大和徒然草子

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知られざる島左近ゆかりの城跡スポット・平群中央公園(2)西宮城

皆さんこんにちは。

 

二つの中世城郭が敷地内に含まれる都市公園平群中央公園

前回は公園内の城跡のひとつ、下垣内城をご紹介しました。

 

今回は公園内のもう一つの城跡、西宮城をご紹介します。

 

馴染み深いご近所の児童公園が、実は有名な戦国武将ゆかりの城跡。

西宮城跡は、そんなことが実際に体感できる場所になります。

妻の実家のすぐそばにある公園で、子どもを連れて実家に帰った際によく遊びに行く場所なんですが、今回は城跡巡りも兼ねて訪れました。

 

西宮城とは

西宮城の場所はこちら。

近鉄生駒線平群駅竜田川駅の中間付近にある平群中央公園内にあります。

電車の利用なら竜田川駅から徒歩15分の場所になります。

公園内に駐車場があるので、自動車の利用が便利です。

 

西宮城という名前は後世所在する大字から取られた名前で、同時代に何と呼ばれた城なのか、築城年も廃城年も判然としない城郭です。

城郭の立地が、中世、平群の有力国人であった嶋氏の支配地域であったことから、嶋氏が拠点とした「嶋城」と比定されている城郭になります。

嶋城の有力候補としては、西宮城から真東の山腹に築かれた椿井城もありますが、古くからの集落にも近く、西宮城を平時の居館、椿井城を戦時の詰城として使い分けていた可能性もあります。

嶋城が文献上はじめて登場するのは1460(長禄4)年で、畠山義就(よしひろ)の軍勢に攻め込まれたところを、筒井順永の後詰により撃退したという記述が『経覚私要鈔』や『大乗院寺社雑事記』にあり、応仁の乱の前段階である三管領の一家・畠山氏家督を巡る争乱の前線にあったことがうかがえます。

 

1559(永禄2)年に松永久秀が大和侵攻を開始すると、西宮城も松永方に占拠され、久秀の大和支配の拠点となった信貴山城の支城となりました。

 

 

現在の城跡

それでは現在の城跡の様子をご紹介します。

城域の主要部(主郭、副郭)は、平群中央公園内で児童用遊具がいくつか設置されている冒険広場となっています。

公園中央にある時計台付近に、かつては堀切があって東側が主郭、西側が副郭となっていましたが、現在は堀もほとんどの土塁も埋め立てられています。

公園南側の来迎寺のあたりが、かつての城門跡(来迎寺の由来記より)とのこと。

 

中央公園内にある西宮古の前から城跡に臨みます。

冒険広場の目玉遊具である巨大スライダーが、かつての副郭から麓の三の郭に伸びています。

こういう大型の滑り台って、大人が滑るとほんとにお尻が痛いですよね…。

こちらのスライダーもなかなか痛かったです。何か敷物に座って滑ることをお勧めします(笑)

 

副郭の跡には、滑り台を中心とした遊具が並びます。

気候の良い時期には、近所の子どもたちが楽しく遊んでいる姿をよく見かけます。

訪れたこの日は、お盆の猛暑の時期だったので、うちの家族の姿しかありませんでした。(息子と妻の姿が少し映り込んでいました。。。)

 

公園の片隅に、この公園がかつての西宮城であることを示す案内板がありました。

現在の公園図に、西宮城の縄張り図が丁寧に書き込まれていて、往時の姿を想像するのに大いに役立ちます。

 

最初にお断りしておきます。絵心なくてごめんなさい。

案内図から、かつてはこんな感じだったのかなと、想像が巡ります。

時計台の東側が主郭、西側が副郭で、二つの郭の間は深い堀切で分断され、時計台南側の土橋で接続されていました。

 

現在の主郭部。

かつては大型のアスレチック遊具やシーソーも設置されていましたが、老朽化のため撤去されてしまい、いささか寂しい空間になっています。

 

主郭南側のベンチ裏、フェンス越しに土塁が確認できます。

現在西宮城の城跡で表面観察できる、数少ない遺構になります。

 

主郭の東端から西に臨みます。

おおよそ30m四方の広さですが、何もないと非常に広い空間ですね。

 

副郭にある巨大スライダー。

スライダーは三の郭の北側を抜け、かつての外堀付近が降り口になっています。

現在は堀も廓も埋め立てられ、往時の姿を直接見ることはできなくなっています。

城の北側は深い谷になっていて、谷の向こうが下垣内城になります。

両城の間は非常に近く、単一の城であったのではという指摘もうなずけます。

 

北側の谷から、公園にのぼる階段がありますが、このあたり主郭と副郭を分断した堀切のあった場所になります。

 

副郭からは信貴山城本丸であった信貴山雄嶽が非常によく見えます。

 

南側のかつて堀切だった場所。

視界が開けて奈良盆地の西半分は非常によく見えます。

丘の麓に見えるお寺は、融通念仏宗寺院の城峰山来迎寺

戦国期に再三の戦火に見舞われた西宮城の城門跡に、近郷の念仏講有志達が戦死者の霊を慰めるために坊を建てたのが、来迎寺の起源とお寺の由来記にありました。

 

西宮城の南側に来迎寺の山門があります。

境内のすぐ裏が西宮城で、ちょうど主郭と副郭を分断していた堀切があった場所になり、寺伝の通り入口の城門があっても不自然な点のない場所になります。

来迎寺から平群神社までの道路。

来迎寺が城の大手口であったならば、大手筋だったと考えられます。

 

来迎寺から続く道筋に、平群神社があります。

創建年は不明ですが、927(延長5)年成立の『延喜式神名帳では式内大社に列せられた古社で、元々古代氏族平群の祖霊を祀っていたとみられるお社です。

現在のご祭神は大山祇神

社殿は背後の西宮城に隣接して、急崖の中腹にあります。

ちなみに『日本城郭大系』によれば平群神社が城の入口であった可能性もあるそうで、その場合、来迎寺の東北に突出した小さな郭へ神社からの通路が伸び、郭で屈曲して城内に入るルートになります。

『日本城郭大系10三重・奈良・和歌山』から転載

このルートの場合、城門はいわゆる外枡形で、戦国末期に現れる形式となりますから、西宮城の築城年代は戦国末期まで下ることになってしまいます。

来迎寺の寺伝では応仁の乱以前から城があったと伝わるので、小郭は単なる陣所であったかもしれませんし、松永方に接収された後、大手に改修された可能性もあります。

色々と想像は尽きませんが、西宮城の大手が確定すれば、その形式から築城年代は推定できるので、史料に出てくる「嶋城」が、西宮城と椿井城のどちらなのかを判定する大きな証拠になるかもしれないですね。

 

西宮城を西に臨みます。

現在は丘陵部全体が木々に覆われていますが、往時は平群神社の鎮守の森だけで、城から平群谷を一望できたのでしょう。

 

今まで児童公園としか見ていなかった冒険広場も、城跡としてみると、土塁や切岸などのかすかな痕跡も残っていて、違った見え方がしました。

遊具の老朽化で公園も再整備の必要があるかと思いますので、子どもたちの遊び場として引き続き利用するとともに、あわせて城跡公園としての整備を進めるのも、観光だけでなく、郷土の歴史を子どもたちに伝えていく点で、有意義な公園活用の道だと考えますので、今後どのようになっていくのか注目したいと思います。

 

おすすめの宿

今回ご紹介した平群中央公園の他、信貴山や紅葉の名所竜田公園など奈良県平群町近隣の観光拠点としておすすめの宿です。

場所はこちら。

お食事付きの日帰りプランや日帰り入浴も魅力的なホテルで、筆者も平群にある妻の実家に帰るたびに、家族で日帰り入浴を楽しんでいます。

散策で疲れた体を、日帰り入浴で癒してから帰路に着くのもおすすめです。

■日帰り入浴の利用時間    
11:00~20:00(受付終了19:30)

■入浴料金
大人800円(小学生を除く12歳以上)
子ども(小学生)600円

リンク

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