大和徒然草子

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中世大和の支配者、興福寺

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皆さんこんにちは。

 

当ブログでは、奈良、大和国の戦国武将である筒井順慶松永久秀らを取り上げてきましたが、平安時代の末期から戦国時代に至るまで、大和を支配した一大勢力といえば「興福寺」です。

現在、奈良公園内の寺院として、世界遺産にも登録されて日本を代表する観光地の一つともなっていますが、今回は中世の興福寺の姿をご紹介したいともいます。

 

 

興福寺藤原氏

 

さて、興福寺といえば、710年に平城京が遷都された年から造営された、藤原氏の氏寺であることは有名だと思います。

そのため、藤原氏との関係が強く、平安時代藤原氏が興隆し、貴族社会で絶大な権勢を振るうようになり、それに呼応するように興福寺の寺勢も大いに高まるようになりました。

大和国だけでなく、全国各地に多くの荘園を抱えることで大きな経済力を持った興福寺は、平安時代末期にはそれら広大な荘園の管理と治安維持、防衛のために強力な僧兵まで有することになります。

特に、大和各地に割拠する在地領主である国人たちを、衆徒として寺院の組織に組み込むことで、その支配領域を広げるばかりでなく、突出した武力も擁することになりました。

 

さて、平安時代末期には世俗権力としても大和では突出した存在となった興福寺ですが、どのような人々がそのリーダーとなったのでしょうか。

仏教寺院なのだから、厳しい修行を行い、徳を積んだ僧がリーダーになるのだろうと思われる方もいらっしゃるとは思いますが、明治以前は厳密な家格制度に基づく「世襲社会」です。

寺院、とくに興福寺のような大寺院もその例外ではありませんでした。

 

ここで、日本の世襲社会というものについて少しふれておきたいと思います。

世襲社会というのは、生まれついた「家」の「格」により、地位や仕事があらかじめ決められた社会です。

貴族社会で特に徹底され、個人の能力ではなく、特定の「家」の 出身者であることが、地位や権力を保証する社会になります。

わかりやすいところでは、「摂関家」と呼ばれた藤原北家近衛家九条家などの例が分かりやすいでしょう。

この世襲社会において尊重されるのは、あくまで「家」であって、官職ではありませんでした。

ここが日本社会が世界的にも珍しいところで、現代の日本でもそうですが、通常は特定の「役職」にある人が偉いのであって、役職を降りれば「ただの人」となるわけです。

ところが日本の場合は、「家」がなにより尊重されました。

例えば貴族社会では家格が高い人と低い人がばったり会った場合、家格の低い人がその時、官職上、家格の高い人より高位にあった場合でも、家格の低い人は高い人に遠慮する必要がありました。

今でいえば、たとえ部長、課長であっても、自分より家格が高い平社員には頭が上がらないというとわかりやすいでしょうか。

要するに官職より、家格が重視されるのです。

さらに日本社会で「家」が重視されたわかりやすい例といえば、平安末期に行われた、引退した天皇である上皇による院政があります。

官職上、最もえらいのは「天皇」であるはずが、どうして上皇がもっともえらくなれたかといえば、院政を布いた上皇は、天皇の父や、祖父にあたる「天皇家」の「家長」としての権威で君臨したのです。

裏を返すと、自分の子供や孫以外が天皇になってしまうと、天皇家の家長の地位が得られなくなるわけで院政は行えません。

平安末期の平治の乱における崇徳上皇や、鎌倉幕府を討幕した後醍醐天皇は、自分の子供を天皇に据えたくて行動を起こしたわけですが、戦乱を引き起こしてまでもそうしたかった理由が、このあたりの世襲原理を理解するとわかりやすく見えてくるんじゃないでしょうか。

 

話を興福寺に戻しますが、当時の大寺院では、寺院のトップに立てる人物は、特定の塔頭寺院門主である「院家」の者に限られていました。

院家といっても、僧侶ですから家族を持って子孫に伝えることはできません。

そこで、どうしたかというと、特定の家から代々の門主を迎えることで「世襲」したのです。

 

興福寺の場合、トップである別当の地位に就いたのは、現在の奈良地方裁判所の場所にあった一乗院奈良ホテルの場所にあった大乗院の門跡たちでした。

一乗院には代々摂関家近衛家の子弟が、大乗院には同じく摂関家である九条家の子弟が門跡候補として迎えられ、叔父から甥へ各種儀式の作法などが秘伝として伝えられていったのです。

ちなみに、室町幕府の15代将軍足利義昭は、一乗院の門跡(一乗院覚慶)であったことが知られますが、彼は近衛家の猶子という立場で一乗院に入っており、ここでも家による世襲原理が守られていることがうかがえます。

親から子へという相続は、寺院という性質上不可能ですが、「家」という単位でみると、叔父から甥へという流れで、代々門跡が「世襲」されていったわけですね。

一般に貴族たちが入る院家での生活というものは、妻帯する以外、貴族と変わらぬ豪華な生活であったようで、そういう意味では寺院の上層社会の実態は、貴族社会とパラレルな関係にあったといえるでしょう。

 

寺院の運営について決定権を持つ層の僧侶を学侶と呼び、実務を行う僧侶たちを堂衆と呼びますが、学侶たちは、貴族の子弟たちで占められ、堂衆との間には超えられない身分の壁がありました。

どれだけ修行を積んで僧侶としての学識や徳を積んでも、堂衆の人間が高位の僧に出世することはできず、庶民が実力で興福寺のトップに立つことはできませんでした。

官符衆徒であった筒井氏や古市氏がどれだけ勢威を持った時でも、身分的には一乗院や大乗院の衆徒に過ぎなかったため、彼らが興福寺を支配することはできなかったわけです。

見方によっては、興福寺を通じて摂関家大和国を支配していたともいえるでしょう。

こういった寺院における世襲原理は、明治維新まで続くことになります。

 

興福寺による大和支配

平安時代が終わり、鎌倉時代になると本格的な武士の時代となります。

鎌倉幕府は全国に守護地頭をおいて、それまで貴族や大寺院が保持していた荘園を武士たちが蚕食していきましたが、大和ではこれが進みませんでした。

 

平安時代末期、当時大和の寺社領では不輸不入の権が確立しており、中央の権力者の警察権や徴税権が及ばない場所となっていました。

これに手を突っ込んだのが平清盛率いる平氏政権で、興福寺をはじめとした奈良の寺社はこれに強く反発し、のちに平重衡による南都焼討を招くこととなります。

平氏滅亡後、平氏源義経の残党狩り名目で全国的に守護地頭が設置され、1186(文治2)年に北条時政が大和で惣追捕使として謀反人の検知を行おうとしましたが、後白河法皇はこれを許さず、源頼朝も積極的に時政を支援しなかったため、大和国では全国的に地頭が設置されたこの時期に地頭の設置が行われなかったようです。

そのため、大和国には地頭がほとんど存在しない状態となり、地頭の統率を主な職掌とする守護が置かれることもありませんでした。

後白河法皇と頼朝を首班とする鎌倉幕府の間に横たわる微妙な緊張関係が、大和への武家支配浸透にストップをかけたといえるでしょう。

 

しかしながら、後白河法皇が亡くなり、承久の乱で朝幕関係における鎌倉幕府の優位が確立すると、大和国でもわずかながらに地頭が置かれるようになりました。

大和国における守護地頭の設置で大きな動きがあったのが1235(嘉禎元)年12月、興福寺石清水八幡宮と寺社領の水利権争いを引き起こし、春日社の神木を奉じて京都に押し寄せ強訴に及びます。

これに対して朝廷は幕府の京都における出先機関であった六波羅探題に命じて、強訴を制止させました。

これに不満をもった興福寺衆徒たちが翌1236(嘉禎2)年9月、奈良で武装蜂起すると幕府はこれを武力鎮圧し、興福寺の荘園を没収するという強硬措置に出ます。

しかし興福寺側も抵抗を続け、10月に再び蜂起。

これに対して幕府は、守護・地頭を置いて対抗します。

しかし、これ以上の混乱を避けたかったのか、翌月11月14日には幕府は大和国の守護・地頭を撤廃し、荘園を興福寺に返還して事態を鎮静化させます。

以後、大和国に守護・地頭が設置されることはありませんでした。

さらに幕府は、大和国における検断権を興福寺に認めることで、事実上、興福寺大和国の支配者として振舞うようになるのです。

注意すべきは、大和に守護が置かれなかったのは一貫して、守護が統率すべき地頭が大和国にほとんど存在しなかったことが第一の理由ということです。

なので、興福寺が大和の守護であったという記述をたまに見かけますが、それは事実と異なると思います。

興福寺が認められた検断権も、守護の権利というより、従来の国司の権限に由来するものという見方のほうが正確かもしれません。

 

鎌倉期に幕府による支配が進まなかったことにより、大和国は有力寺院が牛耳る、全国でも特異な地域となりました。

興福寺を筆頭に、東大寺多武峰妙楽寺、吉野金峯山寺などが多くの衆徒、国人ら、いわゆる大和武士たちを抱えて割拠したのです。

 

大和支配の終焉

興福寺による大和支配に揺らぎが生じたのは、建武の新政が失敗に終わり、南北朝の動乱が始まった時期でした。

平安時代から一乗院と大乗院は、両門跡の実家である近衛家九条家のライバル関係もあって、対立状態にあり、鎌倉時代後期には武力抗争に至るほど深刻化していました。

南北朝の騒乱が始まると、一乗院門跡は南朝方、大乗院門跡は北朝方につき、大和国の衆徒、国人たちは真っ二つに分かれて戦うことになります。

この騒乱によって、興福寺の権威は失墜。

戦いの中で実力をつけた衆徒、国人たちの自立を促すことになりました。

 

この騒乱の中で成長した勢力が、一乗院衆徒では筒井氏、大乗院衆徒では古市氏、国人からは越智氏十市箸尾氏らです。

彼らは南北朝の争乱に続き、一乗院衆徒の井戸氏と大乗院衆徒豊田氏の対立に端を発し、最終的に筒井氏と越智氏が大和の国人衆全体を巻き込んで全面戦争となった大和永享の乱、そして天下の大乱となった応仁の乱の主体となって争い、戦国大名化していきます。

それまで興福寺に収めていた年貢を滞らせるようになるなど、領地の一円支配が進み、興福寺の経済力は弱退化していきます。

興福寺の収入の多くは荘園からの年貢でした。

中世の荘園というのは、在地領主だけでなく、その土地を名目的に保有する領家(主に元の受領国司)や本家(皇族や貴族、寺院などの権門)が、その土地からの年貢を取る仕組みになっていました。

簡単に言ってしまえば、荘園設立時に、開発領主であった在地領主が土地の保護を求めて、その土地を上位者に寄進して年貢を上納し、自分たちの取り分を中抜きしていく仕組みが、幾重にも連なる重層的な徴税体制が平安末期から戦国時代まで続いていたわけです。

しかし、室町時代になると全国的に荘園の重層的な支配が解体され、実力で土地を支配するものが、その土地の支配権、徴税権を独占するようになってきます。

これを一円支配や一円知行といいます。

中世荘園制では本家に当たる興福寺は、寺領を国人たちの一円支配下化にさらされ、収入が激減したというわけです。

 

南北朝から応仁の乱にかけての一連の騒乱で、興福寺に従っていれば安心という構造は破壊され、自分の領地は自分で守るという風潮が大和に吹き荒れます。

興福寺寺領の国人たちによる蚕食は、それまで高級貴族の子弟たちである興福寺の学侶から、経済的、政治的支配を受けてきていた衆徒、国人たちの下克上が進行した結果でした。

 

また、室町後期には赤沢朝経木沢長政そして松永久秀といった外来勢力の侵入により、傘下の国人たちが滅ぼされるなど、興福寺の支配力は一層弱まりました。

特に久秀が1570(元亀元)年に執り行った大和一国規模の知行割で、興福寺はほとんどの荘園の収取権を奪われ、経済的に大打撃を被ります。

興福寺の抗議もむなしく、織田信長の軍事力と、将軍、足利義昭の権威の元、久秀の知行割は粛々と執行され、興福寺大和国内での権威は地に堕ちたといってよいでしょう。

久秀が信長に背いて滅びたあと、大和の支配を信長から任されたのは、一乗院衆徒であった筒井順慶でしたが、順慶を通して大和国内の織田家領国化はさらに進められました。

そして、順慶没後の1585(天正13)年、羽柴秀吉の弟、秀長が郡山に入府。

秀長が大和全土で実施した検地の結果、寺領2万石あまりを残して、他の全荘園の支配権・徴税権を失い、興福寺の大和支配は名実ともに終焉を迎えたのでした。

 

中世以降の興福寺による大和支配を駆け足でここまでご紹介してきました。

都が長岡京に移った後も、平城京の外京部分に当たる興福寺周辺が都市として残り続けたのは、興福寺大和国内最大の荘園領主であり、大和中のモノとヒトが、奈良の町に集まり続けた結果です。

現在まで続く、ならまちの美しい街並みや、筆、墨、蚊帳などの伝統産業、金春座の能楽に代表される伝統文化は、興福寺あってのものです。

また、運慶ら興福寺堂衆である奈良仏師たちが残した仏教美術品は、わが国を代表する文化財です。

 

かつての奈良の支配者は、現在世界中から観光客が訪れる一大文化スポットとして、現在でも奈良を支えているのです。

 

 <参考文献>