け、中立を守った十市氏以外の主要な国人を巻き込む大規模なものになりました。
なお、この時の政長方、義就方に分かれた国人の分布は、ほぼそのまま応仁の乱における東軍(政長方)、西軍(義就方)となっていきます。
10月16日、畠山義就と越智家栄が布施城に攻撃を開始。
堀を柴で埋めて城内に突入し、布施城を陥落させると高田氏も城を捨てて逃亡しました。
総崩れとなった政長方は、布施氏、高田氏が箸尾城に逃げ込み、筒井順永も箸尾城に入りました。
布施城(現奈良県葛城市)、高田城(現奈良県大和高田市)を陥落させ、中南和地域まで勢力圏を伸ばした義就は河内に帰国します。
この両畠山氏の大和における抗争は、11月になると中立を守っていた十市遠清の仲介により、いったん和睦となりました。
背後には、文正の政変後の混乱拡大を望まない細川勝元の動きがあったともいわれます。
しかし、河内・大和で勢力を増す義就に注目する人物がいました。
山名宗全です。
政変後の混乱を政権奪取のために利用したいと考える宗全は義就に接近。討伐令を受けている義就の上洛を促しました。
勢いに乗る義就を自陣に引き込めば、京都における軍事的プレゼンスで細川勝元に対して優位に立てる宗全は考えたのです。
また、圧倒的な武威を示せば、将軍・義政は自分の要求を呑むという宗全の計算もあったかもしれません。
宗全の誘いに乗った義就は、年の瀬の12月26日、軍勢を率いて上洛を果たし、千本釈迦堂に陣を構えました。
義就の無断上洛に将軍・義政は怒りましたが、翌1467(文正2)年正月、事態が急転します。
山名宗全、畠山義就の京都における軍事的優位性を認めた将軍・義政は、無節操にも義就を許したうえで義就支持に態度を急変、1月6日に政長を管領職から罷免して屋敷を義就に明け渡すよう命じました。
この事態に政長不利と見た奈良の光宣は、軍勢を率いて上洛します。
さらに義政は、宗全が推す斯波義廉を新たな管領に任命し、事態は宗全の望み通りに進みました。
勢いがある方の要求に定見なく応じ、その場しのぎの対応を繰り返す将軍・義政の行動がここでも繰り返されたのです。
義政にすれば、決定的な武力衝突を避けるにはそれしかないと判断したのでしょうが、事態は悪化の一途をたどります。
義政の決定に不服の畠山政長、細川勝元、京極持清らは、軍勢を率いて将軍御所を包囲して脅迫する、いわゆる「御所巻」を行って義政を翻意させようと計画しました。
しかし、その動きをいち早く察知した山名宗全は、1月15日に「警備」の名目で畠山義就、斯波義廉とともに御所を占拠。将軍・義政の身柄を抑えます。
翌16日には足利義視の身柄も将軍御所に移し、足利一族という「玉体」を確保して事実上のクーデターを成功させたのです。
将軍の信認を失った大名は、京都から領国などに去って逼塞・謹慎することが通例で、失脚した畠山政長も以前のように大和などへ落ちていくものと思われました。
しかしこの時、政長は屋敷に火をかけると軍を率いて北上。将軍御所の北東にある御霊神社に陣を布き、御所をうかがう姿勢を取ったのです。
さらに細川勝元、京極持清はそれぞれ将軍御所の西と南に布陣して、宗全らの籠る将軍御所を包囲して軍事的衝突も辞さない構えを見せました。
ここで御所への攻撃を恐れた義政は、細川、山名へ両畠山の戦いへの介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させ、勝った方を支持するという、無定見の極みともいうべき姿勢を示します。
無定見な将軍・義政の一貫した姿勢は「勝った(または勝ちそうな)方の味方」だったと言えますが、結局、力が強い方が正義というのであれば、将軍の存在価値など無きに等しく、義政の一連の行動は自身だけでなく、以後の足利将軍の権威を大いに傷つけることになりました。
1月18日、畠山政長が陣取る御霊神社に畠山義就の軍勢が攻めかかり、御霊合戦が始まります。
この戦いに細川勝元は将軍・義政の命を守り、不介入の姿勢を貫きました。
しかし、一方の山名宗全と斯波義廉は義政の命令を無視して義就に加勢。
政長は敗走後、光宣の計らいで細川勝元邸に匿われ、戦いは義就の勝利に終わったのです。
この戦いで、細川勝元は味方である政長を見殺しにしたという悪評に晒され、宗全の約定破りによって武士としての面目を完全に失う形となりました。
ヤクザの抗争と同じで、売られた喧嘩に報復しなければ、子分たちの信を失うのが中世武士の世界です。
勝元にとって御霊合戦における政長の敗戦は、復讐して恥を雪がないかぎり、恃むに足りない大将として求心力を失い、幕府内における派閥領袖としての自己の存立にかかわる問題となってしまったのです。
ここに至って、細川勝元と山名宗全の関係は完全に破綻しました。
御霊合戦の結果、幕府の実権を握った山名宗全、畠山義就、斯波義廉は1月23日には、興福寺に対して、畠山政長とそれに与した筒井氏一党の追捕を命じ、小競り合いが続きましたが、次第に抗争は小康状態に入りました。
そして3月5日、京都での戦乱(御霊合戦)という凶事が起こり縁起が悪いという理由で、元号が文正から応仁に改められます。
日本史上最大の大乱、応仁の乱が始まるのは、これから2か月後のことでした。
次回はこちらです。
参考文献
『富田林市史 第2巻 (本文編 2)』 富田林市史編集委員会 編
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