歴史好きの大和徒然草子

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全山神社と化した大和南部の中心寺院とは。奈良県有数の紅葉の名所に残る痕跡。廃仏毀釈(3)多武峰妙楽寺

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皆さんこんにちは。

前回は明治初めの徹底的な破壊により完全に消滅した大寺院、内山永久寺をご紹介しました。

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さて、明治初頭に日本全国に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐の中で、神仏習合の寺院については神社だけが残され、寺院の建築は徹底的に破壊されつくしたという例が非常に多いのです。

しかし、今回はもともと巨大寺院でありながら、全山神社と化しつつも仏教建築がそのまま神社の建物として継続して残された寺院をご紹介しようと思います。

 

 

南和の一大仏教拠点「多武峰

 

その寺院とは多武峰妙楽寺です。

場所はこちら。

多武峰」という地名で、奈良の寺社がお好きな方ならピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この妙楽寺は明治に僧侶が還俗して廃寺となり、全山が神社化。現在は紅葉の名所としても名高い「談山神社」です。 

 

さて、この妙楽寺の沿革をご紹介します。

678年、藤原鎌足の長男で僧の定恵が唐から帰国後に、摂津に埋葬されていた父を大和に改葬し、十三重塔を造立したのが発祥とされます。

680年には講堂が創建され妙楽寺と号しました。

701(大宝元)年には、鎌足の木像を安置する祠堂、聖霊院が建立され、これがご本尊となります。

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談山神社本殿(旧聖霊院)

本尊は談山権現、談山明神とも呼ばれ、まさに神仏習合の寺院でした。

興福寺同様、藤原氏ゆかりの寺院ということもあり、藤原氏の興隆とともに当寺も繁栄します。

一方で、平安時代になると延暦寺の影響下に入ったこともあり、宗派の違いもあって同じく藤原氏ゆかりの奈良興福寺平安時代後期から室町時代にかけて寺領をめぐる争論を繰り広げます。

当時は妙楽寺興福寺はともに衆徒と呼ばれる僧兵をもち武装していましたから、話し合いだけで済まないことも多々ありました。

幾度も興福寺の襲撃を含め、焼き討ちに遭い、その都度復興を遂げています。

妙楽寺にかかわる大きな騒乱をあげると、1108(天仁2)年と1173(承安3)年に大きな焼き討ちに遭い、十三重塔をはじめとする多くの堂宇が焼失しましたが、1185(文治元)年に再興されました。

ちなみに現在の十三重塔は室町時代の1532(享禄5)年に再興されたもので、世界で唯一現存する木造の十三重塔です。

また、南北朝以降は3度にわたり多武峰合戦と呼ばれる大きな戦いの舞台となりました。

最初の大きな合戦は1438(永享10)年、大和に戦国をもたらした大和永享の乱に巻き込まれます。

この乱はもともと、興福寺大乗院衆徒の豊田氏と同じく興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発したものでした。

その後豊田氏に越智氏が、井戸氏に同族の筒井氏が加勢することで、大和全土を巻き込む大戦乱にエスカレートしてしまいました。

もともと北朝方で幕府寄りだった筒井氏が越智氏に大敗したことをきっかけに室町将軍の足利義教が介入。

幕府に反抗した越智氏が当寺を拠点としたことから幕府の標的とされ、幕府軍により全山焼き討ちに遭いました。

その後も1506(永正3)年には管領細川氏被官の赤沢朝経による大和侵攻に際して、越智氏、十市氏、箸尾氏らの大和国一揆の拠点となったことからまたも焼き討ちに遭っています。

さらに1563(永禄6)年には松永久秀の侵攻を受けますがこれは撃退し、将軍足利義輝の仲介で和睦します。

地図を見るとよくわかるのですが、この妙楽寺の場所は外部からの入り口が2つしかない要害の地ということがわかります。

なので、大和南部の勢力が大軍を迎え撃つのに繰り返し拠点としたため、このように何度も大規模な合戦の舞台となってしまったのでしょう。

なんとか戦国を生き抜いた妙楽寺でしたが1585(天正13)年、筒井氏にかわり郡山城に入城して大和の支配者となった豊臣秀長により武装解除されたうえに、談山権現の大和郡山への遷座を命じられます。

大職冠藤原鎌足公を、郡山の鎮守としたのです。

これによっていったん当地の堂宇は破却されますが、多武峰衆徒からは帰山運動が巻き起こります。

1590(天正18)年に秀長の病が重くなると、この病が大職冠遷座によるたたりとの声が上がったことから、豊臣秀吉に許されて再び現在の地に戻ってきました。

ちなみに秀長により郡山の鎮守としてに遷座したことを物語るように、今でも大和郡山には「大職冠」という地名が残っています。

また、当時の場所からは移動していますが「大職冠鎌足神社」が現在も鎮座しています。

同名のバス停もあり、大職冠の楠大和郡山市民には馴染みのある光景です。

その後、徳川家康により堂宇も再建され、江戸時代は寺領3000石の大寺として明治を迎えることになりました。

 

廃寺そして談山神社となる

 

明治を迎え神仏分離令が出されると、神社になるか寺院としてとどまるかの選択を迫られましたが、最終的に「談山神社」となって現在に至ります。

子院などはほぼすべて破却されてしまいましたが、主要な堂宇は以下のように転用されることになりました。

聖霊院→本殿

・護国院→拝殿

・十三重塔→神廟

・講堂→拝所

常行三昧堂→権殿

護摩堂→祓殿

などなど、もともと神社としての実体がなかったにもかかわらず、なかば強引に寺院建築のまま神社に転身したのでした。

 

寺宝については1871(明治4)年の上知令により寺領・社領を失ったためか経済的に困窮し、多くが二束三文で売り払われて散逸しました。

仏像については本尊の一つであった釈迦三尊蔵が安倍文殊院に移されたものの、多くが流出して失われました。

なお、ひとつだけ神社でありながら仏像が一体残されています。

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如意輪観音像(談山神社蔵)

こちらの如意輪観音です。

秘仏のため通常は公開されておらず、 観音講まつりの期間中(6~7月)だけ一般公開されます。

今となってはたいへん貴重な「神社の仏様」になりますね。

 

こうして多くの寺宝、什宝が失われつつも、なんとか寺院主要部の破壊は免れた形で残されました。

厳島神社などは、造作が仏教的ということで、朱塗りの美しい社殿が塗装されなおす(後に復旧されます)など、政府から難癖をつけられたのですが、特にそのような話は談山神社では聞きませんね。

やっぱり藤原鎌足公がご祭神ということで、明治政府も忖度したということでしょうか。

談山神社はこのような経緯から結果的に壮麗な江戸時代以前の主要な堂宇が残され、神仏習合寺院の姿を今にとどめる貴重な建築となっています。

子院の破壊や仏像・寺宝の流出は残念ですが、興福寺や永久寺の有様を見るに、よくここまで維持されたものだという感も正直あります。

多武峰衆徒たちの何としても施設を残したいという執念が、寺院建築をそのまま神社の施設に転用するという知恵に結実したというところでしょうか。

寺院とはいえ、そもそも藤原鎌足をまつる施設であり、専門の神職がおらず神事も僧侶が行っていたことも、外見は寺院のまま神社への転身を可能にした要因の一つかもしれません。

廃仏毀釈における寺院建築の破壊は寺院に「隷属」を余儀なくされた神官たちによる復讐的な打ちこわしも多かったので、妙楽寺についてはそもそも神官がいなかったのでその種の破壊は起こりえなかったのでしょう。

 

 一口に廃仏毀釈といっても、寺院によりその対応は様々であったことがよくうかがえますね。

次回はこちら。

 

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