皆さんこんにちは。
2023年大河ドラマ『どうする家康』の主人公徳川家康は、戦国時代に終止符を打った人物として知られます。
その家康が、天下の覇権を事実上握った合戦が、1600(慶長5)年9月15日に家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が美濃国で衝突した関ヶ原の戦いです。
この合戦は天下人豊臣秀吉の死後、当時豊臣政権で最大の実力者だった家康が、豊臣家中の派閥争いに乗じて反対勢力を撃破・一掃することに成功した戦いで、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』をはじめ、様々な創作物で描かれてきました。
それらの作品を通して、従来イメージされている関ヶ原の戦いは、老獪な政治家・家康が、石田三成ら若手奉行を挑発し、蜂起させたうえで関ヶ原につり出して決戦におよび、勝利を収めた家康必勝の戦いというイメージを持つ方も少なくないのではないでしょうか。
しかし、近年新たな史料の発掘で浮き彫りになった実態を見ていくと、上方での石田三成挙兵から関ヶ原での合戦に至る経過は家康の思惑を大きく外れ、誤算に次ぐ誤算の連続で、家康にとって関ヶ原の戦いは、人生最大級の危機だったことがうかがえます。
巷間伝わる従来のイメージと、その実情を見比べながら、合戦に至る経過をご紹介していきましょう。
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関ヶ原の戦いまで
豊臣秀吉の死後、豊臣政権No.1の実力者となった家康。
関ヶ原の戦いに至るまでの2年足らずは、順調に権力の階段を上っていったと言えるでしょう。
家康は、自身をけん制するため作られた合議体制の切り崩しを、秀吉の死の直後から次々と進めました。
秀吉が世を去った翌年1599(慶長4)年閏3月、秀吉の生前から燻っていた石田三成を中心とした文治派と、加藤清正、福島正則らを中心とする武断派の対立が、政権の重鎮・前田利家の死の直後に顕在化し、武断派による石田三成の襲撃事件が発生。
家康はこの争いの仲裁にかこつけて、以前から家康の痛いところを突いてくる三成の奉行職を解き、領地へ逼塞させることに成功します。
同年9月には、家康は自身の暗殺計画を首謀したとして、大老の前田利長と奉行の浅野長政を圧迫。
翌1600(慶長5)年、利長は家康に屈服して母のまつを人質として江戸へ送り、長政も隠居・謹慎の上、三男長重を人質として江戸に送りました。
さらに家康を抑え込むことを期待された五大老のうち、毛利輝元、宇喜多秀家はともに家中の紛争を抱え、「仲裁」の名の下で家康の干渉を受けたことから、家康に面と向かって物申すようなことはできないようになっていました。
秀吉の死から2年で、家康は他の五大老メンバーのうち上杉景勝を除く3名を抑えるとともに、五奉行のうち「うるさ型」の有力者2名を政権から外すことに成功。
互いに牽制し合うことで、政権内に突出した権力者を生み出さないことを企図した五大老・五奉行体制を、家康は2年足らずで事実上崩壊させました。
家康の権勢の高まりは、文禄・慶長の役の論功における大名の加増・減封・転封といった論功行賞を、ほぼ独断で行ったことからも見て取れます。
増田長盛、前田玄以、長束正家ら三奉行は家康の手足となって働き、毛利輝元も家康の決定に従順に従うばかりでした。
武家社会において源頼朝以来、新恩給与は天下人の専権事項です。
この頃の家康は豊臣政権の大老でありながら、事実上天下人として振舞っていたと言えるでしょう。
着々と権力基盤の強化に努める家康は、前田家に続き五大老の一角で、江戸の背後を会津から脅かす存在だった上杉景勝に次の狙いを定めます。
1598(慶長3)年正月に越後春日山から奥州会津へ転封となった景勝は、同年3月ようやく新領地に入ったものの、10月には秀吉の死に際して上洛を余儀なくされ、以後帰国できずにいました。
新たな領地の経営を思うように進められないでいた景勝は、翌1599(慶長4)年8月、家康の勧めを受けてようやく帰国。
領内の整備を本格化させ、手狭な若松城から会津盆地中央の神指ヶ原を新たな本拠地とすべく、神指城の築城を開始するなど、軍備の増強を始めます。
この景勝の軍備増強の動きは、逐次近隣の大名・堀秀治や最上義光から家康にもたらされていました。
徐々に徳川と上杉の緊張が高まる中、翌1600(慶長5)年正月に帰国から半年もたたない景勝に、再び家康は上洛命令を出します。
これに対して景勝は、代理に重臣の藤田信吉を派遣しましたが、家康が藤田を歓待したことで、かねてより上杉家中で藤田と確執のあった直江兼続は、藤田が家康と内通していると景勝に讒訴し、同年3月に藤田は上杉家を追放同然に出奔、江戸の徳川秀忠の許へ逃れました。
ここで藤田が家康へ上杉に叛意ありと訴えたことから、家康は改めて景勝に上洛したうえで、上洛が遅れていること、謀叛の嫌疑を晴らすことなど弁明を求め、4月に使者を派遣します。
これに対して景勝は、6月の上洛を承知したうえで、謀叛の嫌疑を訴えた者に対し、その取り調べを家康に要求しますが、交渉は結局決裂。
家康は5月初めには会津征伐を決定し、6月15日に豊臣秀頼、淀殿と会見して軍資金と兵糧を下賜され、豊臣政権下の正規軍として、大名たちを率いて上杉景勝を討伐する大義名分を得ることに成功しました。
景勝が正月上洛できなかったのは、雪国会津は3月まで大名が軍を引き連れ上洛することが難しかったためで、当然家康も承知のことだったでしょう。
家康は、ほとんど言いがかりに近い形で景勝を追い込み、討伐の口実を作ることに、まんまと成功したのです。
青天の霹靂だった西軍の大規模挙兵
6月18日に伏見を発った家康は、7月1日には江戸に到着します。
一方、上方から家康が立ち去ったのを見計らい、石田三成は7月12日に大谷吉継らとともに反家康の兵をあげました。
この時、豊臣家三奉行の一人だった増田長盛は、家康へ三成と吉継が謀叛を起こしたことを江戸の家康へ通報しています。
この行為から、長盛は密かに家康へ内通していたという説(司馬遼太郎の『関ヶ原』もこの説を採る)もありますが、関ヶ原の戦いの後長盛は改易されていることからも、三成挙兵時点では長盛は三成には与しておらず、奉行として政権トップであった家康へ反乱を速やかに報告したとみるのが自然でしょう。
7月15日、安芸の毛利輝元が上洛を開始し、毛利秀元が大坂城西の丸に入るなど、関西以西があわただしくなる中、大阪城に入った三成は豊臣家三奉行の取り込みに成功。
7月17日、家康に対する弾劾状「内府ちがひの条々」を三奉行から諸大名に送付させ、ついに大坂で挙兵するのです。
この「内府ちがひの条々」が、家康の立場を人生最大級の危機的状況に陥れることになりました。
諸大名を率いて会津征伐に向かった家康の立場は、あくまで「豊臣政権の大老筆頭」であり、豊臣家の「官軍」総大将という立場で、諸大名に対して指揮を振るっていたわけです。
ところが、豊臣政権の実務トップである三奉行の名の下、「内府ちがひの条々」によって、家康の専横ぶりと会津征伐の不当性を指弾されたことで、家康は「官軍」総大将の地位をはく奪され、諸大名の公的指揮権を失ってしまいました。
この時点の豊臣家中で、明確に家康派の大名は、藤堂高虎、黒田長政、池田輝政、細川忠興くらいで、福島正則などは三成憎しで家康に従っているものの、仮に秀頼自ら出陣してくればコロリと寝返る可能性があり、そういった旗幟不鮮明な大名たちがほとんどの中で、家康は極めて不安定で危うい状況に陥ったのです。
7月23日付の家康から最上義光へ宛てた書状で、「上方で石田三成と大谷吉継が謀叛を起こしたらしいので、上杉領へ攻め込むのを見合わせる」旨をしたため、挙兵を知らせた豊臣家三奉行の書状を添えて送っていることから、三成挙兵の報が家康の許へ届いたのは7月23日頃と推定されます。
その3日後、7月26日には会津征伐に向かっていた諸大名の軍が、西進を開始。
この時までには三奉行が三成に与し、毛利輝元が大阪城に入って西軍の総大将となった情報がもたらされ、会津征伐は不可能という判断に至ったのだろうと思います。
一般に7月24日に下野国小山で家康を中心に会津討伐軍の諸大名が評定を行い、「三成憎し」で一致団結した諸大名が、家康の命に従い西進して東軍を形成するというのが、広く巷間伝わる逸話となっていますね。
小山評定と呼ばれるこの評定、実は同時代の一次史料にはその開催を記したものがなく、最近では後世、家康の行動を正当化するために捏造された虚構と見做す説も有力になっています。
既に「内府ちがひの条々」によって、家康の諸大名への直接的な指揮権は失われており、諸大名の西進は、会津征伐が中止となったため各大名が自領の保全のため急ぎ西へ戻ったもの、と捉えた方が自然ではないでしょうか。
家康の会津討伐は、石田三成ら反家康勢力を一網打尽にするため、家康が仕組んだ謀略とする見方があります。
司馬遼太郎の『関ヶ原』がこの説を採ったため、比較的ポピュラーな見方になっていますが、最終的に関ヶ原の戦いで家康が勝利した「結果」から逆算した「陰謀論」といえるでしょう。
家康は会津討伐で上方を離れた際、伏見城に腹心の鳥居元忠を約2000の兵とともに残していましたが、万一家康が上方を離れた空白を狙って反乱が発生したとしても、残した兵力で対応できる小規模な蜂起しか想定していなかったのではないでしょうか。
会津討伐時点で三成は蟄居の身で、毛利輝元も宇喜多秀家も家康には頭が上がらない上に、家中が必ずしもまとまっている状態ではなく、三奉行は家康の言いなりの状態でした。
このような情勢下で、家康が合理的に上方で大規模な武装蜂起発生を予測することは、極めて難しかった、というよりほとんど不可能だったと考えられます。
そういう意味では、家康らに気付かれることなく隠密裏に挙兵準備を進め、短期間のうちに毛利輝元、宇喜多秀家ら大老の一角と、元同僚の三奉行を説得して味方つけた石田三成の謀略は、この時点までは鮮やかに成功したと言えるでしょう。
関ヶ原へ家康をつり出したのは「豊臣恩顧」の東軍大名たち
8月5日、江戸に戻った家康でしたが、月末まで江戸を動こうとしませんでした。
会津の上杉景勝の動向が定かではなく、「内府ちがひの条々」で福島正則らの行動にも信を置けなかった家康は、迂闊に身動きの取れない状態であったと考えられ、これも会津討伐が三成をつり出すための家康の謀略などではなかった証左の一つと考えます。
7月末から、家康は毛利輝元へ直接書状を送ったり、黒田長政から毛利家の吉川広家を通じて、毛利輝元との講和を図る一方、講和がまとまらなかったときに備えて、三成と多数派工作でしのぎを削っていました。
毛利との講和を第一として、交渉決裂に備えて少しでも有利な情勢を作るため、決戦の引き延ばしを図っていたと考えられます。
しかし、西上した諸大名には、そんな事情は分かりません。
西軍が8月上旬から続々と美濃や伊勢方面へ進出してくる中、江戸から一向に動かない家康に対し、清州城に集結していた福島正則以下の諸大名は、連絡のため、派遣されていた家康の重臣の井伊直政、本多忠勝を通じて、家康の出馬をしきりに求めます。
このままでは戦機を失うという焦りもあったのでしょう。
ついに動かない家康にしびれを切らしたのか、8月19日に黒田長政は本多忠勝宛に書状を送り、西上した諸大名は家康の出馬を待たずに木曽川を越え、美濃に進出する旨を報告。
8月22日に美濃へ進軍した池田輝政の部隊が岐阜の西軍大名・織田秀信の軍勢を打ち破り、翌23日にはわずか1日で福島正則らの猛攻で岐阜城が陥落するのです。
この岐阜城のあっけない陥落は、当初尾張を主戦場と考えた三成の思惑が崩れるとともに、それまで劣勢だった東軍側を一気に活気づかせました。
注意すべきは、この軍事行動は家康の命令によるものではないというこです。
軍監として東軍に同行していた井伊直政、本多忠勝から、8月22日に諸将が家康の到着を待たずに美濃へ進出した旨の報告を受けた家康は、「そちらで相談して慎重に軍事行動を起こせ」(『慶長5年)8月25日付福島正則宛徳川家康書状』)、という趣旨の書状を諸将へ送っており、この時点ではほぼ現場に丸投げの状態なのです。
もっとも、この時点で公の軍事指揮権を失っていた家康が、表立って諸将に命令を出す大義名分はないので、そう言うより他なかったのでしょう。
出馬を要請する東軍諸将に対し、家康が「諸将が戦おうとしないから出馬しないのだ」と前線諸将を腰抜け呼ばわりして発奮させ、美濃へ進撃させたという逸話(『慶長年中卜斎記』)も伝わりますが、東軍による岐阜攻略に家康が主体的に関わったように見せたいという意図が感じられ、この話は少し出来過ぎのような感を受けます。
少なくとも8月25日の時点では、家康が表立って東軍諸将に具体的な指揮を執る動きは見せていません。
むしろ、前線の黒田長政や福島正則たちは家康の命を受ける形ではなく、前線の判断で戦端を開き、まんまと家康を出馬せざるを得ない状況に追い込んだともいえるでしょう。
黒田、福島にとっても石田三成との政権内での主導権争いには、絶対に勝利せねばならない状況であり、そのためには徳川軍の合流がどうしても必要でした。
黒田、福島の思惑通り、岐阜城落城の報が家康にもたらされた8月27日、この時点で家康は方針を和睦から決戦へと切り替えたようで、同日、家康は福島正則らに感状を出すとともに、自分と秀忠が到着するまでさらなる軍事行動を起こさないよう前線の東軍諸将へ命じました。
ここにきて、ようやく家康は前線諸将の手綱を握ろうとし始めるのです。
本意ではなかったかもしれませんが、戦端が開かれてしまった以上、家康も覚悟を決めざるを得なかったのでしょう。
ようやく9月1日に家康は江戸を出立するとともに、改めて前線の諸将に自分の到着まで動かないよう指示を出し、主体的に戦線をコントロールする姿勢を見せました。
「内府ちがひの条々」により、家康は公の立場を失ったと見ると、「関ヶ原の戦い」は家康が望んだものではなく、むしろ周囲の状況に振り回されながら、渋々家康が選択した道だったという、従来の「神君家康」像とは全く異なる家康像が浮かび上がってきます。
誰も1日で戦いが終わると考えていなかった
ところで、関ヶ原の戦いでは、事前に石田三成と会津の上杉景勝・直江兼続主従は打倒家康のため共謀しており、会津征伐で東進する家康を、東西から挟み撃ちにする計画だった、という説もまことしやかに語られてきました。
これまた、司馬遼太郎の『関ヶ原』で採られたことで、一般に広く認識された説かと思われます。
しかし、この説については、近年三成と上杉の間で、事前の共謀はなかったと見る向きが強くなってきています。
理由の一つは、三成から上杉家家老・直江兼続へ6月20日付で送られたとする書状は後世の軍記物にしか現れず、一次史料からはその存在をに匂わすものすら発見されていないことです。
また、7月末日付で三成が信州の真田昌幸に宛てた書状では、昌幸から会津討伐前に昌幸自身が上方にいた時、どうして事前に知らせてくれなかったのかと問われた回答として、三成は「家康が上方にいる間は諸大名を信用できなかった」「挙兵を実際に起こせるかその時点ではわからなかった」と弁明しており、徹底した機密保持のため、上方にいた諸大名には計画を一切明かしていなかったことを吐露しています。
陰謀を秘匿するため在京中の大名にさえ伝えていない計画を、当時会津にいた景勝へ漏洩リスクを冒してまで果たして知らせるかと考えると、その蓋然性は低いと思われます。
さらに決定的なのは、この書状で三成は、昌幸へ会津の景勝への情報伝達の中継を依頼していることから、上方から会津へ安全な連絡ルートを7月末の時点でもっていなかったことが分かり、ますます事前に連絡を取り合っていた可能性は低いといえるでしょう。
では、挙兵後も三成と景勝の連携・連動が緊密に行われたかといえば、全く取れなかったと言わざるを得ません。
よく、家康が会津討伐を中止して江戸に引き上げたときや、関ヶ原に向けて西上を始めた時に景勝は家康を追撃すべきだったという話をよく聞きます。
しかし、実際の景勝は隣接する出羽の東軍大名・最上義光の領土に攻め込みました。
この景勝の動きに対して、「対局を見誤った」と批判的に評価して、景勝を「凡将」「愚将」と断ずる言説もよく聞きます。
しかし、家康を追撃しなかった景勝の行動は、当時の状況を考えれば常識的な動きで、景勝に対する低評価はいささか可哀そうです。
と言うのも、当時景勝は対立している最上義光と、家康の撤退時に和睦したとはいえ虎視眈々と旧領会津を狙う伊達政宗に後背を脅かされており、とても家康に攻撃を賭けられる状況にはありませんでした。
会津征伐中止のタイミングで、江戸へ引き上げる家康は結城秀康を抑えとして、景勝からの追撃に備えており、反撃してきた家康と最上義光から挟撃される危険を考えると、とても動くことはできません。
また、8月下旬から9月初旬にかけ、家康、秀忠の徳川主力が西上を開始したタイミングで、自領への侵攻を顧みず捨て身で追撃を行えば、あるいは関ヶ原の戦いの結果は変わったかもしれません。
しかし、この判断は関ヶ原の戦いの結果を知っている人間にしかできないものと言えるでしょう。
家康が西上を開始した時点では全国のどの大名も、関ヶ原で東西両軍の決着がわずか1日でつくような決戦が行われるなどと、想像できていませんでした。
むしろ、小牧・長久手の戦いのように、東海地域で東西主力の長期的な睨み合いが続くと見た大名たちがほとんどだったことでしょう。
従って、景勝が背後を脅かす最上義光を捨て置き、全てを投げうって徳川領へ侵攻するような動機は、発生しえないのです。
むしろ、長期戦をにらんで、小勢ながら背後を脅かす最上義光を叩いて領土を切り取り、東北諸大名を切り従えた後に徳川領を圧迫する方が、常識的な判断だったでしょう。
実際に上杉以外の諸大名も、上杉同様、この時に各々領土拡張に動いた大名たちがいました。
九州では黒田如水、加藤清正、四国では毛利輝元が伊予の加藤嘉明領に攻め込んだ他、阿波の蜂須賀領を接収するなど、領土拡張を行っており、決してこの時の景勝の判断は間違ってなかったと考えます。
誤算だった戦後処理
8月下旬から始まるいささか突出気味の、福島正則、黒田長政といった東軍諸大名の動きに振り回され気味とはいえ、いったん動くと決めてからの家康の判断と動きの速さは目を見張るものがありました。
9月1日に江戸を出発した家康は、9月9日には岡崎に到着。
8月下旬から信州上田攻めを命じていた秀忠にも、信州攻めを切り上げ、中山道から上洛するよう指示を出します。
従来、秀忠は徳川主力を率いて当初から上洛を目指していたとする説が主流でした。
しかし近年では、上杉への抑えで宇都宮に駐留していた秀忠が8月24日から中山道を西上を開始したのは、家康の命で西軍大名・真田昌幸攻略を目指したものだったことが、『浅野家文書』などの史料から分かっています。
真田氏の拠る上田攻めを中止して、「9月9日までに美濃赤坂に着陣すべし」という家康の転進命令を伝える使者は、8月29日には江戸を発って秀忠の許へ向かいましたが、ここで家康に大きな誤算が生まれました。
秀忠の許へ急行した使者でしたが、折からの豪雨で氾濫した川に行く手を遮られ、大きく迂回路取らざるを得なくなってしまったのです。
使者の到着は大幅に遅れ、ようやく秀忠が家康からの転進命令を受け取ったのは9月8日。
美濃赤坂への到着を指示された前日でした。
真田昌幸と交戦中だった秀忠は急ぎ関ヶ原方面へ転進を開始しましたが、家康が見込んでいた予定より、大幅に遅れる結果となります。
一方、9月14日に美濃赤坂に着陣した家康は、ここで秀忠の到着を待つか否か、大きな決断を迫られます。
目の前の合戦に勝利することはもちろんですが、戦後の発言力を高めるためにも、この戦いを「徳川軍の戦い」としたい思惑は当然あったろうと思います。
徳川陣内でも意見が分かれ、井伊直政は「即時決戦」、本多忠勝は「秀忠合流まで待つ」ことを主張しました。
東西両軍が続々と関ヶ原周辺に集結する中、西軍1万5千を足止めしている大津城がいつ降伏するかわからない状況で、家康は合流のめどが立たない秀忠を待つのはリスクが高いと判断したのでしょう。
家康は即時決戦を決断し、結果は東軍の勝利に終わりました。
しかし、秀忠の到着が間に合わなかったことで、関ヶ原の戦いにおける東軍の主力は、福島正則、黒田長政、細川忠興、筒井定次といった諸大名の軍勢が大きな働きをあげ、徳川軍はわずかに井伊直政、松平忠吉隊が活躍するにとどまってしまったのです。
戦後、家康は諸大名の加増・減封・改易など新恩給与の権を握り、改易した大名家の領地や豊臣家直轄領の多くを功のあったものに分け与え、事実上の天下人となりました。
しかし、関ヶ原の戦い直後において、直臣への大きな加増は合戦前後で戦功のあった井伊直政への佐和山18万石に留まり、本来豊臣家の大名である福島、黒田、細川、池田、小早川、加藤、藤堂、山内といった面々に大禄を与える必要に迫られたのです。
外様は大禄を持つが政治の中枢に口は出せず、譜代は中央政治の決定にかかわるが禄が少ないという江戸幕藩体制の在り方は、「関ヶ原」の結果により方向づけられたものと言ってよいでしょう。
現実が当事者の思惑通りに全く進まないことはよくあることですが、「関ヶ原の戦い」も、家康を含めた当事者たちにとって、まさにそうだったことが分かります。
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『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)』