大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

椿井文書~奥深い偽文書の世界

皆さんこんにちは。

 

歴史や地域のブログ記事を書いていると、自治体の発行している自治体史や旧跡の案内板で、古地図や古文書による由緒などを目にすることが多々あります。

基本的にそれらを目にするとき、絵図なら本物で、由緒書きは本当にあった、もしくはそのように地域で古来伝えられてきたと認識することが多いでしょう。

特に、専門家たちの手により編纂された自治体史の記述など、疑いなく受け入れる方がほとんどではないでしょうか。

 

しかし、それらの記述の根拠となる史料が、後世捏造された偽文書だったとしたらと考えると、空恐ろしい気持ちになります。

そんな恐ろしいことが実際に起きてしまい、いまだにその影響が続いている事例として知られるのが、椿井文書という一連の偽文書になります。

 

椿井文書は江戸時代末期に、椿井政隆が「創作」し、山城から近江、河内、大和と広範な地域に膨大な数が流布した偽文書群で、多くの自治体史で史料として引用されたことが近年、歴史学者馬部隆弘氏の研究で明らかになって、新聞紙上でも取り上げられるなど、大きな話題となりました。

「日本最大級の偽文書」か 郷土史の定説ひっくり返るかも…京都・山城の古文書|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

 

おらが町の歴史と信じていた事象が実はフェイクで、それをもとに町おこしをしていたというトンデモない事件が身近に起きていたということに、やはり衝撃を感じます。

 

椿井文書との出会い

筆者が椿井文書の存在を知り、身近に感じるきっかけとなったのは、奈良県平群町にある椿井城跡を訪れたとき、現在城の大手口に鎮座している春日神社拝殿に掲げられた奉納額でした。

こちらがその奉納額「平群春日神社沿革記」で、平群氏正嫡を称される椿井一見氏が1973(昭和48)年に奉納されたものとのこと。

平群春日神社沿革記

その内容は、椿井氏は古代氏族・平群氏の流れを組む一族であり、平安時代後期に平群春日神社を創建したとあります。

祖先が壬申の乱に参加して伊勢一之宮の椿大神社を創始したとか、摂関家の祖となる藤原房前に時の当主が養子に入ったなど、序盤から初見の記述が目立つのですが、特に大きな違和感を覚えたのは、57代目とされる椿井氏房なる人物の記述から。

この人物は鎌倉4代将軍、藤原頼綱の三男で、母の遺名により平群氏を継ぎ、伊賀、大和、河内、阿波の太守となって大納言まで昇り、椿井城を築いたというのです。

 

流石に歴史の専門家ではない筆者でも、この記述はあまりに荒唐無稽で史実ではないだろうと思いましたが、この奉納額がどのような文献に基づいて書かれているのか、その点が非常に気になりました。

そして、色々と調べたところ、行き当たったのが「椿井文書」だったのです。

 

椿井文書とは

椿井文書は椿井正隆(1770~1837年)が、江戸時代後期に争論をはじめとする様々な理由で由緒を求める村、神社、個人の求めに応じて創作、偽作した、一連の偽書・偽文書群です。

流布した範囲は、山城、近江、伊賀、大和、河内と広範で、その内容は、「興福寺官務家」である椿井家に伝来した、鎌倉時代室町時代にかけての中世文書を「写した文書」という体裁を取り、系図や絵図、連名帳から各種文書、由緒書に至るまで、あらゆるジャンルの古文書に及びます。

この「写し」というところがミソで、絵の具の顔料や紙の質により作られた文書が明らかに新しくても、中世から伝わる文書を写したものとすることで、近世に書かれたものでありながら、その内容から中世文書として扱われました。

 

しかし、一点ぽつんと偽書があっても、その土地に全く記録や記憶が存在しない文書は当然信憑性が疑われます。

そこで椿井政隆は、一点偽書を作るだけでは終わらず、それを補完する「史料」、例えば争論の参加者を記した連名帳や、実際に存在する遺跡を踏まえた由緒や系図なども一緒に偽作し、相互に補完させあうことで個々の偽書の信憑性を高めました。

 

そして更に偽書の信憑性を高めたのが、『興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)』という興福寺の末寺をリストアップし、由緒などが記載されている古文書です。

興福寺官務牒疏』は、1441(嘉吉元)年に作成された信憑性の高い中世史料であると、ごく近年まで多くの歴史学者に信じられてきました。

原書が興福寺に保管されているのですから、鵜吞みにされるのもムベなるかなと言うところですが、現在は椿井政隆が偽作したことが、ほぼ確実視されています。

複数の文書があっても、一か所からだけまとめて出てきた場合は、全て偽書という可能性も捨てきれませんが、『興福寺官務牒疏』のように国をまたいだ記録との辻褄が合うことで、椿井文書の信憑性は決定的に高められたのです。

 

興福寺官務牒疏』によって畿内他地域の歴史と関連付けながら、地域史そのものを「偽造」した点が、他の有名な偽文書と比べて椿井文書の大きな特色と言えるでしょう。

 

椿井政隆と椿井家

では、このような偽書群を一人で創作したと見られる椿井政隆とは、どんな人物だったのでしょう。

椿井正隆は、山城国相楽郡室町時代以降に興福寺大乗院方衆徒として活動した椿井氏の一族でした。

 

椿井氏は、『大乗院寺社雑事記』長禄二年閏正月条に、椿井懐専が1454(享徳3)年に山城国菅井荘(現京都府精華町菅井近辺)の荘官に任じられた記事からその名が見える中世国人の一族で、江戸時代には、江戸へ出て旗本になり内藤氏と改姓した家と、椿井姓のまま在地の庄屋として残った家に分かれ、椿井政隆は後者の家に生まれています。

 

ところで椿井氏の氏族について、江戸に出た旗本の内藤氏が幕府に提出した『寛永諸家系図伝』(1641~3年編纂)と『寛政重修諸家譜』(1789~1801年編纂)の家系図では藤原氏を称しています。

一方、椿井政隆は、1794(寛政6)年作成の『興福寺元衆徒中御門系図』(東京大学史料編纂所蔵)に「椿井右馬助平群懐瑛胤政」と署名しており、遅くとも25歳までには大和の古代氏族である平群を称していたことが分かります。

 

同じ椿井一族でありながら、江戸と山城で齟齬が生じているのですが、興味深いのは江戸の初めに編纂された『寛永諸家系図伝』と、椿井政隆が活動を始めた後に編纂が終わった『寛政重修諸家譜』で、椿井姓の由来に追記変更が加えられている点です。

 

寛永諸家系図伝』では椿井姓の由来について、「鎌足の後裔某武官に任じ、城州相楽の郡椿井をたまふ。かるがゆへにその地に住して称号とす。」とあり、先祖代々、山城国相楽郡椿井に住して椿井姓も山城国相楽郡の地名に因むものとしています。

しかし、『寛政重修諸家譜』では「頼経将軍の三男中納言氏房、大和国平群郡椿井に住せしより称号とす」としたうえで室町時代相楽郡の「薗部荘」に移り、その後その地を「椿井」に改称したとする一文を追記しているのです。

寛政重修諸家譜』で追記された内容は、筆者が平群町椿井の春日神社で目にした「平群春日神社沿革記」と一致しており、馬部氏は内藤家が地元に残った椿井家と交流する中で情報を得て、加筆修正されたものであろうと推定しています。

また、大和国平群郡を起源とする由緒を取り入れつつも、「平群氏」への改姓を行っていない点は、全ての情報を鵜吞みにしていなかったことを示すとも指摘されています。

 

旗本・内藤氏は藤原氏末裔を称していましたが、具体的に藤原氏の誰の子孫かは不詳でした。

しかし、鎌倉4代将軍頼経の子孫であれば、「摂関家に繋がる名家になり家名に箔が付く」と考え、山城に残った椿井家の情報(おそらく椿井政隆の偽作)から、「平群氏」など「荒唐無稽」と考えた情報は省き、都合の良い情報だけを抜き取って追記したのでしょう。

 

なぜ、椿井政隆が平群氏を自称したのか、正確な理由は不明です。

馬部氏は「興福寺官務家」一族の出自であることにより信憑性を持たせるため、一族の出自を大和とする方がよりそれらしく見えると考えたのではと推測しています。

 

椿井文書の現れるところ

さて、畿内一帯に分布する椿井文書ですが、傾向的に頻出する地域があります。

それは、隣り合う村同士が、争論を起こした地域です。

例えば、河内国交野郡の津田村と穂谷村(ともに現大阪府枚方市)による、津田山の支配権を巡った争論に関わり、椿井文書が姿を現します。

鎌倉時代まで津田山周辺の津田郷の本村は津田村で、津田山は津田郷の氏神・三之宮神社の宮山でした。

その後、山間部の開発が進むと、三之宮神社は新興の穂谷村に含まれるようになったため、17世紀の末に穂谷村が津田山の支配権を主張して争論となったのです。

歴史的経緯から津田村の優位は動かないはずでしたが、津田村は津田山山上に残る「津田城」が、室町時代に津田村の国人領主・津田氏の居城だったと突如主張しだします。

河内国の津田氏については、三之宮神社に遺る17世紀以降に記された『三之宮旧記』等の3つの史料の他は殆ど見られず、戦国時代以前の記録には一切現れない国人で、穂谷村にとっては「初耳」で到底許容しがたい主張だったことでしょう。

いったん争論は津田村の勝訴に終わりますが、納得のいかない穂谷村は歴史書『日本機略』の記述で、平安時代に河内と山城に「氷室」が増設されたといいう記事に目を付け、この「氷室」が津田山にあったと18世紀前半に主張しだし、結局争論は明治まで200年にわたって繰り広げられました。

この「氷室」は、穂谷村の創作なのですが、その存在を「裏付ける」16世紀に書かれたとされる文書が三之宮神社に2点遺されています。

実は、三之宮神社に遺された「津田氏」「氷室」に関する5点の文書は、全て椿井文書で、このように伝統的な村落間の争論のあるところに、どちらかの側に立つ形で椿井政隆の姿が見られます。

類例は他にも琵琶湖の入江内湖の漁業権を巡る争論や、近江国蒲生郡における延喜式内社馬見岡神社の社名を巡る争論などがあります。

 

椿井文書の特徴

馬部氏によると、椿井文書にはいくつかの傾向的特徴があるとのことで、列挙してみましょう。

 

・中世文書の「写し」の形式をとる

椿井家に伝わる中世の文書の写しをさらに写したものとして、内容は中世のものという形式をとるものが多いとのこと。

 

・書札礼に反したり、日付を誤ったものにする

中世以降の文書には、書札礼という厳密な書式に則って書かれますが、花押の書き方や日付の入れ方を間違えて書いたり、本来あり得ない元号と月日の組み合わせで日付が記載され、専門家が見ると偽書であることが比較的容易に見破れる造りになっていることが多いとのこと。

実は江戸時代、文書の偽造は大罪で幕府の「公事方御定書」でも、獄門(死刑)と規定されていました。

そのため、ばれた時に「戯れに作ったもの」と言い逃れできるよう、わざとすぐに偽文書と分かるように書いたと推定されるとのこと。

 

・実際に存在する史跡や他文献の記事を交えて記述する

例えば津田城の例のように、実際に存在する史跡を現地調査の上で踏まえたり、有名な史書の記事を取り込むことで、信憑性を高めようとするとのこと。

実際に椿井文書については、現在歴史的な事実と認められる事例も含まれることから、そのすべてを否定するべきではないとの反論もあるようですが、馬部氏によると、椿井文書で歴史的事実と認められるものは、現在であればインターネット等で簡単に調べられる範囲の内容にとどまり、他の史料で比較検討できない記述については、全て椿井政隆の創作とみなすべきで、椿井文書の中世文書としての活用には否定的な見解を示されています。

 

・奈良から離れた場所で「興福寺」の名が登場する

先述の通り、椿井文書の多くは『興福寺官務牒疏』による信憑性の補強が行われており、興福寺との関連性を強く主張する文書が多いとされます。

興福寺は中世、大和国では絶大な影響力を持ちましたが、他国では実際に影響力のあった地域は山城南部や伊賀の大和寄りの地域あたりまでで、畿内一円に大きな影響力を持っていた訳ではありませんでした。

なので、奈良から遠く離れた地域で「興福寺」の名が出る文書は、馬部氏によるとまず椿井文書であることを疑うとのこと。

 

・都市部から離れた農村部に多い

椿井文書が流布した地域は、京都、大阪、奈良といった近世後期に都市だった地域ではほとんど見られず、農村地域に偏在しているとされます。

馬部氏は、知識層の多い都市部では偽作が見破られるリスクが高いと椿井政隆が考え、活動地域を農村部に絞ったからではと推定しています。

 

受容される椿井文書

さて、椿井文書の流布については大きく見て3つの時期に広がりを見せています。

ひとつは、椿井政隆が活動した近世後期です。

この時代は、日本各地で地方の富農たちが財を蓄え、自家の家格上昇のために由緒や系図の収集に熱心だった時期と重なります。

山梨県の旧家では必ずと言っていいほど、先祖が武田信玄と繋がりがあったとする由緒を記した文書が残されているといいますが、多くはこの時期に作られた文書と考えられます。

争論の証拠書類以外にも、富農たちの家格上昇意欲の高まりが、椿井文書の需要を高めたと言えるでしょう。

 

次に広まりを見せるのが明治以降です。

明治の初め頃、当時木津(現京都府木津川市)に在住していた椿井家に私蔵されていた椿井文書(各地に頒布された椿井文書の原本と見られる)は、「興福寺所蔵の文書」という触れ込みで同じ木津の今井家に質入れされ、椿井家から流出しました。

ちょうど同じ頃、神道が国教化されたことで、巷では神社の延喜式内社比定による社格上昇を図る機運が熱を帯び、中世以前の神社の由緒に対する需要が高まっていました。

「木津には興福寺由来の古い由緒書がある」という噂を聞き付けた人々により、多くの椿井文書がこの頃各地に流出しており、今井家という第三者を挟んだことで、より椿井文書の「信憑性」を結果的に高めてしまうことになったとされます。

 

最後に椿井文書が広がりを見せるのは戦後、1960年代後半に「明治百年」を契機として巻き起こる、空前の「自治体史」刊行ブームです。

椿井文書には、絵図面など一般人にもわかりやすく、口絵などに用いるとキャッチーな史料が数多くあったため、文書の引用だけでなく椿井政隆が創作した多くの絵図が、かつての村の姿、神社の姿、お寺の姿として引用されました。

 

しかし、偽文書である椿井文書が、ここまで広まってしまったのはどのような背景があったのでしょう。

馬部氏によると、ひとつは一般的な歴史研究者の史料に対する姿勢にあると指摘されています。

当然、研究者は採用する史料について真偽を見極める訳ですが、偽書と見做した史料については、「無視」「黙殺」することが常となっています。

研究の時間は限られていますし、偽書と見做した史料について信用ならない理由などいちいち論証するのは、時間の浪費になってしまうからです。

こういった姿勢は特に問題なく、止むを得ないことだと思うのですが、「無視」「黙殺」されることにより、その文書が偽書であるという情報は共有されにくく、偽書と見抜けず、アカデミックな研究でも引用されてしまうケースが発生してしまうことがあるそうです。

また、椿井文書の多くは中世文書として扱われてきたため活字化されており、馬部氏によると活字化された文書で椿井文書と見抜くことは困難で、馬部氏自身、実物の文書を確認して初めて違和感に気付いたとされています。

近世研究者は、史料が豊富なので通常実物の史料を確認するのが常ですが、中世の研究者は実物よりも活字化された史料に触れる機会が多く、特にいったん信憑性の高い史料とされた現物をいちいち確認することも少ないため、椿井文書が長年偽書と見破られることがなかったのではとされています。

椿井文書の影響

先述の通り、椿井文書は多くの自治体史で引用されました。

基本的に自治体史上で記載されているだけであれば、「そういった文献もある」「そういった見方もある」という程度の影響で収まるのですが、大きく問題となるのが、椿井文書の記述が、正確な中世の姿や事実を著すものとして、地域の町おこしや児童教育に活用されたりする例が散見されることです。

 

その一例が、滋賀県湖南市菩提寺西1丁目を走る県道22号線沿い壁面に掲示された「円満山少菩提寺四至封彊之図」の説明版。

「円満山少菩提寺四至封彊之図」は椿井文書の中で、指定文化財となっている珍しい例ですが、現在廃寺となった中世の少菩提寺の姿を現すものとして評価され、その旨説明版で掲示されています。

 

この他にも、滋賀県米原市にある蛭子神社に遺された椿井文書「世継神社縁起之事」に基づく「世継の七夕伝説」なども、地域の古くからの伝承として、町おこしや地域教育で扱われている例や、大阪府枚方市の「王仁墓」の史跡顕彰にも椿井文書に基づく「伝承」が「史実」のように扱われているとされます。

 

馬部氏による「椿井文書」が偽書という指摘が必ず正しいとは限りませんが、少なくとも指摘を受けた自治体は、引用史料の見直しを進め、反証できないようであれば扱いの再検討を進めるべきでしょう。

ただ、一度「正しいもの」として公にしてしまったものを、「間違いでした」とするのは、大変なエネルギーが必要なようで、特に「王仁墓」のように国際親善に活用されたりすると、市民感情や政治的なものも含め、様々なバイアスがかかって見直しを掛けることすら困難なようです。

 

偽書も大事な史料

平群春日神社で見かけた神社の由緒書から出会った偽書の世界ですが、馬部氏の偽書に対する見方として感銘を受けたのは、近世に作られた偽書も大事な史料であるということです。

 

中世以前の文書を装った偽文書に、中世の史料としての価値はありません。

しかしそれが書かれた背景、村落間の激しい争論の存在や、近世庄屋層の家格上昇に対する熱意や行動を示す、貴重な証拠であることは間違いないのです。

 

地域史の一部もしくは全部が、偽文書によるフェイク情報だったとしたら、それはショッキングなことでしょうが、そういった偽文書が作られ、受容されていったことも重要な地域の歴史と捉えるのが、偽文書と「仲良く」付き合うコツではないでしょうか。

 

参考文献

『寛永諸家系図伝 藤原氏 癸8』(国立公文書館蔵)

『寛政重脩諸家譜 第5輯』

『山城町史 史料編』

「歴史偽書」研究本、相次ぐ 執筆の狙い・背景に迫る|NIKKEI STYLE

虚構の歴史が現代に根付くメカニズム 偽文書研究『椿井文書』著者に聞く

『興福寺元衆徒中御門系図』(東京大学史料編纂所蔵)

『枚方市史 第2巻』 枚方市史編纂委員会 編