大和徒然草子

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運慶(2)~大仏師運慶

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皆さんこんにちは。

 

日本史上最も高名な仏師といえば、まず運慶の名が上がるでしょう。

日本仏像彫刻の一つの到達点とも評価され、「天才」の二つ名で語られることも多い運慶は、平安から鎌倉へと時代が移り、貴族に替わる新たな支配層、武士にその作風が愛され、時代の寵児として栄光の生涯を送ったとされてきました。

しかし、そのあまりに高すぎる評価ゆえに、実像が見えにくくなっている人物でもあります。

そんな運慶の実像を紹介する、今回は2回目です。

前回は、仏師の成り立ちと、運慶が属する奈良仏師の系譜、そして慶派の祖となる父、康慶と、運慶の登場までをご紹介しました。

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今回は、いよいよ壮年となった運慶の活躍を中心にご紹介します。

 

平氏による焼討と南都復興

平治の乱以後、大和国知行国とした平清盛は、旧来奈良の寺社が持っていた既得権を無視する形で、大和全域で検断(警察権や刑法犯の処罰権)を振るい、奈良の寺社勢力と激しく対立するようになっていました。

その緊張関係は、1180(治承4)年の以仁王の挙兵に呼応して、各地の源氏とも連携して反平氏の動きに興福寺が加わったことで、ピークに達します。

そして治承4年12月(1181年1月)、清盛は息子の重衡を総大将として奈良へ攻め込みました。

興福寺の衆徒を中心とした防御線を突破した重衡は、南都を焼き討ちし、興福寺東大寺の主要な堂塔伽藍を、残らず焼き払ってしまいます。

いわゆる平氏の南都焼討という事件ですね。

戦後、清盛は興福寺東大寺の寺領、荘園を悉く没収して寺の再建も認めませんでした。

ところが1181(治承5)年正月に高倉上皇崩御し、続く閏2月に清盛も高熱を発して、相次いで急死したことで事態が大きく動き出します。

政権中枢の相次ぐ急死に、人々は南都焼討の仏罰と噂するようになり、関東で源頼朝の動きが不穏になっていたこともあって、清盛を継いだ宗盛は、興福寺東大寺への処分を全て撤回したのです。

これがきっかけとなって、興福寺東大寺の復興機運が急速に高まりました。

同年、重源東大寺大勧進職に任じられ、興福寺でも早々に朝廷、藤原氏興福寺の費用分担が決められ、復興が着手されるのです。

 

南都復興においては、興福寺は院派、円派、慶派が、東大寺については院派と慶派の仏師が携わりました。

この南都復興を通じて、慶派が他派を圧倒していくイメージが、現在支配的かと思いますが、実際のところはどうだったのでしょう。

まず、同時代に、各寺院でどの派が重視されたかを考えるとき、大事な造仏を誰が担ったのかが、大きなヒントになるかと思います。

東大寺であれば何と言っても大仏本体、興福寺であれば本堂ともいえる金堂や講堂の造仏だったと思います。

まず、東大寺の大仏については、本体の鋳造は南宋出身の工人である陳和卿が担当したので、光背制作がもっとも格の高い作業と言えますが、これは院派の院尊が担当しました。

そして、興福寺の金堂、講堂は、それぞれ円派の明円と院派の院尊に任されています。

この時点で、慶派は南都復興で格別に重用されたとは言い難い感があり、特に東大寺興福寺、両寺院の重要施設の造像を任せられたという点で、院尊の存在感が当時は非常に大きかったことがうかがえます。

ちなみに、1180年代の南都復興初期段階では運慶の活躍はほとんど伝わりません。

わずかに、興福寺西金堂の本尊の釈迦如来像の制作により運慶が禄を受けたことが近年判明し、現在興福寺に残る釈迦如来像仏頭が運慶作のものではないかと見られるくらいでしょうか。

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南都復興が大々的に行われていく中、この時期の運慶の主戦場は、奈良から遠く離れた東国にありました。

 

東国武士との邂逅

奈良仏師作の東国の造仏は、1170年代に康慶が制作したと見られる地蔵菩薩坐像が、現在の静岡県富士市の瑞林寺に残されており、比較的早くから、奈良仏師は東国の有力者たちと関係を結んでいたことがうかがえます。

平氏が壇ノ浦に滅ぶ前年の1184(元暦元)年、東国の覇者となっていた源頼朝は、父義朝の菩提を弔うため、鎌倉に勝長寿院を建立しました。

この時、本尊の阿弥陀如来像作製のため起用されたのは、奈良仏師の成朝でした。

この流れもあってか、1186(文治2)年、頼朝の舅である北条時政は、北条氏の菩提寺として本拠の伊豆に成就院の造立を開始し、その本堂の造仏は運慶に託されました。

運慶は本尊の阿弥陀如来坐像を作製。この阿弥陀如来坐像を含めた5体の仏像が運慶真作として現在同寺に残され、すべて国宝に指定されています。

このときの造仏が評判を呼んだのか、同じく有力な御家人であった相模の和田義盛夫妻が、運慶に仏像の制作を依頼し、この時制作された阿弥陀如来坐像と脇侍像、随侍像の計5体が、現在神奈川県横須賀市浄楽寺に残されています。

ちなみにこの時期、運慶が実際に東国で制作にあたっていたかどうかは、定かではありません。

奈良では南都復興の真っ盛りで、東国に出ずっぱりは難しかったのではと思いますので、東国と近畿を往復する忙しい日々を送っていたのかもしれませんね。

 

成就院、浄楽寺の運慶の造像は、幾重にも重なる衣文など父康慶が確立した慶派の特徴が出ているだけでなく、衣の下の肉や骨格の存在を量感的に表現し、それまでの定朝様とは全く一線を画したものでした。

まさに目の前に仏が存在する、圧倒的な実在感と迫力といった、これぞ運慶といえるダイナミックな作風に仕上がっています。

運慶の仏像は、たちまち東国武士達の心を掴んでしまい、運慶の前途を大きく拓くことになります。

 

さて、運慶が和田義盛の依頼で阿弥陀如来像を作製した1189(文治5)年、頼朝は奥州藤原氏を攻め滅ぼし、東日本を完全に制圧します。

背後の脅威を完全に取り除いた頼朝は、翌1190(文治6)年にはついに上洛を果たし、1192(建久5)年には征夷大将軍に任命されるなど、頼朝は中央でのプレゼンスを急速高めていきました。

この動きの一環でもあったのか、頼朝は南都復興、とりわけ東大寺の復興に情熱的に取り組んでいきます。

1181年に始まる南都復興の初期を主導したのは、後白河院摂関家といった京の貴族でしたが、復興の中後期を牽引したのは、1195(建久6)年、大仏殿再建の落慶法要の主役、頼朝を中心とした武士たちでした。

そして、南都復興における慶派の存在感が一気に高まるのが、まさにこの時期にあたるのです。

 

頼朝の東大寺落慶法要参列の翌年、1196(建久7)年、鎌倉幕府の仕切りで、大仏の脇侍像として、2体の菩薩像と四天王像の計6体が造立されます。

菩薩像が6丈(約18m)、四天王像が4丈(約12m)という、大仏の脇侍にふさわしい巨像でしたが、この制作に抜擢されたのが、奈良仏師、慶派でした。

工房の棟梁である康慶と嫡男の運慶が虚空蔵菩薩を、定覚(康慶次男)と快慶が如意輪観音を作製し、四天王像のうち、持国天、もしくは増長天は、運慶が担当したと伝えられます。

まさに慶派の主力そろい踏みで、工房の総力を挙げての仕事だったことがうかがえます。

残念ながら戦国時代、松永久秀三好三人衆筒井順慶の合戦に巻き込まれて大仏殿が焼け落ちた際に、この6体の巨像も焼失しましたが、現在残っていれば間違いなく慶派の代表作となっていたことでしょう。

康慶、運慶の名が東大寺の造像に出てくるのはこれが最初でしたが、奈良仏師、慶派の面々が、幕府肝いりの造像で抜擢された背景には、地道に東国で仏像制作を続けた成果が、確実に実を結んだものといえるでしょう。

 

なお、康慶は、この大仏脇侍6体の造立以後、その名が見えなくなり、ほどなく没したと見られます。

父から工房を受け継ぎ、いよいよ大仏師運慶の活躍が始まりました。

 

大仏師運慶

大仏殿での大仏脇侍の造像という大仕事をやり遂げた運慶。

その翌年から、立て続けに大きな仕事に取り組むことになります。

1197(建久8)年、運慶は一門を率いて、京都の東寺講堂諸仏の修理と、中門二天像と南大門の仁王像の造立に取り組みます。

京都でもっとも重要な官寺である東寺の造仏を任されたことで、運慶の名声は大いに高まったと考えられます。

同年、高野山で建立された一心院不動堂に八大童子像を納め、京都高尾の神護寺復興にあたって中門二天像、八夜叉像を造立するなど、真言宗大寺院での大きな仕事を受け持ち、おそらく運慶の人生で最も多忙な日々を送ったと思われます。

東寺、高野山神護寺でこの時期多くの復興事業や堂宇の勧請が行われましたが、これらを主導したのは朝廷とともに幕府、ことに頼朝と関係の深かった文覚でした。

文覚の寺院復興、勧請事業は、頼朝の支援の下行われましたので、主要な仏像造像に慶派が抜擢されたのは、やはり幕府の意向も働いていたのかもしれません。

畿内以外では、頼朝没後の1201(正治3)年に頼朝の三回忌に際して、頼朝の母方の従兄弟である寛伝が三河岡崎の滝山寺に建立した、惣持禅院の本尊である聖観音梵天帝釈天像を、嫡男である湛慶とともに制作しています。

 

工房の棟梁として大きく飛躍した運慶は、1203(建仁3)年、その代表作となる東大寺南大門の金剛力士に取り組むことになります。

今も南大門で東大寺を訪れる人々を迎える2体の巨像の制作には、運慶、快慶、定覚、湛慶という慶派の4巨頭が大仏師として臨み、なんと69日間という短期間で作り上げました。

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全高8mを超えるこの巨像を2か月余りで完成させるのは、現在でも難しいと思われます。

しかも、造像当時は全身に鮮やかな彩色が施されていたといいますから、実際に像を彫るのはさらに短期間で進められたことになります。

まさに分業による寄木造でなければ、絶対に成しえない偉業といえるでしょう。

大きさも現存する木造彫刻としては最大であり、その迫力ある造形は今も我々を圧倒する、まさに日本彫刻の金字塔です。

短期間の制作ながら、最後の最後まで手直しが行われていた痕跡が、1988年から5年に及ぶ解体修理で発見されており、像の仕上がりに対する運慶の執念が感じられますね。

また、この2像の迫力は、単にその大きさだけではなく、緻密な計算による造形の妙によって作られています。

金剛力士像を真横から見ると、非常に頭部が大きいことに気付きます。

実は2体の金剛力士像は5~6等身なのですが、これが下から見上げると、遠近法の妙で見事な八等身の非常に均整の取れたプロポーションに見えるのです。

あれ、この技法、世界的に有名なあの像と同じじゃないかと気付いた方もおられるんじゃないでしょうか。

そうです、ミケランジェロダビデ像、イタリアルネサンスを代表するあの作品と全く同じ技法が、それより300年も昔の日本ですでに使われていたのです。

どうすれば、より美しく見えるかを追究すると、最終的に行きつくところは同じということでしょうか。

東大寺は鎌倉の再建からもたびたび火災に遭いましたが、南大門は焼け残り、今もこの鎌倉彫刻の傑作を私たちがいつでも見ることができるのは、本当に幸せなことです。

とくに南大門の金剛力士像は日本を代表する国宝彫刻であるにもかかわらず、いつでも無料で見ることができます。

これってすごいことだと思いませんか。

何度目にしても、新鮮な驚きがあるので、私も奈良公園を訪れる際は、必ずこの2体の巨像を見て帰ります。

 

この東大寺南大門の金剛力士像の造仏賞として、運慶は法印に叙され、僧鋼位の最上位にまで上り詰めました。

運慶の名声が、頂点に達した瞬間であったとともに、大仏脇侍、南大門の仁王像の計8体の巨像作成を慶派が担ったことは、南都復興における慶派の他派に対する優勢が明確になったといえるでしょう。

 

この後、運慶は南都復興のもう一つの中心寺院である、興福寺復興、最後の大事業に臨むことになります。

北円堂の造立にともなう、堂内諸像の制作が始まろうとしていました。

 

<参考文献>


 

 


 

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