歴史好きの大和徒然草子

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戦国のメリークリスマス 松永久秀(番外)

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皆さんこんにちは。

 

松永久秀には巷間伝わるエピソードが虚実取り混ぜて数多くありますが、その中に「クリスマス休戦を命じた」というものがあります。

今回は、少し趣向を変えて、久秀が命じたというクリスマス休戦について取り上げてみたいと思います。

 

本当に久秀はクリスマス休戦を命じたか

そもそもクリスマス休戦とは何でしょう。

史上に名高いのは第1次世界大戦で、1914年12月24日と25日、前線でにらみ合うイギリス軍とドイツ軍が停戦し、ともにクリスマスを祝ったというものです。

キリスト教徒が圧倒的に多いヨーロッパ諸国ならともかく、こんなことが戦国時代の日本で実際に起こったのかというのはにわかには信じられないことですね。

 

おおよそ、ネットなどで広まっている話だと、以下のようになってるようです。

 

①1568(永禄11)年、織田信長足利義昭を奉じて上洛したとき、京を支配していた松永久秀と戦いになり、クリスマスに停戦を行った。

 

②1566(永禄9)年、堺で対峙していた松永方と三好三人衆方でクリスマスに停戦を行った。

 

まず、①について。

これは、そもそも信長上洛時に、久秀と信長は同盟関係にあったと近年考えられている他、両者が京都で戦ったという事実もなく、停戦の前提である戦闘状態が両者の間で成立しないため、まったくのウソと容易に考えられます。

ともに新奇なものを好む人物像が定着している久秀と信長なら、こういうこともあり得ると広まったものでないはないかと推察されます。

 

それでは②はどうでしょう。

1565(永禄8)年の末、三好家では三好三人衆がクーデターを起こして久秀を家中から追放し、久秀派と三人衆派でし烈な内戦が勃発していました。

1566年のクリスマス時点でも内戦は継続しており、堺近辺でも両者の激しい戦闘が幾度か発生していて、休戦の前提となる戦争状態は確かにありました。

実は、こちらの説の原典というべき史料が残されています。

当時布教活動で来日していたイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが著した「日本史」に残された以下の記事です。

 

降誕祭になった時、折から堺のまちには互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。

ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。

その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。(ルイス・フロイス著, 松田 毅一、川崎 桃太 訳(2000)『完訳フロイス日本史2』中央公論社(中公文庫)p.55.

 

敵対する松永方、三人衆方両軍のキリシタンの武士たちが、堺で行われたクリスマスのミサに仲良く参加したということが記載されています。

これはこれで実にほほえましい姿の記録なのですが、この集いが久秀の命によってもたらされたものであるという記載はどこにもなく、他の文献でも久秀がクリスマスを理由として停戦を命じたという記録は一切ありません。

ということで、文献資料上からは、久秀の主導によるクリスマス休戦というものは現在のところ見当たらず、なかったと見るのが適当といえるでしょう。

また、当時の状況的にも久秀主導によるクリスマス休戦は困難であったと推察されます。

というのも、1566年5月に、堺近辺で行われた合戦で久秀は大敗を喫し、その後失踪するのですが、12月の時点で久秀はまだ失踪期間中であったため、停戦命令のような軍令をそもそも出せるはずもなかったのです。

 

また、久秀は熱心な法華信者として知られます。

法華宗のおおきな特徴に他宗派への排撃性が挙げられ、1565年に正親町天皇から三好義継に発せられたキリスト教宣教師の洛外追放を命じる奉書が、久秀による要請であったことが近年わかってきており、キリスト教には否定的な感情を持っていたことが推察されます。

そんな久秀がわざわざキリスト教徒の祭典に配慮するといった蓋然性は低いんじゃないでしょうか。

 

文献に見当たらない、久秀が停戦命令を出せる状態にない、久秀はそもそもキリスト教に好意的ではない、というこれらの点から、やはり②についても、少なくとも久秀が主導してクリスマス休戦になったということにはならないと考えざるを得ないでしょう。

 

三好氏、松永氏に仕えたキリシタン

では、フロイスの先述の記事の信ぴょう性はといえば、当時の状況から十分に考えられる状況であったといえると思います。

当時日本でキリスト教徒が多い地域といえば、真っ先に浮かぶのは九州ですが、首都、京を有する畿内は、イエズス会にとっても重要な布教先と考えていたようで、信者を順調に伸ばしていた地域でした。

三好、松永に属する武将達でも、キリシタンとなるものが現れます。

 

もっとも著名なところでは、高山友照右近父子が挙げられます。

1560(永禄3)年に、久秀とともに大和に侵攻した友照は、沢城(宇陀市榛原大貝)を陥落させ、その城主となりますが、1563(永禄6)年、沢城で家族ともども洗礼を受けて熱心な信者となりました。

この友照の勧めで十市城主の石橋忠義キリスト教への改宗を行っています。

石橋忠義はもともと尾張出身の足利氏に連なる人物で、織田信長によって尾張から追放され、久秀の臣下となっていました。

久秀自身は先述のとおり熱心な法華信徒で、キリスト教に理解がある人物という訳ではありませんでしたが、家臣や与力たちの改宗については黙認していたようで、彼らのほかにも将軍の奉公衆から、三好氏被官、松永家臣となった結城忠正も、高山友照と同時期に改宗しています。

この時期、久秀の与力や臣下の改宗が相次いだためか、宣教師を通じて改宗者の本拠地が日本における布教拠点としてヨーロッパに紹介されました。

そのため、1596年にオランダのファン・ラングレンが作成した「東アジア図」には、友照の居城、沢や忠義の居城の十市が、奈良、堺とともに畿内の都市名に記載されています。

日本における布教第一世代の拠点として、大和でも決して大きな都市ではない沢や十市がヨーロッパの地図に登場するというのは驚きですが、久秀の家臣団や兵士にキリシタンが、少なからずいたことを表しているといえるでしょう。

 

また、三好三人衆の一人、三好長逸や、阿波三好氏の重鎮、篠原長房もキリスト教には親和的でした。

1567(永禄10)年、東大寺大仏殿の戦いで、東大寺が焼け落ちましたが、フロイスは「日本史」の中で、三好三人衆方のキリシタンの兵士が火をつけたと記述しており、三好三人衆方にも、キリシタンの武士たちが少なからず存在したことがわかります。

 

そして1566年のクリスマスですが、三好家の内乱がはじまってちょうど1年ほどの時期です。

戦争が長期化すると、どうしても緊張がゆるむもの。

かの第一次世界大戦のクリスマス休戦も、予想以上に長期化した戦争に厭戦ムードが漂い、前線で突発的に発生したものも多かったようです。

これと似たようなことが、戦国の堺でも起こったのかもしれません。

実際のところ、松永方、三好方双方のキリシタンが、自発的に堺の教会へ集い、年に一度の信仰の祭典をともに祝したというのが真相のように思えます。

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