皆さんこんにちは。
中世、外敵に備えて村を濠で取り囲む環濠集落が、日本各地に発生しました。
近代以降、都市化の波にのまれて多くの濠が埋め立てられ、その姿を消していった中、奈良県は全国的にも比較的多くの環濠集落が往時の姿をとどめていることで知られています。
そんな奈良県内で全国的にも有名なのが稗田環濠集落。
こちらは以前当ブログでも紹介させていただきました。
この稗田環濠のすぐ南に、実はもう一つ、中世環濠の姿を実によくとどめた番条という集落があります。
史跡として整備されている稗田環濠と比べ、こちらは特に史跡として整備はされていませんが、地元の人々によって現在も大切に濠が守られ、貴重な日本の原風景が伝えられている場所です。
番条環濠とは
場所はこちらです。
古代官道である下ツ道に由来する中街道のほど近くにあります。
最寄りの駅はJR郡山駅ですが、歩くと距離がありますので、大和郡山市コミュニティバス「元気治道号」、番条町北バス停が便利です。
ただし、「元気治道号」は土日祝と年末は運休なのでご注意を。
番条環濠は、佐保川東岸の自然堤防を環濠で囲み、南北に連なる三つの曲輪を備えた、東西200m、南北710mという長大な環濠集落です。
『日本城郭大系』によれば、この三つの曲輪は元々独立した館城で、これを連ねて一体化した典型例であり、中世は番条城という城塞集落でした。
地図を見ると、集落中央の東西に道が走り、道から北に曲輪が一つあり、南側に二つの曲輪が連なります。
西は佐保川、北は菩提仙川、東は佐保川の後背湿地に囲まれ、平地ながら城塞を築くには適した要害の地だと思います。
番条城の成立年代は明らかではありませんが、室町中期から戦国初期には、既に大規模な城郭としての機能を備えていたようです。
番条城は中世を通じて、大乗院方の衆徒であった番条氏の拠点で、番条氏は応仁の乱以前は越智氏に与して近郷の筒井氏と激しく抗争。1459(長禄3)年には筒井氏に攻められて大規模戦闘になり、多くの郷民や武士が濠に落ちて死んだと『大乗院寺社雑事記』にあります。
応仁の乱後、番条氏は筒井氏に属しましたが、戦国時代後期になり、筒井順慶と松永久秀の抗争が大和国で勃発すると、番条城は筒井城とともに両勢力攻防の地となります。
1568(永禄11)年、織田信長上洛後に、信長と同盟した久秀の手にいったん落ちましたが、1571(元亀2)年に順慶が辰市城の戦いで久秀を撃破すると、番条城は再び筒井方の城として復帰しました。
1580(天正8)年、信長の命で大和国内の郡山城以外の城が破却され、このとき番条城も破却されたと思われます。
近世、番条城が廃城となった後も、環濠集落として引き続き人々が集住し、集落北西で佐保川と菩提仙川が合流することから、河川港が置かれて大和川水運の要衝となりました。
菩提仙川の上流には清酒醸造で有名な正暦寺がありますが、天下の銘酒として名高かった正暦寺のお酒も、番条を経由するルートから大阪へ運ばれていたそうです。
番条環濠北
さて、いよいよ番条環濠に入っていきましょう。
集落の西側を流れ、西堀でもある佐保川です。
近世は大和川水運の動脈の一つとして機能していました。
町内を東西に横切る道路。
緩やかなクランクは、中世環濠集落を通る道路の特徴といえますね。
集落東側の庄屋口堀(北堀)。
集落東側の濠は、中世以来の姿をよくとどめています。
濠の東側は後背湿地の水田であり、実際に攻撃をかけるとなると、ここから攻めかかるのは厳しそうです。
『日本城郭大系』の縄張り図で「北の城」とある、集落の北側を巡ります。
こちらは、光明院大師堂。
熊野神社の神宮寺であった光明院が、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、大師堂だけが残されました。
弘法大師の命日である4月21日には、本尊の大師像が御開帳されるそうです。
廃寺となったため現在は無住で、御朱印は隣接する酒造会社の中谷酒造でいただけるとか。
なお光明院大師堂は、江戸時代中の明和年間(1764年~1772年)に開かれた、大和北部八十八ヶ所霊場の第六十四番札所になっています。
こちらは熊野神社前の東側の濠。
農業用水路として整備されています。
こちらは熊野神社。
番条氏の居館跡と推定されています。
境内を囲むように土塁が残ります。
神社の周囲は蓋がされていますが、水路がありました。
内堀だったのかなと想像します。
集落北東部の濠。
集落北側の濠。
左の土手は、菩提仙川の堤防になります。
北側は川と濠で二重に守る堅固な造りですね。
佐保川と菩提仙川の合流地点。
ここに河川港が置かれ、荷の積み替えなどが行われていたのでしょう。
再び集落内。蔵のある立派なお宅が立ち並びます。
こちらは幕末1853(嘉永6)年創業の中谷酒造。
全国新酒鑑評会で何度も金賞を受賞されている酒蔵です。
杉玉がいい色になっていますね。
広い敷地内には駐車場や試飲コーナーもあります。
この日は自動車に乗ってきたので、試飲は断念。日本酒好きの筆者には生殺し状態です(笑)
中谷酒造さんのお酒は通販でも購入可能。
大吟醸の三日踊は、辛口ですがしっかりとした甘みもあり、日本酒好きの方にはお勧めです。
番条環濠南
引き続き、集落の南側を巡っていきましょう。
こちらは、集落東側の辻堂堀(南堀)。
このあたりは、たいへん幅広の濠となっています。
創建年は定かではありませんが、過去帳から江戸中期の1718(享保3)年以前までに建立されたと考えられます。
本尊は大日如来で、廃寺となった光明院本尊の薬師如来もこちらでお祀りされているとのこと。
こちらのお寺も大和北部八十八ヶ所霊場の五十七番札所となっています。
こちらは念仏堀で、南側の二つの曲輪の境界になります。
この濠の名は、1459(長禄3)年に筒井氏との戦いで多くの戦死者が出たことに由来するとか。
現在の番条町の環濠はどこもそれほどの深さはない感じですが、戦国時代は水死者が出るほど深く掘り下げられていたのでしょう。
南の曲輪の東の濠である一堀。
幅1mあまりの水路となっていますが、堀の内側で草の生えている部分までがかつての濠跡なので、こちらもかなり幅広の濠であったことがわかりますね。
南堀を東側から望みます。
こちらは西側から見た南堀。結構高めに石垣が積まれています。
写真で縦に伸びているのが初堀、横向きの濠が横堀です。
こちらが環濠の南端になります。
南側は地形的に自然の要害がないため、南堀だけでなく、初堀、横堀と湿地を組み合わせて防備を固めたのかと思います。
集落の南西、佐保川の堤防にたつ藪大師の祠。
番条では1830(文政13)年にコレラが流行し、これを鎮めるため大師信仰が盛んになったのだそうです。
80余りある町内各戸で弘法大師像を祀り、4月21日には家の門や玄関に出してお祀りするそうで、集落全体が写し霊場となる全国でも珍しい地区です。
「番条のお大師さん」と呼ばれるこの行事の詳しい記事を見つけましたので、こちらも是非ご参照ください。
集落で脈々と受け継がれてきた風習で、特に宣伝などはされていませんが、当日は遠方から訪れる方もいらっしゃるとか。
各お家で自発的に取り組んでおられることでもあり、近年は高齢化や転出などで継続が非常に難しくなってきているとのこと。
こちらは藪大師にほど近い、南藪堀に架かる橋。
集落南部の佐保川との間には、かつて藪が広がっていたようです。
集落のすぐ脇に濠がめぐらされています。
南藪堀から集落内に進むと、やはりクランク状になっていました。
こちらは北藪の遠景、
藪、住宅と田圃の間に北藪堀がめぐらされています。
環濠をぐるりと一周してみて、多くが水路として整備されているものの、環濠が綺麗に残っています。
特に東側の濠は、中世以来の水堀の姿を非常によくとどめていて一見の価値ありです。
大切に守られてきた中世以来の環濠と江戸末期から続く大師信仰の姿が、これからも末永く伝えられることを願います。